地中海学会月報 246
COLLEGIUM
MEDITERRANISTARUM
2002|
1 |
*3月研究会
下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:イタリア建築における中世主義について──リヴァイヴァリズムと建築修復
発表者:横手 義洋氏
日 時:3月2日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室 (最寄駅:JR・地下鉄「四ッ谷」)
参加費:会員は無料,一般は500円
イタリア建築における中世主義は,19世紀後半の近代国家イタリアの誕生と密接に関わる建築潮流で,その影響力は新建築創造の原理となったリヴァイヴァリズムと過去の建築に対する修復行為を横断するものであった。本発表では,中世主義のイデオローグであったC.ボイト(Camillo Boito, 1836〜1914)の理論と実践を中心に,近代における新しさという価値が歴史や伝統との関連においてどのように摂取されたのかという問題を捉える。
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第7回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を募集します。申請用紙は事務局へご請求ください。(詳細は月報245号をご参照下さい)
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2002年1月9日(水)〜2月11日(月)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
*第26回大会研究発表募集
来年6月22日〜23日(土〜日)に学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において開催する第26回大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2002年2月8日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
表紙説明 地中海の水辺7
ヨルダン川/秋山学
ヨルダン川。旧・新約聖書を通じ,この川をめぐって幾多のドラマが展開されてきた。『創世記』では,ヤコブが「かつて一本の杖をたよりに渡った」この川の岸辺に,「二組の陣営を持つ」までになって戻ってくる(創世32)。またイスラエルの民を率いて出エジプトを敢行したモーセは,ついにこの川を渡ることができず,東方にあるネボ山山頂から「乳と蜜の流れる」西岸の土地カナンを見渡したのちに没している(申命34)。彼の後継者ヨシュアは,その民すべてとともにこのヨルダン川を渡るが,「契約の箱」を担いだ祭司たちの渡河の際,「川上から流れてくる水は,壁のように立った」とある(ヨシュア3)。さらに預言者エリヤは,弟子のエリシャを連れてこの川岸に至り,「外套を脱いで丸め,それで水を打つ」と,水は左右に分かれ,二人は渡河する(列王下2)。この記述は「葦の海の渡河」(出エジプト14)を想起させる。そしてまもなく,エリヤは火の車に乗って「天への道」を駆け登る。弟子のエリシャはエリヤの霊を受け継ぎ,アラム王の軍司令官ナアマンの皮膚病を知って「ヨルダン川に行き七度身を洗う」ように命ずると,ナアマンは癒される(列王下5)。
このヨルダン川で,「水による洗礼」を授けていた洗礼者ヨハネから,イエスは洗礼を受ける。彼が「水の中から上がるとすぐに天が裂け,〈霊〉が鳩のように」イエスの上に下る(マルコ1)。この「主の洗礼」は,東西教会において祝日(大祭)の一つとされ,新年早々に「神現祭」(公現祭/洗礼祭)として記念される。今月号でご紹介するのはこのイコンである(17世紀,モスクワ派;イコンはドン・ボスコ社のご厚意による)。
