地中海学会月報 247

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2002| 2  



   -目次-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









学会からのお知らせ

*会費納入のお願い

 学会の財政が逼迫しております。会費を未納の方は至急下記学会口座へお振り込み下さい。なお,新年度会費については3月末に改めてご案内します。

会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000円

口座:「地中海学会」

   郵便振替 00160-0-77515

   富士銀行九段支店 普通 957742

   三井住友銀行麹町支店 普通 216313

 


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*第26回大会

 学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において開催する第26回大会のプログラムは下記の通りです。詳細は決まり次第,お知らせします。

6月22日(土)午後

 記念講演 堀越孝一氏/地中海トーキング「江戸と地中海」(仮題)司会:末永航氏/総会/地中海学会賞・ヘレンド賞授賞式/懇親会

6月23日(日)

 研究発表/シンポジウム「地中海とアルプスの北」(仮題)/司会:高橋裕子氏

 


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*会費口座引落について

 口座振替依頼書の今回の受付は2月22日をもって締め切りました。ご協力,有難うございました。新年度会費の引落日は,4月23日(火)です。後日あらためてご連絡いたします。

 


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表紙説明 地中海の水辺8ヘネラリーフェ/宮崎和夫

 

 ヘネラリーフェは,アルハンブラ宮殿に隣接する敷地に,ナスル朝君主のレクリエーションの場を兼ねた農園として,13世紀から建設され始め,14世紀中葉にいったん完成した。15世紀末にグラナダを征服した直後のスペイン人はこれを「ジナラリーフェ」と呼んでおり,その語源には諸説あるが,アンダルスのアラビア語で「建築家の庭」を意味するという説が有力である。

 きれいに刈り込まれた糸杉の壁が織り成す迷路のような散歩道を抜けると,やがてこの庭園の中心部分である「パティオ・デ・アセキア(水路の中庭)」にたどりつく。水路の両側に一列に並んだ噴水から勢いよく噴出する水が作り出すアーケードが,陽光を受けてきらめき,周りには色とりどりの季節の花が咲き乱れる光景を目の当たりにすれば,イスラーム・スペインの君主はまさにこの世の楽園で暮らしていたのだなあと,暫し感慨に耽るのが素直な反応であろう。しかし少し冷静に考えてみれば,こんな庭園を維持するには莫大な費用と労力と高度な技術が必要なはずである。キリスト教徒の手に渡ってから500年以上,アンダルス人が完全に追放されてから400年近くも経っているのに,イスラーム時代の姿がそのまま維持されてきたなどということがありうるだろうか。

 実際ヘネラリーフェは,征服後から20世紀に至るまでの間に,大幅に改築されている。有名な噴水は19世紀になってから作られたものである。表紙の図版は,ロマン主義の文人の間でグラナダを訪れるのが流行していたころに盛んに刷られた版画のひとつだが,これに噴水のアーケードは描かれていない。しかしその着工の日付もその目的も,よくわかっていない。「水路の中庭」の最古の写真が1867年より以前のもので,それには噴水のアーケードが写っているので,それ以前からあった,ということだけがわかっている。

 ナスル朝期には,水路のふち(つまり現在噴水の噴出口があるところ)を人が歩いて,周りのオレンジやザクロの実を取って食べていたらしい。そもそもこの庭園は,君主に近しいごく少数の人が,内輪で余暇を楽しむための場所だったのであり,大勢の観光客が行列をつくって写真を撮りながら歩くためのものではなかったのである。だからといって,現在のヘネラリーフェが「偽物」であるというわけではなく,それなりに興味深いものがある。

 征服後,戦功のあったカスティーリャ貴族の息子がヘネラリーフェ城代に任命される。そしてその娘がナスル朝期の貴族バンニガーシュ家の流れを汲むペドロ・デ・グラナダ・ベネガスと結婚する。その子孫は,1568年に同胞が起こした反乱の鎮圧に貢献し,歴代のスペイン王に信頼されて侯爵に叙せられ,ヘネラリーフェ城代の地位を,1921年にその地位が廃止されるまで,代々受け継いでゆくことになる。しかしこの家系は,中世以来この地にも進出していたジェノヴァ商人貴族と緊密な姻戚関係にあったため,ヘネラリーフェ城代の地位は18世紀以降イタリア人の手に渡ってしまい,彼らがイスラーム庭園をイタリア風に改造してしまった,と地元の歴史家たちは嘆く。

