2001|01
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*2月研究会
テーマ:シェイクスピア喜劇におけるローマ受容の軌跡──模倣から創造へ
発表者:真部多真記氏
日 時:2月24日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
シェイクスピアの喜劇にはローマ/イタリアの古典を題材にした作品が数多く見られる。初期作品『間違いの喜劇』がプラウトゥスの『メナエクムス兄弟』を主な材源としているのは有名であるが,後期作品にはいると,『シンベリン』にみられるように,ボッカッチョ等に着想を得つつも,ローマ/イタリアをブリテンにとっての理想的な国家モデルとして描くという独自の展開をみせている。ローマの理想化に至る彼の劇作の軌跡を中心に考えてみたい。
*第25回大会研究発表募集
6月30日〜7月1日(土,日)に沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵1-4)で開催する第25回地中海学会大会の研究発表を募集します。
発表を希望する方は2月9日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
第6回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を募集しています。応募締切は2月9日(金)です。応募を希望する方は事務局までご連絡ください(詳細は月報235号を参照)。授賞式は第25回大会(沖縄県立芸術大学)において行なう予定です。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円他)が授与されます。
表紙説明 地中海:祈りの場23
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂/貫井一美
首に貝殻を下げ,バッグパックを背負い,杖を手にした若者たちが目指すのはエルサレム,ローマと並ぶ,キリスト教の聖地,サンティアゴ・デ・コンポステーラ。サンティアゴとは,聖ヤコブ(大ヤコブ)のことである。「マタモーロス」の異名を持つ聖ヤコブは,白馬に跨がって現れ,剣をふるってイスラム教徒と戦うキリスト教徒たちを勇気づけた。スペインの守護聖人である。この聖人は7年間,このガリシアの地に住み,イベリア半島における布教活動を行い,東方へと戻り,エルサレムで斬首され殉教した。その遺骸は弟子たちによってガリシア地方へと移送されたと伝えられている。813年,その聖ヤコブの遺骸が“星の導き”によって発見され,アストゥリアスの王,アルフォンソ2世はこの地を聖域とし,やがて10世紀以降,サンティアゴはヨーロッパ最大の巡礼地となっていったのである。周歩廊に5祭室,翼廊に四つの礼拝堂を配し,側廊が堂内をぐるりと巡るプランを持つ巡礼路様式の壮麗な大聖堂は,1075年以降にアルフォンソ6世によって着工され,1128年にはほぼ竣工していたとされる。
7月25日,聖ヤコブの祝日のミサでは,聖堂交差部のヴォールトからつり下げられた巨大な香炉「ボタフメイロ」が,大きく振られ,うなりをあげて,香と煙を聖堂内にふりまく。その様子はまさに壮観である。巨大な聖堂を満たしていくその香と煙の中で,信徒たちはこの地を訪れることができた喜びと神への感謝を深く胸に刻み込むのだろう。現在では,その夜には,花火が華やかに闇の空を彩り,その光を背景にして左右に約70メートルの巨大な塔を擁すスペイン・バロック様式のファサードの黒い影が,くっきりと浮かび上がる。そしてサンティアゴの町は,夜通しお祭り騒ぎとなる。
