2001|03
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ローマの驚異
−−宗教,芸術の巡礼地−−
小佐野重利
都市ローマを読む
陣内 秀信
−−「アカデミスム」の逆説−−
龍野 有子
『フランス・インド会社と黒人奴隷貿易』
九州大学出版会 藤井 真理
パエストゥムのケレス神殿/島田 誠
*4月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。
テーマ:ビザンティン典礼の形成と本質
−−ゲルマノスの注解を中心に
日 時:4月14日(土)午後2時より
発表者:秋山 学氏
会場:上智大学6号館3階311教室
東方キリスト教典礼の一つビザンティン典礼は,初代教会の典礼形式を留め,スラブ文化圏を中心とした地域に伝える貴重な遺産である。その定式が定まったのは8〜9世紀のこととされるが,コンスタンティノポリス総大主教ゲルマノス(715〜730在位)による『教会史と神秘的観想』は,それ以降の典礼解釈を決定づけたと言える。本発表ではゲルマノスによるアレクサンドリア・アンティオキア神学総括の次第を辿り,典礼の本質に迫りたい。
*春期連続講演会
春期連続講演会を4月28日より5月26日までの毎土曜日(ただし5月5日休講),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。テーマ及び講演者は下記の通りです。各回とも,開場は1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館受付で予約可)です。
「地中海世界の歴史:中世から現代へ」
4月28日 ノルマンと地中海世界 高山 博氏
5月12日 ルネサンスと地中海世界 徳橋 曜氏
5月19日 オスマン帝国と地中海世界 鈴木 董氏
5月26日 地中海文明:過去と現在 樺山 紘一氏
*第25回地中海学会大会
第25回地中海学会大会を沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵町1-4)において,下記の通り開催します。詳細は別紙の大会案内をご参照下さい。
6月30日(土)
13:20〜13:30 開会挨拶
13:30〜14:30 記念講演
「古代エジプトの建築」 堀内 清治氏
14:45〜15:15 授賞式
「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
15:30〜17:00 地中海トーキング
「島とうたと祈りと」
パネリスト:赤嶺政信氏/井本恭子氏/松田嘉子氏/司会:武谷なおみ氏
18:00〜20:00 懇親会 [都ホテル]
7月1日(日)
10:00〜11:30 研究発表
「建築物階数の数え方−−聖書における《ノアの箱船》をもとに」 杉浦 均氏
「メディチ家支配期のピサにおける都市構造と建築形態の変容」 吉田友香子氏
「L.ノットリーニによるルッカの古代ローマ円形闘技場遺構再開発計画」 黒田 泰介氏
「16世紀前半のフィレンツェ公国における印刷・出版とプロパガンダ
−−公国印刷所ロレンツォ・トレンティーノ(1547〜1563)」 北田 葉子氏
「Istanpitta(イスタンピッタ)の音楽的起源についての一考察」 岡村 睦氏
「ジャケス・デ・ヴェルトの手紙−−16世紀のイタリア世俗声楽曲研究から見たその意義」 園田みどり氏
11:45〜12:15 総 会
12:15〜13:30 昼 食
13:30〜17:00 シンポジウム
「海のネットワーク」
パネリスト:齊藤寛海氏/豊見山和行氏/濱下武志氏/司会:高山博氏
*会費納入のお願い
新年度会費の納入をお願いいたします。