 ところが,「水路の中庭」の噴水は,イタリア起源とは断定し難い。ケンペルの『廻国奇観』には,これと同じタイプの噴水が17世紀末のペルシャにあったことが記されている。このような噴水をヘネラリーフェに建設した意図は,ナスル朝庭園の復元ではないにしても,漠然とした東洋趣味であったのかもしれない。

 


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東西の仮面劇

鈴木 国男

 

 学内の研究会で,3年にわたり仮面劇の研究を行なった。専門分野を異にする研究者が標記のテーマのもとに集まって,発表や討論を重ねた。2年前に来日したミラノ・ピッコロ座の『二人の主人を一度に持つと』も,ちょうど良い機会だったので一緒に観劇した。イタリア演劇をやっている私はこの芝居のレポートを手始めに,コンメディア・デッラルテの仮面を軸にし,少し範囲を広げてギリシア劇や能楽の仮面についても考察してみた。その要旨をここに御紹介したい。

 まず,演劇における「仮面」を示す言葉について考えてみた。ギリシア語の「プロソーポン」は「顔」そのものを指し,ラテン語の「ペルソーナ」は演劇用の仮面の意味から始まって,「人格」「人称」などの意味に発展した。そしてイタリア語の「マスケラ」は,語源は詳らかではないものの,「魔女」という言葉に端を発するものではないかといわれている。ギリシア悲劇は,いわゆる「三単一の法則」に近い条件のもとで,時間・空間の点ではむしろ飛躍の少ないリアルな構成になっている。一方,登場人物は神話・叙事詩で知られた英雄である。仮面は,目前でドラマ=行為を営む周知の人物の「顔」そのものであったのだろう。そして「ペルソーナ」が被る仮面から生身の人間の「個」そのものへと転化していく中で,ヨーロッパ演劇の中から仮面は姿を消していった。それは,キリスト教の中にある偶像崇拝や変身に対する禁忌ともちろん関係がある。

 一千年にわたる仮面不在の時期を経て,ルネッサンス以降,「マスケラ」として再登場した仮面は,従ってより「魔術的」な魅力を帯びる。イタリアにおいて古代の仮面の記憶を蘇らせたとされるのが,コンメディア・デッラルテである。この仮面の特徴は,一人の役者が一つの仮面(役柄)を演じ続けたことと,実際に仮面をつけた人物と素顔の人物が,まったく同等の関係で演技をしたことに求められる。すなわち,ある種の類型的な「顔」が仮面によって再構成され,それが役者自身の「個」と結びついてしまったことになる。この考察には,最近の「顔学」の概念も応用できるであろう。一方で,カルネヴァーレや舞踏会の仮面は「個」を一時隠す道具として用いられる。近代になって「個」の表現を追及し,リアリズムにその終着点を見出したヨーロッパ演劇において,仮面の占める位置が極めて小さくなったのは当然のことである。現代でも仮面は動物や怪物の表現に用いられることが多い。『オペラ座の怪人』や『ライオンキング』の成功は,その顕著な例であろう。

 アジアにおいてはまったく事情が異なるのは言うまでもないだろう。能楽においては仮面を「おもて」と呼んで大切にする。それは観客に対する表玄関の意味もあるのだ,と観世寿夫は言う。能の面は極めて精巧な造形がなされていて,使い方ひとつで深い表現が可能なことはよく知られているが,演じる者に対して二つの作用をもたらすものであると考えられる。いわば憑代としての精神的な作用と,極めて閉塞した状況を作る物理的な作用である。一定の稽古を積んだ者が面をつけることによって,たちまち特殊な精神状態に入る様を,白洲正子が明快に証言している。能面は観客に対しても演者に対しても,優れた効力を発揮する演劇的仕掛けであることがわかる。それほど高度なものでなくても,仮面をつけることによって変身を果たし,演戯に没入することの喜びは,様々な芸能や子供の遊びにおいても我々が身近に経験することであり,アジアでは共通する現象があちこちで見られる。宗教的な背景もさることながら,日常生活に溶け込んだ仮面の存在は,演劇における仮面のあり方とも密接に関わっている。

