地中海学会月報 251
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2002|6·7 |
学会からのお知らせ
さる6月22日,23日(土,日)の二日間,学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において,第26回地中海学会大会を開催した。会員202名,一般52名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中4名の新入会員があった。22日午後,「西田幾多郎と学習院」展が大会のために特別開館された。
6月22日(土)
開会挨拶 13:00〜13:10
記念講演 13:10〜14:20
「シシリー島に背中を向けて──シャルル・ダンジューはどこを見ていたか」堀越 孝一
総 会 14:25〜15:10
授賞式 15:10〜15:30
「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
地中海トーキング 15:45〜17:30
「江戸と地中海」パネリスト:荻内勝之/陣内秀信/田村愛理/司会:末永航
懇親会 18:00〜20:00
6月23日(日)
研究発表 10:00〜12:30
「ヘレニズム時代のキリキア地方──セレウコス朝とプトレマイオス朝の鬩ぎ合い」芳賀 満
「ウェルギリウス『牧歌』第3歌とオルペウスの像」日向 太郎
「古代末期美術における人物像着衣装飾文様の用途と変容について──ピアッツァ・アルメリーナとアルゴスのモザイクを中心としたセグメントゥムの表現」四十九院 仁子
「カンパネッラのテレジオ受容」澤井 繁男
シンポジウム 13:30〜17:00
「地中海とアルプスの北」パネリスト:秋山聰/川端康雄/吉川文/司会:高橋裕子
第26回地中海学会総会(小佐野重利議長)は6月22日(土),学習院大学で次の通り開催された。
一、開会宣言
二、議長選出
三、2001年度事業報告
四、2001年度会計決算
五、2001年度監査報告
六、2002年度事業計画
七、2002年度会計予算
八、役員人事
九、会長挨拶
十、閉会宣言
審議に先立ち,議決権を有する正会員660名中(2002.6.19現在)640余名の出席者を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2001年度事業報告決算,2002年度事業計画,予算は満場一致で原案通り承認された。2001年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
2001年度事業報告(2001.6.1〜2002.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXV発行 2002.5.31発行
「トリマルキオの邸宅における「ポルティクス」(Sat.29および72)──空間とその機能について」
藤沢(今井) 桜子
「ビザンツ帝国の異端対策──異端学と対策法規の分析から」
草生 久嗣
「ジャケス・デ・ヴェルトの手紙──16世紀のイタリア多声世俗声楽曲研究から見たその意義」
園田 みどり
「フィレンツェ公国における印刷・出版とコジモ1世の文化政策──公国印刷所ロレンツォ・トレンティーノ(1547〜1563)」
北田 葉子
「ローマ支配下ヒスパニアの都市法典──法律の中の都市のイメージ」
志内 一興
「ルネサンス後期の「君主論」と政治プロパガンダ──ヴァザーリ《コジモ一世の戴冠》を解読する」
石黒 盛久
「書評 秋山学著『教父と古典解釈──予型論の射程』」
野町 啓
2.『地中海学会月報』 241〜250号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於上智大学)
「15,16世紀フィレンツェの劇場建築の成立過程──スペッターコロのための空間の固定化と専用化」赤松 加寿江(2001.6.9)
「死と情念を巡る対話──ニュッサのグレゴリオス『魂と復活について』」柳澤 田実(2001.9.29)
「15世紀フィレンツェにおける《トビアと天使》の注文と受容状況」芳賀 里恵(2001.11.24)
「19世紀イタリアの建築と日本──ボイトからカッペッレッティへ」河上 眞理(2002.1.19)
「イタリア建築における中世主義について──リヴァイヴァリズムと建築修復」横手 義洋(2002.3.2)
「レオナルド・ダ・ヴィンチ素描《イザベッラ・デステの肖像》」松下 真記(2002.4.20)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)
