2001|9
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学会からのお知らせ
* 論文募集
『地中海学研究』XXV(2002)の論文および書評を下記のとおり募集します。
論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
締切 2001年10月22日(月)
本誌は査読制度をとっております。投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。
*秋期連続講演会
10月20日より毎土曜日(計5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1
tel.03-3563-0241)において秋期連続講演会を開催します。各回とも,開場午後1時30分,開演2時,聴講料400円,定員130名(先着順,美術館に前売り券があります)です。
テーマ:地中海遊歴 II
10月20日 ロマン派の地中海──スタンダール,ドラクロワ,ジェリコー,ミュッセなど
高階 秀爾氏
10月27日 ベラスケスとイタリア遊学──古代への感興
大高保二郎氏
11月3日 太陽を慕う者──イタリアを旅した日本人
末永 航氏
11月10日 レヴァントの虜たち──19世紀初め英仏人4人の人間模様
黒木 英充氏
11月17日 ユートピアとしてのギリシア
中山 典夫氏
表紙説明 地中海の水辺3
ナイル川の港市・ブーラーク/山田幸正
「港町」といえば,すぐさま海に面した港をイメージするかもしれないが,川を行き交う船とその港もまた,交易上,重要な役割を演じてきた。
大河ナイルは太古より毎年氾濫を繰り返し,しばしばその流れを変えてきた。10世紀半ばに創建されたファーティマ朝時代のカーヒラは,ナイル川に面したミスル(7世紀以来のフスタート)とは別に,マクス(別名,マクサム)と称する港をその外港としていた。北西郊外にあったこの港から,当時,穀物など多くの物資がカーヒラに輸送された。しかし,川の流れが西方に変わり,13世紀半ばにはこの港は放棄され,これに代わって,ブーラークという港が新たに造成されることになった。15世紀までのブーラークはもっぱら上エジプトからの穀物を荷揚げする港で,ミスルに比べ,十分な発達を遂げていたわけではなかった。
ブーラークの様相を大きく変えたのは,15世紀はじめのマムルーク朝スルターンによる東西交易の独占化にともなう交易ルートの変更であった。カーミリー商人たちが独占していた利潤を取り上げるため,スルターン・バルスバイ(1422〜38年)は香辛料などを専売化し,インド洋からの貿易船の寄港地をアデンからジェッダに変え,さらにアイザーブを避けてトゥールやスエズを経由して,カイロに荷を運ぶようにさせた。このことによって,カイロにはいる商品は南からではなく,北からもたらされるようになり,北方にあったブーラークがミスルより商業的に有利になったのである。15世紀後半には,トルコのブルサをはじめ,地中海諸国からの商品も盛んに取引されるようになり,多種・大量の商品の卸しがブーラークの主要な経済活動となった。また,14世紀末から15世紀初めにミスルにあった製粉所,製糖所,木材・皮革取引所など手工業的な性格も移転された。
ブーラークのもつ重要な役割に徴税があった。それは港がマクスから移された,かなり早い時期から備わっていたとされ,14世紀初めの記述にみられる。14世紀はおもに穀物に対する課税であったが,15世紀以降は交易品に対する課税が中心になり,下エジプトからの船舶も必ずブーラークに寄港しなければならなかった。オスマン朝時代を通じてもこうしたブーラークでの課税・徴税は継続されていた。商品によってはそれぞれ特定の場所,つまりブーラーク内にある別々の隊商施設で取引されていたため,徴税もそれぞれの隊商施設ごとで行なわれていた。
16世紀にはオスマン帝国におけるひとつの商業センターとして,ブーラークはさらなる発展をとげた。16世紀のオスマン朝のワーリー(地方総督)たちは短い任期にもかかわらず,モスク建設だけでなく,積極的に投資をおこない,倉庫,取引所となる数多くの隊商施設をはじめ,製糖所や染色場などの手工業工房,集合住宅などを建設した。この時期に商業中心部や幹線街路などが形成され,現在につながるブーラークの地区構成ができあがった。