天上からは,鳩の姿をした聖霊が地上へと真っ直ぐに遣わされ,川床に立つイエスの上に降り注ぐ。そこから放たれる三条の光は,三位一体を象徴的に表す。聖霊を表す鳩は,『創世記』の洪水物語の中で,水が引いたのち「くちばしにオリーブの葉をくわえて」ノアの許に戻り,和解と刷新を意味する動物である(創世8)。洗礼者の衣は,かつてエリヤがまとっていた衣を想起させ,イエスの洗礼が救いの「道」となることを暗示する。さらにこのエリヤによる渡河は,「葦の海の奇跡」とともに,「主の洗礼」が死の克服と真なる生命の獲得を意味することの予型である。また傍らに佇む天使たちの手はみな覆われているが,これは聖なる方との接触を控えることを意味し,畏敬の念を表す。そして祝福の指遣いを示すイエスの右手が中央部に描かれることにより,救い主の洗礼は,世界に広がる「水」の聖化を意味する行為として描かれているのである。
聖ラマダーン月と戦争,酒,レストラン
飯塚 正人
イスラーム暦の9月である聖ラマダーン月に,ムスリム(イスラーム教徒)が断食をしなくてはならないことは,イスラームの知識に乏しい日本人にも比較的よく知られた事実と言えるだろう。加えて幸か不幸か,昨年9月に米国で起きた同時多発テロ事件とその後の「対テロ戦争」は,世界中の関心をラマダーン月に引きつけることとなった。
ラマダーン月に入っても米軍がアフガニスタンへの攻撃をやめなければ,14億のムスリムは侮辱されたと感じ,「対テロ戦争」が文明間の衝突,宗教間の衝突に発展しかねない。だから,ラマダーン月が始まる見込みの11月15日前後には攻撃を終わらせなくてはならない。そこから逆算すると,米軍の開戦日は10月の第1週になる……といった具合の予測報道を通じて,新聞にテレビにラマダーンの文字が頻繁に踊った。幸いラマダーン月に入るのと相前後してカーブルは陥落し,以後は北部同盟とターリバーンというムスリム同士の戦闘を前面に押し出した形の報道が可能となった結果,ラマダーン月の空爆が他国のムスリムを刺激するような事態は回避されたが,いずれにせよ,一連の報道でラマダーン月がいよいよ有名になったことだけは確かである。
さて,よく知られているように,聖ラマダーン月の斎戒(サウム)は,夜が白み始めてから日没までの間,一切の飲食と性行為を絶つ。ムスリムにとっては信仰告白,1日5回の礼拝,年に1度の喜捨に次ぐ第4の義務である。しかし,この月に異教徒である米軍が攻撃を続けた場合,世界中のムスリムを刺激する恐れがあると報じられた理由は,実は斎戒とは何の関係もない。問題はむしろ,ムスリムにとっての神のことば『コーラン』の成り立ちに関わっている。『コーラン』自身が述べるところによれば,「ラマダーンの月こそは,人類の導きとして,また導きと(正邪の)識別の明証としてコーランが下された月である。それゆえあなたがたのうち,この月を家で迎えた者はこの一ヶ月間,斎戒しなくてはならない。ただし病人と旅人は,後で同じ日数を(斎戒する)」(『コーラン』2章185節)。
つまり,ラマダーン月が聖なる月とされるのは,この月に初めて聖なる『コーラン』が預言者ムハンマド,ひいては人類すべてに下されたという「事実」に起因している。よって,この月は神を讃え,貧者を思って断食するだけでなく,たとえば争いごとを最少限に留める努力もまた要請される。個人的な経験になるが,10年ほど前,長期滞在先のカイロでラマダーン月の日中,マイクロバスの運転手に追突されたことがあった。この時はバスの乗客が次々に降りてきて「ラマダーン月だから喧嘩はやめろ。許してやれ」と口々に訴え,結局こちらが泣き寝入りする羽目になった。このように,「聖ラマダーン月は争うべからず」という意識が強いなかで,異教徒の米軍がアフガニスタンへの空爆を続ければ,それはイスラームの聖性に対する冒涜と受け取られかねない。ラマダーン月の攻撃は避けるべしとの議論は,こうした事情に配慮したものだったと言えるだろう。