秋期連続講演会「地中海遊歴 II」2001.10.20〜11.17(計5回)
春期連続講演会「地中海都市を読む──歴史と文化」2002.5.4〜5.25(計4回)
III 日本学術会議登録申請
2002年5月24日付登録申請 所属:第一部
研究連絡委員会:歴史学
IV 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:イタリア文化会館
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:秋山聰
V 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
VI 協賛事業等
1.『地中海の暦と祭り』(刀水書房)編集協力
2.朝日サンツアーズ講演企画協力
VII 会 議
1. 常任委員会 5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会 5回開催
4.大会準備委員会 3回開催
5.電子化委員会 1回,Eメール上で逐次開催
VIII ホームページ
URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr(国立情報学研究所のネット上)
「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
IX 大 会
第25回大会(於沖縄県立芸術大学)
2001.6.30〜7.1
X その他
1.新入会員:正会員48名;学生会員19名
2.学会活動電子化の調査・研究
2002年度事業計画(2002.6.1〜2003.5.31)
I 印刷物発行
1. 学会誌『地中海学研究』XXVI発行
2003年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として春期連続講演会開催(秋期休講)
3.特別研究会の開催 秋1回
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.『地中海の暦と祭り』(刀水書房)編集協力
2.朝日サンツアーズ講演企画協力
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会
4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
第26回大会(於学習院大学)2002.6.22〜23
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他
先の総会で鈴木董氏の事務局長任期満了により,大高保二郎氏が新事務局長に決まりました。これに伴い,学会本部を下記の通りに変更します。
旧:東京大学東洋研究所 鈴木董研究室
新:早稲田大学 大高保二郎研究室
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:お雇い外国人のヴェルサイユ──ベルギーの機械,イタリアの機械
発表者:中島 智章氏
日 時:10月12日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
絶対王政最盛期のフランス王ルイ14世は自らの権勢の象徴となる大宮殿をヴェルサイユに建設させた。水の得にくい場所だったにもかかわらず,付属庭園では大運河や多くの噴水が水の美を演出し,野外祝典も催されて「太陽王」の栄光は燦然と輝いた。その陰には多くの外国人の活躍があり,低地地方(現ベルギー)からは揚水機の専門家たち,半島からは舞台芸術の大家たちが,ジャンルは違えど,ともに「機械」の技術と美学で王に奉仕したのである。
『地中海学研究』XXVI(2003)の論文および書評を下記のとおり募集します。
論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
締切 10月21日(月)
本誌は査読制度をとっております。
投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。
地中海学会編『地中海の暦と祭り』(刀水書房)が6月19日に刊行されました。暦については本月報表紙の「地中海の暦」シリーズをもとに編集,祭りについては新に書き下ろされたものです。四六判300頁,2,500円(税別)。
訃報 5月27日,本学会会員の石原郁子氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。
春期連続講演会「地中海都市を読む:歴史と文化」講演要旨
シチリア都市の光と影
陣内 秀信
