学会からのお知らせ
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第6回「地中海学会ヘレンド賞」(以下ヘレンド賞,第5回受賞者:石井元章氏)の候補者を下記の通り募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円,その他)が授与されます。授賞式は第25回大会において行なう予定です。応募申請用紙を希望する方は事務局までご連絡ください。
ヘレンド賞
一、地中海学会は,その事業の一つとして「ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2001年1月9日(火)〜2月9日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
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*第25回大会研究発表募集
来年6月30日〜7月1日(土,日)に沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵1-4)で開催する第25回地中海学会大会の研究発表を募集します。
発表を希望する方は2001年2月9日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
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*会費口座引落について
先にお知らせしました通り,会費の口座引落にご協力をお願いします。また,今年度会費を未納の方は,至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,新入会員の方には「口座振替依頼書」を月報前号(234号)に同封してお送り致しました。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,会費請求データは学会事務局で作成し,個人情報は外部に漏れないようにします。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:2001年2月23日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2001年4月23日(火)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
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* 新名簿
ようやく新名簿(2000年11月10日現在)を作成しました。会員の方々には月報234号(11月号)に同封して新しい名簿をお送りしました。
会員データは学会へ登録されたものを掲載しています。誤植,変更等がありましたら,お手数ですが,事務局までご連絡ください。次回で訂正します。
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*2月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。
テーマ:シェイクスピア喜劇におけるローマ受容の軌跡──模倣から創造へ
発表者:真部多真記氏
日 時:2001年2月24日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
シェイクスピアの喜劇にはローマ/イタリアの古典を題材にした作品が数多く見られる。初期作品『間違い
の喜劇』がプラウトゥスの『メナエクムス兄弟』を主な材源としているのは有名であるが,後期作品にはいると,『シンベリン』にみられるように,ボッカッチョ等に着想を得つつも,ローマ/イタリアをブリテンにとっての理想的な国家モデルとして描くという独自の展開をみせている。ローマの理想化に至る彼の劇作の軌跡を中心に考えてみたい。
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事務局冬期休業期間:2000年12月27日(水)〜2001年1月8日(月)
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地中海学会大会 地中海トーキング要旨
酒と海と大地