口座自動引落の手続きをされている方は,4月23日(月)に引き落とさせていただきますので,ご確認下さい。ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。
研究会要旨
シェイクスピア喜劇におけるローマ受容の軌跡
−−模倣から創造へ−−
真部多真記
2月24日/上智大学
シェイクスピアの初期の喜劇『間違いの喜劇』と後期のロマンス劇『シンベリン』におけるローマ/イタリアとの関わりを中心に,彼が模索した作品のあり方について考察した。まず最初にシェイクスピア登場以前の状況として,グラマー・スクールにおける古典語教育と当時の古典翻訳運動について確認し,古典作品との葛藤を通して自己表象の手段を獲得していく英国ルネサンスの作家たちについて言及した。そして古典作家の中でも,当時の大学演劇や翻案劇におけるプラウトゥスへの関心の高さを考察した。
次にシェイクスピアの『間違いの喜劇』の主な材源とされている『メナエクムス兄弟』との比較を行い,プラウトゥスが描いた単純な取り違えの連続をシェイクスピアは登場人物の道徳的欠点を掘り下げるものとして機能させていることを指摘した。具体的にはアンティフォラス弟のエフェソスへの偏見と妻エドリエーナの夫への嫉妬と独占欲を分析し,いずれの場合も彼らの「間違い」が「愚かさ」を示す記号として機能していること,その「間違い」によって喜劇が展開され,最終的に彼らがその愚かさを認識する作品であることを論じた。間違い,混乱,認識という喜劇のプロセスは本来プラウトゥスが内包していた喜劇の伝統であるが,シェイクスピアはこの伝統をプラウトゥスから学び,その上でプラウトゥス作品に潜在的に見られる「自己を問い直す」という部分に焦点を当てて主題化し,自己変容の物語として『間違いの喜劇』を創作したと考えられる。
のちにシェイクスピアは多様なジャンルの作品を次々と創作するが,彼は「自己を問い直す」という主題を作品ごとに形や程度を変えて追い続ける。シェイクスピアのキャリアに影響を与えた古典作家としてしばしば,セネカ,タキトゥス,オウィディウスの名があげられ,プラウトゥスの影響は初期の喜劇のみと論じられてきた。しかし,シェイクスピアがプラウトゥスの「取り違え」の喜劇の中から自己変容の主題をくみとったことを考慮すれば,シェイクスピアのキャリア全体を通して,プラウトゥスの影響は決して小さくはなかったと思われる。
また,シェイクスピアのこのような創作の背景には当時の演劇観が反映されていることにも言及した。つまり,喜劇とは日常生活に見られる過ちを舞台上で滑稽に描くことによって,観客に悪徳を知らせ,道徳を教えるものであるというフィリップ・シドニーの主張を考慮すれば,『間違いの喜劇』とは英国ルネサンスにおけるプラウトゥスの一解釈を作品化したものと考えられることを示唆した。
さて,シェイクスピアの作品にはローマ/イタリアへの興味が特定の作家や作品をこえて,古代ローマそのものにむけられているものが多い。言うまでもなくローマ史劇群が最もそのことを表しているが,他のジャンルの作品にも古代ローマの様々な表象を見ることができる。本発表では例として『リチャード三世』『ヘンリー五世』および『ハムレット』をあげ,暴君,法律,軍事力,歴史性,名声,自殺など様々なレベルで表象されるローマを考察し,その背景にはローマとの歴史的連続性を意識するイングランドの姿がみられることを指摘した。そしてそのような意識が複雑な形で表された作品として『シンベリン』をとりあげ,主な材源であるボッカッチョの『デカメロン』第二日第九話との比較を通して,この作品ではイングランドの王国起源としてローマが描かれていることを論じた。具体的にはポスチュマスのブリテン人意識の確立とローマとの戦争をめぐる問題とブリテンの閉鎖性に関するイモージェンの意識を中心に考察した。
