地中海学会月報 245
COLLEGIUM
MEDITERRANISTARUM
2001|12 |
学会からのお知らせ
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第7回「地中海学会ヘレンド賞」(第6回受賞者:秋山学氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円)が授与されます。授賞式は第26回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は,その事業の一つとして「ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2002年1月9日(水)〜2月11日(月)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
*第26回大会研究発表募集
来年6月22日〜23日(土〜日)に学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において開催する第26回大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2002年2月8日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
*1月研究会
テーマ:19世紀イタリアの建築と日本
──ボイトからカッペッレッティへ
発表者:河上 眞理氏
日 時:2002年1月19日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
1876年,工部美術学校の教師として,アントーニオ・フォンタネージ,ヴィンチェンツォ・ラグーザとともにイタリア王国から招聘された,建築家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティが日本で建てた《遊就館》及び《参謀本部》といった建築を19世紀イタリアの建築をめぐる状況の中で考察する。カッペッレッティの建築には,彼がミラーノ美術学校で建築家形成を行った時代におけるカミッロ・ボイトの美術,建築観がかいま見られるだろう。
*会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2002年度会費からの適用分です)。また,今年度会費を未納の方には,11月末に月報に同封して振込用紙をお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,新入会員の方には「口座振替依頼書」を月報前号(244号)に同封してお送り致しました。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,会費請求データは学会事務局で作成し,個人情報は外部に漏れないようにします。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
2002年2月22日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2002年4月23日(火)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
事務局冬期休業期間:
2001年12月27日(木)〜2002年1月7日(月)
表紙説明 地中海の水辺6
マルタ大包囲/宮下規久朗
イタリア半島の先に浮かぶ小さな島マルタは,先史時代からフェニキア,ギリシア,ローマ,ビザンチン,アラブと,様々な文明がその足跡を残したが,特に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の島として知られる。12世紀にエルサレムで設立されたこの騎士団は,正式には「エルサレム聖ヨハネ看護騎士修道会」といい,十字軍活動や聖地巡礼を支援する病院活動を主としていたが,やがて対イスラム教徒の軍事活動に重点を置くようになった。エルサレム陥落後は,1291年からキプロス島,1309年からロードス島に拠点を移し,そこが1522年にスレイマン大帝の派遣したオスマン・トルコ軍によって陥落すると,1530年にカール5世からマルタ島を与えられて移り住んだ。その後,1798年にナポレオンに島を追われるまで,キリスト教最前線の守備防衛隊として,ヨーロッパ中から名門貴族の子弟を集め,教皇庁からも数々の特権を付与されて,大きな尊敬と信望を集めた。マルタ島と騎士団の歴史はしかし,決して平坦なものではなかった。