パネリスト:樺山紘一/橋口收/福本秀子/司会:木島俊介
地中海と酒という内容で地中海トーキングの司会をやれとおおせつかったとき,これは困ったと思った。少年時代からの放浪癖と飲酒癖で,世界各地のありとあらゆる酒を飲んできたが,ただそれだけのことであって,というよりも,ひたすら酩酊するばかりであって,私のなかではそれらの経験が知識にも人格にもほとんど影響を与えていない。少なくとも善い意味においては。そのように実感される。若い時代には,文学を読みふけっていたから,そこに登場する酒を色々試してみたりしたが,ほとんど失望するばかりだった。それは,あたりまえで,酒のうまさというものは,飲むときの状況と不可分に結びついている。
とはいえ,最初に私の頭に浮かんだのは,職業柄なのだろうか,ミュンヘンの古代博物館が所蔵しているアッティカのキュリクスに描かれている《海を渡るディオニュソス》や,ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂アトリウムに現された《葡萄の木の脇で眠っているノア》の図像だった。航海するディオニュソスに関しては,カール・ケレーニイの労作『ディオニューソス 破壊されざる生の根源像』の和訳もあるし,ノアの象徴するところについてとりあげようというのでもない。ただ,これら二人の人物のいかにも駘蕩とした姿が思い出されたのである。ワインはもちろん陸地が生みだしたものだが,そのワインを海がはぐくんできたと言えなくもないであろう。ポルトガルのマデイラ,スペインのシェリー,シチリアのマルサラ,ギリシアのマルヴォワジー,さらに加えれば,イギリスへの輸出ということではブランデーもそう言えるかと思うが,これは地中海から離れてしまう。
これは私のうろおぼえから,たしかフローベールの『感情教育』のなかにはパンチが登場するが,これにはナツメヤシから造るアラックを使ったようだと発言してしまって,会場から訂正を受けた。これは後日のことだが,この小説の中にはたしかに,パンチの作り方は記されていないし,ラムやトカイは登場するが,アラックは登場しないことがわかった。ただ,調べている内に,パンチは17世紀のインドで生まれ,ヒンドゥスターニー語で「五つ」を意味すること。つまりアラックとライムとスパイス,そして砂糖と水の五つの材料を入れたところからくるのだと言うことを知らされた(福西英三氏の説)。私はただ海を渡ってやってきたと言いたかったのである。
海を渡るといえば,カタロニアのシャンペンともいうべき「カバCAVA」と「バカ(牛肉)VACA」と「アホ(にんにく)AJO」とが青森県に飛び火しておもわぬ顕彰を授けられたという愉快な話が,自称これらの言葉と関係の深い樺山紘一氏から紹介された。
私はしきりに,海と水とが高揚させる酒というテーマにこだわっていて,古代のコス島の人たちはワイを海水で割って飲んだという謂れを聞いて若気の至りで初めてのギリシア旅行の際に試してしまったなどということをしゃべっている。これも何処で得た知識だったか今では調べようもないのだが,まずかったことは確かだった。ところが,福本秀子女史からは「古桶やバッカス飛び込むワインの音」などというフランス製の俳句も紹介された。女史によれば,今後ワインの味というものは,従来のごとく「辛口ワインは化粧をしない女性のようだ」などという女性にたとえた言葉で語られるのではなく,「男性の味」になぞらえて語られるべきだとか。古桶に飛び込んだバッカスは果たしてどんな味がするのだろうか。
橋口收氏は,シャンベルタンによってワインを再認識されたということで,この銘酒をなんとナポレオンは水で割って飲んだのだと無念そうに語っておられる。これは,水によっても高揚されるワインという私の勝手なイメージをそこなうエピソードだったが、続いて,灘の名水のいわゆる宮水は,いちど海に入ることできりっとした硬水となり,ここから辛口の男酒が生まれるという話に,司会者はおおいに救われた。男酒,シャンベルタンで身をひきしめ,古桶に飛び込むバッカス,駘蕩としたディオニュソスならぬ「男性の味」をもって福本女史の前に立たねばならぬというのが司会者に与えられたいましめであった。
(文責:木島俊介)
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東地中海世界に遠ざかるローマ帝国
――6世紀後半の史料から見た帝都市民の心象風景――
倉橋 良伸