ボッカッチョから着想を得た二人の商人の賭けの物語は『シンベリン』ではいくつもの複雑なプロットに拡散させられ,またアナクロニズムをおこすなど不合理な点が『シンベリン』では目立つが,この作品ではローマ/イタリアへの憧れと恐怖の間で揺れながらも,ローマを理想の王国として受け入れるブリテン人の姿が描かれており,ローマを題材にしたシェイクスピアの他の作品とは異なるローマ観が見られる。
なお本発表に際し,エリザベス朝当時のプラウトゥス人気についてさらに綿密な分析を必要とすること,また古典作品だけではなく,シェイクスピアと同時代のイタリア文学・演劇をはじめとする大陸ルネサンスの影響をさらに考察することなど貴重なご意見をいただいた。これらの問題については今後の研究においてさらに考察したいと思う。
秋期連続講演会「都市ローマへの誘い−−聖年にちなんで」講演要旨
ローマの驚異
−−宗教,芸術の巡礼地−−
小佐野重利
ここでは,8世紀後半から,《マルクス・アウレリウスの騎馬像》がラテラノ広場からカンピドリオ広場に移設される1538年までを対象に,ローマ市を舞台とした教皇庁の司法権をめぐる政策の推移を,二点の美術作品とその解釈の変遷を辿りながら,粗描する。
1300年2月12日(聖ペテロによる教会創設の祭日),教皇ボニファチウス8世が開始した聖年は,シクストゥス4世の時代までには制度化が整う。聖年の確立が,中世のローマ巡礼熱に拍車をかけたことは間違いない。
『ローマ市の驚異』と通称されるローマ案内書のうち,イギリス人グレゴリウス先生の著した『ローマ市の驚異についての物語』(12世紀後半〜13世紀初頭)は異色で,中世のキリスト教建造物には不思議なくらい興味を示さない反面,目にした古代ローマの造形証拠について長々と語る。特に,ラテラノ広場にある青銅製の彫刻群には深い感銘を受けたとみえ,殊の外紙幅を割く。教皇宮殿のあったラテラノの広場には,当時Caballus(マルクス・アウレリウス騎馬像),Lupa(ローマの雌狼),Caput(巨大彫像の頭部)と巨大な球および右手,プリアポスの滑稽な像(実は,刺を抜く少年像),ウェスパシアヌス帝の法律を刻む青銅板などがあった。
8世紀半ば,ラテラノ宮殿の最初の建物がコンスタンティノポリスのアウグステイオンをモデルに,教皇の司法行政拠点として整備された頃には,これら青銅彫像がこの広場に集められていた。800年,ローマで教皇レオ3世より西ローマ皇帝に戴冠された帰途,カロルス(シャルルマーニュ)帝がラヴェンナから通称「テオドリクスの騎馬像」と狼(実は熊)の青銅像を帝都アーヘンに持ち帰り,しかもその地に建造した新宮殿をラテラノと命名した,と年代記は記す。教皇権力を擁護する「コンスタンティヌス帝の寄進状」の捏造もこの頃である。これより,カロルス帝がラテラノ宮殿とその広場に置かれた青銅像(特にCaballusとLupa)の政治的機能を熟知していたことが窺われる。
グレゴリウス先生は,宮殿前の鍍金のCaballus(ラテン語で馬の謂)を「巡礼者はテオドリクスと呼び,生粋のローマ市民はコンスタンティヌスといい,ローマ教皇庁の枢機卿や聖職者はマルクスとかクイントゥス・クイリヌスとか呼び」,かつてカピトリヌス丘のユピテル神殿の前の四円柱上に聳えていたが,教皇グレゴリウスにより引き倒され,その後市民によってここに設置されたと記す。手ずから集めた情報と騎馬像の自己流の解釈に依拠して,Caballusの騎手が,黒魔術を使う小人の王による市壁包囲から,王を捕縛しローマを解放した騎士マルクスか,サルストゥス宮に突如開いた地割れが引き起こした伝染病を,愛馬とともに地割れに身を投じることで終息させた英雄クイントゥス・クイリヌスであるとする教皇庁の学識者の説に与する。ほかの二説は,それぞれ,神聖ローマ帝国圏からローマ巡礼に訪れる人々が抱くアーヘンの騎馬像の記憶と,Caballusの最初の設置場所に関するローマ市民のおぼろげな伝承に基づくものとすれば,シクストゥス4世の司書バルトロメオ・サッキが1481年,自著(同教皇伝)でマルクス・アウレリウスの名を公言するまで,騎士マルクス変じて,「大いなる村人」とか馬丁とか呼ばれ,公には,騎馬像が教皇に仕える一介の従者の像としてしか見られなかった経緯も頷ける。