ところで,エジプトは憲法でイスラームを国教と定めているものの,政府はあまり宗教熱心ではない。ただ面白いことに,ラマダーン月に限って「レストランやホテルでエジプト人に酒を出してはならない」という法律がある。この法律は1990年代前半に定められたものだが,外国人であればムスリムでも酒が飲める一方,エジプト人というだけでキリスト教徒まで飲めないのはおかしいという批判が,特に飲んべのエジプト人から寄せられている。実際,飲んべに生まれてしまったエジプト人ほど不幸な人間も珍しい。外国産のウイスキーなどは高価で手が出せないし,国産のそれは一歩間違えば命に関わる。そのうえ,ラマダーン月には外で飲むビールまで奪われてしまうのである。このため,ラマダーン月にエジプトに行く私の荷物はいつも土産の酒でいっぱいということになる。
とはいえ,エジプトでは日没過ぎれば外食産業が花開く。ラマダーン月は盆と正月が一度に来たようなもので,ふだんは外食する資力がない人々も外に出るため,レストランは夜通し大賑わいなのである。ところが,1年前10年ぶりに訪れたカサブランカでは,ラマダーン月の一ヶ月を休んで店内改装などに当てている店が多かった。どうやらモロッコでもラマダーン月のムスリムによる飲酒は御法度らしい。そして,たぶん酒なしでは商売が成り立たないために,特に地中海と大西洋の魚介類を扱うレストランはことごとく休業になってしまう。ラマダーン月のカサブランカにだけは決して来てはならない。灯の消えたシーフード・レストランの前で呆然と立ち尽くしつつ,しみじみ思ったことであった。
秋期連続講演会「地中海遊歴 II」講演要旨
ベラスケスとイタリア遊学
──古代への感興──
大高保二郎
スペイン美術はその地理的,歴史的環境からしてイタリアとの縁が深い。後期ルネサンスを学んだギリシア人エル・グレコやナポリで活躍したリベーラ,私費で留学したゴヤ,彼の地で新古典主義に開眼したピカソ等が思い浮かぶ。とりわけベラスケス(1599〜1660)は二度のイタリア遊学を通して,芸術上の問題ばかりか,その人生に対しても決定的な痕跡を留めることになった。ここでは遊学の意義と,当時の作品について概略を要約してみよう。
第一次イタリア遊学(1629年6月末〜1631年初頭)は30歳の時で,美術の研鑽が最大の目的であった。「偉大な作品を見」(パチェーコ),「遠近法と建築術を学び」(ジュセッペ・マルティネス),「絵画を完璧なものにする」(マドリード駐在パルマ大使)ためである。この最後の書簡では,「実は情報収集者で職務はスパイであり……国王の居室で描き,肖像画を専門とし……国王は彼が絵を描くところを見学するのを常としている」と注目すべき報告を残している。また岳父パチェーコによれば,ローマ滞在の約1年間を初めはヴァチカン宮殿内,その後ピンチョの高台にそびえるメディチ家の別荘に逗留を許され,絵画や模倣すべき最高の古代彫像を学んだという。当時この別荘には天文・物理学者のガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)も寄寓しており,二人が会った可能性は極めて高い。
ローマでの制作で現存するのはわずか二点にすぎない。しかし帰国後の≪十字架上のキリスト≫や≪シビラ(画家の妻?)≫,離宮ブエン・レティーロのための騎馬像連作とか大作≪ブレダの開城≫(以上,すべてプラド美術館)にも遊学の成果はうかがえよう。均衡ある人体のプロポーションやゆったりした空間構成,豊かな色彩や空気遠近法がそうだが,古代やルネサンスの騎馬像の研究も忘れなかった。イタリア体験はセビーリャ育ちの一地方画家を洗練された,より普遍的なスタイルのバロック的巨匠へ転身させたのだと言ってもよい。