今日,この地には観光バスを乗り付けて,世界各国から人々が訪れる。この「巡礼」で命を落とす者はまずないだろう。しかし,中世には,途中で病に侵され,あるいは盗賊に襲われ,戦禍に遭い,志半ばで息絶える巡礼者の数の方が多かったのではないだろうか。イベリア半島の各地から,あるいは険しいピレネーを越えて命を賭してやっとこの聖なる地に辿りついた巡礼たちは,オブラドイロの階段を昇り,石工の棟梁マテオ作とされる栄光の玄関間(ポルティコ)に最初に足を踏み入れる。200体もの彫刻で埋め尽くされた扉口が彼らを迎える。巡礼たちは列を成して聖ヤコブの彫像が座す中央の柱の窪みに5本の指をあてて跪き,額をその柱にあて,この地を訪れることができたことを神に感謝する。その姿は,はるか中世の時代も21世紀も変わってはいないだろう。そして一生に一度の巡礼を終えて帰路に着く信徒たちの誇らしげに輝くその顔も……。聖堂の主祭壇下の聖ヤコブの銀の聖櫃。その中を見た者はいない。しかし,1200年にも及ぶ遥かな歴史の流れの中で,聖ヤコブ伝説はこの地においては史実になってしまう。
研究会要旨
中世後期トスカーナの宗教建築におけるポリクロミアについて
吉田 香澄
11月11日/上智大学
「ポリクロミア」とは,建築物の内外部を問わず,装飾的効果を高めるために,同一平面に材料によって多様な色彩を施すことを意味する。ここでは,特に構造の一部でありながら装飾としての役割を持つ「材料自身の色を利用して形成するポリクロミア」を対象とする。このポリクロミアは,イタリア,特にトスカーナにおいて多数現存しているにも関わらず,その材料の重要性や形態と色彩との関連性についてイタリア国内において十分な研究が成されているとはいえない。
中世後期トスカーナの宗教建築を特徴づける事実の一つに,殆ど全ての建築物がそれらの所在地周辺で生産される石材を使用しているということがある。この点から,ポリクロミアの形成においても地域ごとの石材が意匠の重要な要因となっていると考えられる。117件の宗教建築に施された154件のポリクロミアの事例の現地調査をもとに,ポリクロミアの基本的構成要素である色の種類と使用材料,及びその特質を分析した結果,主に明暗の強調される色彩や材料の組み合わせを用いる傾向が強いことが判明した。さらに,建築物の周辺で生産される材料が主に使用されるため,色彩はその材料の影響下にある傾向が強い。しかし,黒緑色のセルペンティーノに関しては,明暗対比の構成において重要な材料であるために,生産地の距離の如何に関わらず使用されているといえる。
そこで,ポリクロミアの形態の実相を客観的に明らかにするため,立面構成という限定した枠組みにより第1の類型化を行った。まず,ポリクロミアの施された形態要素を抽出し,それを基に大きく三つに分類した(「類型I) エレメント特化型」「類型II) 均質型」「類型III) 2層型」)。抽出された形態要素の組み合わせ方にみられる,「ポリクロミアの施された部位とその様態」を指標に各類型をさらに細分類し,ポリクロミアの総体を系統的に整理した。次に,ポリクロミアの形態とその地域性との相関関係を見出すために,色彩,材料,形態の3指標によるもう一つの類型化を行った。
これにより,六つに類型化することができる。類型1)濃強縞模様の類型は,ピストイア,プラ-トに多く存在し,黒緑色のセルペンティーノと白のアルベレーゼ等で構成されている類型である。類型2)エレメント部分に限定された縞模様の類型は,大都市よりもその周辺の小都市に分布している。これは,経済的要因のために,限られた部位にしかポリクロミアを施すことができなかったことが考えられる。類型3)ヴォルテッラの周辺地域にみられる,煉瓦と石材によってつくられた濃強縞模様の類型は,他の地域に比べセルペンティーノの生産地が近郊に存在しないという理由から,明暗対比でいう暗色を代替するために煉瓦が用意されたと考えられる。類型4)ルッカにおいて多く見られる,複数の縞模様の混成からなる類型には,主に壁面に施されたビクロミアとエレメントに施されたビクロミアの色の組み合わせが異なる場合と,ファサードの上層と下層でポリクロミアの色の組み合わせが異なる場合がある。類型5)縞模様ではなく白石のパネルを黒緑色の帯が縁取ったかのようにみえる縁取り模様の類型は,フィレンツェ近郊に存在するが,他都市とその周辺には見られない。以上のような多様なポリクロミアの形態が存在する要因は明らかではないが,地域相互間に影響があると考えられる。類型6)同種の石材が使用され,その結果施された色の明暗対比が弱く,全体として淡い印象を受ける類型であり,ピサに多くみられる。