 度々言及していることだが,日本ではゴルドーニがともすれば「仮面劇の作者」として紹介されることがあるのは,極めて皮肉なことである。『二人の主人』などは彼の仕事のごく一部であり,ゴルドーニはむしろ役者から仮面を取り上げ,素顔の人間を演じさせようとしたのである。その点ではまさに近代の先駆けをなしている。同時に,自分の素顔自体に懐疑を抱き始めた近代人と違って,いわば脱皮したての柔らかな人間の顔が浮かび上がってくる,それがゴルドーニ劇の魅力ではないだろうか。

 共同研究では,他にミルトン,イェイツの仮面劇,歌舞伎や近世から近代にかけて日本の芸能に見られる仮面の問題,アメリカ演劇における仮面,そして仮面と並んで演劇的扮装の重要な要素である化粧についてなど,様々な論考が発表された。2月中には,その成果が研究叢書として刊行される予定である。関心がおありの方は,共立女子大学総合文化研究所・神田分室(Tel. 03-3237-2598)までお問い合わせください。

 

 


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秋期連続講演会「地中海遊歴 II」講演要旨

ロマン派の地中海

──スタンダール,ドラクロワ,ジェリコー,ミュッセなど──

高階 秀爾

 

 森鴎外の名訳によって日本でも広く知られている『即興詩人』の原作が刊行されたのは1835年,著者のアンデルセンが30歳の時のことである。執筆はその2年前,イタリア旅行の最中にローマで開始されたという。主人公のアントニオはイタリア人という設定になっているが,歌姫アヌンチアタとの悲恋物語には若いアンデルセン自身の体験が色濃く反映されている。つまりそれは,ゲーテの『若きウェルテルの悩み』をはじめ,バンジャマン・コンスタンの『アドルフ』,ミュッセの『世紀児の告白』など,ロマン派の時代に流行した自伝的小説の一つである。

 だが無名の青年アンデルセンの名を一躍世に知らしめた『即興詩人』が広い人気を集めた理由はそれだけではなかった。波瀾万丈の青春物語という内容に加えて,ローマ,ナポリ,ポンペイ,さらにはヴェネツィア,ミラノなど,イタリア各地の名所,旧跡,美術遺品その他珍しい風俗や自然の情景などを詳しく描写して,充実したイタリア観光案内となっていることが成功の秘密であった。日本でも明治後期以降,多くの旅行者が鴎外訳『即興詩人』を片手に旅立ったものである。

 18世紀末から19世紀中葉にかけて,アルプスの北の国々の詩人,文学者,芸術家たちは地中海の明るい空と青い海に惹かれて,イタリアへの巡礼に情熱を注いだ。

 もちろんイタリアへの旅はそれ以前の時代においても多くの人々の心を捉えていた。というよりも,古代ローマやルネサンス時代の名品が数多く残されているイタリアの地は,画家や彫刻家にとってどうしても訪れなければならない芸術の故郷であった。だがロマン派の時代のイタリア憧憬には,優れた芸術遺品の魅力に加えて,それまでは見過ごされてきた二つの大きな要因があった。ひとつは明るい太陽の下に拡がる変化に富んだ自然の美しさであり,もうひとつは,愛と情熱の国というイメージである。さらに言えば,ルネサンス芸術の原動力となった古代芸術の世界にしても,18世紀中頃から始まったヘルクラネウムとポンペイの発掘によって,まったく新しい展望が開かれるようになった。ロマン派時代のイタリア熱は,これら三つの要素の複雑なからみ合いによって支えられてきたと言ってよい。『即興詩人』にはこの三つの要素がふんだんに盛り込まれていることを思い出してみれば,それが大きな人気を得たことも少しも不思議ではない。