Lupaについて,彼は,「教皇様の冬の宮殿前のポルティコに狼の彫像がある。ロムルスとレムスを養った狼であるといわれるが,それは作り話だ」と述べ,ローマの双子の像と狼の乳房が欠損しており造形的にも醜く,かくなる判断を下したと付言する。また,この像の前には,「罪を禁ずる」ウェスパシアヌス帝の法律を刻む青銅板があった。10世紀半ばのベネデット・デル・ソラッテの『年代記』から,実はこの狼像がすでにラテラノの裁判の場所に置かれ,ローマにおける教皇の至上権および司法権の象徴となっていた様子が判る。その後のことだが,彫像はラテラノ広場近くのアンニバルディ塔の持ち送りの上に設置され,1438年に描かれた,ローマの年代記者ステファノ・インフェッスーラの素描にあるように,常に処刑(司法権の行使)の場と結びついていた。
1471年,シクストゥス4世は,Caballusを除く青銅像すべてをコンセルヴァトーリオ宮殿へ寄進する。寄進の理由は,古代ローマの偉容の触手しうる記憶となる遺物を,その正当な継承者のローマ市民に返すというものである。ほかでもない,雌狼像は同宮殿の正面,中央ポルティコの上という通例,市の紋章が据えられる位置に設置され,それまでの獅子に代わりローマ市の紋章となった。1538年,Caballusがラテラノ広場からカンピドリオ広場に移され,名実ともにマルクス・アウレリウス騎馬像となるに至って,ここに,古代彫像に象徴される教皇のローマ市政権への干渉の歴史は終焉を迎える。
秋期連続講演会「都市ローマへの誘い−−聖年にちなんで」講演要旨
都市ローマを読む
陣内 秀信
ローマを対象に「都市を読む」には,古代から現代までの<時間>の軸,丘・川・低地からなる<空間>の軸,そして,広場や街路,噴水,教会などの建造物,遺跡,あるいは祝祭,劇場といった<テーマ>の軸が考えられる。ここでは,<時間>の軸を中心に,<空間>と<テーマ>をからませながら,ローマの都市を読むことにする。
ローマの都市風景を印象づけるのは,先ずは丘と川である。ルネサンス時代に描かれた古代ローマの地図も,丘と川を強調している。ローマ建国伝説の双子の兄弟,ロムルスとレムスはテヴェレ河畔に流れ着き,パラティーノの丘で狼の乳で育てられた。テヴェレ川の中心に浮かぶティベリーナ島は,古代の医学の神,アスクレピオスが乗ってきた「聖なる船」になぞらえられ,そこに神殿がつくられた。中世以後も,教会と病院ができ,記憶が受け継がれてきた。その南の港には,海港の守護神,ポルトゥヌスの神殿が祀られ,今も水辺に姿を見せる。
古代ローマにとっての聖なる丘は,カンピドリオの丘で,ユピテル神殿の基壇の一部が残っている。中世にも市庁舎のある場所として受け継がれていたが,16世紀にミケランジェロによって,堂々たる広場が実現し,再びローマの中心となった。ここに置かれた騎馬像は当時,キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝のものと信じられており(後にマルクス・アウレリウス帝とわかる),カトリックの栄光を古代の異教の中心世界にもち込む意図があったと思われる。
北に広がる低地,カンポ・マルツィオは,古代都市の拡大であとから市街地となったが,中世には,水が得やすいことから,むしろここに人が住み続けた。このカンポ・マルツィオ,あるいは川向こうのトラステヴェレ地区を歩くと,中世的な雰囲気を残す曲がった狭い道,そして塔状住宅や外階段のある家などが見られる。他の中世の居住地は,古代ローマの中心からは少し外側に成立した七つのバシリカの周りに分散していた。