この類型化によって得られた地域性との関連から,ポリクロミアはトスカーナの内部において伝播されたものであると考えられ,ポリクロミアの施された宗教建築の分布状況をもとに,材料の輸送や文化の伝播において重要と考えられる河川や街道の位置を検証し,ポリクロミアの伝播経路の仮説を立てた。臨海都市であるピサよりポリクロミアは輸入され,これが各都市に伝播したと考えられが,中でも全面に濃強な縞模様が施されている事例が多く存在するピストイアにおいては,ピサに加え,宗教的背景によりスペインからの影響がみられると考えられる。また,ピストイアとフィレンツェに挟まれたプラートでは両者の中間的性格を持ち,一方,シエナ,ヴォルテッラの周辺小都市では,石材の不足に伴う解決策として部位に限定して施されたり,煉瓦が使用されたりとピサの様態から変容は見られるものの,それでもポリクロミアを形成しようとする意志が読みとれる。しかし,これらの背後に潜むポリクロミアの意義そのもの,つまり「なぜ縞模様であったのか」という点については,未だ明らかにすることはできない。この現象について,一種の芸術的風潮や嗜好であると考えるには,あまりにも疑問が多い。ポリクロミアという装飾の様態の意味性とその社会的,宗教的背景を今後の課題としたい。
秋期連続講演会「都市ローマへの誘い──聖年にちなんで」講演要旨
バロック・ローマの美術
宮下規久朗
中世以降のローマ美術の変遷は,25年ごとの聖年(ジュビレオ)を軸に考えるとわかりやすい。聖年には,教皇や枢機卿,貴族たちが多くの芸術家をローマに招いて大規模な建設事業や装飾事業を行ったため,聖年ごとに記念碑的な作品や様式の刷新が見られるのである。ルネサンス芸術の中心地がフィレンツェからローマに移ったのは,1450年のニコラウス5世から1550年のユリウス2世の聖年にいたる数回の聖年において,トスカーナやウンブリアの優れた芸術家が活躍したことによる。16世紀半ばにイタリア戦争や宗教改革によって一時的に沈滞したローマは,やがて反宗教改革の気運の中で復興され,以後の数回の聖年,あるいはシクストゥス5世の特別聖年を機に,新たなバロック都市として力強く甦った。とくにクレメンス8世による1600年の聖年は文化的に大きな転機となっている。オラトリオ会を中心にカタコンベが発掘され,初期の教会史が編纂されて殉教聖人が顕彰されるなど,初期キリスト教時代の文化と歴史が見直される中で,多くの古刹が改修・再装飾され,また新しい教会も次々に建設された。こうした大規模な事業は多くの芸術家を必要とし,これを目当てに西欧各地から夥しい芸術家がローマに集まってきた。そして,様々な伝統を背負った芸術家が競合し,混交することで,様式上の革新も生まれたのである。
新たに装飾された古い聖堂では,ルスティクッチ枢機卿のプランによるサンタ・スザンナ聖堂,バロニオ枢機卿によるサンティ・ネレオ・エ・アキレオ聖堂,イエズス会に委譲されたサン・ヴィターレ聖堂,そしてカヴァリエール・ダルピーノが当時の重要な画家たちを統率してトランセプトを華麗に装飾したサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂などがあげられ,いずれも当時の美術を考える上では重要なものだが,様式的には後期マニエリスム様式か折衷様式に止まっていた。