歴史の幾つかの段階で,ヨーロッパの中での南の発見,再評価があった。イタリアの最南端シチリアもその中で,様々な時代に注目され,人々を惹きつけてきた。11〜12世紀,北からやってきてシチリアを征服したノルマンの王達はアラブ・イスラームの高度な文化に魅せられた。18世紀後半には,シチリアもグランドツアーの対象地に入り,多くの画家や文人を惹きつけた。ゲーテもまたシチリアの地を踏んだ一人だ。1920年代,和辻哲郎もシチリアを訪ね,後に『イタリア古寺巡礼』の中にその印象を綴っている。
近代に入って経済の貧困や後進性といった影の部分ばかり目立ったシチリアだが,近年,南イタリア全体の再評価とともに,再び注目されつつある。近代文明に疲れた人々が活力や生命力をもとめ,南の価値を再発見し始めているのではなかろうか。
シチリア的な価値は,豊かな自然の恵みに,そしてその環境のなかに積み重ねられてきた古代以来の文化の厚みにある。その独特の都市風景は人々を魅了する。
ギリシア植民都市を代表するシラクーザを先ず見よう。全ての都市の中で最も美しいと言われた海に囲われた都市だ。現在,シラクーザについては,本土側の「ギリシア劇場」や「天国の石切り場」,「ディオニュソスの耳」といった観光名所ばかりが知られるが,実はオルティージャと呼ばれる古い島にこそ,この町の市民が最も愛着を覚える旧市街がある。その入口近くにはアポロン神殿の遺跡があるし,中心の広場に聳えるドゥオモは,内部にアテナ神殿のドーリス式の柱列をそのまま残し,古代の記憶を伝える。ロマンチックな古代神話と結びつく「アルトゥーザの泉」も,シラクーザのギリシア性を語るのに欠かせない。
この島を歩くと,並行して海に伸びる道路群が印象的だが,それらはギリシア時代の都市計画で生まれたものなのだ。中世には,アラブの支配も受け,神殿から転用されていた教会が今度はモスクとなった。街路も,住民にとって住みやすくつくり変えられ,ロンコと呼ばれる袋小路を数多く生み出した。18世紀,南東シチリアを襲った大地震からの復興の時期,ドゥオモ広場を中心に,シラクーザは演劇的な効果をもった建築を次々と建設し,都市のイメージを刷新した。こうした歴史の層を重ねるオルティージャだが,戦後しばらく荒廃し,歩くのが怖い場所となっていた。近年,この島の内部が修復再生され,素敵な店やレストランも増えて,活気づいている。行政が手掛けた中心部の歩行者空間化と広場・街路の公共照明の演出が大きな効果をあげたという。
シチリア北西部の小都市エリチェも,神話・伝説に包まれた古い都市だ。古代には,豊穰の女神を祀る聖地として名高く,大勢の人々を惹きつけた。その聖域=要塞を訪ね,古代世界に思いを馳せたい。フェニキア時代の城壁や城門を今もしっかり残すエリチェは,イタリアでも最も古い都市といえよう。同時に,中世のヒューマンスケールの都市の魅力をたっぷり味わえる町でもある。美しい石の模様の道路舗装が印象に残るし,町の至る所にあるパティオが目を楽しませてくれる。迷宮的な都市空間を彷徨う観光客の姿が夏場は夜遅くまで絶えない。新たな質をもった観光がシチリアに展開しつつあるのを実感できる。
パレルモもやはり,かつては「地上の楽園」と言われるほどに美しい都市だった。古い港町で,ギリシア時代の都市名パノルモスは,「すべてが港」という意味だった。中世8〜11世紀には,パレルモはアラブの支配下に入って,大いに繁栄し,モスク,パラッツォ,庭園,カステッロ,市場,公共建築,浴場などを次々と建設したが,その遺構はほとんどない。だが幸い,続くノルマン王朝の時代に実現した幾つものモニュメントの中に,我々はイスラーム建築の美を堪能できる。ビザンチン・モザイクと見事に一体化した王宮礼拝堂のアラブ的な建築構成,そして田園の邸宅・離宮として遊び心を追求した居心地のよさそうなジーザやクーバの建築空間は,圧巻である。
このパレルモは,17世紀初め,バロックを先取りする都市改造を実現した。王宮から海への古い軸線に対して直交するマクエーダ通りを建設し,クアットロ・カンティという名の交差点広場を華やかにつくり出したのだ。「太陽の劇場」とも呼ばれ,祝祭の舞台としても人気を集めた。19世紀末〜20世紀始めに,パレルモは再び黄金時代を迎え,リバティーの様式の素晴らしい建築を数多く生み出した。だが,その後,パレルモは凋落の一途をたどった。
幸い,近年このパレルモも再生に向けて動き始めている。旧市街には,修復再生の工事現場が数多くあり,いい写真が撮りにくいほどだ。この都市が蘇る日を待ち望みたい。
研究会要旨
『書簡集』からみるマルシリオ・フィチーノ像
──15世紀フィレンツェ社会に生きた一哲学者としての側面を中心に──
小倉 弘子
6月8日/上智大学