本稿で取り上げる6世紀後半は,「ユスティニアヌスの後継者時代」と呼ばれ,ローマ帝国からビザンツ帝国への過渡期に相当する。ここで煩雑になることを恐れずに,この国の名称について整理しておきたい。
ローマ帝国史の時代区分では,4〜6世紀を「後期ローマ帝国」として,7世紀から1453年の滅亡までを「ビザンツ帝国」と呼ぶのが一般的である。もっとも,この時代区分には異論がないわけではなく,「後期ローマ帝国」の開始を3世紀末に求めたり,既にこの時代から「ビザンツ帝国」の名称を用いる者もいる。
従来は,「帝国の東方(=ギリシア)化」という観点から,遷都や支配領域の変化に注目していた。つまり,その視角においては,ローマ帝国が東方化したものがビザンツ帝国であった。しかし,これは西欧中心主義に基づく歴史認識であるので,現在では,古代から中世への移行をローマとビザンツという呼び分けにより表現している。もちろん,中世とは何かという専門的な議論が必要となるが,ここでは割愛させていただくしかない。
筆者が重要と考えているのは,その移行を内在的に見ることである。結論を先取りするならば,3・4世紀よりも6世紀後半からの変化が急激であり,7世紀以降を「ビザンツ」と呼ぶ方が内実に即している。
この国では,何人もの叙述家(教会聖職者であったり官僚出身であったりする)により歴史が書き継がれていく伝統があった。つまり,前任者が筆を置いた時点から後任者は意識的に筆を起こすのである。彼らは,各自が自分と同時代の出来事を描写するというスタイルをとる。もちろん,この「系譜」とは無関係に歴史を書き記した者もいるし,テオファネスの『年代記』(284〜813年)のようにより長い時代を扱った著作もある。
6世紀後半の系譜としては,「再征服戦争」を詳細に伝える有名なプロコピオスに続いて,アガシアス(主に552〜559年を扱う),メナンドロス(559〜582年),そしてテオフュラクトス(582〜602年)の著作がある。いずれもそのタイトルは『歴史』である。ただし,話の続き具合を考慮して,担当する時代の少し以前から説き起こしていたり,逆に後日談に類する内容もある。
彼らは,聖書やギリシア古典(ホメロスやトゥキュディデスなど)の素養を駆使して歴史叙述を行なっていて,『歴史』というタイトルもヘロドトスを意識したものである。なお,この時代になると,多くの著作はラテン語ではなく,ギリシア語で執筆されるようになる。この傾向は,6世紀後半から拍車がかかり,公用語も7世紀になると正式にギリシア語に代わる。
それは,帝国の支配領域が,ギリシア語を共通語とする東地中海世界に次第に限定されていくことに大きく関係している。しかし,より決定的な要因は,これらの著作が帝都コンスタンティノポリスの知識人層を読者として想定していたことである。ただし,ユスティニアヌス一族がラテン語を母語としていたように,ラテン語を解する人々が帝都からいなくなったわけではない。例えば,ユスティヌス2世の即位(565年)に際して頌詞を献じたコリップスは,流暢なラテン語を用いている。
さて,上述した歴史叙述には,興味深い顕著な傾向がある。それは,西地中海世界に関する情報量の激減である。既にプロコピオスにおいて,東ゴート族との戦場になったイタリアに関する情報は詳しいが,ヒスパニアやガリアについては皆無に等しい。フランク王国に関しても,イタリアとの関連でのみ言及される。さらに,東ゴートとの戦争が562年に終結すると,イタリアに関してすら言及されることは稀となる。テオフュラクトスに至っては,トピックスの間に唐突に「ローマ市はロンバルド人の襲撃に耐えた」という具合にごく短く挿入され,明らかに「その他」の項目の扱いを受けている。
これとは対照的に,580年代以降,帝都を脅かす勢いを示していたバルカン半島北部のアヴァール族や,572年以降,大規模な戦争を行なった中東のササン朝ペルシアに関する情報は,詳細かつ莫大な量になる。もっとも,東方に関する情報には著しい偏りがあり,エジプトや小アジアに関してわれわれが得られるのはゼロに近い。
この状況は,帝都の知識人層(民衆も含めて良い)の関心と直接リンクしていると考えられる。もともと地理的に遠方に位置する西方の情勢が思わしくなく,人々の歓心を買うような情報を提供できなかったのである。
帝都には西方に関する公文書が多数保管されていたはずだが,それらは歴史叙述に反映されなかった。その結果,ラヴェンナとカルタゴに創設されたエクサルコス制や,イタリアにおけるロンバルド族の勢力伸長,そしてフランク王国との交渉といった,この時代の重要な出来事に関する情報の多くは永久に失われてしまった。