表紙は考古学者兼冒険家であった英国人ロバート・ヘイが19世紀前半に描いたリトグラフである(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所蔵)。図の左奥に,オスマン朝総督スィナーン・パシャが1571/72年に建立したモスクの大ドームとミナレットが見える。
春期連続講演会「地中海世界の歴史:中世から現代へ」講演要旨
ノルマンと地中海世界
高山 博
ノルマン人とヴァイキングはしばしば同じ意味で用いられ,ノルマン人による南イタリアの征服活動・王国建設も北欧ヴァイキングの活動の一部として語られることが多い。しかし,9世紀前後に,ユトランド半島,スカンディナヴィア半島からヨーロッパを荒らし回ったヴァイキングの活動と,11世紀にイングランドや南イタリアの征服活動を行った北フランスのノルマンディ公国出身者たちとの活動は,全く異なる時代のものである。両者は同じノルマン人(「北の人」を意味する/北方ゲルマン人の一部と考えられている)ではあっても,性格を大きく異にしている。ここでは,混乱を避けるために,9世紀前後に活動したユトランド半島,スカンディナヴィア半島出身者たちをヴァイキング,11世紀のノルマンディ出身者たちをノルマン人と呼ぶことにする。
ユトランド半島やスカンディナヴィア半島に住む人々の中には交易商人として活動する者たちも多かったが,9世紀前後に繰り返された彼らの激しい西ヨーロッパ襲撃・略奪は,船に乗って略奪・虐殺を行う海賊というヴァイキングのイメージを作り上げた。実際,彼らの激しい襲撃の影響は,西ヨーロッパ社会の性格を変えるほどに大きなものだった。それによって,カロリング朝王権の衰退に拍車がかけられ,小領主や城主が割拠する戦乱の世の到来が促されたのである。10世紀初め,人々を恐怖のどん底に落とし入れたヴァイキングの一部はノルマンディに定住し,ノルマンディ公国を作った。
11世紀にイングランドや南イタリアを征服したノルマン人は,このノルマンディ公国出身のノルマン人である。イングランドと南イタリアの二つの征服は,ほぼ同じ時代にノルマンディ公国出身の者たちによって行われたが,両者はまったく異なる性格のものであった。ノルマンディ公に率いられたイングランドの征服は「ヘースティングスの戦い」という一度の戦闘で決した文字通りの征服であったが,南イタリアの征服は,ノルマン人たちが南イタリアの覇権争いに巻き込まれ,次第に勢力を拡張していく長くゆるやかな過程だったからである。その期間はほぼ百年にわたる。南イタリアのノルマン人たちは最初様々な雇い主のために働く傭兵にすぎなかった。しかし,やがて,ノルマン人指導者のもとに自分たちの国を作り,南イタリアを統一していくのである。
その後,12世紀初めには,ノルマン人の王をいただくシチリア王国が生まれた。この王国は高度に官僚化した行政制度を持ち,ヨーロッパ近代的行政制度の先駆けと見なす研究者たちもいる。他方,西欧の歴史家の多くは,この王国を西欧世界の辺境と見なし,西欧が東方文化を取り入れる窓口として位置づけてきた。イスラーム世界やビザンツ世界のギリシア語やアラビア語の著作がこの王国でラテン語に翻訳され,ヨーロッパに紹介されていったからである。これらの二つの見方は,いずれも,ヨーロッパ史にとっての王国の意味を求めたものだが,このヨーロッパ史の文脈を越えて,王国の特徴を,ラテン,ギリシア,イスラームの文化的要素を同時に内包していたという点に求めることもできる。
パレルモの王宮には,アラブ人地理学者イドリーシーやギリシア人神学者ネイロス・ドクソパトレースを初めとして,異なる文化圏に属する医者や占星術師,哲学者,地理学者,数学者が集まっていた。また,歴代の王妃は,スペインやフランス,イングランドなど,異郷の地で生まれ育った者たちであり,宰相のほとんども異国出身であった。王宮では,王を世話するために多くのアラブ人が働き,王宮へ連れてこられたフランク人女性が,王宮の侍女たちの影響を受けてイスラム教へ改宗したというエピソードも伝えられている。このような王国における異文化併存は,その時代に建てられた建物やその内部を飾るモザイク画,彫刻に深い刻印を残している。パレルモ市内に見られる赤い丸屋根を載せた四角いモスク風建築物は,強い異国情緒を醸し出しているし,ノルマン王宮「ルッジェーロの間」の狩猟をテーマとしたモザイク画は,イスラム風のモチーフをビザンツ様式のモザイクで表現したものである。