15世紀フィレンツェのプラトン主義を主導した哲学者マルシリオ・フィチーノ(1433〜99)には次のような二つのイメージが定着していると思われる。第一に,メディチ家の庇護によるプラトン・アカデミーの指導者であったということから,メディチ家と親しい人物というイメージである。第二に,彼の哲学においては,実践ではなく観想が重要視され,現実生活ではこの思想を体現していたので,フィチーノは社会あるいは国家の変遷に無関心であったというイメージである。しかしこれらのイメージは,「プラトン主義哲学者」というフィルター越しの見解であり,15世紀フィレンツェ社会とフィチーノという一哲学者を歴史的に結びつけて提示された像とは必ずしもいえない。しかし,15世紀イタリア社会における学者や知識人の役割や,ロレンツォ時代のフィレンツェ文化の歴史的研究の再考がすすむなかで,フィチーノをこの文脈において捉え直すことは重要である。以上の問題意識から,フィチーノの自選の『書簡集』に所収されている約600通の書簡を史料に,彼が対社会的に示そうとした自己像を見ることを本発表の目的とした。
フィチーノ『書簡集』には,約200人の文通相手と,書簡中のみで言及される約50人の人物がみられる。彼らの活動拠点や職業から,次のような特徴が指摘できる。大半がトスカーナ圏の人々であるが,外国人たち(ヴェネツィア,ローマ,ナポリ等イタリア諸都市,ドイツ,ハンガリー,フランス)の姿もみえる。しかし当時のアリストテレス主義哲学の中心地であったパドヴァの人物たちとの交流はほとんどみられない。フィチーノが交流を行ってきたと思われる人びとは,学者,詩人,法律家,医者,人文主義者としても有名な政治家のみならず,学問的には無名の政治家や役人も多い。
次に,プラトン主義哲学者としてのフィチーノの同時代人との関わりに視点を移してみよう。『書簡集』におさめられた書簡の多くは哲学的内容(霊魂論/愛/人間論/市民としての義務/宇宙論等)を話題に含んでいる。フィチーノは知識人たちと日常的にこのような話題で議論を行い,本,要約,手紙を送ることで,プラトン主義を愛する者たちとの紐帯を深めていた様子が,書簡から伺える。また,メディチ家との関わりに関しては,ロレンツォ・デ・メディチ個人との関係は,1470年代前半がピークで,その後は哲学議論の相手というよりは賞賛対象へと変化したように見受けられる。しかしメディチ家の周囲の人物たち(親メディチ派,ロレンツォと親しい学者,ピサ大学教授)とは一貫した交流をみることができ,また諸国の君主たちに対してはロレンツォを媒介にプラトン主義の教授や著作の写本を行っていたと思われる。したがって,ここからは,フィレンツェのプラトン主義権威であるフィチーノの姿が浮かんでくる。しかし,フィチーノが哲学議論を行った相手は,必ずしもメディチ家に縁の深い人物たちだけではない。パッツィ家陰謀事件に携わった反メディチ派,心情的にはメディチ体制に不満を持っていたと思われるフィレンツェ旧家の人物,ヴェネツィア人とも交流を行っていた。特に後者二つのグループの人物たちとは一貫した交流を行っており,かつ哲学的に深い議論を書簡で展開するというよりはむしろ哲学的用語を用いた挨拶のような手紙が多く見られるのが特徴であり,それらの手紙のなかにはメディチ家周囲の人物の名前はほとんどあがってこない。したがって,フィチーノは彼らとも何らかの独自のサークルを形成していたと考えられる。
また,フィチーノは社会に対して無関心な態度であったとされているが,『書簡集』には,政治的事件に対して何らかの意思を示している書簡もみられる。例えば,フィレンツェ─ナポリ戦争(1478〜80)である。この時期フィチーノは教皇シクストゥス四世をはじめとする,この戦争に関わりの深い4人の人物に対して複数回平和を訴える書簡を送っている。またフィチーノはフランス人に書簡を送っているが,フランス王を含め,いずれもフランス侵攻(1494)に関わる人物である。書簡の内容は,フィレンツェにフランス王が訪れたことを喜ぶものであり平和を訴える内容である。これらの書簡が書かれた経緯はたしかに不明ではあるが,このような事件の際にあえて書簡を送っているということはフィチーノが実社会に無関心ではなかったことを示している。
以上フィチーノの『書簡集』を史料にそこからみえるフィチーノ像,すなわちフィチーノが提示した自己像を探ってきた。それは,従来のようにメディチ家の庇護のもとで「プラトン主義」を共有する友人たちとばかり関わり,社会に対して内向的であったイメージとは異なり,フィレンツェの実社会に対して関心を持ちそこに関わりながら生きていた一人の哲学者の姿である。
地中海学会大会 研究発表要旨
ヘレニズム時代のキリキア地方
──セレウコス朝とプトレマイオス朝の鬩ぎ合い──