かくして,西地中海世界は,少なくとも帝都市民にとっては,確実に遠い世界のこととなっていく。
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古美術から歴史資料へ
飯島 章仁
岡山市立オリエント美術館へ勤めて近年感じることですが,所有主が亡くなった中近東古美術のコレクションの買上げを,遺族が求めてくることが増えました。そういう時期なのでしょうか。文化財が美術館へ寄贈されればその金額だけ相続税が免除される制度もこの国にはありませんし,藁にもすがる思いで美術館の戸を叩く気持ちがよくわかります。しかしいくら文化財の収集が役割でも,われわれとて地上に散在する夥しい物件を手持ちの費用で救済できるものではありません。購入予算はよほど入手が困難で公共財とする切実性のあるものへの,なけなしの切札です。雀の涙のような金額では,毎月のようにあるそうした依頼にはまず応じられず,収集家が情熱をかけて買い集めた品々がこの先どうなるのか,いつも悲しい思いです。
1960〜70年代頃,中近東の古物がたくさん先進国へ持ち出され,美術館や個人の収集となりました。私たちの美術館もその頃に情熱をふるったひとりの収集家の寄贈で発足しました。現在約3,000ある収蔵品のうち2,000点近くがその人からで,開館後に購入した数十点以外は,他の資料もほとんどが多方面からの無償の寄付によっています。ところがそうした破格の善意を受けながら,私たちのような中近東の美術館は大きな問題を抱えています。もし美術館や博物館が過去の社会や人の生きざまを通して人間の本質を考える場なら,優れた芸術作品や貴重な歴史の物証から人々の営みを想起し,彼らの躍動と息遣いを感じられることが重要です。しかし中近東の古美術はほとんどが古墓を暴いて持ち出され,美術市場を経て輸入されたもので,作った社会から切り離されて単にモノとしてそこにある以上,陳列ケースに並べても歴史への洞察を開く展示は困難です。
ヨーロッパも含めて,埋蔵文化財の保護の意識は時代とともに発達してきました。過去の遺物への見方が変わり,それまで非難の対象とされなかった行為が次第にそうでなくなる。世界のどこでもそうした過程を経て今に至りました。学術的な記録のない発掘は盗掘にほかならず,それは出土品が置かれていた状況を破壊し,歴史の解明を妨げるという認識が,今やすっかり周知となりましたが,すでに流出した遺物が大量に散在するのもまた事実です。
こうした世界の珍宝の獲得に狂奔する美術館の収集活動が,展示を通じて個人コレクターの収集熱に拍車をかけ,盗掘と不法な売買を助長したといわれます。私のところへも学芸員の悪徳を非難する声がよく届きます。「あなたたちの行為が一般の収集熱を煽り立て,取り返しのつかない盗掘を誘発しているのだ。あなたたちさえ身勝手な収集をしなければ,遺跡が破壊されることはなかった」と。観客として来訪した考古学者に延々と罵声を浴びせられたことがありますが,私たちの展示を見て日頃の思いが噴出したのかも知れません。私たち学芸員は,どこへ行ってもあらん限りの憎悪をぶちまけられる対象です。
しかしわれわれとて,かつて欧米列強がした威信競争を後追いするつもりはなく,学術調査の事例が僅かでもあれば,上記のような収集品にもそれらとの比較を通じて歴史性を回復し,現場の空気を感じられる展示をしたいと願っています。そうなれば,展示室には出土状況を示す古墓とその骸骨の写真がずらりと添えられ,正視に絶えない凄惨な光景が生まれますが,私はそれでいいと思います。またそれら出土遺物が歴史資料である前に,本来は死者へのさまざまな思いを込めて遺族が供えた品であったことも,もっと喚起したいと考えます。
盗掘を経た遺物も,歴史の目撃者である以上は,努力次第で再び何かを語り出す可能性があります。私たちも現地で遺跡や文化財を保護する人を多く知っているし,収集だけに熱をあげているつもりではないのですが,骨董市場や収集家を点々とする遺物を公共財にする努力を盗掘の助長と非難されればひどくこたえます。たしかに遺物の現地保存の原則に照らせば私たちの仕事には多くの不道徳がありますが,しかしこれにも入り組んだ権利関係など難しい問題が潜んでいます。