それから17年後の1648年11月,宮廷を発ちアンダルシーアへ。翌49年1月末,港町マラガから船出して二度目のイタリア遊学が始まる。今度はアルカーサル(王宮)を飾る古代彫刻の獲得という公的な使命があった。画家としては成熟の域に達しており,聖ルカ・アカデミーの会員に推挙され,パンテオンの名人美術家会のメンバーにも選ばれ,その記念に助手フアン・デ・パレーハの肖像が公開展示され,絶賛を博したという。誇らしいサインがある肖像画≪教皇イノケンティウス十世≫は,1650年という聖年にあって,この異教の都での画家としての勝利宣言のように映るであろう。しかも,8年後に始まるサンティアゴ騎士団入団審査に際しての支援すら約束させている。問題は二点の風景画小品と≪鏡のヴィーナス≫の制作時期である。近年のベラスケス研究は,二点の風景画は技法と科学的調査から第一次イタリア遊学中,≪鏡のヴィーナス≫は,同作が帰国直前の1651年6月1日のさる貴族の財産目録に記載されているところから,イタリア遊学に旅発つ以前,に傾きつつある。しかし,これらの根拠は必ずしも説得力があるとは思えない。
制作の動機から検討してみよう。グロッタの扉口が板塀で閉ざされているのは1649年2月から8月(ベラスケスは5月にローマに到着),そこに彫刻を展示するためのグロッタの工事中だからであり,その情景を一種の記録として描いたのではないか。もう一点の方(図)は,当時そこを飾っていた古代彫像≪眠れるアリアドネ,通称クレオパトラ≫(当時はこのロッジを“大理石のクレオパトラ”と呼んだ)に感銘を受けたからに違いない。はるか遠景にはボルゲーゼ宮殿が一部見える。ベラスケスはこれの模刻を作らせて持ち帰っているが,そうした古代への感興が≪鏡のヴィーナス≫という名作を生んだのであろう。それにしても,この後ろ姿の裸婦の生々しさは彼女との間に男児をもうけたイタリア女性をモデルとしているからであろうか。
イアソンの王国
──ヴォロス,ディミニ,ペリオン──
込田 伸夫
神話でイアソンは,金羊毛を求めて黒海の果てコルキスへとギリシアの勇士を率いて遙かな冒険の旅に出る。イアソンの王国イオルコスは,街の西端にある遺跡などから今日のテッサリア地方ヴォロスが有力視されている。ヴォロスはパガシティコス湾の奥に位置する人口およそ8万人の工業港湾都市で,海岸通りにはブロンズ製のアルゴー船が飾られていて,伝説の勇士達の記憶を留めている。港をぶらついていて意外に思ったのは,この小さな地方都市の貧弱な港(失礼!)に,外国航路であるラタキア行きの船が停泊していたことであった。しかし考えてみれば,中東は古代からギリシアとは深い結びつきがあった。神話にも小アジアから来てピーサの王国を継承したペロプス,ボイオティアで町を建てたフェニキアの王子カドモス,リビアから50人の娘を連れてギリシアに移り,アルゴスで王位を譲られたダナオスなどの話もあり,中東とギリシアとの古くからの交流を物語っている。
ヴォロス近郊にはディミニとセスクロの新石器時代の遺跡があるが,現在ヴォロスを含むテッサリア地方には約400の新石器時代の遺跡が確認されている。これはペネイオス,エニペウスなどの河川や,ヘロドトスの記述にもある,かつてテッサリアに存在した湖沼などが肥沃な平野を形成し,ここに高度な文化をもった人々の集落が営まれていたことを示している。これらの人々は,農業の伝播経路から彼らの故郷の文化と共に,栽培用に改良した小麦や大麦などの穀類と家畜化した羊や山羊などを伴って,中東・アナトリア方面から海を渡ってテッサリア地方に移住してきたと考えられている。アナトリアのチャタルフユックとテッサリア出土の土偶との著しい類似などもこの説を裏付けるものであろう。
ヴォロスの西6.5kmにあるディミニは,かつては遺跡付近まで海が入り込んでいたと推定されることから,テッサリア地方の陸路と共に,東地中海を結ぶ海上交通の拠点としても長い間繁栄を享受していたと考えられる。さらに北ギリシアでは数少ないミケーネ時代のトロス墓なども残っていることから,ディミニを伝説のイオルコスとする見方もある。なだらかな丘の上にあるメガロン跡からは,ペリオンの山並とヴォロスの町,そしてきらきら光る海が見え,静寂があたりを包んでいたのを思い出す。