異なる文化の担い手たちは自らの属する文化と他の文化を融合させることなく各々の棲み分け領域を守り続けていた。このような異文化集団の併存を可能としたのは,この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし,彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって,戦争や騒乱の際には必ずと言ってよいほど,異文化集団に対する略奪や攻撃が行われている。王国の特徴であるイスラム教徒とキリスト教徒の併存は,13世紀初頭,王権がイスラム教徒を半島部のルチェーラに隔離することにより終わり,イスラム教徒の灌漑技術や農業技術が支えていたシチリア島の多様で実り豊かな農業も同時に失われた。
研究会要旨
15,16世紀フィレンツェの劇場建築の成立過程
──スペッターコロのための空間の固定化と専用化──
赤松加寿江
6月9日/上智大学
近世の劇場建築の成立過程を明らかにする上で,これまでは思想と哲学に直接関わる人文主義文化が成立要因として重視されてきた。しかし,劇場建築が成立する過程の実相を捉えるためには,どのような要因で劇場建築が求められたかについて,政治的・社会的な側面から光を当てる必要がある。
そこで第1に人文主義文化の中心的都市でありながらも,劇場建築の成立が北イタリアの都市に比べて半世紀近く遅かった都市フィレンツェを研究対象とする。第2に当時の祝祭や祝典など社会的・政治的にも意味をもっていた演劇的活動を総称する「スペッターコロspettacolo」という視点を設定し,その実態を捉える。第3にスペッターコロのための空間が15,16世紀に固定化・専用化へ向かったという過程が,劇場建築の成立を導く牽引力であったという仮説を立て,それを実証する。以上の三つの視点から演劇的な活動と空間の実態を検証した。
15,16世紀フィレンツェのスペッターコロとして,祝祭や婚礼祝典,宗教劇からコメディア・デラルテに至る様々な演劇があげられる。それは地区組織や政治組織,人文主義と密接に関係しただけではなく,多様な社会的集団が上演組織として存在していた。特にコンフラテルニタ(信心会)やアッカデミアは上演組織の核としてスペッターコロの発展に深く関わっていた。様々な社会要素との絡み合いの中で,スペッターコロは15世紀末頃に一つの転換期を迎える。内容の世俗化が始まり,ある特定の観客に対して上演されるようになるばかりか,それに伴い上演する空間も都市空間や聖堂内空間から世俗的施設へと拡大し始めたのである。特に,パラッツォの室内・中庭や,コンフラテルニタの集会所が上演空間として利用され始めたことは,スペッターコロが都市の外部空間から固定化された建築の内部空間へと展開したことを示している。特に君主制以降のメディチ家宮廷内にテアトロ・メディチェオやテアトロ・バルドラッカ,またコンパニア・ディ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの集会所がスペッターコロのために専用化された空間として設置されるようになったことは注目に値する。この空間の専用化は,上演内容と上演組織の社会的な要請,そしてメディチ家の政治的要請があったことを示している。
政治的要請がスペッターコロのための空間を規定する事実は,行列の順路が政治体制の変化と共に変容する過程からも示すことができる。寡頭共和制時代,行列は国内的な政治的プロパガンダとして表現され,メディチ家のパラッツォやラルガ通りを重点的に巡っていたが,君主制の確立以降,行列の順路は定型化した。これは政治上の競争相手が国内勢力から国外勢力へと移行し,行列に政治的な効果を求めなくなっていったことを示している。その結果,メディチ家は国外勢力に対する示威行為の場として,都市空間ではなく宮廷の内部空間を求めた。ここに政治的要請としてメディチ家宮廷内に専用空間が成立する構図を見ることができる。
このように社会的・政治的な要請によって空間は固定化し,専用化が求められたが,それは技術的な解決によって現実化した。15世紀末以前,都市空間を主としたスペッターコロでは,舞台背景の機能を果たしていたのは都市の街路風景であり,舞台転換の作用は行列が移動することで実現されていたといえる。特に当時,都市風景と舞台背景はセルリオの建築書などを通じて関係づけられていたが,こうした思潮とは別に,都市空間の中でのスペッターコロにおいて,伝統的かつ現実的に背景を形づくっていたのは都市風景であった。だからこそ建築空間内においてスペッターコロの上演を可能とするためには,都市風景を室内へと展開させる必要があった。それを解決したのがプロスペティーヴァであった。それは,15世紀末以降,パラッツォの室内や中庭,スペッターコロのための専用空間などでプロスペッティーヴァが多用されていた事実からも明らかである。