マルタ史上最大の事件であり,騎士団が直面した最大の危機は,1565年のマルタ攻防戦,いわゆる「大包囲」である。1565年5月,スレイマン大帝はイタリア攻略の足場としてこの島に注目し,4万人の兵と2千隻の軍艦からなる大艦隊を送った。これを迎えたマルタ側は,540人の騎士に千人のスペイン兵,4千人あまりのマルタ人に過ぎなかった。スペイン王フェリペ2世は援軍派遣を約束したが,その準備に手間取り,結局9月まで到着しなかった。マルタが陥落するのは時間の問題と思われたが,騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレット率いる騎士たちはよく戦い,援軍到着までの4ヶ月間を何とか持ちこたえたのである。中でも最大の山場は,戦略の要衝と目された聖エルモ砦の攻防戦で,トルコ側は3日もあれば攻略できると見なしたにもかかわらず,わずかな騎士たちは敵を手こずらせて1ヶ月も死守し,トルコ側は約5分の1の兵力を失ったという。結局,幾多の惨劇と英雄譚を生みつつ,数千人の戦死者という犠牲を払って勝利した騎士団は,西欧中から称賛され,大いに名声を高めたのである。その後ただちに島の復興が進められ,聖エルモ砦のあるセングレア半島には,騎士団長の名をとってヴァレッタと名づけられた堅固な要塞都市が建設された。周囲を堡塁で固めたこの都市の市街は,世界最古といわれるマルタの巨石神殿群や地下墓地群とともに,1980年,世界遺産に指定された。
表紙は,手前にいるトルコの将軍ムスタファ・パシャの隊列が,半島の先に見える星型の聖エルモ砦への攻撃を開始した情景である。作者はローマでミケランジェロのシスティーナ礼拝堂装飾の助手を勤めたという画家マッテオ・ペレス・ダレッチョ(1547〜1628)。攻防戦の記憶も生々しい1576年に来島して5年間滞在し,新たに建設された騎士団長宮殿(現在マルタ共和国国会議事堂)の大広間に,マルタ包囲の情景12点の壁画を描いた。
研究会要旨
死と情念を巡る対話
──ニュッサのグレゴリオス『魂と復活について』──
柳澤 田実
9月29日/上智大学
古代末期のギリシア教父ニュッサのグレゴリオス(335〜94/95)は,379年から380年にかけて,彼の人生に決定的な影響を与えた二人の人物,兄聖バシレイオスと姉マクリナの死を体験した。『魂と復活について』(De anima et ressurectione)は,バシレイオスに先立たれたグレゴリオスが,不治の病に冒され,今日にも逝こうとしているマクリナと行った対話である。この対話の冒頭においてグレゴリオスは,肉親の死によって喚起された悲しみや恐怖といった情念(pathos)を吐露し,キリスト教の教義(dogma)である「復活」を退ける。本書は,教義として提示された「復活」を退けるほどに諸情念に囚われたグレゴリオスが,「死」と「復活」に関する理解を自らのものとしてゆく道程として読解することができる。
グレゴリオスとマクリナによる対話には,随所に情念に関する議論が組み込まれ,それが結果的に本筋である復活論と密接に連関している。情念は,冒頭の悲しみの吐露のみならず,本書全体を通じて重要な主題として提示されているのである。グレゴリオスが,マクリナの口を通して明らかにしている情念理解は両義的である。すなわち情念は中立的なものであり,自由選択意志による善用によれば,人間が美の原型である神を求め,自らがより善い美しい者になるために非常に有用な,極めて肯定的なものだとされている。しかし同時にそれは,あくまでも魂にとって非本来的な付加物であり,知性による滅却や,死後の浄化によって完全に無化されるべき否定的能力だとされてもいるのである。