イアソン所縁のペリオン山には多くの村が点在するが,そのひとつマクリニッツァへはヴォロスから曲がりくねった急な山道をバスで登ること約1時間である。村の中へはバスや一般車両の乗り入れが禁止されているため,バス停から10分程歩くことになる。独特の家並をもつこの村には,小さな教会と泉のある広場があり,幹の太さが2mを越える巨大なプラタナスが見事な枝を広げて人々の憩う広場を見おろしていた。広場の裏手には大樹が鬱蒼と繁る小径があり,周囲の岩から湧き出した冷たい水が心地良い響きをたてて石畳を濡らしていた。ここは先程までいた,うだるような暑さのヴォロスとは別世界であった。標高750mにあるせいか気温は20℃位で,ギリシアの夏の猛暑に慣れた身には肌寒くさえ感じられ,ザックから長袖シャツを取り出したのを覚えている。
イアソンにまつわる伝説は,トロイ戦争以前の世代のギリシア神話の中でも最も古い層に属するものとされる。またマケドニアやテッサリアには印欧語系の地名が多く残存することからも,北方から騎馬戦士として侵入してきた印欧語族の記憶が,ケンタウロスに反映されたのかもしれない。ついでながら私が村で探したこぢんまりしたホテルは,その名も「ケンタウロス」であった。ギリシア屈指のハーブの産地として知られるペリオン山は,古代に既に多くの薬草がある地として言及されていたように薬用植物が豊富で,これが医神アスクレピオスに医術を授けたケイロンの話になったのであろう。ペリオン山と関係するアローアダイの伝説も,侵入してきたゼウスを主神とする印欧語族と先住民族との抗争を表わしたものではないだろうか。
清冽な湧き水に恵まれ,大きな樹木に覆われてホメロスが「木の葉の揺れる」と歌った緑豊かなペリオンは,アルゴー船を建造した木材が切り出され,ペーレウスとテティスが結婚し神々がその祝宴を催し,イアソンやアキレウスがケイロンから教えを受けた所としてまことにふさわしく思われた。広場のテラスから茜色に染まりつつあるヴォロスの町と湾を眺めながら,私は暫しの間,神々と英雄達の織りなす世界へと思いを馳せたのであった。
オックスフォード便り
師尾 晶子
1年間の予定でオックスフォードに来て,ちょうど折り返し点をまわったところ。すでに木々の一部は色づき,半年間の季節の移り変わりを感じさせられている。
4ヶ月近い夏休みを経て,10月第2週から新学期。急にあわただしくなってきた。いわゆるvisiting
scholarとして滞在しているものの,四つの授業をかかえて大学院生のように過ごしているというのが実態であろうか。
先学期は来たばかりということに加えて,学年の途中から入ったということもあり,続き物の授業の最後に緊張しながら飛び込んだという事実は否めなかったが,今学期は新学年の始まりということもあり,皆足並みをそろえてということで,ずいぶん気楽に参加している。
具体的には,Documentary papyriとGreek epigraphyのクラス(いわゆる日本のゼミで10人弱),Greek
coinage(レクチャーだが限りなくクラスに近いレクチャーとは担当者の弁,コインルームでおこなわれるため,定員制で10人弱),それにAncient
Historyのセミナー(今回はアナバシスがテーマ。大学院生と言うよりもむしろ数多くのスタッフが参加していて総勢50人以上の出席者をかかえる錚々たるもの)に出席。ここの授業の特色は,とにかく資料を見てさわって学べること。アシュモリアン博物館所蔵の壺,碑文,コインにふれて重さや質感を感じることができるのは,なんて贅沢なのだろうと思ってしまう。と同時にその姿勢に近代科学の伝統を感じずにはいられない。実物を見る,筆写・記載する,ディスカッションする,すべての基礎にこれがある……コンピュータに頼って自身の手を使っての記載を忘れつつあった我が身としては,原点に立ち返るいい機会ともなっている(そう思ってNatural
Historyの博物館であるUniversity Museumを見学すると,19世紀的なコレクションと分類にもとづいた陳列に大英帝国の学問の源をあらためて感じることにもなり,生物を見ないでDNA配列だけを見てよしとする昨今の先端科学との対比もまた痛感させられる)。