以上,空間が固定化し,専用化していく過程に多種多様な空間がスペッターコロのために用いられていたことを示した。フィレンツェにおいて劇場建築の成立が遅れたのは,演劇的活動のための魅力ある空間が数多く設定されていたこと,また,劇場を成立させる推進力であったアッカデミアの成熟が,先存したコンフラテルニタとの関係で遅れたことが主たる要因と考えられる。スペッターコロという視点を用いて当時の演劇的な活動と空間を捉えようとする試みは,劇場建築に限定されることなく,様々な空間に潜在していた「劇場的なるもの」の在り方を探究することであり,劇場と都市との関係を読み解く一つの方向性であると考えている。
地中海学会大会 記念講演要旨
古代エジプトの建築
──大ピラミッドの大きさ──
堀内 清治
エジプトのギザにあるクフ王の大ピラミッドの底辺長さの平均値は230.364mと測量されている。しかし,頂上部分約10mは石材が盗まれているので,当初の高さは実測できない。しかし,高さを半径とする円周の長さが底辺長さの和に等しいという関係から逆算して,高さ=底辺×2÷πとして146.654mと計算されている。
底辺長さの計算にπ(円周率)が入っているのは,建築現場でピラミッドの底辺の様な大きな長さを正確に測量する方法として,円盤を転がして測ったことが考えられる。例えば,硬い石の板を削って,直径が正しく1キュービットの円盤を造り,この円盤を適当な回数だけ転がして距離を測ったと考えてみる。ピラミッドの高さが280キュービットと決まっていたとすると,底辺長さは(280×2×π÷4)キュービット=(140×π)キュービットになる。円盤を1回転した時の円周の長さはπキュービットになるから,底辺長さは,この円盤を140回転させれば測ることが出来る。円盤の加工が完璧ならば,この場合のπは正しい円周率になるから,底辺の長さは140×3.1416=439.824キュービットになる。
この円盤を1回転させた時の円周の長さを当時の物差で実際に測ってみると(1ロイヤル・キュービット=約0.524mは7パームに分割されていた),殆ど正確に3キュービット+1パーム=3 1/7キュービットであったから,彼らは円周率を3
1/7=22/7と考えたに違いない。この場合の底辺長さは140×22/7=440キュービットになる。恐らく大ピラミッドの底辺の設計寸法は440キュービットだったと思われる。然し,439.824キュービットと440キュービットの差は440キュービットの1万分の4に過ぎず,実測誤差の範囲内だから,どちらが正しいのかを軽々に断定することは躊躇される。
大ピラミッドの底辺を230.364m2,高さを146.654mとすると,その容積は230.3642×146.654÷3≒260万m3になる。石の比重を2.5とすると,重量は約650万トンになる。積み上げられた石の大きさはまちまちであるが,平均しておよそ90・角だとすると,石材数はおよそ360万個になる。約53,000m2の敷地に2トン弱の切り石を360万個積み重ねて,側面の傾斜角が約51度51分の四角錐を造ることが課題であった。正四角錐という幾何学的な形を造ろうとすると,寸法や角度のごまかしは許されない。例えば,仮に,ある面の傾斜角が1度小さいと,その面の頂点は5.2mも低くなるから,角錐にはならない。650万トンの精密器械と呼びたいほどの高度な施工精度はそのためにも必要であった。
ここではピラミッド内部の構造にはかかわらず,単純に立方体の石材をただひたすら積み上げたと考えているが,ヘロドトスは,この工事に10万人が働いて20年かかったと伝えている。360万個÷20年÷360日=500個,つまり毎日500個の石材を切り出し,運び,整形して積み上げねばならない勘定になる。驚く程の突貫工事であった。そればかりでなく,積み上げた石材を正しい角錐形に仕上げ,磨き上げる仕事や,付属の_殿群,通廊等のピラミッド複合体を完成する工事もあるから,ヘロドトスの10万人20年はあながち法螺とも言い切れない。