 イタリアの空と水の輝きに魅せられて忘れがたい名作の数々を残した代表的画家は,何と言ってもイギリスのターナーであろう。ターナーはその長い生涯において何度かアルプスを越えてイタリアの地を訪れ,比類ない光と色の世界を生み出した。そのターナーのイタリア風景には,しばしば古代神話の物語やルネサンスの巨匠たちの思い出,あるいはシェイクスピアや同時代のバイロンなどの文学的主題が取り入れられているが,そのような例のひとつに≪チャイルド・ハロルドのいる風景≫がある。1812年に最初の巻が刊行された『チャイルド・ハロルド紀行』は,当時24歳の青年バイロンのイタリア旅行の思い出に基づくこれまた自伝的長編詩である。「ある朝目覚めてみれば私は有名人だった」とバイロン自身が述懐しているように,発表とともに大きな評判を呼んだこの豊麗多彩な詩の世界に,ターナーも深い共感を覚えたのであろう。それがロマン派時代の精神的風土であった。

 その後バイロンは,トルコの圧制に抗して立ち上がったギリシアの独立戦争に参加し,ついにミソロンギで客死するにいたるが,高名な詩人のこの情熱的行動は,ヨーロッパの青年たちに地中海世界のもうひとつの面に眼を向けさせることとなった。フランス・ロマン派最大の画家ドラクロワの名作《キオス島の虐殺》や《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》は,直接ギリシア独立戦争に触発されたものである。

 愛と情熱の国イタリアのイメージを最も見事に芸術作品のなかに結晶させたのは,フランスのスタンダールである。その『イタリア年代記』や『パルムの僧院』に語られているさまざまの恋愛物語は,「イタリアの青い空の下でのみ生まれてくる」情熱的世界を精彩に富んだ筆致で描き出している。

 ロマン派の時代にフランスで活躍したもう一人の作家,「恋多き女」ジョルジュ・サンドもまた,絶えず地中海世界に惹かれていた。彼女がミュッセとの愛の逃避行のためにヴェネツィアに赴き,ショパンとの愛の隠れ家にマヨルカ島を選んだのは,決して偶然ではない。サンドとの激しい恋はミュッセに多くの抒情詩や『世紀児の告白』を書かせ,またショパンはサンドの看護を受けながら有名な「雨だれ」をはじめとする多くの名曲を生み出した。その意味でサンドは確かにミュッセやショパンのミューズであったが,より広い視野で見てみれば,晴朗雄大な地中海世界そのものがロマン派の芸術家たちにとってのミューズだったのである。

 


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秋期連続講演会「地中海遊遊歴 II」講演要旨

ユートピアとしてのギリシア

──オリュムピアの場合──

中山 典夫

 

 紀元前480年ペルシアはギリシアを攻めた。東洋と西洋が覇を争った歴史的大事件であった。ペルシアが勝っていれば今のヨーロッパはない。

 その戦いの最中,鳴りをひそめたギリシア軍の動向を探ったペルシア人は,ギリシア人は今オリュムピア祭を祝い,競技や競馬を観覧していることを知った。そしてその賞品はオリーヴの冠と聞いてペルシアの将官の一人トリタンタイクメネスは叫んだ。「われわれの敵は何という人間だ。金品でなく名誉を賭けて競技をする人間とは。」

 歴史家ヘロドトスの伝えるこの逸話は,後世の人間に深い肝銘を与えた。彼らにとってオリュムピアは「今」「此処」にない理想の地となった。ユートピアとは,ギリシア語のou(どこにもない)potos(場所)からのトーマス・モアによる造語であった。

 後世の人間はまた他の古代の記録から,オリュムピア祭は大神ゼウスを祀るものであり,オリュムピアの地には競技場や競馬場のほか,柱廊をめぐらし絵画・彫刻で飾られた壮麗な神殿,天に聳える祭壇,奉納の品々を収める宝庫などが立ち並び,それらを辿る参道の傍らには,何百何千という競技優勝者の記念像が据えられていたことを知った。

