地中海学会月報 249

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2002| 4  



   -目次-

 

 

 

 


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学会からのお知らせ

6月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:『書簡集』からみるマルシリオ・フィチーノ像

発表者:小倉 弘子氏

日 時:68日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 

 プラトン主義哲学者マルシリオ・フィチーノ(143399)の哲学に関しては,既に大きな研究成果があげられている。だが,フィチーノが15世紀フィレンツェの一思想家としていかに生きていたのか,という側面はあまり注目されていないように思える。本発表ではこのような視点から,『書簡集』を史料に,フィチーノの同時代人との関わりや哲学伝播の過程をみていくことで,ひとつのフィチーノ像を提示してみたい。

 


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*第26回地中海学会大会

 第26回地中海学会大会を学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において,下記の通り開催します。詳細は別紙の大会案内をご参照下さい。

622日(土)

13001310 開会挨拶

13101410 記念講演

 「シシリー島に背中を向けて──シャルル・ダンジューはどこを見ていたか」  堀越 孝一氏

14251455 総 会

15001530 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

15451715 地中海トーキング

 「江戸と地中海」

  パネリスト:荻内勝之氏/陣内秀信氏/

  田村愛理氏/司会:末永航氏

18002000 懇親会

623日(日)

10001200 研究発表

 「ヘレニズム時代のキリキア地方──セレウコス朝とプトレマイオス朝の鬩ぎ合い」            芳賀  満氏

 「ウェルギリウス『牧歌』第3歌とオルペウスの像」            日向 太郎氏

 「古代末期美術における人物像着衣装飾文様の用途と変容について──ピアッツァ・アルメリーナとアルゴスのモザイクを中心としたセグメントゥムの表現」     四十九院仁子氏

 「カンパネッラのテレジオ受容」澤井 繁男氏

12001330 昼 食

13301630 シンポジウム

  「地中海とアルプスの北」

   パネリスト:秋山聰氏/川端康雄氏/

   吉川文氏/司会:高橋裕子氏

 


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*会費納入のお願い

 新年度になりましたので,会費の納入をお願いします。請求書および郵便振替払込用紙は前号の月報に同封してお送りしました(賛助会費は別送)。

 口座自動引落の手続きをされている方は,423日(火)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください(領収証をご希望の方には月報次号に同封して発送する予定です)。また,今回引落の手続きをされていない方には,後日手続き用紙をお送りしますので,その折はご協力をお願い申し上げます(12月頃の予定)。

 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

 

会 費:正会員 13千円

    学生会員  6千円

    賛助会員 1口 5万円

振込先:口座名「地中海学会」

    郵便振替      00160-0-77515

    みずほ銀行九段支店   普通 957742

    (旧富士銀行九段支店)

    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

 


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*石橋財団助成金

 石橋財団の2002年度助成金がこのほど決定しました。金額は申請の全額で50万円です。

 

 


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秋期連続講演会「地中海遊歴 II」講演要旨

レヴァントの虜たち

──19世紀初め英仏人4人の人間模様──

黒木 英充

 

 レヴァント(東地中海地域)には,古くからヨーロッパ人が訪れてきた。東方への憧憬や,気まぐれが引き起こした偶然,あるいは巡礼を望む敬虔さや,ひと儲けしてやろうという山っ気,生臭い政治的目論見など,彼らが地中海を渡る原動力は様々だったであろう。本講演は,1810年代にシリアに居合わせ,交錯した関係をもった4人の人物を取り上げ,その人間関係を素描して,生身の人間として彼らがシリアでどのようなことを考え,行動していたのかについて,思いをめぐらすことを企図したものである。

 4人の人物とは,テオドール・ラスカリス・ドゥ・ヴァンテミーユ,ジャン・バプティスト・ルイ・ジャック・ルソー,ジョン・ルイス・ブルクハルト,ヘスター・ルーシー・スタノップである。最初のラスカリスについては,すでに本月報219号(19994月)の「地中海人物夜話 流浪のスパイ,ラスカリス」で紹介している。ピエモンテ生まれのマルタ騎士団出身者で,ナポレオンのエジプト遠征に同行,フランスに赴いてビザンツ帝国再興を政府高官に訴える突拍子もない挙に出て見放され,以後シリアで流浪の身となった変人である。1810年から2,3年間,遊牧民情報を収集するために,アレッポのキリスト教徒青年を助手として同道させつつ,シリア砂漠を中心に放浪した。その詳細については『人と人の地域史』(地域の世界史10,山川出版社,1997年)所収の拙稿をご覧頂きたい。彼はその後イスタンブルを経て最終的にはエジプトに移り,1817年にカイロで死亡した。