この頃のエジプトの人口は分からないが,凡そ100~200万人位と想像する人は多い。仮に人口を200万人とすると,10万人は人口の5%に相当する。現代の日本で500万人の労働者をつぎ込んで20年間続いた公共事業が終わった時に,それらの労働者を解雇出来るだろうか。ピラミッドはこれと同じような社会的意味をもっていた筈である。メンデルスゾーンは古王国時代のピラミッドは一度建てはじめると,止めることが出来なかったばかりでなく,労働力の能率的なローテーションを考えて,複数のピラミッドが同時に進行していたと考えている。ギザのような切り石造のピラミッド建設が止まるのは,古王国の社会経済が崩壊する時であった。
現代これほどのインパクトを社会に及ぼすような建築はない。敢えてピラミッドに匹敵するものを現代の社会に探すとすれば,それは各国で進めている軍備であろうか。膨大な予算,権力者の意思とは無関係の進行,それに付随する科学技術の進歩等々は共通している。
サッカラに初めて階段ピラミッドの工事が始まってから,ギザの大ピラミッドを造り始めるまでには約75年しか経っていない。然し,この間の数学,測量術,採石運搬等,石造建築に関連する科学・技術の進歩は驚くべきものであった。人類の歴史の曙にあたるこの時代には,すべてがゆっくりと進んでいたように想像しがちであるが,こういう,言わばその時代の先端技術に関しては,その想像は決して正しくないらしい。
地中海学会大会 研究発表要旨
建築物階数の数え方
──聖書における《ノアの箱舟》をもとに──
杉浦 均
建築物階数の数え方には,次の型が認められる。
{1} 1st floor,2nd floor,3rd
floor...:[1型]
{2} ground floor,1st floor,2nd
floor...:[0型]
(1st floor, 2nd floor などは英語以外の言語についても1st,2ndの意味をもつ語も含む。[1型][0型]は「階数の型」の名称として提案したもの。)
{1}[1型]は日本,韓国,中国,ロシア,米国などで,{2}[0型]は西欧各国(英,葡,西,仏,独,伊など)で,使用されている。
first floor は,英国では日本式の「2階」に相当するが,米国では「1階」と同じである。同じ英語圏でも英国と米国で階数の数え方が異なる。欧州は伝統的な文化をもっているので,一見,西欧の[0型]が古くからあるタイプのように思えるが,OED(Oxford English Dictionary)によりfirst floorの初出を見ると,[1型]から[0型]へ変化したのであって,[1型]が本来の型であることが判明した。英国だけでなく,西欧各国は17世紀前後に[0型]へと変化したことも文学書,歴史書,建築書などから,既に明らかにした。*1
また,『聖書』のソロモン,エゼキエル両神殿が[1型]であることも確認した。*2
本報告は,西欧は古代,[1型]であったことを検証するための一例として,『聖書』の「ノアの箱舟」を取り上げる。創世記6.16の記述により,
神はノアに「箱舟の側面には戸口を造りなさい。また,一階と二階と三階を造りなさい。」(新共同訳)と言われた。この記述について箱舟の船室が[1型]か,[0型]かを判別する。
(1)まず,「ノアの箱舟」は建築物ではないため,その船室の階数を建築物と同様に数えることの可否を検討する。
ギリシア語資料として『七十人訳聖書』,『ギリシア語新約聖書』,ヘロドトス『歴史』,ラテン語資料として『ウルガタ聖書』を使用し,階数の数え方を調べると, 建築物も船室も,-orôphos(〜階),-stégos(〜階),cenaculum(上階,二階)の語が使われており,数え方が同じである。したがって,階数の数え方に関しては,船室と建築物は同じ扱いをしてよい。
(2)箱舟の船室構造の検討
調査資料として,『聖書』,アウグスティヌス『神の国』,キリスト教美術における図像の三つを取り上げる。
(2)-1『聖書』:『七十人訳聖書』とラテン語聖書『ウルガタ聖書』について,創世記6.16「一階,
二階, 三階」の記述を検討する。『七十人訳聖書』はkatagaia(地上階),diôropha(二階),triôropha(三階),『ウルガタ聖書』はdeorsum(下の階),cenacula(上階,二階),tristega(三階)と記している。