これらに対し,1599年から1600年にカラヴァッジオがサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂に制作した≪マタイ伝≫連作と,1598年から1600年にアンニーバレ・カラッチがパラッツォ・ファルネーゼのガレリアに描いた天井画は,ふたつながら新しい時代の開幕を告げるものとなった。しかし,これらの記念碑的な作品も,同時代の他の多くの美術活動の中で捉える必要がある。コンタレッリ礼拝堂の装飾はカンヴァスを壁面に設置するという画期的な方法でなされたが,これは1599年にサン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂マンチーニ礼拝堂で,サンティ・ディ・ティートやパッシニャーノらフィレンツェ改革派の画家たちが用いた方法を模倣したものであった。この中のチゴリの作品はカラヴァッジオの劇的な明暗法にも影響している。また,1599年から1600年にかけてジョヴァンニとケルビーノのアルベルティ兄弟やバルダッサーレ・クローチェ,風景画家パウル・ブリルらが手がけたヴァチカン宮サラ・クレメンティーナの装飾では,イリュージョニスティックな効果を大規模に駆使した天井画が見られ,以後主流となる「クアドラトゥーラ」の嚆矢となった。この画期的な天井画に比べると,アンニーバレのガレリア・ファルネーゼの装飾は,その写実的かつ古典的な人物表現に新たな創造の息吹を感じさせるものの,形式としては天井を小画面に分割する保守的な「クアドリ・リポルターティ」に止まっていた。この形式は17世紀半ばに衰退し,クアドラトゥーラこそがバロック様式を代表する装飾様式として,以後約150年にわたって西欧中のバロック建築を豪華に彩っていく。
続く1625年のウルバヌス8世時の聖年では,ランフランコがサンタンドレア・ヴァッレのドームに《天国》を描くが,これは師のカラッチの形式ではなく,パルマのコレッジオの伝統を甦らせたイリュージョニスティックな天井画であった。この作品をもって盛期バロックが始まったとされる。また,このときベルニーニが頭角を現し,サン・ピエトロ大聖堂に巨大なバルダッキーノを建造し,古刹サンタ・ビビアーナ聖堂を古典的な様式で再建する。彼は,続く1650年のインノケンティウス10世の聖年の際に,ナヴォーナ広場に《四大陸の噴水》を建造するなど,多方面にわたる意欲的な活動によってローマをバロック都市として劇的に変貌させていった。次の1675年のクレメンス10世の聖年では,ベルニーニの絵画部門の弟子というべきバチッチアが,イル・ジェズ教会の天井にまばゆいばかりに壮麗な《イエスの御名の礼拝》を描いている。17世紀最後の聖年となったイノケンティウス12世による1700年の聖年では,もうひとつのイエズス会の聖堂,サン・ティニャーツィオ聖堂にイエズス会士アンドレア・ポッツォが透視図法を駆使して高度にイリュージョニスティックな天井画を描いた。これは先のバチッチアの天井画と並んで,クアドラトゥーラの極致を示すものであったが,同時にローマ・バロックの終焉を告げる作品となった。以後バロック様式はローマ以外の各地にその中心を見出すことになる。
来世への投資
甚野 尚志
東京大学の総合研究博物館で「死後の礼節──古代地中海圏の葬祭文化」の展覧会をみた。小規模なものではある。だが久しぶりに,展覧会に足を運んで知的な興奮をおぼえた。その理由は,展示,カタログともに,その内容が学術的にすぐれていたということにもあるが,それ以上に「死」という,私がいま関心をもっているテーマにかんして,多くのヒントを与えてくれるものだったからだ。
今年度の私の授業は,ヨーロッパにおける死者追悼の歴史を,古代ローマからヨーロッパ中世末期までたどるものだった。祖霊を供養する行事が,国家の根幹にかかる義務とみなされていた古代ローマ。その後のキリスト教の普及による死者観念の転換。さらに,中世世界でのキリスト教会による死者供養。そうしたテーマについて授業で話しながら,古代から中世にかけて,死者の存在がつねに,生者の共同体と不可分の関係にあったということを指摘しつつ,授業はなんとかこなせた。