 2人目のルソーは,かの有名すぎる啓蒙思想家の従兄弟の孫にあたり,アレッポやバグダードのフランス領事をつとめた人物である。彼の祖父はイランに派遣された外交団の一員だった宝石商,イラン生まれの父親もバグダード領事をつとめたので,いわば三代目の純粋培養の現地たたき上げ外交官であった。フランス外務省外交文書局所蔵のアレッポ領事報告の中には,ルソーによる現地社会の多岐にわたる現状報告があり,彼の才気煥発さと血筋としかいいようのない溢れんばかりの筆力を目の当たりにすることができる。このルソーが,ちょうどラスカリスがアレッポを拠点として砂漠を放浪していた時期に,そこの領事職にあった。しかし不思議なことに,あれほど詳細な報告書を書き残したルソー領事は,ごく一部の書簡を除いて,ラスカリスについて沈黙したままなのである。彼は1831年にリビアのトリポリで死亡した。

 3人目のブルクハルトは,スイス生まれで,イギリスで学問を修めた,筋金入りの冒険家である。1809年にイギリスからアレッポに移り,アラビア語会話などの「現地研修」に専心した後,翌年から現在のシリアとレバノンに相当する地域を踏査し始め,記録をとるようになった。彼のこうした踏査は,アフリカ内陸部探検のための準備運動なのであった。1812年にはエジプトに移り,ナイル川をさかのぼって上エジプト,ヌビア地方を調査,さらに西に向かわずに東に進み,紅海を渡って1814年にはアラビア半島の地を踏む。メッカやメディナに滞在し,当時アラビア半島を席巻していたワッハーブ派の情勢について博覧強記した。しかし体調を壊して1816年にエジプトに戻り,翌年カイロで死亡した。ラスカリスが死亡した半年後であった。この二人は,それぞれの調査旅行中にダマスクスで遭遇し,非友好的な火花を散らせたことがわかっている。また,一足先に死亡したラスカリスのもとにブルクハルトが駆けつけ,遺品の書簡や文書を押収し,イギリスに送ったとも言われている。

 4人目の人物レディ・スタノップは,イギリスの首相ウイリアム・ピット(小ピット)の姪として,上流社交界のなかで,その頭の回転の速さと奇抜な言動,男勝りの性格で目立つ強烈な個性だった。しかし叔父が1806年に死亡して後ろ盾を失い,失恋や弟の戦死といった不運が重なり,1810年に傷心を癒すべく地中海の船旅に出た。ジブラルタルで出会ったイギリス人男性を愛人として,ギリシアからイスタンブルを経て,エジプトでは総督ムハンマド・アリーに,レバノンでは首長バシール2世に歓待された。1812年にパレスチナでブルクハルトと,さらにシリア内陸部でラスカリスと会っている。愛人との別離の後,レバノン南部の山頂にある修道院の廃屋を終の棲家とし,1839年に孤独な死を迎えた。これは当時から一種の貴種流離譚としてイギリスでよく知られており,彼女の伝記もいくつか書かれた。J.ハズリップのものが『オリエント漂泊』(田隅恒夫訳,法政大学出版会,1996年)として日本語で読める。

 これら4人は,ナポレオンとワッハーブ派の政治的動向に左右されながら,レヴァントに夢を追い求めつつ一生を終えたのであった。

 


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研究会要旨

イタリア建築における中世主義について

──リヴァイヴァリズムと建築修復──

横手 義洋

32日/上智大学

 

 19世紀後半のイタリア建築に中世主義という潮流があるが,これは近代国家イタリアの誕生と密接に関わる建築運動で,まさに新しい国家の建築という主題に応答するものであった。その影響力は,新建築創造の原理となったリヴァイヴァリズムと過去の建築に対する修復行為を横断するものとして確認することができる。