芳賀 満
キリキアは小アジア南東部の地中海沿岸地帯で,東部の肥沃な平野地帯のキリキア・ペディアスと西部の荒れた山岳地帯のキリキア・トラケイアとに分けられる。地中海世界とユーラシア大陸が出会い東西の民族と文明が行き交う場所で,大国間の鬩ぎ合いが表出する断面であることに歴史学上の重要性と面白さがあるが従来研究は等閑視されてきた。ここではヘレニズム時代に考察を絞る。
ヘレニズム時代キリキアは,基本的にはセレウコス朝がペディアスを,プトレマイオス朝がトラケイアを支配し一進一退を繰り返した。セレウコス1世がペディアスを重要視した故にプトレマイオス朝はトラケイアに進出し得たが,その理由はエジプトに産しない材木の確保のみならず本土守護の為の海外防衛網の為でもあった。
紀元前3世紀のキリキアを巡る両王朝のシーソーゲームをセレウコス朝側の勝利に止めるが結局はひとつの破局を迎えるのがアンティオコス3世大王である。このセレウコス1世以来の最大の征服者は前197年にはキリキア全域を支配下に置くが,前190年にマグネシアの戦いでローマに破れ前188年のアパメアの講和で小アジアより西に対する権利を失い,セレウコス朝領土はタウロス山脈から東のみとなる。するとキリキアの重要性が軍事的にはローマ勢力に対する「国境地帯」,文化的精神的にはセレウコス朝に残る唯一のギリシア世界として非常に高まった。
この状況下でセレウコス朝キリキア支配2回目のピークが紀元前2世紀第2四半期にあることを筆者は指摘したい。地域の安定支配に都市創建は有効だが,王朝全土にセレウコス1世は少なくとも19都市を,アンティオコス1世は15都市を創建した。アンティオコス4世(在位前175年〜前164年)は王朝創建期でないのに全土に少なくとも15の都市を「創建」したが,その中の実に6都市がキリキアに属する。勿論その「創建」は城壁等の物的造営ではなく,都市への恩恵と特権の授与にあり,多くのキリキア諸都市に自治権や鋳造権が授与されその象徴として都市名が改称され経済的政治的利便を享受した。斯くして紀元前2世紀に都市化されヘレニズム文明が栄えたペディアスと都市創設や貨幣鋳造等の記録がないプトレマイオス朝支配下のトラケイアとの間に格差が広がる。その状況下にセレウコス朝支配下のペディアス文化圏最西端の前線都市として存在意義が高騰したのがオルバである。同市のゼウス神殿の造形に当時のキリキアの国際関係を見出せる。
建立年代は造形的特徴から紀元前2世紀に年代決定できよう。建立者を同定する史料はないが,紀元前2世紀セレウコス朝でゼウスを信奉した王としてアンティオコス4世とバラス(在位前150年〜前145年)が挙げられる。神殿の造形を詳見すると,特にコリントス式柱頭にギリシア的造形の誤解がありギリシアの伝統的形態に精通しない土着あるいは非ギリシア文化圏出身の職人によると考え得る。具体的にはアレクサンドリア造形文化圏に特徴的な点が多々認められる。セレウコス朝の権力下の造形にエジプトの影響が強いことは,まさにヘレニズム時代キリキアに特徴的な事象である。ではこれはどう解釈されるべきか。
この点はバラス建立説が優位に立つ。同王はプトレマイオス6世らに擁立され王位に就きその娘と結婚した。よってエジプトから協力を得たと考えうる。またアンティオコス4世治世にキリキアの大部分がセレウコス朝支配下にあったがオルバは判明しない。神殿の完成度の低さは同王による他の奉献の豪華さとは整合しにくい。
しかしバラスには決定的に時間がない。バラスは即位後直ぐ統治能力の欠如が判明し,岳父に王位を追われる。セレウコス朝は内戦状態にあった。バラスはキリキアと関係はあるが神殿建立には結びつかない。一方で,自立の王でキリキア地方を重要視したのは当にアンティオコス4世である。コリントス式オーダーの神殿外部への初採用,柱頭分割の工法,顕著に条溝の入るカウリクルス等の造形的特徴は,同王によるオリンピエイオンやミレトスのブーレウテリオンの特徴でもある。同王は他の多くのギリシア世界の重要地点にも奉献を行ったこと,キリキアを重要視したこと等の歴史的背景をも根拠として,同王がエジプトの職人か建築家を使いオルバにゼウス神殿を建造したと筆者は考える。
ゼウス神殿にアレクサンドリア造形文化圏の影響が強いからと,建立者がエジプト王かその傀儡である必然性はない。アンティオコス4世は,アテナイのオリンピエイオンでローマ人建築家を,アンティオキアの水道橋建築でローマ人技術者を使ったように,オルバではエジプト系人物を神殿建築に関与させたのである。この神殿はアンティオコス4世の国際性と,王の創り出した造形の国際性の,もうひとつの壮大な事例ではないだろうか。
地中海学会大会 研究発表要旨
ウェルギリウス『牧歌』第3歌とオルペウスの像