15世紀にローマに法皇が戻り,都市の復興が始まった。1453年,本格的にローマ再生に着手したニコラウス5世は,古代水道を蘇らせ,聖ペトロを祀ったサン・ピエトロ寺院を優先させ,そこからローマ復興の都市づくりを開始した。それを受け継いだユリウス2世はブラマンテを登用してベルヴェデーレの中庭,サン・ピエトロの建替えに着手。テヴェレ両岸のヴィア・ジュリア,ヴィア・ルンガーラの建設を実現した。
1527年,ローマの略奪でこの都市は一時混乱するが,この世紀の半ば,ミケランジェロが建築家として,三つのプロジェクトで都市再生に貢献した。大ドームをもつサン・ピエトロ寺院の実現,先のカンピドリオ広場の造形,そして東の丘の端のピア門の設計である。
16世紀末,対抗宗教改革の気運の下,シクストゥス5世は建築家ドメニコ・フォンターナを登用し,ローマの大規模な都市づくりを手掛けた。世界中から訪れる信者にとっての巡礼ルートを整備する目的で,中世以来の七つのバシリカを直線道路で結び,広場に目印としてオベリスクを立てた。これらの道路建設は主に,まだ田園が広がる東の高台で行われ,新たな都市発展を促進した。起点となったのは,微高地にあるサンタ・マリア・マッジョーレ教会だった。丘の起伏を突っ切り,真っ直ぐつくられた新たな軸線の重要なポイントに,トリトーネの噴水,パラッツォ・バルベリーニ,サン・カルロ教会,サンタンドレア教会などが登場し,バロックのローマを飾った。
こうしてローマの東側高台に新たな山の手が誕生したが,ローマ・バロックを特徴づけるさらに劇的な空間は,むしろ低地のカンポ・マルツィオ地区に展開した。ローマ市民もそこをローマ・ヴェッキアと親しみを込めて呼ぶ。
その中心,ナヴォナ広場は,ドミティアヌス帝の競技場の形態をそっくり受け継ぐものであり,中世以後,市の立つ広場となっていた。オベリスクの聳える世界の四大河川の噴水(ベルニーニ作),サンタニェーゼ教会の登場で,この広場はバロックの華やかな演劇的空間に転じた。この近くに登場したサンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会やサンティーヴォ教会は,高密な市街の中に巧みに挿入され,ローマの下町ならではの劇的な変化のある驚きの空間を創り出した。
18世紀に実現したスペイン階段は,丘の地形を最大限生かした傑作であり,石の空間の中に水が戯れる桃源郷のような異界空間を生んだトレヴィの泉とともに,ローマの後期バロックを象徴する場所となった。
19世紀のブリュッセル美術アカデミー
−−「アカデミスム」の逆説−−
龍野 有子
1830年にオランダから独立を果たした後の約半世紀間,ベルギー画壇の保守本流を形成していたのは,首都ブリュッセルよりもむしろアントウェルペンの美術アカデミーの出身者たちであった。それは,フランス併合期(1795〜1814)に親仏色を強めていたブリュッセルを牽制すべく,アントウェルペンの美術アカデミーを優遇し,国内最高の美術家養成機関として整備した,オランダ併合期(1814〜30)の文化行政のいわば後遺症であった。
ブリュッセルの美術アカデミーは,独立革命直後にダヴィッドの直弟子ナヴェズ(F.-J. Navez, 1787〜1869)が運営責任者に就任するが,オランダ併合期以来の構造的な資金難と人材難のため,この画家が高齢を理由に辞任する1859年まで30年近くの間,組織的体制を欠いたまま彼のカリスマ性のみに頼って運営され続ける。しかし,ダヴィッド流の新古典主義に忠実なナヴェズの作品は,独立革命期には既に,愛国的・ロマン主義的傾向の強いアントウェルペン派に比して旧套と評されていた。