 そもそもイタリアにおける中世建築への関心は,19世紀初頭のゴシック建築に対するデザイン上の好奇心からはじまる。これは主としてイギリス,ドイツ等で行なわれていたゴシック建築研究の影響,あるいはもっと直接的に建築家の旅行を通じて生じたものである。だが,1840年代になるといよいよイタリアの中世建築に対する研究が本格化する。国家の独立と統一へ向かう気運とともに,とりわけヴェネト,ロンバルディア地方において,古典主義的伝統を根本から刷新しようという運動が高まり,中世建築に芸術における革新や自由という価値が認められるようになった。

 イタリア中世主義の理論においては,歴史的正当性の構築において「ロンバルディア建築」という用語が重要な役割を果たしていることがわかる。「ロンバルディア建築」は国外の中世建築研究書において指摘されていたもので,コモの工匠たちの建設技術に端を発し,のちにヨーロッパ中に展開したゴシック建築の萌芽的段階,いわゆるロマネスク建築を示す当時の便宜的な名称だった。しかし,それがイタリアに導入されるや,国家の独立と文化統一の道具として特別な意味合いが付加されるようになる。国家統一前においては,多くの理論家たちが雑誌論文の中で,ヨーロッパのゴシック建築に優るイタリア中世建築の優位を示すものとして「ロンバルディア建築」を理想化し解釈したのだった。

 こうした渦中に,C.ボイト(Camillo Boito, 18361914)もいた。国家統一後にイタリア中世主義の主唱者となるボイトは,建築設計の理論においてオルガニズモ(構造)とシンボリズモ(装飾)という対立する二要素を持ち出し,それらが一段高いレベルに止揚するところに新しいイタリア建築の理想的な姿を見た。すなわち,新しいイタリア建築はオルガニズモにおいて近代社会にふさわしい科学的で合理的な要素を満たし,同時に,シンボリズモにおいて過去のイタリア文化を伝えなければならない,としたのである。こうした要請は,過去の建築を振り返るなかで,やはり中世建築に認められた。半円アーチ,ロンバルド帯,レンガやテラコッタ,モザイクや幾何学装飾において,独創性や経済性,合理性といった近代的な価値が強調されたのである。こうして,様式的に中世建築を髣髴とさせる近代建築がボイトによって理論的に先導され,主にミラノの公共建築において多くの実作を生んだ。

 中世主義の実践的側面は新しい建築の設計論だけではなかった。過去の建築に対する「様式的修復」もその大きな成果である。「様式的修復」は,未完成の建築やバロック時代に改造を受けた建築に対して,創建時の完全な状態を想像し,様式的な統一を目指すものであった。世紀後半においては,イタリア各地の中世聖堂のファサードにおいて,こうした修復が大々的に実践されていった。なかでもフィレンツェ大聖堂におけるファサードの設計競技は,ボイトの中世主義理論の一端を窺える重要な指標となっている。この選考では,ファサード上部のデザインにおいて議論が紛糾していたが,ボイトは同時代の他の大聖堂からの類推と美的な判断に基づく委員会の選考を断固批判し,ファサードは大聖堂本体の分析から導かれるべきだという見解を示した。オルガニズモとシンボリズモの統合を謳うボイト理論は,「様式的修復」における恣意性を捉え告発したのであった。

 このようにボイトの中世主義は建築設計論,修復論に革新の跡を残すことができたのだが,さすがに世紀末には翳りの時を迎える。この時期,もはや国家の様式という議論自体が新鮮味を失っていたのであった。新しい建築設計において,中世主義はネオ・ルネサンスの台頭のなかで多くの歴史様式が乱立する現象にのみこまれていった。

 また,1880年代以降,ボイト自身による際立った中世主義に関する建築理論も見当たらない。だが奇しくも,この中世主義の終焉こそがボイトによる近代的な建築修復理論の成就を約束するものであった。ボイトは中世建築を主たる対象としていた「様式的修復」を完全に乗り越え,ルネサンス以降の建築をも修復対象と捉えるようになり,ついには,あらゆる時代,あらゆる様式を等価に敬わなければならないという見解に到達する。その成果は,俗にイタリア初の修復憲章と目されるガイド・ラインとして結実し,20世紀の建築修復理論に引き継がれることとなったのである。

 


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淡水・紅毛城を訪ねて

金原由紀子

 