 そのオリュムピアの地は,1766年イギリスの探検家リチャード・チャンドラーによって発見された。人々はその地の発掘を夢見た。1821年,ギリシア人はトルコの圧制に抗して蜂起した。この解放戦争に介入したフランスは1829年ペロポネソスに遠征隊を派遣したが,その中にアレクサンデル大王の故事にならって学者の幕僚を加えた。彼らは6週間オリュムピアに滞在し,宝捜しの発掘を行なった。そのとき,ゼウス神殿を飾っていた彫刻の断片がパリに運ばれ,ルーヴルに展示された。その獲得品と数年後に公刊された報告書は,知識人の間にオリュムピア熱を沸き立てた。この思潮に棹さし憤激を買ったのが,1865年のマネの≪オリュムピア≫であった。

 ギリシア解放戦争にもっとも多くの義勇兵を送ったドイツでも,オリュムピアに対する憧れは渦巻いていた。1852年歴史学者エルンスト・クルティウスは,オリュムピア発掘の夢を熱っぽく語った。

 「彼の地の暗い地中に埋まるのは,私たちの命そのものです。たとえ私たちの神が御使いを遣わしオリュムピアの休戦以上の平和を告げることがあったとしても,オリュムピアは私たちにとって聖なる地であり続けるのです。私たちは,私たちの神の光に照らされたこの世界に,あの精神の高揚,献身的祖国愛,芸術の神聖化,肉体的辛苦を克服する喜びを受け継がなければならないのです。」

 彼の夢は1875年,統一を果たしたドイツ政府の援助を得て実現された。

 オリュムピアへの憧れは,もう一つの大きな現実に結晶した。1892年,45歳のピエール・ド・クーベルタンは回想している。

 「古代オリュムピアの廃墟に生命革新の理想を重ねることを想いつく遥か以前に,私はこの都市を復元すること,その外観を再現する想いに耽っていた。ドイツはオリュムピアの遺跡を発掘していた。フランスがその都市のかつての栄光を甦らすことができないはずはないではないか。このような思索から,いくらかその輝きは減ずるが,しかしより実際的でより実り豊かな計画,すなわち古代オリュムピア競技の再興に到達するには,遠い道のりはなかった。」

 クーベルタンの提唱した古代オリュムピア競技の復活は,1896年,アテネでの第1回大会に於けるマラソン競技の盛り上がりもあって成功した。しかし,この近代オリュムピア競技はやがて政治のイデオロギーと結びつき,古代とは無縁の表彰台,聖火リレー,聖火台を創案し,オリュムピアの遺跡の傍らに立つクーベルタンの心臓を収めた碑の前での採火式なるキッチュな催しを生んだ。そして今オリュムピア競技は,排他的な愛国主義,節制を知らない商業主義へと流れている。

 古代にあってもオリュムピア競技の優勝者は,ただオリーヴの冠で報償されただけではなかった。少なくとも彼らには,故郷の都市のプリュタネイオン(公邸)での豪華な饗宴が待っていた。否,古代ギリシアの社会自体が矛盾を孕んでいた。「ギリシア人の自由は奴隷制で養われ維持されていた」と今日の歴史家はくり返す。私たちは,ペルシアの将官トリタンタイクメネスのように,古代ギリシアを実際そうであった以上に理想化しているのであろう。しかし,そうしなければならないのかもしれない。少なくともその理想化が,オリュムピアの発掘,近代オリュムピア競技を実現させたのだから。

 


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よみがえる古代

──フォルチュニイと古代ギリシア──

中村 るい

 

 もう15,6年ほど前のことになるが,東京,表参道のスパイラルホールでの展覧会が,マリアーノ・フォルチュニイ(1871〜1949)の衣装との出会いだった。

 このごろ,フォルチュニイのことが気になるのは,20世紀と,古代の美術に共通するエッセンスのようなものを感じるからだろうか。それは,人間の身体と衣装がつくる素朴な形の記憶ともいえるだろうか。ギリシア美術史を学ぶ者として,現代と古代をむすぶ形に興味を持った。

 スパイラルホールで展示されたフォルチュニイの衣装は,絹サテンの流れるようなひだのプリーツ・ドレスで,絹の光沢が,象牙色とも桃色とも,紫ともいえない不思議な色をきらめかせていた。