その一方でナヴェズは,国際主義的な普遍性志向をその本質の一部とする古典主義の信奉者であったが故に,アントウェルペン派の国粋主義的・地方主義的傾向が主流を形成しつつあった国内画壇の状況には終始批判的であった。また,パリとローマで自己形成を果した自らの経験から門下生にも積極的にパリに学ぶことを勧め,自身もパリに移りたいと漏らしている。実際,アントウェルペンの出身者が同地に留まり続ける傾向が比較的強いのに対し,ナヴェズの門下生はパリ志向がより強い。そのことは,やがて1860年代に“レアリスム”の旗印を掲げて登場する前衛運動体「自由美術協会」が,アントウェルペンではなくブリュッセルで,就中クールベというパリからの刺激を梃子に形成されてゆくことと無関係ではない。つまり,より「保守的な」師がより「前衛的な」弟子を育成するという,逆説的な状況が生み出されるのである。
こうした逆説はさらなる展開を見せる。ナヴェズ頼みで組織的な指導体制を欠いていた首都の美術アカデミーは,その後の運営が著しく難航し,院長不在のまま市行政が介入して組織改革が行われるなど十数年にわたって混乱が続く。この間アントウェルペンとの格差は拡大の一途を辿り,1870年代には同窓の若手美術家の公式展への定着が困難を来すまでになる。しかしこのことが逆に,同窓会による自主運営展組織「飛躍」(1875〜91)の結成や,そこから派生して“芸術上のアナーキスム”を標榜した前衛運動体「二十人会」(1883〜94)の活動による,世紀末の首都画壇の活性化を促すことになる。
こうした展開をさらに逆説的な形で促進したのは,1878年にブリュッセル・アカデミーの院長兼絵画主任教授に抜擢されたポルタールス(J. F. Portaels, 1818〜1895)の教育改革であった。ナヴェズ最愛の弟子で女婿でもあったこの画家は,パリ留学後,ローマ賞留学中の作品でオリエンタリストとしての定評を獲得し,師の後継者として嘱望を集め,王室とも密接な関係を持っていた。その一方で自由主義的な教育者としても知られており,1863年に一度このアカデミーの絵画教授に就任したものの,守旧的な教授陣との軋轢から,僅か2年で職を辞した前歴を持っていた。そうした画家が同じ学校の院長として起用されたのは明らかに,自由主義的・近代主義的な方針によって首都の機能と権威の強化を目論む,行政側の意向による。それはこの美術アカデミーの起死回生のための最後の切り札だった。
結果的に,それは正しい判断だった。首都の美術アカデミーは世紀末にかけて,この改革者の下で国内随一の進歩的美術家養成機関へと再編され,守旧的なアントウェルペンのそれを凌ぐ吸引力を獲得してゆくことになる。しかしその過程においては,一時的にせよ学内の現場に混乱をも招いており,彼の着任直後の1870年代末から80年代初頭にかけての在学生は,結果的に自由主義的とも折衷主義的ともアナーキーとも言いうる環境の中で学ぶことになる。アンソール,クノップフ,ファン・レイセルベルヘら,1880年代後半の「二十人会」を拠点に前衛内部の多極化をそれぞれに体現してゆく画家たちは,まさにこの世代に相当する。逆に,ポルタールスの改革路線が一定の定着を見た1880年代後半のアカデミーは,オカルティスムに傾倒して反「二十人会」を唱える過激な反動主義者デルヴィルを育てることになるだろう。無論デルヴィル的な“反動”も,地方主義的アカデミスムや通俗レアリスムの否定を既成の大前提としていた点では,“前衛”内部の多極化現象の一部ではあった。
デルヴィルは,ローマ賞留学とグラスゴウ美術学校での勤務を経て,1937年まで母校の絵画教授を務めることになる。この「古くさい絵を描く」教師は,それでもデルヴォーのような画家にとっては,懐かしく回顧される存在であった。
自著を語る 23