 東シナ海の南に,かつてポルトガル人が“Ilha Formosa(美麗島)”と名付けた,その名の通り美しい島がある。その島は,隋代の中国からは,沖縄諸島と共に「流求」と呼ばれ,元代には「瑠求」と呼ばれていた。一方,豊臣秀吉が送った親書では「高山国」と称され,室町時代の日本人はその島を「高砂」と呼んだ。現在の呼称「台湾」が正式な地名となったのは,清朝が1683年にこの島に統治機関を置いて「台湾府」と名付けてからである。「台湾」という名の由来は,オーストラリアのカンガルーの逸話に通ずるものがある。中国から漢人の移住民が増え始めた17世紀初頭に,台南一帯に居住していた先住民シラヤ族が,漢人のことを“外来者”を意味する言葉「タイアン」あるいは「ターヤン」と呼んでいた。ところが,漢人たちはこれが自分たちを指す言葉だとは気づかず,地名と勘違いしたのである。彼らはさらに「タイウァン」と訛らせて,「台員」や「大湾」と漢字表記し,後に「台湾」という表記が定着した。

 台湾には南方系の先住民が居住していたが,世界史の舞台に登場するようになるのは,中国へ向かう途中のポルトガル人が美しい島の風景に感銘を受けて“Ilha Formosa”と名付けた1544年,つまり,種子島への鉄砲伝来の翌年のことである。東インド会社を設立し,バタヴィア(現在のジャカルタ)を占領したオランダは,1622年に明や日本との貿易の中継基地として台湾の50km西に浮かぶ澎湖島を占拠した。ところが,明は澎湖島と中国大陸の間の海峡を抑えられることを嫌ったため,1624年,澎湖島の代わりに,化外の地である台湾を占領することをオランダに許した。オランダは台湾南西部の現在の台南の辺りに上陸し,すぐにその沖にある島で要塞の建設に着手した。こうして1630年に完成したゼーランディアZeelandia城は今も一部が残り,安平古堡として親しまれている。さらに1650年には本島側のセッカム(漢人は赤嵌と呼んだ)にプロヴィンシアProvincia城を築き,植民地経営の基盤を整えていったのである。この二つの要塞の周囲に形成された居住地が発展し,後に台南となる。

 一方,スペインはマニラを中心にフィリピン諸島の経営を進めながら,中国への進出を目論み,その中継基地として台湾に目を付けていた。1626年にスペインの艦隊はオランダ人との遭遇を避けて台湾の東側を北上し,オランダ人の入植していない台湾北部を占拠した。まず,現在の三貂角に上陸してサンティアゴと命名し,次に現在の基隆をサンティアゴ・トリニダートと名付け,サン・サルバドル城を築いた。その3年後には,基隆よりも東側の滬尾(現在の淡水)に入植し,淡水河の河口にサント・ドミンゴ城を建設した。これらの要塞は,台湾に残る最も古い歴史的建造物に類する。

 1629年に建設されたサント・ドミンゴ城は,まもなく台湾の歴史のうねりに巻き込まれる。オランダがスペインを台湾から駆逐した1642年に,城はオランダ人が占領し,改修した。オランダ人は漢人から“紅毛人”と称されていたため,サント・ドミンゴ城は紅毛城と呼ばれるようになった。1661年には滅清復明を目論む鄭成功が台湾に侵攻し,オランダ人を追い出して政権を樹立した。1681年には鄭氏政権下で城は改修され,武器庫として使用される。だが,1683年に政権が倒れると,台湾は清朝の版図に組み込まれ,城は放置された。そして,阿片戦争後の天津条約により1860年に淡水が開港されると,1868年には英国が紅毛城を清朝から租借し,その横に領事館を建設した。これ以降,城は犯罪を犯した英国人水夫を収容する監獄として使用されたようである。第二次大戦後に中国大陸に人民共和国が成立した後は,紅毛城の管理権はオーストラリア,アメリカに移り,1980年にようやく台湾の中華民国政府に返還された。1983年には第一級古蹟に指定され,現在は台北郊外の観光地として人気を集めている。