出土状況を知らないがゆえに集められた品々が,世の中に氾濫しています。寄贈者の厚志には感謝の言葉もありませんが,愛玩物として骨董趣味的な観点で集められた品物を歴史を生き生きと語る素材へ生まれ変わらせることは,私たちのような美術館が直面する課題であり,重い悩みです。これには各分野で現地踏査も含めた長い地道な調査が必要で,スタッフや調査の機会も乏しい中を少しずつ進めるのがやっとです。骨董ブームといわれる中,現代の大量消費社会にあって,古伊万里や加賀蒔絵など古きよきものを大切にすることが非難されるはずはなく,美術商もリサイクルの仲介に重要な役割を担っています。しかしそれが中近東の出土遺物となると,海の向こうのことのためか,遺跡や古墓が穴だらけにされている現実は意識にのぼりません。私たちのような美術館は存立の基盤からして矛盾そのものです。
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地中海人物夜話
あるマラーノ医師の生涯
――アマトゥス・ルスィタヌス――
宮武 志郎
14世紀レコンキスタが進展していたイベリア半島では,多くのユダヤ教徒が厳しい選択を迫られていた。それはイベリア半島のキリスト教諸国が他の国々と異なり,ユダヤ教徒をキリスト教へ強制的に改宗させるという方法で,彼らを国家の枠内に組み込もうとしていたからである。その結果,多くのユダヤ教徒が迫害を受けるよりも,キリスト教に改宗することを選び,マラーノと呼ばれるようになった。その中には自らの知識と技能を利用して宮廷侍医となる人々もいた。それは,彼らがかつてイスラーム統治の下,古代ギリシア以来の伝統を基にイベリア半島で医学を発展させた経緯があったからに他ならない。ユダヤ教徒の哲学者として著名なマイモニデスも,そのような医師の一人であった。マイモニデスはムラービト朝から迫害を受け,イベリア半島を後にした。その約400年後に,同じイベリア半島を離れたマラーノの中にアマトゥス・ルスィタヌスAmatus
Lusitanusという医師がいた。紙面を拝借して,16世紀地中海世界を流浪したこの人物の数奇な運命の一部を紹介したい。
ルスィタヌスは1511年,ポルトガルのカステロ・ブランコでマラーノの家庭に生まれた。マラーノであるルスィタヌスは,当然のことながら,ジョアン・ロドリゲスというクリスチャンネームも持っていた。ルスィタヌスはスペインのサラマンカ大学で医学を修めた後,ポルトガルに戻り若き医師としての生活を始めた。しかし,1536年にポルトガルで異端審問が強化される直前の1533年,ルスィタヌスは危険を察知してか,多くのマラーノと同じようにアントウェルペンに移住している。アントウェルペンは神聖ローマ帝国皇帝カール5世が1526年にポルトガル系の新キリスト教徒(マラーノ)に対して,安全を保証した都市であった。そのため,多くのマラーノが避難先としてこの地に移住しており,ルスィタヌスも先例に倣ったのであろう。同時に,ルスィタヌスはアントウェルペンを拠点にして,巨大な富を築いていたナスィ一族とこの地で面識を得ている。当時,ナスィ一族はポルトガルからのマラーノをアントウェルペン経由で,安全なイスラーム世界へと避難させていた。しかし,ルスィタヌスはこの地にとどまり医学の研究を深めた結果,その名声は各国の宮廷侍医にも届くほどになっていた。そのため,1540年にはユダヤ教徒やマラーノに対し比較的寛容であったフェッラーラ公国に招かれてアントウェルペンを去り,フェッラーラ大学で教鞭を執ることになった。ルスィタヌスはこのフェッラーラ滞在中に多くの内科医,解剖学者そして植物学者と議論を交わす恵まれた研究生活を送っていたようである。その後,ラグーザ共和国(現ドゥブロヴニク)の招きに応じて,1547年フェッラーラを後にした。ところが,ルスィタヌスはラグーザからの正式な招聘を待つためと称し,ローマ教皇領のアンコーナに赴いている。アンコーナはヴェネツィアが握っていた東方貿易の利を奪取するために,歴代の教皇が親ユダヤ,親マラーノ政策を続けていたため,多くのユダヤ教徒やマラーノの商人が居留していた港市であった。その滞在中にルスィタヌス1550年には教皇ユリウス3世の妹の治療を行い,その名声を確固たるものにした。しかし,ルスィタヌスの研究生活どころか,彼自身の命まで脅かす事件が起きた。アンコーナ事件である。この事件は当時激しく吹き荒れていた新旧両派の対立の中で,異端に対し激しい憎悪を抱いていたパウルス4世が教皇に就任した年に起こったものである。