『フランス・インド会社と黒人奴隷貿易』
九州大学出版会 2001年2月 172頁 3,800円
藤井 真理
本書は,平成11年3月に九州大学大学院から博士(文学)の学位を与えられた論文「18世紀フランス・インド会社とセネガル黒人奴隷貿易−−経営体制・ナント商人・西アフリカ商人の相互的関係の視点から」に加筆し,平成12年度科学研究費補助金「研究成果公開促進費」の助成を受けて刊行したものである。
拙著を貫くテーマは,フランス・インド会社(1719年設立)によるセネガル黒人奴隷貿易の制度と実務の解明である。これまで同会社は,イギリスやオランダの東インド会社が残した歴史的な意義と影響力の影にかくれてあまり認知されず,また知られているとしても,その活動規模は「取るに足りない」として議論の対象にはなりにくかった。しかし近年の研究によって,18世紀中葉にフランスとイギリスの会社はほぼ拮抗した貿易実績を残し,七年戦争の直前にはフランスの会社がより大規模な商業活動を展開したことが明らかにされた。とくに同会社によるアジア貿易については,詳細な史料分析がおこなわれ,商事会社としての実質的な機能が示されたのである。しかしフランス・インド会社はアジア貿易だけを組織したのではなく,アフリカ奴隷貿易もいとなみ,このうちセネガルについては約半世紀にわたって特権を保持しつづけ,安定した奴隷取引をおこなった。
大学院に進学してから,わたくしの関心はこの奴隷貿易にむかった。まず取り組んだ課題は,奴隷はどのような方法で取引されたのか,ということである。修士課程の2年間は,セネガルにおかれたフランス人居留地の構成,現地商人との商取引,西アフリカに形成される奴隷交易網の解明を目指した。奴隷供給地の実状を把握したあとで明らかにすべき問題は,本国における貿易制度と,その下で実務を担った人々(商人)の活動と役割であった。こうして博士後期課程における研究テーマと学位論文の枠組みがさだまったのである。
本書はつぎの三章からなる。第一章「フランス・インド会社による奴隷貿易」では,同会社がセネガル貿易特権を長期的に保持した理由を明らかにするために,1664年設立の西インド会社までさかのぼって,フランス奴隷貿易の制度を経営組織とその変遷過程から照射した。とくに同貿易を担当する取締役の出自に着目し,貿易商人と銀行業者が成員の多くを占める経営政策決定機関の特質を示した。第二章「ナント奴隷商人」では,実業家イニシアティヴの代表的存在であったナント商人に注目し,彼らとインド会社との連関を考察した。とくに両者が結んだ契約(1750年)を分析して,奴隷貿易が特権保持者として西アフリカで奴隷購入を担当するインド会社,船舶艤装と植民地での奴隷販売をおこなうナント商人,そして一連の活動に資金を提供するパリ金融業者の三者によって構成されるあらたな組織形態のもとでいとなまれ,貿易を発展させる契機になったことを明示した。そして第三章「セネガル居留地と西アフリカ商業網」では,伸展する貿易の客体的条件である西アフリカ奴隷市場を検討し,商品供給の実態をアフリカ側から考察した。この問題を考えるために有効な史料は,インド会社従業員が書き残した旅行記や日誌であろう。彼らは,安定した奴隷の調達と輸送ルートの確保のために,現地支配者や遠隔地商人と緊密な関係を構築し,内陸交易網を沿岸部の居留地にひきつける努力を惜しまなかった。こうしてインド会社は,実業家による経営組織と現地勢力圏を整備することによって奴隷貿易の制度を強化し,特権を長期的に持続して貿易を成長させたのである。