 台北から地下鉄MRT淡水線に乗ると,40分ほどで終点の淡水駅に着く。駅から淡水河沿いに中正路を北西方向へ20分歩き,右側の小高い丘を登ると,赤銅色に塗られた方形の要塞が姿を現す。これが旧サント・ドミンゴ城,現在の紅毛城である。1724年に補修された際に,建設当初に近い形に復元されたという。非常に小さな要塞ではあるが,銃眼と見張り用の塔を備え,眼下に広がる淡水河に睨みを効かせている。紅毛城の歴史の中では,現在はおそらく最も平和な時期だろう。訪れる観光客の関心は,丘を吹き抜ける爽やかな風,周囲の木々の緑と青空に映える要塞の赤銅色,そして,要塞から望む淡水河のかなたに沈む夕日である。この美しい色彩のコントラストは,自動車の排気ガスでいつも空気の澱んだ台北では,夕立の直後のわずかな時間にしか見ることができない。思いっきり深呼吸することができるきれいな空気が,私には何より心地よかった。

 


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マルシリオ・フィチーノの文通生活

小倉 弘子

 

 ルネサンスのプラトン主義者マルシリオ・フィチーノには,自選の『書簡集』という作品がある。16世紀に流行する書簡集出版の先駆けともいえるこのフィチーノの書簡集は,彼の思想形成,人間関係,人物像を知るための重要な史料である。ここには,イタリアのみならずドイツやハンガリーにまでおよぶ200名以上の文通相手に宛てられた,約660通の書簡が収められているのであるが,これを前にするとひとつの疑問が浮かんでくる。フィチーノはどのようにしてこれだけの文通を営んできたのだろうか,ということだ。いくつかの書簡を頼りに探ってみようと思う。

 まずは,書簡の運搬である。この時代は,第三者の手を借りて手紙を運んでもらうという方法が一般的だった。文通相手が高位の人物の場合は,伝統的な使者による手紙の運搬と朗読がなされたようである。フィチーノの場合も同様で,例えばフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニ宛の書簡には,教皇使節のピエトロ・プラチェンティーノによって大司教の手紙が運ばれ,同時に内容を声で伝えられたと書かれている。だが,友人レベルでは,もっと身近な人物が手紙を運ぶ場合もある。1457121日付の詩人ペレグリーノ・アリオ宛の手紙には「1129日に,医師フィチーノ,私の父でありますが,あなたの名による二通の手紙をフィリーネにいる私のもとへと持ってきました……」とある。また家族だけではなく,知人に手紙を託す場合もあった。1477426日付のヴェネツィア人ベルナルド・ベンボ宛の書簡には「ヤコポ・ランフレディーニにあなたへの手紙,それは私の(むろんあなたの)全てのものをあなたが受け取ったかどうかを,明らかにさせることを望むものですが,を渡すとすぐに,私に,あなたの重厚で機知に富み情愛のある返事が届きました……」という記述がある。

 このように,手紙の運搬は誰かに託されたので,様々なところで手紙を受け取る可能性があった。フィチーノの自宅はフィレンツェ市内にあったが,前述のフィリーネ(フィレンツェ近郊のフィチーノの出身地)やメディチ家,カヴァルカンティ家の別荘からもフィチーノは友人に手紙の返事を送っている。だが,意外な場所で手紙を受け取ることもあったようである。歴史家のアンドレア・カンビーニ宛の書簡の冒頭には次のようなことが書かれている。「私が私の友人,卓越したフランチェスコ・カサートと市場を歩いているとき,あなたの素晴らしい手紙が,私のもとに届きました……」

 ところで,これらの手紙が書かれてからどれくらいで相手に届いたのだろうか。フィレンツェ市内ならば,手紙の運搬者の面でも距離の面でも,通常なら一両日中に手紙が届いたことは想像がつく。だが,その他の地域ではどうだったのか。この点に関してはフィチーノの書簡の中では言及される場合が少なく,実際のところはあまりわからないのだが,いくつか興味深い記述もある。例えば,ヴェネツィアのベルナルド・ベンボ宛の書簡では,「ベルナルドよ,私は今日,我々のマルコ・アウレリオの手紙を受け取りました。それはたしかに手紙そのものは,父に非常に類似した完全にメルクリウス的なものですが,サトゥルヌス的なものに思われます。たしかに516日にヴェネツィアの海面からより重い足取りで出発しましたが,結局619日に我々の海岸に上陸しました……」とある。つまり一ヶ月以上かかったヴェネツィアからの手紙は「サトゥルヌス的」(土星的,すなわち非常に遅れた)なものであったわけである。また,ピサからのフィチーノ宛のロレンツォ・デ・メディチの書簡の中には次のようなことが書かれている。「私が(フィレンツェを)去ってから既に四日経っているというのに,あなたの手紙は依然として届きません。それに対して,私の家の者たちや友人たちの手紙は極めてたくさん届いているのにもかかわらず,私は手紙を書くことに関して,あなたが遅れているのを驚くと同時に悲しんでいます……」これは少なくともフィチーノのような一介の人文主義者でも,フィレンツェからピサまで手紙を送るのに通常は数日以内で届いたということを示しているのではないだろうか。ちなみにフィチーノはロレンツォからの1474123日付の手紙の返事を124日付で書いることから,ロレンツォの場合は一日で届いている。