前者の肯定的理解とは,神の像として造られた人間の被造性に基づいた,キリスト教的な情念の陶冶論である。情念は人間の魂の衝動(horme),運動(kinesis)として定義され,この諸情念は,「希望(elpis)」(cf.『テサロニケ信徒への手紙・』4,13)を媒介して神への欲望(eros/epithymia)へと回収され,人間がより良きものへと変容するために機能するとされる。このような欲望は,復活後の生においては神への愛(agape)へと変容する。そしてこの愛は,最早情念とは呼ばれず,原型である神に対してその似像である人間が本来的に有する純粋な志向的運動だとされている。
後者の否定的理解において,情念はあくまでも浄化(katharsis)によって滅却されるべきものだとされるが,これはプラトンの『パイドン』における情念理解を,キリスト教的に改変したものであると考えられる。そもそも本書は,死に逝く者との魂の不死を巡る対話篇であるという意味において『パイドン』に酷似している。『パイドン』において浄化は,知性による哲学(philosophia)によって実現されるものであるが,これは本来の死と類比的な「死」であるとされる。すなわこの情念における死は,ソクラテスという他者の現実的な死に対峙する者に要請される擬似的な死なのである。グレゴリオスもプラトンと同様に,情念からの浄化を,知性の行使によって実現されるものとして言表し,マクリナという他者の死が要請する擬似的な死として位置付けていると考えられる。
以上の情念の持続的陶冶と浄化,いわば「情念における生」と「情念における死」との接合によって,グレゴリオスの情念論は成立し,復活論そのものと並行をなしている。情念の肯定的理解に基づく陶冶論は,情念と愛の志向的運動としての連続性を主張するが,その連続性においても,情念から愛への転換点には,ある種の非連続が想定されている。浄化が要請されるのは,この情念が愛へと変容する転換点においてである。死,及び第二の死である死後の浄化を経ることによってのみ復活,新たな生が成立するように,情念からの解放,浄化を経て,神への完全な愛は実現されるのであり,その愛の実現こそが実際の復活の状態に他ならない。そして,このような死と復活の弁証法的ダイナミズムによって語られる情念の陶冶論は,グレゴリオスの晩年の著作においては,イエス・キリストの死と復活への参与(metousia)として言表されるようになるのである。
情念における死と復活は,あくまでも本来の「死」と「復活」の類似物に過ぎないものである。しかし,この両者は,その目指すところである完全なる「愛」と「復活」の状態が限りなく一致していることからも分かるように,極めて緊密な類比関係を有している。グレゴリオスは,情念の浄化と陶冶という,自己自身の擬似的な死と復活への参与を通じてのみ,教義として語られる全ての者の「死」と「復活」の理解へと限りなく接近することができると考えたのではないだろうか。そしてこのように情念を介して「死」と「復活」を理解する端緒として,最も痛烈な情念を喚起する近しい者の死が定位されていたと考えられるのである。
マティスとピカソと地中海
高階 秀爾
アルプスの山脈は、ヨーロッパの文化史の上でも大きな役割を果たして来た。「君よ知るや南の国」というよく知られたミニヨンの歌を引き合いに出すまでもなく、ゲーテをはじめドイツ、フランス、イギリスなど、アルプスの北の詩人や芸術家たちは絶えず地中海の明るい陽光と古代以来の豊かな芸術遺産に惹かれていたし、その芸術家たちの交流、商人や外交官たちの往来、あるいは作品の移動を通じて、古代ギリシア・ローマの文学、思想、芸術は西ヨーロッパの歴史に決定的な影響を与えた。
それと同時に、アルプス連峰によって隔てられた北と南の大きな差異も明確に意識されるようになって来た。スタンダールは、1817年に刊行した『イタリア絵画史』のなかで、北と南の風土の違いから、それぞれの地域に住む人々の感受性が異なることを指摘し、それが芸術表現にどのように影響するかを論じた。それよりさらに以前に、ゲーテは『若きヴェルテルの悩み』において、あくまでも澄み切った晴朗なホメロスの世界とはまったく違う、暗い霧に閉ざされたオシアンの幻想的世界の魅力を語っている。特に絵画の領域においては、視覚体験の持つ意味が直接的であるだけに、風土との関連は無視することができない。微妙な光の変化をこまかい筆触の併列によって捉えようとしたモネやシスレーの印象派的手法がつねに靄に覆われているようなイル・ド・フランスの風土のなかから生まれ、明確な形態を主張するセザンヌの幾何学的構成が南フランスの明るい空の下で形成されてきたことは、これまでにもたびたび指摘されて来た。