両聖書とも,神の言葉として,船室について「名称」をつけた「三つの階」を造ることを明示しているので, 船室は「3階建て」の蓋然性が高い。「3階建て」の船室の下から三つ目をtriôropha/tristega(3の階)と記しているので,聖書は[1型]で書かれていることになる。
(2)-2『神の国』:アウグスティヌスはノアの箱舟を教会の象徴とみている。著者は「使徒が賞揚している三つのもの:信仰,希望,愛」(cf.コリントの信徒への手紙13.13)と,「福音書の三つの豊かさ:三十倍,六十倍,百倍」(cf.マタイ福音書13.18)のそれぞれ「三つのもの」を船室の各階に当てはめ,また「船室の実質的な床面積は一つの階の3倍」と述べているので,著者は船室を「3階建て構造」と認識していることになる。また,船室の「最下の階」の上の階の,その上の階(下から三つ目)をtricamerata(3の階)と述べている。「3階建て構造」で下から3階目を3の階と述べているので,著者は『聖書』の箱舟を[1型]と認識している,と考えられる。
(2)-3キリスト教美術における図像の検討:キリスト教美術の絵画,レリーフなどに「ノアの箱舟」の図像がある。この中には,船室の階層構造が不明のものもあるが,判明するものは「3階建て」が基本である。「3階建て」の例はウィーン創世記,Junius Manuscript,Old English Illustrated Hexateuch,ベドフォード時祷書,ニュルンベルク年代記,などの挿絵,サン・サヴァン修道院の天井画などがある。Old English Illustrated Hexateuchは創世記16.6を訳した「threo fleringa」(tristega)の記載と「3階建て」の挿絵が載っている。「3階建て」の箱舟の図像は聖書の箱舟の「3階」という語に基づいて描かれたものと思われる。
(3)まとめ:以上のように, 『聖書』の創世記 6.16 の「箱舟に...一階と二階と三階を造りなさい。」という記述にもとづき,『聖書』のこの記述,『神の国』における記述,キリスト教美術における図像の三つを取り上げて,箱舟の階層構造と階層の名称を検討して,「ノアの箱舟」の記述は[1型]であることを確認した。
*1『ことばを考える 3』,愛知大学言語学談話会,1996.
*2『南山国文論集』23号,南山大学国語学国文学会,1999.
地中海学会大会 研究発表要旨
L.ノットリーニによるルッカの古代ローマ円形闘技場遺構再開発計画
黒田 泰介
イタリア・トスカーナ州,ルッカに残る古代ローマ円形闘技場(AD2C)の遺構は,中世期より住宅や公共倉庫,監獄など,様々な形で再利用されてきた。今日,円環状の1街区を構成する円形闘技場遺構は,この都市の形成史の一部を物語っている。
19世紀初頭,円形闘技場遺構の歴史の中で,最大の変化が訪れる。1830年,都市中心部から遺構内部への食料品市場の移転が決定された。宮廷建築家ロレンツォ・ノットリーニは建設委員会に加わり,遺構の再開発計画の指揮をとることとなった。同計画に先立ち,彼は遺構の発掘調査(1819年)に参加し,実測図を作成している。この経験を基に,ノットリーニは後に建築史・都市計画的に高く評価される,再開発計画を遂行した。
再開発計画の主眼は,食料品s場mercato開設を目的とする,街区内部への広場創設にあった。この計画に関して,2枚の街区平面図がルッカ国立古文書館に保存されている。一つは,発掘調査時に作成された,再開発以前の状態を示す実測平面図である。もう一つは,ノットリーニの再開発計画を示したとされる平面図(以下,計画図)である。計画図は先の実測平面図を基に作成され,壁体は全て輪郭線のみで描かれている。保存・増改築が決定された箇所は着彩され,破壊が決定された壁体は,白抜きで表現されている。
この計画図と実測平面図,また筆者作成の現状実測図面の3資料の照合・比較により,ノットリーニによる再開発計画前後の街区の状況が判明し,再開発計画における遺構の改変の様態が明らかとなった。
計画図から読みとれる再開発に伴う主な破壊要素として,広場開設に伴う街区内部の整理,また広場入口開設に伴う東西端部の住宅2件の破壊が挙げられる。また主な増改築要素としては,楕円形平面の広場開設に関連し,街区内部の壁体の新設・改造の数々が挙げられる。
この計画図は現状の広場・街区と異なり,1階の広場側開口群が規則的でなく,また広場入口が楕円長軸上の東西二つのみであることから,初期計画案の一つと考えられる。注目されるのは広場入口の数である。計画図にみる広場入口の数と位置は,円形闘技場のアレーナ入口として考古学的に正確である。しかし再開発計画において,ノットリーニは円形闘技場の復元および考古学的な正確さには,さほどこだわらなかった。