だが今回の展覧会をみて,自分の授業は,なお不十分なものだったと自覚した。なぜなら,ヨーロッパ世界の「死」の歴史をたどったにしては,古代ローマ以前の死者追悼の問題をまったく考慮していなかったからである。古代ローマでの葬祭のありかたが,ローマ以前のエトルリアやマケドニアの葬祭文化を継承して形成されたことがよくわかったのが,この展覧会での最大の収穫である。展示されたネクロポリス群の写真や,墓所から出土した副葬品,あるいは墓室の壁画の複製などをみれば,そこに,ホプキンスが『古代ローマ人と死』(晃洋書房)で活写したような古代ローマ人の葬祭文化の原型をみてとることができる。
ところで,展示された写真をみると,エトルリアやマケドニアの墓所のなかに,寝台や家具,椅子がおかれていたのがわかる。古代ローマでも墓所には,死者のための寝台や家具,椅子がおかれた。それらは,墓で行われる死者追悼の宴会のさいに,現世に一時戻ってくる死者が用いるものとして設置された。とすると,エトルリアやマケドニアでも,古代ローマと同じように,墓所で死者追悼の宴会が開かれたのだろうか。
なぜこの問題にこだわるかというと,数年前,ローマのカタコンベを訪ねたさい,カタコンベ内でキリスト教徒たちが,死者を追悼する宴会を,命日などに開いていたことを知ったからだ。そして,追悼の宴会のさい,現世に一時戻るだろう死者のために,椅子までカタコンベのなかにおかれていた。これは明らかに,ローマの葬祭の習慣が,初期のキリスト教徒へも継承されたことを意味するが,それはさらに,ローマ以前までたどれるものなのかもしれない。
だが,このようにキリスト教徒が異教徒の葬祭の慣習を実践することに対して,当然,批判の声もあった。その代表は,教父アウグスティヌスである。彼は『告白』のなかで,当時のキリスト教徒たちが殉教者の墓で,異教徒たちが行うような死者追悼の宴会を開き,乱痴気騒ぎをしていることを咎め,それがキリスト教徒にあるまじき行為だと憤慨している。アウグスティヌスによれば,葬儀や墓のありかたが,人間の魂の救済に影響を及ぼすことはない。彼は同時代の信徒たちに,葬祭は必要最低限なものにするように勧めている。
ただし,アウグスティヌスのような厳格な考え方は,中世世界では少数派であった。中世ヨーロッパの歴史をみれば,修道院や教会がいかに,寄進者や関係者たちの死者追悼に専念したかがよくわかろう。古代世界の死者追悼の精神は,キリスト教における死者追悼の典礼のなかで生き続けた。古代エトルリアで,有力者がネクロポリスをつくって来世への投資を行ったように,中世カトリック世界で財力のある者は,自身が埋葬される教会に財産を遺贈することにより,死後の代祷を保証してもらっていたからである。
日本の仏教でも,死者追悼のために法要と宴会がなされてきたことはだれもが知ることだが,世界中どこでも,死者の墓をつくり供養をするという基本姿勢は同じであ
ろう。宗教学者エリアーデは『世界宗教史』(ちくま学芸文庫)のなかで,人類は,旧石器時代からすでに,死者を墓に埋葬し追悼してきたことを指摘している。来世のために配慮することは,人類がその初めからもった本能的な欲求といえるだろう。そうみると,散骨による自然葬で,墓をつくらないという考えは,人間の歴史にとって旧石器時代いらいの革命的思想なのかもしれない。
(追記) 「死後の礼節」展覧会のカタログでは、Investing in the Afterlifeが一貫して「来世のための出資」と訳されている。だが、これは「出資」ではなく「投資」と訳さないとその本来の意味は理解されないだろう。
ジャケス・デ・ヴェルトの手紙
園田みどり