 フォルチュニイは,20世紀前半,ヴェネツィアで活動したデザイナーで,衣装以外に舞台美術の方面でも才能を発揮し,舞台の間接照明の方法を開発し,画家でもあった。衣装の分野では,1907年,コルセットをつけない,新しいタイプのドレスを発表し,それが「デルフォス」と呼ばれる,プリーツ・ドレスだ。「デルフォス」の名は,紀元前5世紀前半のギリシア彫刻≪デルフォイの馭者≫(デルフォイ美術館蔵)からとられた。

 1907年ごろのヨーロッパの美術界といえば,ピカソが≪アヴィニヨンの娘たち≫を発表した年だし,セザンヌの初の回顧展が開催されて,当時の若き前衛画家マティスやデュフィらにショックを与えた年だし,彫刻家ブランクーシは,ロダンのアトリエ助手を辞め,自分の彫刻スタイルの模索をはじめた年だ。イサドラ・ダンカンの新しい舞踊の公演(1900年頃ロンドン,1903年以降パリほか)や,ロシア・バレエ団のパリ公演(1909年)の大成功も,新しい芸術表現を求める当時の様子を伝えている。それは社会が,伝統に固執するのではなく,新しい表現やデザインに触れたい,生活のなかで実感したい,という強い要求をもっていたからにちがいない。そしてアーティストたちがさしだす,新しいものを,熱狂的にうけいれる状況だったのだろう。

 スペイン生まれのフォルチュニイは,1889年,18歳になるまでパリですごし,以降,ヴェネツィアに移り,絵画制作や舞台照明の実験などの活動を開始した。1901年,劇作家ダヌンツィオから,戯曲「リミニのフランチェスカ」上演用の舞台美術と衣装を依頼され,これが衣装デザインとかかわるきっかけとなった。1906年には型押しプリントのシルク「クノッソス・スカーフ」を発表,1907年には,先の「デルフォス」の発表となる。

 「デルフォス」は,基本的に筒形のドレスで,絹布をはぎあわせた構成。表面はプリーツ加工を施している(プリーツの加工技術で特許を取得)。この単純な筒形に,ひとが身体をいれると,不定形のからだの曲面にあわせて,プリーツが微妙に開閉し,えもいわれぬ着衣姿ができあがる。当時としては,非常に前衛的な衣装で,まず舞台人(エレオノーラ・ドゥーセやダンカンら)に注目され,その後,ファッション誌『ヴォーグ』にも紹介され,1920年代には競ってもとめられるようになった。

 「デルフォス」の名は,馭者像に由来するが,実際にはアルカイック彫刻のコレー(娘)像に近い。フォルチュニイは,古代彫刻の写真を大量に所有し,彼のドレスには,古代彫像のエッセンスが絶妙にとりこまれている。

 この点がじつに面白い。新しい,前衛的なデザインのヒントを,古い時代に求めているのだ。古代美術が,斬新なデザインを秘めていることをフォルチュニイは直観的に感じとったのかもしれない。舞踊家のダンカンやニジンスキーも新しい舞踊のヒントを,ギリシア彫刻や壺絵から得たことはよく知られている。

 プルーストの『失われた時を求めて』の「囚われの女」の章にも,フォルチュニイの衣装の記述がある。その衣装は,ヴェネツィアという土地を夢想させ、さらに象徴的に過去をよびさますものとして,登場人物にまとわれている。

 フォルチュニイの衣装は古代風だが,もちろん,表面的に古代を再現したわけではない。奇抜な外見で,ファッションの中心に立とうとしたわけでもない。フォルチュニイ研究者のオスマ氏によると,時代が移っても古びないもの,つまり不変のものを目指したのだという。移り変わる流行は,ある時期,一世を風靡しても,次のシーズンには完全に古臭くなってしまう。変化することが流行の生命なら,彼は,流行とは正反対のものを作ろうとした。これはギリシア美術のエッセンスでもある。

 さらに,フォルチュニイの衣装の魅力は,生身の人間がドレスに身をすべりこませたとき,独特の形を生むことだ。衣装は肉体の起伏にあわせて,世界でただ一つの個性的な形と空間を作り出す。