とすれば、20世紀を代表する二人の巨匠マティスとピカソにおいて、地中海の鮮烈な色と光がその作品にどのような役割を演じたかは、誰しも興味を惹かれるところであろう。特に、スペインのマラガで生まれ、バルセロナで少年時代を過ごした後にパリに住みついたピカソが、北の国にやって来た南方の人であったのに対し、北フランスのル・カトー=カンブレジに生まれたマティスが南フランスに移り住むことによってあの強烈な色彩の世界を発見したことを思い出してみれば、その対比の妙とともに、芸術創造に対する風土の影響の大きさを改めて強く感じないわけにはいかない。
ともに長い生涯を生き抜き、旺盛な制作活動を続けたこの二人の巨匠の創造の軌跡を辿る絶好の展覧会が、今日本で開かれている。東京上野公園内の上野の森美術館で開催されている「ニューヨーク近代美術館名作展」がそれである。何しろそこには、絵画と彫刻とを合わせて、ピカソの代表的名品が11点、マティスの場合はさらに多く、18点もの作品が並べられているのである。しかもそれらの作品は、ピカソの《三人の音楽士》やマティスの《ダンス》をはじめ、普通なら絶対に海外貸し出しには応じないだろうと思われる秘蔵品ばかりである。
もちろん、ピカソ、マティスばかりでなく、その他の出品作も、ゴッホ、セザンヌからミロ、ダリ、モンドリアンを経て第二次大戦後のポロック、デュビュッフェにいたるまで、その内容はきわめて豪華なものである。これだけの貴重な名品の数々が日本に招来されるようになったのは、たまたまニューヨーク近代美術館が現在大がかりな増改築工事を行っていて、展示場が極度に狭められてしまったせいである。工事が完成してすべてが整備された暁には、これらの名作は収まるべきところに並べられて文字通り門外不出となるであろう。このような事情を考えてみれば、今回の催しはまたとない得難い機会だと言うことができよう。
生涯を通じてスペイン人気質を失わなかったピカソは、パリに移り住むようになってからもつねに地中海世界に憧れ、後半生はもっぱら南フランスで生活するようになった。アンティーブやヴァロリスなど、コート・ダ・ジュール海岸の町に彼の作品と思い出が数多く残されているのはそのためである。今回の展覧会でも、南仏の町ジュアン=レ=パンで描かれた《石膏像のあるアトリエ》が出品されているが、それと並んで興味深いのは、ヴァロリスに滞在していた時にさまざまの廃材を集めて作り上げた彫刻《雌山羊》が並べられていることである。どこかユーモラスな趣を湛えたこの作品に見られる豊かな生命力は、やはり地中海に触発されたものであろう。
北国出身のマティスの場合、地中海の影響はもっと歴然としている。彼があのフォーヴィスム時代の色鮮やかな名作を制作したのはコリウールにおいてであったし、今回出品されている《モロッコ人たち》は、アフリカの光と色彩に魅せられたマティスの卓越した創造力を示す貴重な秀作である。そして晩年のヴァンスの礼拝堂のためのデザイン下絵にいたるまで、地中海世界は彼の作品すべてにその存在を響かせているのである。
自著を語る25
カルロ・マリア・チポッラ著『経済史への招待』
徳橋曜訳 国文社 2001年4月 270+XXIV頁 2,900円
徳橋 曜
我々イタリア中・近世史の研究者は勿論,他の時代・地域を研究する歴史家にもチポッラの名前は(「チポラ」はまだしも,「チッポラ」と憶えている人もいるが)馴染み深い。筆者の認識ではチポッラはあくまでも経済史家で,文明史的な研究は彼の余技──というと過言だが,本業の傍らで蓄えた知識・関心を発揮した仕事だと思っていた。しかし今回の仕事で,少なくとも日本においては,チポッラの本領はむしろ後者だと捉えられていることが改めて分かった。ある歴史学事典では,「チポラ」の項目で「経済史学者」と説明しつつも,「ブローデル風の社会史的視点を含む多くの著作」を残したことが強調されている。実際,日本で翻訳されているのは,時計と文明だの読み書きだのペストと公衆衛生だのといったテーマの著作ばかりだ。まあ確かに,『リラの冒険』Le avventure
della lira(中世貨幣史の著作だ)なんて本では,購買者は限られよう。