 「私はいつのもように,それは毎日ですが,手紙を書いています」と,ある書簡でフィチーノは書いている。多くのルネサンスの人文主義者と同様,フィチーノにとっても,手紙を書くことは重要な仕事のうちのひとつであった。旺盛な著作活動の裏にあるフィチーノの文通生活の日々を,このような断片から垣間見ることができるのではないだろうか。

 


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ウィルボア・パピルスについて

山中 美知

 

 ウィルボア・パピルスWilbour Papyrusは,古代エジプト第20王朝ラメセス5世(約114541B.C.)治世4年目に,ファイユーム地方のシェディエト(現メディネト・エル=ファイユーム)の北からティフナの南側(現エル=ミニア)までの耕作地における税収入を査定するために調査,記録された文書である。大きさは,全長約10.3m,平均幅約42cmにおよび,現存するパピルス文書の中では,ラメセス3世の業績記録である大英博物館収蔵のハリス・パピルスHarris Papyrus(約45m),ライプチッヒコレクションの医学文書エーベルス・パピルスEbers Papyrus(約20m)に続いて3番目に長大である。出土地および出土年代に関しては不明だが,1928年から29年の時期にルクソールの商人によってカイロ博物館に持ち込まれたことが判っており,現在はブルックリン博物館に収蔵されている。1941年にガーディナーGardiner, A.H.がヒエラティックからヒエログリフへの転写,英訳,コメンタリーを刊行し,1952年にはフォークナーFaulkner, R.O.がそれにインデックスを加えた。この二つの研究を経て,ウィルボア・パピルスに関する包括的な研究が初めて可能になったのである。

 パピルスはテキストABに大別される。テキストAは約2,800区画の耕作地についての記録で,その形式は,まず始めに,測量された場所が示され,続いて所有体・者名やタイトルと,穀物による査定が記されている。見出しにある施設や人物によって一つ,ないしは複数の区画が管理され,279の項目に分けられるが,これは,279の異なる土地所L機関があったということではない。これらを整理すると,耕作地は・テーベ神殿群・ヘリオポリス神殿群・メンフィス神殿群・地方神殿群の四つの神殿領に区分できる。このことから,各神殿領が一つの行政単位として存在し,神殿経営が,独立した経済活動で成り立っていたことが明らかになる。テキストBは王領についてのみ記したもので,65項目に分けられる。王領の管理は,テキストAとは異なり,かなり高位の人物によってなされている。これは,行政官が王の代理人として土地を管理していたことを示している。王領の種類として7種があげられているが,その一つ,khato-landは王領だけでなく,しばしば,私有地のような意味にも用いられる語であるという点で興味深い。すなわち,管理者である高官たちが,土地を私有地のように扱った可能性が考えられる。テキストBは王の経済的基盤を示す具体的な資料として重要だが,まず,khato-landのように,テキストに言及されている土地が,純粋な王領であったのかという問題を解決しなければならない。

 そして,このような問題を考える上で無視できないのが,時代背景である。ラメセス5世時代のエジプトは,国力が衰退していた時期にあたる。王の居住地が下エジプトのペル・ラメセス(現カンティール)にあったことから,宗教上の中心地である上エジプトのテーベでは,アメン・ラー神官団が勢力を拡大していたと考えられている。6代後のラメセス11世治世19年には,アメン・ラーの大神官がテーベにおいて王位を宣言する。第20王朝の勢力範囲は,ファイユームを含む中エジプト地域だけとなり,やがて,デルタ地帯に勢力を持った第21王朝によって吸収され,エジプトは第3中間期と呼ばれる分裂期に入る。このような世情は,ウィルボア・パピルスの存在意義に大きく関わってくる。