日向 太郎
ウェルギリウス『牧歌』第3歌(=Ecl. 3)は『牧歌』のなかでも初期に属する作品と考えられ,テオクリトスの影響が色濃く認められる。二人の牧童,メナルカース(以下M)とダーモエタース(以下D)の中傷合戦にはじまり,歌競べへと発展するという作品の枠組み自体がテオクリトス第5歌(=Th. 5)を下敷きにしているばかりでなく,細部においてもテオクリトスの模倣が見られるのである。なかでも目を引くのは,歌競べに先立って何を賭けるのかを決める際,二人が各々の所有する杯に刻まれた図像を描写する箇所(37-48)である。この描写は,テオクリトス第1歌(=Th. 1)のエクフラシス(27-61)を手本にしたものであり,それはEcl. 3, 43及び47がTh. 1, 59をほとんど翻訳したものであることから明白である。その一方で,Th. 1とEcl. 3のあいだには際立った対照性も指摘しうる。前者における微細な描写や図像中の人物の心理にかかわる犀利な解釈は,後者には見られない。また前者の杯には無名の人物のみが描き込まれているのに対し,後者においてはMの杯にはコノーン等の天文学者の像が,Dの杯にはオルペウスの姿が刻まれている。とくにオルペウスはテオクリトスの作品中にはまったく現れないから,これほどの手本からの隔たりには詩人独自の創作意図が相当強く働いていると考えざるを得ない。本発表では,オルペウスの像に託されている意味を以下のような3点から確定した。
(1)コノーン等天文学者と比較されていることから,オルペウスは天体と深いかかわりを持った人物として意味づけられている。実際,エラトステネース(Catasterismoi 24, p.138, Robert),アルゲンタリオス(A. P. 9, 270),マーニーリウス(1, 324-330; 5, 324-328),ルーキアーノス(Astrologia 10)らの記述から,(A)オルペウスの演奏する竪琴の響きは,惑星の調和的動きと不可分に結びついていたこと,(B)オルペウスの竪琴は,のちに星座として天上に位置づけられることになったこと,以上2点を確認しうる。そもそも,Ecl. 3, 40-41のコノーンへの言及は,カッリマコスが歌い(cf. Aet. fr. 110, 1 Pf.),カトゥッルスが翻案した(cf. 66, 1-8)ベレニーケーの髪の星座化をただちに連想させ,(B)を暗示するものになっている。
(2)後半の歌競べは,競技的性格が著しく抑えられ共同創作的性格が強いという点で,手本となったTh. 5 のそれとは著しく異なっており,むしろカトゥッルス第50歌における作者とカルウスとの詩的遊戯に近いといえる。共同創作的性格はとくに,Ecl. 3, 76-79,88-91,108-110において顕著に現れており,DとMは歌競べを通じて牧歌詩人としての等質性を相互確認し,友情を回復する。オルペウスは『アルゴナウティカ』第1巻(496-511)において宇宙生成論的な歌を歌い,アルゴー号の船員たちが仲間割れすることを防いだ。仲間意識を復元するD,M相互の歌は,『アルゴナウティカ』第1巻のオルペウスの歌に通ずる。したがってオルペウスの像は,じつは後半の歌競べの性格と歌の効果を予示していることにもなる。
(3)後半の歌競べには,詩人にしてウェルギリウスの庇護者,アシニウス・ポッリオーへの賞賛(84-89)が含まれており,牧童の日常的生活から逸脱した印象を与える。同じようにポッリオーへの言及を含み,牧歌の通常のスケールを越えた作品としては『牧歌』第4歌がある。そこでは黄金時代の回帰が主題となっており,こうした主題を歌うことが,オルペウスの歌をも凌駕することになると言われている(53-57)。一方,第3歌の歌競べにおいて歌われているのは,黄金時代的歓喜とは対照的な危険や災厄であるが,黄金時代的理想に近づくための可能性もまたポッリオーへの賞賛部分(88-89)において示唆されている。この部分で歌われているように,ポッリオーを支持し,彼に近づこうとして創作活動に励む者は,黄金時代的歓喜を享受しうる。つまり,オルペウスの歌すらも凌駕する歌を創作しうることになる。
(1)〜(3)の論点から,以下のような結論が導出される。オルペウスの像は天体の調和にかかわる根源的な力を示し,その力は牧歌世界の秩序と牧童の仲間意識を支えるものともなっている。しかし牧歌は,黄金時代的な歓喜をポッリオーと彼を愛する牧歌詩人のあいだに生み出し,オルペウスの伝説的な歌唱力さえも超越する可能性を秘めている。その意味において,図像化されたオルペウスは,あらゆる牧歌詩人にとって肉薄すべき目標になっているのである。
地中海学会大会 研究発表要旨