先学期出席していたGreek vasesの授業では,毎回テーマの壺をいくつか実際にさわり,裏も表もくまなく見る機会を得た。いわゆる素焼きの焼き加減(意外に軽い,怒られるかもしれないが安っぽくもある)を体感できたのは何よりで,ギリシア人の器に対する態度を考えるときにも実は重要なことではないかと思った。コインの場合には,逆に金,銀の重さをずっしりと感じさせられている。ペロポネソス戦争末期に鋳造された金貨,銅貨を手にしたときには特別な思いもわき,中国の刀貨,貝貨を手にしたときは妙になつかしさも感じてしまった。
碑文の授業では,校訂テクストのリーディングではなく,石に書かれた文字をそのまま読みとりテクストになおす訓練,要するにテクストの校訂作業のノウハウを知ることに重点が置かれている。まもなく各自石を与えられてテクストをつくり,リポートする機会が与えられる予定である(パピルスの授業も同様。ただ今はまだ導入部分でパピルス自体のリーディングには入っていない)。実は今回Centre for the Study of Ancient Documentsに招聘状をお願いしたこともあり,私自身はsqueeze(石の陰影をとった紙,いわゆる拓本)を読むテクニックを学ぶことを第一義に考えてきた。実際,先学期は授業以外にsqueezeを読むトレーニングを個人的に週1回受けることができた。テクストの編纂者がどこまでを読めたと判断しているのか,校訂テクストをどの程度信頼してよいのか,その判断基準を自分なりに獲得する上でも有用だったと感じている。現在は特定の碑文の分析に取り組んでいるため,トレーニングはとりあえず終了している。
ここの特徴はとにかく対面社会であるということ。こちらから話をすれば実に皆親切に対応してくれ,実際にこちらの話にも興味をもってくれる。日本で一人悶々と悩み,正面から踏み込めなかったデロス同盟期の決議碑文の刻文年代の問題にしてもこちらに来てようやく焦点を定めて取り組む決意ができた。先述の碑文とは「ミレトス決議」(IG I3 21)のことで,CSADのCharles Crowtherの協力を得ながら仕事を進めている最中。セミナーで対面することのできたGeorge
Cawkwell(第1回目の報告者)は,私の仕事に関心を持ってくださり,彼の自宅の書斎で私の考えを話し,アドバイスを受ける機会をも得た。うれしい反面,大変なプレッシャーでもあり,仕事を投げ出すわけにはいかなくなったというのが感想でもある。同時に,いつも言われるのは,こちらの雑誌に投稿しなさいということ。頷くは易し。仕事はそう簡単には進まず,マイペースはくずせない。いずれにせよ,ここでのディスカッションはすでに山ほどの宿題をも生み出しており,帰国後しばらくは宿題の整理に追われるだろう。楽しくもあり,おそろしくもあり,である。
標章(impresa)の旅
吉澤 京子
今年の夏は縁あってスコットランドのグラスゴーに滞在し,秋からフィレンツェに来ている。イタリア美術史に携わっている筆者がなぜグラスゴーかというと,グラスゴー大学にスターリング・マックスウェル・コレクションを核とする,世界的にみても最大規模のエンブレムブックの収集があり,これをめざしたためである。
筆者が当面の研究テーマとしているのは,16世紀イタリアの「標章図集」である。標章(impresa)とは,図像とモットーを組み合わせた表現形態で,一般的にエンブレムに類似するジャンルとみなされているが,特定の人物とくにその人の考えを表す「しるし」である点が,普遍的なモラルを伝達するエンブレムとは異なる。それらを論題として扱う標章論,あるいは挿絵として標章図を集めた書物は,16世紀半ばのジョーヴィオの『戦いと愛の標章についての対話』を端緒として,17世紀を通じて数多く出版された。ところが不思議なことにこの分野の研究は欧米においても立ち遅れており,プラーツが『綺想主義研究』の一章をこの分野にあてているのと,その他の若干の研究を別とすれば初めてと言っていい包括的な論文が,昨秋,『エンブレマティカ』誌に発表された(D.