そのチポッラ先生の『経済史学入門』である。翻訳の話を持ち込まれたときは,余りに古典的な書名(正直なところ,これでは売れそうにないので,邦題は『招待』に変えた)に少々驚いたが,原書の内容をざっと見ると,史料論が面白い。訳書のあとがきで強調したところだが,こういう史料論を核に据えた経済史学の概説は珍しいのだ。しかもチポッラほどの研究者の史料に対する考えを知ることができる。この史料論ゆえに翻訳を引き受けた。
というのも,史料論が日本ではやや不当に軽く扱われていると,日頃から感じていたからだ。史料そのものを論じることは,史料を使って研究することよりも一段軽く扱われがちだ。確かに史料そのものにのめり込んでしまうのは,歴史家の仕事を逸脱している。だが歴史学においても,実証研究の前置きとして史料を説明するのでも,単に紹介するのでもなく,それを利用する研究者の立場から体系的に史料を論じることは重要だろう。その意味でチポッラの史料論は刺激的だった。単に主要史料を時系列的に紹介しているのではない。史料の性格,その史料をめぐる逸話,史料としての有用性と欠点,それを利用する研究者の姿勢などを,時代とテーマで区別しながら概観してくれる。チポッラほどの「大家」でなければできないことだ。
他方,第一部の方法論には我々歴史家にとって耳の痛い批判が多々あって,翻訳作業の過程でしばしば急所を衝かれる思いをした。彼の姿勢は基本的にはオーソドックスな史料主義で,この十数年のテキスト論や「言語論的転回」をめぐる議論などには言及がない。しかし,かくも揺れ動く歴史学方法論のなかで自分のスタンスを確立しようとあがきながら,取り敢えず目の前の材料・テーマを料理することに追われてしまう身としては,チポッラの姿勢は頼もしくも眩しくも感じた。
と,ここまではチポッラを礼賛して,訳書のあとがきには書けなかった裏話を白状する。本書は実に刺激的で視野が広いが,この博覧強記が曲者。年号や固有名詞に関するチポッラ先生のチェックはときに杜撰(単なる校正ミスもあろう)なのだった。そうしたミスを数ヶ所も発見すると,総ての年号・人名等をいちいち確認せざるを得なくなる。確認作業のためにフランスの文書館にメールで照会したこともあった。笑えないことに,翻訳や内容の引き写しでミスがいかに踏襲されるか,チポッラは本文中で実例を挙げて説明しているのだ。
訳書では,判る限りで原書の誤りを訂正した。原文の表現を生かしつつ,日本語で別の文章を創作せざるを得なかった箇所も,実は一,二ある。学術的な内容を持つ一般書の翻訳は,「貞淑な醜女」でも「不実な美女」でも困る。文学作品ではないのだから,原書の誤りをそのまま訳した上で訳注をつけて説明しても,一般読者にとっては煩わしいだけだろう。だから,本書には少しばかり整形手術を施したが,内容的には誠実で,原書よりも正確である。また,見開きの左脇注は人文・社会科学系の一般書としては英断だったと思うし,若手の間では評判が悪くない。ところが,複数の年配の方々の指摘によると,注の字が小さくて老眼では少々見づらいらしい。実際に本になってみないと分からない問題点もあるものだ。
ともあれ裏づけ調査には苦労したが,お蔭でいろいろ調べて,知識も増えた。また歴史学の仕事や史料を改めて考えるいい機会になったし,方法論に苦心しているのは自分だけではない,と元気づけられもした。「自著」というのもおこがましいが,一応は満足のできる仕事が出来たと思っている。
駐日イタリア公使の写真アルバム
──『大日本全国名所一覧』──
高田 和文
今年6月,明治初期の日本全国の風景を記録した最古の写真アルバムが復刻され,『大日本全国名所一覧』として平凡社より出版された。このアルバムは明治10年(1877年)から14年(1881年)まで駐日イタリア公使を務めたバルボラーニ伯爵が母国イタリアに持ち帰ったもので,収められた写真の数は1,286枚にものぼり,それらが地域別に整然と並べられている。すべての写真に撮影地が記されていることなどから,この種のアルバムとしてはきわめて資料性の高いものとされる。