 ギリシア彫刻が目に見える身体の形で追求したのは,人間の存在のありかた,そして存在の不思議さだった。これは,西洋美術が追求した永遠のテーマだ。フォルチュニイもまた,永遠のテーマに取り組んだ一人だろう。

 


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ピエンツァ

──教皇と理想都市空間──

恋川 智子

 

 ピエンツァは,シエナの南東,オルチャ川とアッソ渓谷を見下ろす丘陵地帯に位置し,風光明媚で知られるトスカーナ地方の中でもとくに美しい自然風景に恵まれている都市のひとつである。わずか東西400mほどの楕円形をしたこの小さな都市に,初期イタリア・ルネサンスの理想都市の面影が息づいている。

 ピエンツァは,もとはコルシニャーノという小さな農村であった。この村から一人の教皇が輩出されたことが,この農村の運命を大きく変えることとなる。時の教皇ピウス2世はルネサンス教皇の名にふさわしく,優れた人文主義者であり,古典文学に対する造詣が深いことで知られる人物である。当時建築書としてもっとも重要視されていたウィトルーウィウスやアルベルティの建築書も熟読し,古代ローマ都市の復興というニコラウス5世以来の野望を抱いていた。

 ピウス2世がその野望を,自分の郷里において実現しようと決心したのは,宗教会議に向かう途中,コルシニャーノに立ち寄った時であった。そしてこの時に同伴していたのが,他でもないアルベルティだったのである。アルベルティは,この都市計画の実施にあたって,ベルナルド・ロッセリーノをピウス2世に紹介する。ロッセリーノは,アルベルティと共に教皇ニコラウス5世時代にローマで仕事にあたった彫刻家であり,建築家であった。ピウス2世は建築理論家としてアルベルティを,実際の施工監督としてロッセリーノを迎え,ピエンツァの理想都市改造計画に乗り出した。

 ピエンツァの都市整備に与えられた時間は,着工を開始した1459年から,ピウス2世が没する1464年までの5年間というごく短い期間であったため,実際に手を加えることができたのは,都市の中心部にあたるピッコローミニ広場と北東部にある貧しい市民のための住居区域のみにとどまらざるをえなかった。

 このピエンツァという小さな都市が,初期ルネサンスの理想都市モデルとされ,都市計画史において重要な位置を占める要因は,ほぼこのピッコローミニ広場に集約されるといっても過言ではない。この広場を構成する建築物は,大聖堂,司教館(パラッツォ・ヴェスコヴィル),教皇館(パラッツォ・ピッコローミニ),市庁舎の四つであり,それらが一つのユニットとして意識的に計画されている。広場を構成する建築物は,北側に位置する市庁舎を起点として,両脇に位置する司教館と教皇館が,南側の大聖堂に向かって放射状に広がるよう配置され,大聖堂のファサードを強調するように透視画法的効果が試みられているのである。

 またこれらの建築物のファサードは,同時代に建設された建築物よりも,かなり簡潔に処理されている。これは複数の建築物を,広場を中庭としたひとつの建築物として意識させるよう一続きの壁としての統一感を持たせるための処置であった。教皇館のファサード右隅にあるロッセリーノによる井戸が,更にその印象を強める。そして大聖堂と両脇の建築物の隙間からは,裏に広がるトスカーナの丘陵がわずかに覗き,建築物に囲まれたほの暗い広場に二条の光を与えている。ピエンツァという都市はひとつのパラッツォになぞらえられたのである。

 ピウス2世は,優れた規律によって統一された理想的な秩序を都市空間に与えようと試みた。この試みは,後代の都市建設に影響を与えることになる。ウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトロは,自らの宮廷パラッツォ・ドゥカーレに,教会堂やその他の建築物を複合させ,パラッツォ自体をひとつの都市にしてしまった。ピエンツァとちょうど表裏が逆の状態である。またピッコローミニ広場における透視画法を駆使した台形のプランは,ローマのミケランジェロによるカンピドリオ広場,そしてベルニーニによるヴァティカンのサン・ピエトロ広場へと,盛期ルネサンス,マニエリスム,バロックの洗礼を受けながら,はるかに大きな規模で,より洗練され,より華美に継承されていった。