昨年の11月,久しぶりにイタリアに行く機会を得て,私はレッジョ・エミーリアにほど近いノヴェッラーラという小さな町を訪れた。数年前にその地の古文書館員が発見し,一昨年末にイギリス人研究者が出版した16世紀の作曲家ジャケス・デ・ヴェルト(1535〜1596)の手紙を見るためである。
ヴェルトはオルランド・ディ・ラッソと同世代でパレストリーナよりも10歳ほど若い。出身地のフランドルからまだ子供のうちにイタリアへと連れてこられ,そこで音楽教育を受けたところまではラッソと同じだが,ヴェルトは彼とは違って生涯イタリアに留まった。ナポリ近郊のアヴェッリーノを振り出しにローマ,ノヴェッラーラ,ミラノを経て,1565年から没年までマントヴァ宮廷に仕えた。特に世俗音楽の分野で大きな足跡を残したが,その全貌が明らかになり個々の作品が音楽史研究の俎上に載るようになったのは,同時代の多くの作曲家と同様,第二次大戦後のことである。
もっとも,ヴェルトは19世紀末に一時期注目されたことがあった。彼の生涯は,同衾中の妻とその愛人を殺害した作曲家,カルロ・ジェズアルドにも匹敵するほどのさまざまな出来事に彩られているからである。
ヴェルトは上述のとおりマントヴァで職を得るが,間もなく彼の着任を喜ばない古参の同僚から陰湿ないじめを受け,ついにはその一人アゴスティーノ・ボンヴィチーノによって妻が誘惑されるという事態に至った。妻の不貞を自分一人が知らなかったことに気づいた彼は,雇い主であるマントヴァ公グリエルモ・ゴンザーガに二人を告発する手紙を書き,怒りをぶちまけている。その後,ヴェルトの妻は生まれ故郷のノヴェッラーラに帰されたが,ノヴェッラーラ伯爵家毒殺未遂事件に荷担した咎で投獄され,数年後に獄死した。
一方,ヴェルトは伯爵家に対して訴訟を起こす。事件のためにノヴェッラーラ屈指の資産家だった妻の遺産が全て没収されてしまったからである。係争中,彼はマントヴァ公だけでなくフェラーラ公アルフォンソ・デステにも口添えを求めた。そのため何度もフェラーラに赴くこととなったが,そこで彼は宮廷に仕えるある美しい未亡人と出会った。高名な文人フランチェスコ・マリア・モルツァの孫娘タルクイーニアである。タルクイーニアは祖父に勝るとも劣らない教養人で,哲学や神学を修め,プラトンの翻訳をものしたほどであった。詩作および音楽の才能にも恵まれていた彼女とヴェルトとの間には,いつしか恋心が芽生えた。しかし,身分違いのこの恋は成就することなく二人は引き裂かれてしまう。
ヴェルトを取り巻くこのようなスキャンダルは,マントヴァおよびモデナの国立古文書館にあるヴェルトやフェラーラ公の秘書官の手紙などから再構築され,研究者の関心を引いてきた。それに対し,今回ノヴェッラーラで発見された38通の手紙には,スキャンダルよりもむしろヴェルトの人柄や関心事,宮廷の日常生活が読みとれ,大変興味深いものがある。
38通は全てヴェルトがノヴェッラーラの宮廷を去ったあとにしたためたもので,大半がかつての主人アルフォンソ・ゴンザーガ伯に宛てられている。新しく勤めることになった宮廷の様子を数日分の日記として綴ったものもあれば,サラミを譲って欲しいと切々と訴える文面もあり,またアルフォンソやその妻ヴィットリア・ディ・カプアに頼まれた買い物や用事についての経過報告もある。出来上がったばかりの新作に添えて送ったとおぼしき手紙もあれば,誰のこんな主題の歌詞を送ってほしいと願い出る一節もある。伯爵相手にノヴェッラーラとその近郊の土地取引を提案するものもあり,特に亡くなる前の数年の間に書いた手紙はほとんど全て不動産がらみである。
同時代の作曲家で,これほど詳細に記録が残る例はひじょうに珍しい。その生涯を知るための唯一の手がかりが印刷譜の献辞のみであることも,決してまれではないからである。