本書には選択した史料による研究の限界があり,反省すべき点も多いが,この成果がインド会社による奴隷貿易の実態を知るための一助になり,またフランス国際商業を論じる際のひとつの新しい視点の提供になれば,と考えている。わたくし自身は本書の準備作業を通して,民間商人がもつ国際的な事業ネットワークの一端に触れ,彼らのダイナミズムを解明したいというあらたな問題に関心をいだいている。幸運にもわたくしは,平成13年2月末から日本学術振興会・海外特別研究員としてパリ第四大学で学ぶ機会を与えられた。フランス・インド会社研究の第一人者であるフィリップ・オドレール教授の指導のもと,奴隷貿易に関与した商人が残した文書を分析し,彼らが織りなすネットワークを再現して,ナントを起点とする国際商業網の形成を論証したい。本書の成果を18世紀フランス国際商業全体の中に位置づけ直すためにも,わたくしが取り組むべきこれからの課題は,ロワール河口内港が見せる商業世界の広がりを描きだし,そのほかの海港都市の実態と比較検討する可能性を提供することだろう,と考える。
表紙説明 地中海:祈りの場25
パエストゥムのケレス神殿/島田 誠
ナポリの東南およそ60kmに位置するペストーPestoの地,西側の海に向かってゆるやかにくだる斜面に列柱の並ぶ神殿址を有する古代都市の遺跡がひろがっている。周囲5kmあまりの遺跡の内部には,建設後二千数百年を経た三つの巨大な神殿の遺構が屹立している。早春の晴れた日に訪れれば,花の咲き乱れる緑の草原の上に,青い空を背景にそびえ立つ白い列柱が迎えてくれることだろう。
これらの神殿を含む遺跡は,その富裕さと奢侈が諺にもなっているタラント湾に面したギリシア人都市シュバリスが紀元前600年頃に建設した植民市であった。ポセイドニアと名付けられた新都市は,当時カンパニア地方にまで勢力を伸ばしていた北方のエトルリア人との交易のための中継点としてシュバリス人が創建したと考えられる。母市であるシュバリスは,紀元前510年に同じギリシア人都市クロトンのために破壊された。母市の滅亡にもかかわらず,周辺地域の豊かな農業生産力と交易の要所を占める地の利のゆえにポセイドニアは繁栄し続け,紀元前6世紀中にドーリス式列柱を擁する巨大な神殿が建設された。これらの三つの神殿の規模は,他の建造物とは明らかに一線を画した巨大さであり,この都市の宗教生活の中心であったことに疑問の余地はない。
紀元前410年,ポセイドニアはオスク系イタリキー人(古代イタリア人)の一派ルカニア人の支配下に入った。その後,紀元前3世紀初めにイタリア半島南部がローマの支配下に入ると,ローマの手でポセイドニアに植民が行われ,紀元前273年にラテン植民市パエストゥムが成立した。以後,この都市には,ローマ風の広場(フォールム),神殿,公共浴場,円形闘技場などが建設され,ギリシア文化とローマ・イタリア文化との融合した都市景観が成立することとなった。ローマ都市となったパエストゥムの景観の中でも,もっとも威容を誇っていたのは,ポセイドニア時代の初期に建てられた三つの大神殿であった。
パエストゥムの遺跡の三つの神殿址は,現在はそれぞれケレス神殿,バシリカ,ポセイドン神殿とよばれるのが通例である。しかし,それらの名称は近代における誤認に基づいており,実際にはケレス神殿は女神アテナの,残りの二つの神殿は女神ヘラの神殿であることが出土品から確認されている。表紙に掲げた写真は,それらの中で,もっとも北のケレス(アテナ)神殿の列柱を西南斜面下から見上げたものである。
その住民がギリシア人からルカニア人,そしてローマ市民へと移り変わった,およそ一千年にわたる都市の歴史を通じて,人々はこれらの神殿で祈りを捧げてきた。神殿の前の祭壇では,香料が焚かれ,犠牲獣が屠られて神々の取り分が火に投じられ,その煙が青い空を天上に向かって立ち上っていた。そのような焼かれた犠牲獣と焚かれた香料の混ざった匂いは,異教時代のギリシア・ローマ人にとって身近な香りであったに違いない。
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