 1464年にピウス2世が,次いでロッセリーノが亡くなった。当然のようにピエンツァの都市計画は中止され,ピエンツァはもとの静かな田舎の村へ戻っていった。しかし,ロッセリーノが整備した都市空間は,ほぼ当時のままの状態で遺されており,500年以上の時を経た現代でもなお,ピウス2世の夢見た都市空間の片鱗を体感することができる。

 都市の玄関であるムレッロ門をくぐり,ゆるく蛇行したメインストリートのロッセリーノ通りを歩いていくと,ほどなくピッコローミニ広場に出る。真っ先に目に入るのは,太陽を背景に威圧的な姿を見せる大聖堂である。広くはない広場であるが,静かで荘厳な空間を現出している。門から広場へと向かうアプローチは,パラッツォの門を抜け,中庭に出たときの印象をほうふつとさせる。ひとつのパラッツォになぞらえた都市の内部を歩くうちに,ルネサンス教皇ピウス2世ならではの空間──秩序と調和を,感じずにはいられない。

 


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読書案内-秋山 学

澤井繁男著『イタリア・ルネサンス』

講談社現代新書(no.1557) 2001年6月 216頁 660円(税別)

同『ナポリの肖像──血と知の南イタリア』

中公新書(no.1609) 2001年10月 232+viii頁 780円(税別)

 

 本学会の第4回ヘレンド賞受賞者であられる澤井繁男氏が,イタリア関係の著書を昨年相次いで出版された。澤井氏は上記新著の他,『ルネサンスの知と魔術』(山川出版社)や『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)などの著書に加え,E.ガレン『ルネサンス文化史』の単独訳,G.カルダーノ『自伝』の共訳などをすでに相次いで上梓されていて,その筆力は余人の追随を許さない。

 ルネサンス文化を,簡潔にかつ細大漏らさず紹介することは,容易な業ではない。歴史・政治・教育・写本伝承・宗教・科学・都市論・文学・美術・哲学など,あらゆる分野に関わる知識を蓄えた上で,さらに全体を統一する視座を設定し,かつこの文化の絢爛豪華さに劣らぬ筆致でもって,読者を飽きさせることなく導かねばならない。著者は,博覧強記の知と文筆家としてのバイタリティーをもって,この任を十二分に果たしている。

 まず前著は,ルネサンスの豊かな文化的遺産の再発見へと,われわれを招き寄せてくれる本である。随所に図示の表が挿入されていて,読者の理解を助ける試みがなされている。科学史的視点を豊かに取り入れたこと,また従来芸術や文学に偏りがちであった類書に比して,ルネサンス期の「哲学」にも十分な配慮を行ったこと,などが特記されよう。さらに,人文主義などの思潮面と,印刷術など外的な諸相との関係を巧みに描きわけたあたりに,著者の真髄をうかがい知ることができる。

 また後著は,前著が文化的内実の側面を内容的な区分に基づいて紹介しているのに対し,ナポリという一都市に焦点を当て,その都市史のうちにいかなるかたちで文化的開花がなされたかを詳細に検討したものである。一都市史であり,地域研究的な視点による画期的な試みだと言えよう。前著と併せ読むことで,言わばイタリア・ルネサンスの縦糸と横糸を絡めながら理解することができる。ルネサンス文化のパトロンとしてのフェデリーコII世,「ペスト」という非常事態,「自然魔術」の観点など,両書に共通する事項も散見されるが,いかなる文脈でそれらが取り上げられるかに注目して比較しながら読み進めると,著者の明晰な執筆プランが浮き彫りになるようで興味深い。

 なお両著とも,巻末の文献目録がどのような基準に則って列挙されているのか,評者には理解しがたかった。記述内容の順と思われるが,初心者のためにも,むしろテーマ別にまとめるか著者アルファベット順にするなどの心配りが欲しいところであった。ともあれこれら二書は,一般向けながら濃密な内容を秘めたルネサンス文化の紹介書として,特筆すべき労作だと言えるだろう。


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