古代末期美術における人物像着衣装飾文様の用途と変容について
──ピアッツァ・アルメリーナとアルゴスのモザイクを中心としたセグメントゥムの表現──
四十九院 仁子
古代ギリシア・ローマ美術の理解に,着衣像の衣装の考察でもって近づこうとするのが発表者の立場である。というのは衣装の表現には,様式など造形上の諸問題が内包されているだけでなく,そこには,各時代の社会の諸様相を知る手掛かりも隠されていると思われるからである。このような観点から,本発表は古代末期に登場する,いわゆる「セグメントゥム (segmentum)」に注目し,その意味とその形態の変化について考察を試みる。
セグメントゥムとは現代の用語であり,古代末期から中世初期にかけてトゥニカ,およびマントに登場するアップリケ状の装飾を意味する。それは,円形や四角形など単純な幾何学形,あるいはアルファベットの文字形からなり,地中海周辺のみならず,ローマの支配がおよんだ広い諸地域において確認されるものである。例えば5世紀の作と考えられる『イリアス』の挿絵付き冊子本からの断片,いわゆる《イリアス・アンブロジアーナ》では,このセグメントゥムが奴隷,戦士のみならず将官の身につけるトゥニカの肩および裾に小さな円形,あるいは四角形の文様として登場する。また3世紀の作ともされる,コス島のパリスの審判とそれを囲むアポロンと9人のムーサイを描くモザイクにおいては,ムーサのタリアのマントの裾に二つ,赤みがかったひげ飾りの付いた四角形として,やや大きく登場している。
1950年代に《イリアス・アンブロジアーナ》に関して,浩瀚なモノグラフィーを発表したイタリアの考古学者ビアンキ=バンディネルリは,この小さな装飾文様に着目して,セグメントゥムが4世紀においては社会における地位の標識として使われ,なかでも,円形の単色無地のセグメントゥムは従者の標識であったが,《イリアス・アンブロジアーナ》の時代,すなわち5世紀にはその本来の意味を失い,単なる装飾文様と化したのではないかと推論した。このビアンキ=バンディネルリの考察は,セグメントゥムにかかわる数少ない,あるいは唯一の研究であると思われる。本発表では,彼の考察を基にし,実地調査する機会を得た4世紀前半と6世紀初頭の二つのモザイク作品を例にあげ,発表者なりの試論を展開する。なお四角形であるか円形であるかは,セグメントゥムの意味を考える上で重要であるため,円形に限って言及する。
一つの例はシチリア,ピアッツァ・アルメリーナ郊外で発見された320年頃の作とされるモザイクである。ここには事実,多くの人物像の着衣にさまざまな変化に富む円形セグメントゥムが登場している。この建物の舗床モザイクで飾られた部屋や廊下は40にも及び,そのうちの確認可能な場所に限っても,110余人に及ぶ男性像に,セグメントゥムが確認される。
なかでも76人もの男性像が描かれた大狩猟図(59.63m×5m)においては,この建物の所有者とも考えられる高位の人物と,それに従う二人の兵士のトゥニカに円形のセグメントゥムが登場している。高位の人物の白いトゥニカの円形セグメントゥムは,肩,裾とも,黒と焦茶に加えて菱形を白い線や点で浮き立たせた非常に豪華な文様である。それに比べ兵士二人の肩のセグメントゥムは簡素で,裾のそれはさらに単純化されたものである。しかしバンディネルリが従者の標識とした無地の円形セグメントゥムより,裾にあるものは色も文様も華やかである。単色の無地の円形セグメントゥムの存在は,少なくとも大狩猟図においては確認されていない。彼ら3人の間の主従関係は,状況や持物だけからでなく,彼らのセグメントゥムによっても明示されていたのである。
他の一例は,ペロポネソス,アルゴスで発見された「月暦図」モザイク(当地博物館所蔵)である。ピアッツァ・アルメリーナのおよそ200年後,すなわち6世紀初頭の作と考えられるこのモザイクにも,各月を擬人化した12の男性像のうち,「6月」と「8月」のトゥニカの肩と裾に,すでに装飾の一つとして様式化されたセグメントゥムが登場している。しかしここでは,それら登場人物たちは,それぞれの主従関係や社会的身分を語る必要はなく,セグメントゥムのかつての階級標識としての意味は,形骸化されていると思われる。ただ裾のセグメントゥムの表現は特異である。そこには通常の数である二つの円形セグメントゥムに加えて,トゥニカの脇線に沿って半円のセグメントゥムが登場する。この二つ半のセグメントゥムの表現の意図は不明である。このような表現が何を意味していたかは,これからの研究課題である。
以上二つのモザイク作品を例に,セグメントゥムの表現を見たが,この興味深い衣装文様の意義と,おそらく3世紀であろうその誕生から中世初期までと思われる消滅までの変容の過程を詳細に追うことは,今後の課題としたい。