今回のノヴェッラーラ訪問では,古文書館員氏とも親しく会話をすることができた。彼曰く,イタリアの小さな町にはどれほどの古文書の山が未整理のままうち捨てられているかわからないという。手紙だけでなく,ヴェルトに関する当時の記録を可能な限り網羅的に入力したデータベースを私に見せながら,今度は自分たちでこれを元に本を書くつもりだ,と彼は言った。
サラマンカ大学(スペイン)
福井 千春
国境から乗った夜行列車は,遠くに一筋立ち昇る人家の煙が見えると,がくんと速度を落として,朝靄の中をゆっくりとカーブを描いていった。どこまでも続く赤茶けた大地は,もう小麦が稔っているのだろうか,所々剥げたように見える斑模様となって地平線の彼方に消え,なだらかに広がる風景に時おり申し訳程度にはコルク樫やモチノキが群生して陰翳を作り,水量の乏しい小川の傍らで草を食む牛や羊と,車窓近くのこんな朝まだきから働いている牧童の姿が目を楽しませてくれる。二本目の煙草を吸い終わった時,列車は派手な金属音を軋ませて終着駅サラマンカに到着した。
雨だった。やむなく駅前のバーに入り,カフェオレをすする。あちらにはアメリカ人と思しき年配の団体が,揃って野球帽に半ズボンのいでたちで喧騒を作っている。物乞いの女がひとり垢まみれの子どもの手を引いて近寄ってきたが,その薄汚れた原色の頭巾のほうを振り向くものもいない。入れ替わりに白い杖をついた盲人が通る声で宝くじを売りに来たので,運試しにとポケットの小銭をまさぐってみる。ふと気がつけば,先ほどまでの驟雨も上がり,雲ひとつない紺碧の空を背景に大聖堂の尖塔が聳え立ち,コウノトリが悠然と飛来する間を無数のツバメが舞っている。やはりスペインはこうでなくてはいけない。
サラマンカ大学は13世紀の初頭に創設されている。何ゆえこんな最果ての地にという疑問もわこう。これより先はエストゥレマドゥラの痩せて乾いた大地が無限に広がっているだけである。しかしサラマンカは,ポエニ戦役でハンニバルに掠奪されていることからも判るように,古くは,銀と羊毛の交易で栄えた町だった。16世紀には15,000人以上の学生を擁し,ヨーロッパ有数の大学のひとつとなっている。火焔渦巻く細工のプラテレスコ様式の結晶といわれる大学正門を見上げる度に,誰が言い出したのか古くから,神はこの国に温暖な気候と豊かな佳肴をお恵み下されたが,政治だけは授けていただけなかったという俚諺が思い浮かぶ。確かに有史以来,スペインに安定した体制が続いたことは一度としてない。半島の北の果ての、雨に煙る鬱蒼として森の谷間に生まれた小さな部族国家が、南の栄華を極めるイスラムを制圧するまでに、800年という気の遠くなるような歳月を要し,つかの間大航海時代の夢に酔いしれたものの,たちまち遺産は使い果たして産業革命に乗り遅れ,ナポレオンによって山河は焦土と化した。はびこる大貴族と未成熟な市民を抱えて今世紀をむかえた国民には,フランコ将軍というのは已む無い選択肢であったのだろうか。国を二つに分けて戦火を交えた記憶は,まだ至るところに残っている。
正門を出て,予備学校中庭を抜け,ルイス・デ・レオン学寮の脇から数学科に至る石畳の小径が,昼さがりの散歩道になった。眼下のトルメス川は春先にはまだ水流も速く,新緑の間を渡る山鳥の跡を追いかけてローマ橋の袂まで行ったこともあった。世界遺産にも指定される30ほどの校舎が,町全体に点在し,教室や学生寮はもとより飲食店,ホテル,遊技場,そして礼拝堂までが渾然とキャンパスを作っている。市民は大学の時間割に合わせて生活し,学生の寄り付かなくなった店から寂れていく。この町には産業と呼べるものはなく、かつて大学も存続を危ぶまれたこともあった。首都から遠く、交通も遮断された町のたどる運命なのであろう。しかしサラマンカは、新しい私立大学の建設と、怪しげなものまで含めれば三百は下らない語学学校の繁盛のおかげで、もっぱら観光収入によって現代に甦ることになった。今も、サン・エステバン教会の由緒ある建物を五つ星ホテルに改築する、景気のいい小槌の音が聞こえてくる。