 ウィルボア・パピルス中の土地面積は,ファイユームの全耕作地にはおよばない。おそらく,他にも土地の測量記録があると思われる。ハリス・パピルスも神殿領の存在について言及しているが,ハリス・パピルスはラメセス3世の死後,次代の王によって記録されたもので,純粋な土地測量を求めたというよりは,前王の業績をまとめる作業の一環であった,ということを考慮しなければならない。しかし,逆に,ハリス・パピルスの存在は,王家が過去のデータを保管していたことを示しているともいえる。この測量が,行政による記録作業の一部であったと捉えるならば,一地方に関する記録が整然ニ行われているのも理解できる。

 このように,テキストAの神殿領とテキストBの王領は,前述した各勢力の経済基盤を明らかにする手がかりである。ウィルボア・パピルスは,時代背景を考慮した考察を行ううえで,単なる測量記録としてだけではなく,当時の社会様相を明らかにする貴重な史料である。

 


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表紙説明 地中海の水辺10

ペイライエウス/杉山晃太郎

 

 アテナイの外港として栄えたペイライエウス(現ピレアス)は,占領時代に荒廃の憂き目に会ったが,20世紀が始まるその前後から次第に隆盛を取り戻し,今日では,ギリシア最大の貿易港として,また,ギリシア人が誇る数多くの島々と行き来するフェリーの玄関口として,重要な役割を担っている。坂道の多い岬の付け根東側には,タヴェルナに囲まれた美しい二つの湾,ゼアとミクロリマーノ(ムニキア)があり,大小様々なヨットが停泊している。岬を挟んで反対側は,大型フェリーや貨物船が出入りする中央港(カンタロス)である。

 アテネ中心部から港を目指して進むと,まず昔ながらの下町を通り抜けることになる。この一帯は,倉庫やビル,小さな商店など,ほとんどが古い建物で,廃墟のような印象さえ受ける。しかし,そこを抜け,中心部に近づくと,様子は一変する。サロニコス(サローン)湾に突き出た「ピライキ・アクティ」と呼ばれる岬の付け根周辺が現在の中心地で,区役所や現代の劇場をはじめ,観光や海運関係企業のオフィス,金融機関,さらにブティックやレストランなどが立ち並ぶ。また,中央港の脇には巨大なイヴェント会場も完成し,新しいピレアスの象徴にもなっている。

 一方,岬の先端に近い中央の高台にはアパートメントがぎっしり並んでいる。急な坂道を下り,建物の間に真っ青な海が見えてくると,海岸線に沿って走るアクティ・テミストクレウス通りに出る。通りの海側には,眺めと新鮮な魚介類を売りものにしているタヴェルナが点在し,山側には,高層アパートに加えて,ホテルや療養所があり,中央港入口の一角は海軍基地が占めている。

 ペイライエウスは,テミストクレスにより,紀元前5世紀に入ったころから,アテナイの軍港として整備が開始された。その後,ペリクレス時代の紀元前470460年ごろには,ミレトス出身のヒッポダモスの都市計画に従って,碁盤の目状の街並みが造られた。その街と港を取り囲んでいた城壁の遺構は,現在でも街のあちこちに残っている。とはいえ,ほとんどはごく一部だけで,ぎっしり建てられたビルやアパートメントの谷間に埋もれていて,探すのにも一苦労である。その中でも,比較的保存状態がよいのは,ペイライエウスの玄関とも言うべき門周囲の城壁,考古学博物館の敷地内にあるヘレニズム期の劇場跡,そして,表紙に掲げた通称「コノンの城壁」である。ペイライエウスの城壁は,ペロポネソス戦争終結後の紀元前404年に戦勝者であるスパルタ側に破壊されてしまったが,コノンによって紀元前393年には再建されている。海岸線をぐるりと囲んでいる城壁は,アクティ・テミストクレウス通りのすぐ下にあり,距離にして2.5kmほどが現存する。45100m間隔で,表紙写真に見られるような塔が配置されていて,当初55あったうちの22が現存するという。アクティ・テミストクレウス通りからは,沖合いに停泊している船や,港に出入りする船がよく見える。私が訪れた6月終わりの城壁と塔は,かつての敵艦を警戒する任務の代わりに,無邪気に泳ぐこどもたちの姿を静かに見守っていた。

 


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地中海学会事務局
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