Caldwell, "Studies in Sixteenth Century Italian Imprese,"
Emblematica,
11(2001), 1-257)。
Caldwellの論文は,ジョーヴィオからテザウロに至るイタリアの標章論を写本をふくめて網羅するばかりでなく,標章が宮廷での知的遊びの対象となっていたことを示す資料や,多くの標章論が生まれる土壌となったイタリア各地のアカデミアについての浩瀚かつ緻密な考察を含んでおり,これを越えるものは当分の間出ることはないであろう。しかし著者自身が冒頭で述べているように,同論文の主眼はジョーヴィオ以降の標章論に限定されているため,15世紀から存在していた標章そのものは単なる現象とみなされ,特に図像学的な考察はなされていない。さらに,impresaをイタリア固有の現象とする著者の一貫した見地から,イタリア以外で成立した著作(例えばパラダンの『英雄的ドヴィーズ集』など)は対象から外されている。また,個々の標章図集・標章論の扱い方には,疑問に思わざるをえない点もある。例えばバッティスタ・ピットーニの『著名人標章集』(1562年)について,表題と献辞にピットーニの名が明記されているにもかかわらず,Caldwellはこの本を,標章のエピグラムを書いたルドヴィーコ・ドルチェの著作とし,ピットーニは単なる挿絵画家とみなされているのである。ましてや,本書の標章図を取り囲む丹精こめられた装飾ボーダーが,美術史上きわめて興味深い伝統の上に成り立っていることなどは,ふれられていない。ここに,標章のみならずエンブレム研究の空白地帯とでもいうべきものがあるように思えてならない。エンブレム研究者の多くが,主として文学や哲学の専門家であるため,その関心は絵よりも文字の部分に集中するというわけである。
余談になるが,スコットランドでみやげもの屋に入ると,マフラー,ポストカード,はてはマグカップまで色とりどりのタータン柄をあしらった品物を目にするが,それらには「マクドナルド」「キャンベル」などの氏族(クラン)の名札がついている。クランによって色と柄が決まっているからであり,地元では自明なのだが,新世界に移民した人々の子孫がルーツを求めてやって来たときに,自分の名字に対応するクランのタータンを探す便をはかってのことらしい。6月の卒業式シーズンになると,正装した学生と保護者たちをキャンパス周辺でよく見かけたが,キルトは男性が着用するものなので,父と息子が同じ模様のキルト姿で歩いているのが,異邦人の目には珍しかった。
クランにはタータンと並んで「クレスト・バッジ」が定められている。バッジの中央には動物などの図像があり,モットーを記した帯状の輪で囲まれている。見た目は標章図と似通っているのだが,使い方の点では,個人よりも家・血統に強く結びついているので,紋章の一種といえる。側聞するところでは,かつて英国の陸軍連隊は領主の私兵が集まったもので,スコットランドの連隊の場合,その制服や徽章には領主のタータンとバッジが用いられ,今なおその伝統が残る場合があるのだという。ここで思い出されるのが,15世紀末,イタリアに侵攻したフランス軍の服装が,イタリアで標章が流行する端緒となったと書いたジョーヴィオの一文である。「このインプレーサは,中隊ごとに異なった軍服に身をつつんだ騎士たちの上で輝いていた。彼らは(中略)胸部と背部に各々の隊長のインプレーサを縫いつけていたからである。こうして,兵士たちの徽章が優雅で品格あるスペクタクルを生みだし,戦闘にさいして各々の中隊の勇敢さと振る舞いについて識別しえたのである(プラーツ『綺想主義研究』(伊藤訳)より)。」現象としてみた場合,スコットランドの連隊のタータンやバッジの慣習を,このような伝統の末裔ととらえることもできるかもしれない。
標章の系譜を,ヴィジュアルな現象の一続きの流れとしてたどることはできないものだろうか。そんなことを思いながら,美術館や建築装飾に標章図を探す旅はまだ始まったばかりである。
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