金曜の夜は,心持ちお洒落をしてマヨール広場に行こうか。夏の盛りは,チュリゲラ兄弟の手になる建築が夕陽に映えて黄金色に染まる。今宵はチェ・ビクトルで雉鳩の胸肉のローストにしようか,それともパラシオの生フォアグラも捨てがたいなどと,行きつけのテラスのいつものテーブルで待ち人来らずでいると,どこからか聞き覚えのあるメロディーが流れてくる。バルコニーの下で,トゥナという学生の楽隊が思い姫のために恋歌を競っているらしい。行き交う人の派手な帽子やネクタイを見て,ピカレスク小説がこの町で産声を上げたのを思い出した。ラサリリョが最初に奉公した無一文の主人は,どんなにひもじくても,日に一度は楊枝を咥えて広場に顔を出す騎士だった。この町の暮らしは今も決して高くはない。世間体を重んじる頑固なカスティリャの気風は相変わらず続いているようである。
チュニジア映画『ある歌い女の思い出』紹介
石原 郁子
第47回カンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞,他にも多くの国際映画祭で受賞している『ある歌い女の思い出』が,2月10日からJR中野駅に程近い中野武蔵野ホールで公開される。意義深いのは,これが,実質的に日本で初めてロードショー公開されるチュニジア映画であることだ。厳密に言えばチュニジア・フランス合作で,両国の合作映画は過去にもう1本だけ公開されているが,それは監督も内容も完全な欧米映画だった。本作は,監督はもちろん主要スタッフも出演者もすべてチュニジア人。チュニジアの1950年代とその10年後とをつないで美しい母娘の生き方を描き出すもので,チュニジアの歴史・民族文化・人情が豊かに溢れている。
カルタゴの繁栄で知られる古い歴史を持つチュニジアだが,その1950年代といえば,フランスの傀儡として細々と生き延びた王家が,植民地支配からの独立を求める民衆の前に倒れようとしていた時期。王宮の美しい女奴隷ケディージャは,娘アリヤを慈しみ育てながら,その父が誰であるかについては決して口にしなかった。皇太子シド・アリがアリヤを可愛がってくれ,他の奴隷や召使たちも親切にしてくれるが,成長するにつれて彼女の心には,王宮から一歩も出ることを許されず,すべてにじっと無言で耐えている,母の生き方への反発が湧く。民衆の熱気に呼応するように王宮を脱出するアリヤ。だが歳月がたち,恋人の望まない子を宿して方向を模索中のアリヤは,父だったかもしれないシド・アリの訃報を受けて,寂れた王宮を再訪し,そこにまざまざとよみがえる亡き母の「沈黙の恋」の強さをみつめ直す……。
王家と言っても決して富裕でも強大でもなく,小さな王宮に少人数の使用人たち。台所の女奴隷が王子のベッドにも侍り,宴会のアトラクションも演じる。だからこそ,その中でのしきたりや制度に縛られてもがく人間模様が,王家側でも奴隷側でも,せつなくも濃密に描き出される。衣装や食事などこまかい部分まで当時の王宮の生活が丁寧に再現され,それぞれに哀しい事情を抱えつつ精一杯生きる一人一人の女奴隷たちがいとおしい。
監督ムフィーダ・トゥラートリは,パリ高等映画学院で学んだ才媛で,だから決して異国情緒を売り物にすることなく,正統派の端正なつくりだが,やはり独自の文化の絢爛たる彩りには,目をみはらずにはいられない。ケディージャからアリヤに伝わる舞踊や音楽の才能は,貴賓の耳目を楽しませるお慰みとして,彼女たちの置かれている地位の低さの象徴でもあるが,一方では,みごとな芸術として,魂の誇り高い自立の象徴ともなる。日本の琵琶のルーツでもあるウードの深い響きや,西洋音楽とはまったく異なるこまかな情感に震えつつしかも凛々しい歌声が,繰り返し心にしみわたり,女たちの豊満な美しさや表情豊かなしぐさが眼に残る。問い合わせ先エスパース・サロウ(03-3496-4871)。
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