地中海学会大会 研究発表要旨
カンパネッラのテレジオ受容
澤井 繁男
中世がアリストテレス主義,ルネサンスがプラトン主義と二色に分けることなど,現在の研究水準では誰も言わないであろう。それゆえ今回論ずるテレジオやカンパネッラが,アリストテレスの主に自然学に反発し,新たな世界観を構築しようとしたのは,ルネサンス期にアリストテレス哲学が厳然と存在していたことを逆に物語っている。
西欧にアリストテレス哲学が入ってきたのは「12世紀ルネサンス」の時期で,それもネストリウス派の僧侶によって伝えられたギリシア哲学の中から,アラブ人が民族的に関心のある,数学・天文・医学・錬金術・占星術などの著作をアラビア語に翻訳したものである。アラブ人的な実証的思考性が加味されたのは当然で,アリストテレスの著書の場合など,新プラトン主義的立場から註釈されてもいた,アラブ人のアリストテレス観を西欧は受容することになった。アヴェロエスのアリストテレス評釈など,その最たるものである。それを採り入れてキリスト教神学を構築していったのが,トマス・アクィナスである。トマスはドメニコ会に所属していて,ボナヴェントゥーラを代表格とするフランチェスコ会とともに,イタリアを除いた各地の大学はその両派のいずれかの勢力下にあり,上記のイタリア人学者は,イタリア以外の国の大学でスコラ神学を教えた。
13世紀末頃から,在野にて人文主義がイタリアで芽吹きはじめ,15世紀のフィレンツェ・プラトン・アカデミーで隆盛をきわめるが,並行して,北イタリアの大学を中心にアラブ経由のアリストテレス哲学の研究が開始されている。
イタリア人の中にはギリシア語を読める者がなく,ビザンツから講師を招いて,1300年代の末にやっとフィレンツェにギリシア語学校が出来る。ここでギリシア語を学んだ人文主義者が,ギリシア語原典からのアリストテレスを読むに至る。出版人アルド・マヌーツィオが原典アリストテレス全集を出したのは16世紀になってからである。
1509年生まれのテレジオ(88年没)は,ギリシア語のアリストテレスを直截読んで,違和感を,特に『自然学』系統の著作に覚えたと思われる。彼は南イタリア出身だが,アリストテレス主義のメッカであるパドヴァ大学を卒業している。ラテン語にもギリシア語原典を人文主義者が新訳し,中世期の旧訳と競合した。
聖職者でもあったテレジオの違和感とは,聖書と自らの経験に合致しないことを見出したことであろう。アリストテレスを読み込めば読み込むほど,違和感はつのり,ついに聖書を踏まえた上での,中世的註釈で飾られていないアリストテレス的でない新たな世界観(宇宙論)を構築する決意をする。
『固有の原理に基づく事物の本性について』を出版した時は46歳であった。彼は,自然が質料と形相の結合であるとはせず,冷と熱とのせめぎ合いが,<場>ともとれる不動の物質的塊を礎に活動するとして,霊魂の実体を認め,事物の中に包まれている種子から発生するとした。感覚重視でありながら,唯物論的でもあって,一種の<経験知>と言えよう。
カンパネッラは,テレジオの説に感銘し,それを批判する者に対抗して『感覚で確証された哲学』を23歳のときに口述筆記で仕上げる。彼には,「神の書」として,聖書と自然の二つがア・プリオリに存在していて,この両面から何事も考察の糸口となる。
テレジオの感覚的<経験知>を受容しつつも,「神が万物を創造し,被創造物を統べてきたがために,感覚は抑圧されたと言えよう」と,聖書を大事としながらも,すでにアニミズム的な汎感覚主義への傾向を垣間見せている。
テレジオもカンパネッラもアリストテレスの偉大さは認めつつも,自然に手でさわってあるがままに受容しようという無心な姿勢を採りつづけた。
これは明らかにアリストテレスの自然学に反するものである。アリストテレスにとって自然を論証することは,対象となる物質の本性,つまりその事物の目的を達成するために必要な属性があらかじめ事物内に存在していなくてはならぬからである。ふつう,目的論的自然観と言われているものであるが,これに対してカンパネッラは,「事物じたいは己れがどのようなものであるかを明示してくれている。それを私たちは理性で信じてきたのではなく,種々なものを相対立するものとして捉えてきたが,知力あるスピリトのもつ固有の力の流れのせいで,なかなか特定できない。結論として,事物の本性を究明するにあたって,感覚に一任すべきだ,ということである。そうすれば,実際そうでありそうであったように,感覚は直截的に役目を完うするはずである」と記して,目的論を否定している。目的論には理性が伴うが,カンパネッラは感覚重視の姿勢をくずさず,あるがままに受容しようとしているのが看取されよう。
地中海学会事務局 |