パウルス4世は教皇領アンコーナに滞在していたマラーノを逮捕し,異端審問にかけて24名を焚刑に処した。パウルス4世がこの事件を起こしたのは,勢力を拡大しつつあったポルトガル系マラーノに対する反感であったとされる。が,一説にはルスィタヌスが自らの著作の中で,ウィーンの宮廷侍医であったマッティオーリを批判したことに対し,マッティオーリがパウルス4世に働きかけたからだともされている。ともかくも,ルスィタヌスはこの災いを何とか切り抜け,多くのマラーノと同様,ペーザロへ逃れた。その後,1556年にはラグーザに,そして1558年にはオスマン朝の中でユダヤ教徒の一大コミュニティーがあったサロニカへ移住し,そこでユダヤ教徒であることを宣言し,その約10年後の1568年にユダヤ教徒として波乱の生涯を閉じた。アンコーナ事件後の逃避行では,ルスィタヌスが知己を得ていたナスィ一族の援助があったと考えられる。しかし,ナスィ一族のいたイスタンブルではなくサロニカを選んだのは,ルスィタヌスが政治の世界に巻き込まれることを嫌ったためなのかもしれない。
ルスィタヌスは各地で様々なトラブルに遭遇しながらも,数多くの著作を残した。その生涯に,まさに医学の道を究めようとする姿を見ることができる。マラーノであるが故に,平穏な学究生活を送ることができなかったにもかかわらず,ルスィタヌスが研究者としての生涯を全うしたと感ずるのは筆者一人であろうか。
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自著を語る22
アンナ・マリア・オルテーゼ著『悲しみの鶸』(上)(下)
村松真理子訳 白水社 2000年7月
(上)257頁(下)249頁 各巻2,200円
村松真理子
もう10年以上前,エットレ・スコラ監督の「マッケローニ」というコメディー映画があった。ジャック・レモン演ずる主人公は企業のエグゼクティブ。数十年ぶりに若い頃米兵として滞在したナポリを出張で訪れる。そこでいやに親し気に近づいて来るのが,マルチェッロ・マストロヤンニ扮するナポリ男。何だかんだとその饒舌と事件に巻き込まれるうち,忘却の彼方からかつての恋や思い出がよみがえり,いつしか日常は非日常に侵され,生と死の境すら曖昧になる……。
20世紀後半のナポリが,そんな経験を旅人に強いる力をまだもつなら,18世紀には,よく知られる通りヴェネツィア,ローマ,フィレンツェと並ぶイタリア「グラン・トゥール」の主な目的地だった。その抗しがたい魅力とたえがたい「暴力」が,イギリスはじめヨーロッパ各国からの貴族やブルジョワの若者,芸術家たちに旅の憶い出を書き残させ,ヴェスヴィオや港,海の風景画を描かせた。1787年に訪れたゲーテによれば「ナポリは楽園だ。人はみな我を忘れた陶酔状態で暮らしている」。そして彼は自問する。「お前は今まで気が狂っていたのだ。さもなければ,現在気が狂っているのだ」と。一方,1776年にやって来たサド公爵のナポリは「世界で最も愚かな輩の住む世界で最も美しい王国」だ。「金儲けへのちょっとした誘惑で,タブーも名誉や徳に関する考えもすっかり翻されるモラルの失墜した国」と手厳しい。
ナポリの旅人。それはすでにデカメロンでも描かれるトポスだが,『悲しみの鶸』(Cardillo addolorato)はその光りの世紀の末から19世紀初頭にかけてこのまちを訪れるリエージュ出身の若者を主人公にした,20世紀イタリアの代表的女性作家アンナ・マリア・オルテーゼによる1993年の作品だ。この長篇歴史小説の幕開けは,紀行文学のジャンルの引用と徹底した文学的パロディーとも言える記述に満ちていて実に魅力的だ。
たとえば,主人公の「三人の若き旅人の馬車は,一気に駆け上がるペガサス――あるいはヨーロッパ・ロマン主義――に曵かれて,アルプスの山々を飛ぶように越え,まるで一飛びに,はじめての地中海の薔薇色の暁の炎をくぐり抜け,ナポリの麗しい大地に降り立」つ。その到着当日の夜,美しいヒロイン,エルミナとの出会いの後の「静まり返ったその時分,宿に帰る彼らの頭上には,金色の星々が透かし模様のごとく一面に散りばめられ,かつてヨーロッパのどんな地でも見たことのなかったような,この上なく甘美な青に染められた夜空が広が」っている,という具合だ。