食料品市場という機能上の問題から,広場入口は四つに増やされた。楕円長軸上に位置する東側入口は,円形闘技場の当初のアレーナ入口に相当する。街区周囲の壁面にはローマ期の,石灰岩の切石による角柱,アーチ基部等が残っている。ここを占拠する住宅の地上階の撤去と広場入口としての整備は比較的容易であった一方,これと対となるべき西側入口は,モリコーニ邸内部に完全に取り込まれていた。ノットリーニはルネサンス様式のパラッツォを破壊することなく,広場入口を一つ南にずらすことで問題を解決した。この合理的かつ建物の現状を尊重する手法は,ノットリーニの基本姿勢を示している。同様の手法は,広場の形態決定にも見られる。
円形闘技場は観客席がアレーナに向けて傾斜する,すり鉢型の断面をもつ。遺構は平均で2.7m地下に埋没しているため,結果としてアレーナ(67×39m)に相当する空間は拡張されていた。当時のアレーナは,観客席上につくられた住宅群の庭園や菜園,付属建造物群によって占拠され,当初の形態を完全に喪失していた。
ノットリーニの関心は,アレーナの幾何学的形態の復元に,その多くが注がれた。しかし考古学的に正確な復元を目指すのではなく,広場の輪郭は既存の壁体を最大限利用しつつ計画された。結果,街区内部につくられた広場の楕円形平面はアレーナよりも大きくなった(76.90×51.10m)。アレーナを占拠していた庭園や菜園,付属建造物群は完全に撤去された一方,観客席上に自然発生的に築かれてきた中世の住宅群は,そのままに残された。屋根のスカイラインと窓割りが見せる住宅群の多様性に対して,広場に面する湾曲した壁面はスタッコで統一され,1階に規則的に並ぶ商店入口のアーチは,広場にリズミカルな連続感を与えている。また,短軸上に新設された二つの広場入口は,動線を重視した機能的解決というよりも,広場の幾何学的形態から導かれたものといえる。1838年に工事は完了,翌年10月1日,広場内に食料品市場が開設された。同市場は市外への移転(1972年)まで存続した。
ノットリーニによる再開発計画は,長年積み重なった建築的堆積を整理し,ピクチュアレスクな中世の住宅群と円形闘技場遺構の体系化に成功した。そこには建築家の合理的な計画手法と共に,当時普及しつつあったロマン主義の影響が指摘される。
意見と消息
・ 春休みに20日間,スロヴェニアとクロアティアを旅行してきました。アドリア海沿岸のドブロヴニク,スプリト,シベニク,ザダールなどの他に,特に古代ローマの遺跡サロナ(現在のソリン)を訪ねました。広大な廃墟が,葡萄畑にとりかこまれて人影もなく横たわっていました。横山徳爾
・ 6月に予定されておりましたJ.M.ディエス・ボルケ博士の連続講演会『スペイン黄金世紀の文学と社会』は,博士の急病により,10月1日より15日に日程を変更して開催いたします。聴講希望の方は清泉女子大学スペイン語スペイン文学科研究室(tel.03-3447-5551/FAX03-3447-5493)までお問い合わせ下さい。吉田彩子
図書ニュース
有田 忠郎 『シュルレアリスムと聖なるもの』
J.モヌロ著 翻訳 吉夏社 2000年10月
石原 忠佳 『モロッコ・アラビア語』大学書林
2000年11月
井関 正昭 Pittura giapponese dal
1800 al 2000,
Skira 2001年2月
河原 一郎 『地球環境と東京──歴史的都市の生態学的
再生をめざして』筑摩書房 2001年4月
木村 重信 『西洋美術の歴史』ジャンソン著 共訳
創元社 2001年5月
武田 好 『イタリア語をはじめよう!』
NOVA出版局 2001年4月
田辺 清 『イタリア・ルネサンス美術論』共著
東京堂出版 2000年6月
平岡 洋子 『フラ・アンジェリコ』G.ディディ=ユベル
マン著 共訳 平凡社 2001年5月
福本 秀子 『フランス・ドイツ ワイン小咄』共著
産調出版 2001年6月
牟田口義郎 『アラブが見た十字軍』翻訳
ちくま学芸文庫 2001年2月
地中海学会事務局 〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201 電話 03-3350-1228 FAX 03-3350-1229 |