復刻版の監修に当たったのは,元東京外国語大学客員教授のマリサ・ディ・ルッソ氏と古写真研究家の石黒敬章氏である。私自身は,刊行に向けての最終準備段階でディ・ルッソ氏の依頼により解説の文章の翻訳を手伝うことになったのだが,このアルバムのことを知ってたいへん驚いた。ディ・ルッソ氏が故郷アブルッツォで偶然アルバムを発見した経緯も興味深かったが,アルバムの所有者であったバルボラーニ伯爵の存在にはさらに好奇心をそそられた。ディ・ルッソ氏は日伊双方の資料を駆使して,バルボラーニの外交官としての活動,また駐日公使としての活動を綿密に跡づけようとした。その成果は復刻版の氏の解説にある通りだが,このアルバムの発見を契機に浮上してきた問題は,明治初期の日本の情勢,当時の日伊関係,さらには明治天皇の外交儀礼など,かなり多岐にわたっている。他方,石黒氏をはじめとする古写真研究家は写真そのものの撮影場所や撮影時期,撮影者等の特定という重要な作業を進めた。いずれにせよ,このアルバムは現代の我々にさまざまな問題を提起しているように私には思われる。
バルボラーニが日本に滞在した頃,明治政府はその基盤をようやく固め,急速な近代化政策を推進しようとしていた。岩倉使節団が欧米に派遣されたのは彼が来日する数年前のことであり,政府はその視察結果にもとづいて着々と新たな制度を作り上げようとしていた。その一方で,西南戦争の鎮圧により,政府は旧制度の残滓を一掃することに成功した。そのような激動の時期に,バルボラーニはラ・トゥール,フェ・ドスティアーニに続いて三人目の駐日全権公使となった。
明治初期の日伊の外交関係が,イタリア側からの蚕卵紙の購入を目的として結ばれたことはよく知られている。その背景には,当時ヨーロッパで蚕の伝染病が蔓延し,イタリア北部ロンバルディア地方の養蚕業が危機に瀕していたという事情があった。バルボラーニが駐日公使を務めていた頃にも,在日イタリア人のかなりの部分をロンバルディア地方の養蚕業者が占めていたようである。しかし,この頃になるともう一つ日伊関係について特筆すべき出来事が起こる。いわゆる“お雇い外国人”として,イタリアの芸術家が招聘されたことである。すでに広く知られているように,画家のフォンタネージ,彫刻家のラグーサ,建築家のカッペッレッティ,版画家のキオッソーネである。彼らはいずれもバルボラーニが着任する直前の1875〜76年に相次いで来日し,彼の任期中に日本で活動している。これらの芸術家については,すでに日伊交流史上の重要なテーマとしてさまざまな研究が行なわれているが,駐日公使として彼らと同時代に日本に滞在したバルボラーニについては,アルバム発見を契機にディ・ルッソ氏が明らかにするまでは,その存在すら知られていなかったと思われる。
ディ・ルッソ氏によれば,在日中のバルボラーニは精力的な外交活動を展開した。とりわけ,イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の甥にあたるジェノヴァ公トマーゾ・ディ・サヴォイアの来日に際しては,イタリア王室の最高勲位であるアンヌンツィアータ大勲章を明治天皇に授与するなどして,日伊関係の緊密化に努めた。この頃のイタリアは,ようやくリソルジメントにより国家統一を成し遂げたばかりであったが,バルボラーニはすでに日本との関係強化やアジアへの進出を視野に入れて活動を展開していたようだ。バルボラーニがイタリア政府に送った報告書からは,当時の日本の対外政策や明治天皇及び政府要人たちの外交儀礼の実態をうかがい知ることができる。特にジェノヴァ公の滞日期間中は,外国の賓客に対する明治天皇の接見や宮中晩餐会などについて,詳細な記録を残している。
バルボラーニの活動の足跡をたどると,日伊両国の友好関係が意外なほど古くまでさかのぼることが分かる。しかも,一部の皇族や政府要人はイタリアに対して強い親近感を抱いていた。そうした背景から伊学協会(現在の日伊協会の前身)が設立され,さらにはそれが今日の日本人のイタリアへの関心の高まりにまでつながっているとのディ・ルッソ氏の指摘は興味深い。
このところ明治初期の写真への関心が高まっていると聞く。それはおそらく,電子メディアの急速な普及と無関係ではないだろう。連続する映像や動画の撮影を可能にしたデジタルカメラやビデオの登場によって,かえって一瞬の映像を定着させる写真というメディアの特性が見直されつつあるのではないだろうか。電子メディアの普及は単なる技術的進歩ということ以上に,対象に対する人間の認識の仕方に変容をもたらしつつあるように思われる。日本全国の風景をくまなく記録しようとしたバルボラーニの明治のアルバムがちょうどこういう時代に発見されたのは,歴史の偶然だろうか?
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