表裏をなすイタリアの歴史への畏敬と同時代への優越感,さらに地中海への憧憬を概ね特色とする「グラン・トゥール」の季節が,ナポレオンのイタリア侵攻で終焉を迎えてからも,新たな旅,観光として,多くの外国人がイタリアを訪れ続ける。日本のイタリア受容は,いまだにこの近代先進ヨーロッパの視点に影響されているのではないだろうか。ナポリに育ちそのまちとアンビバレントな関係にあった作者が,あえて外からの視線を主人公に,フランス革命の余波たる1799年ナポリ革命の挫折以降,南イタリアが近代から決定的に脱落していく節目の時代を舞台に,その複雑な歴史をシンボリックに描き出しているのが,訳者にとってはとても興味深かった。
そのナポリが世界の比喩なら,作品のもう一つのテーマは物語るという行為,あるいは修辞だ。作者はいかにも修辞的な冒頭の章で「レトリックなしには,真実と対照をなし,支えもするあの虚偽が欠如して,まじめでほんとうのことなど,一切表現できない」と言い切る。文体は関係節を多用した作家/登場人物の息づかいをなぞるような文章が特徴だ。ときに一つのことばにその多義性が極限までもりこまれる技巧の駆使された原文は読む者に稀な快感をもたらすが,それを日本語に移す苦労を,翻訳を思い立った私はうかつにも考えなかった。この仕事は(作品のキーワードで大仰に言わせていただけば!)何年間も訳者の(苦しみかつ情熱の)passioneだった。そのdolore(苦悩)は,(作品の結びにならえば)完成とともに訪れたgioia(悦び)で大いにむくわれたが。
さて,この長い物語は要約も容易でない。つまりは,ヨーロッパ貴族「王子ネヴィル」のエルミナへの焦燥の恋物語なのだが,小説中くり返し「あることが語られては否定される」からだ。それでも(少なくとも原語では)長編小説の醍醐味が存分に味わえ,登場人物のイメージが常に鮮明なのは,現実世界と似ているかもしれない。文学の本質の,要約・翻訳が困難なあの何かが究極的に追求されているとも言えるのだが,確かなのはそれが晩年の作家によるナポリと地中海へのオマージュだったことだ。
さまざまな読みが可能なこの小説,日本語テキストへの御批判もふくめ,日本から地中海に視線を向ける学会員の方々に御高評いただければ,幸甚です。
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表紙説明 地中海:祈りの場22
カラーファとスルターン・カーイト・バイの廟/山田幸正
カイロの東北方郊外には,夥しい数の墓廟が集中的に立地する。この一帯は,現在「カラーファ」と総称され,俗に「死者の街」とも呼ばれている。ただし,カラーファは,元来,フスタート東方からムカッタムの丘の裾野に至る地域に広がる墓地をさしていたが,ペストが大流行するマムルーク朝時代に,こうした地区だけでは収容できなくなって,カーヒラ北側まで増殖する形で(サフラー地区),広大な墓が形成されていった。墓地といえば,やや陰気くさいイメージをもつが,中世において,ここには各地から参詣者が集まり,スーフィー教団関係者をはじめ多くの人々が居住し,パン焼きや公衆浴場(ハンマーム)などの生活施設のほか,商店や市場などの商業施設,さらに憩いや遊興のための施設まで備わった「街」であったという。
いうまでもなく,この地区で中核をなす施設は,墓廟,モスクやハーンカー(修道場)などの壮麗な宗教建築である。その多くは,爆発的な勢いで拡張した時期,すなわち,マムルーク朝を中心とした時代に属している。スルターン・カーイト・バイによって1474年創建されたモニュメントはマムルーク朝末期を飾る傑作である。現在流通している紙幣の図柄ともなっているその変化に富んだピクチャレスクな外観は,墓廟に架かる高いドーム,マドラサにたつミナレット,大階段をもった背の高い玄関,その脇にあるサビール(公共給水所)・クッターブ(コーラン学校)などによって構成されている。正方形の墓室に入ると,そこを覆うドームははるか高い位置にあり,まるで深い井戸底にいるかのように思わせる。そのドームを支持しているのは,幾層にも小曲面を積層させて構成されたペンデンティヴで,マムルーク朝を特徴づける様式がみられる。
マムルーム朝時代,権力者たちは競い合うように立派なドームで覆った墓廟を建設した。またそれらの多くは,モスク,マドラサ,修道場,給水所など宗教的,教育的,慈善的施設を複合させた建築として計画されたものであった。権力闘争に明け暮れる,うつろいゆく世界において,慈善的な施設に自らの廟を付属させることによって,奨学金を支給される学生,施設を訪れる礼拝者などから,この複合体を寄贈した者へのコーランの吟誦が保証され,そのことは寄贈者にとって永遠の世界におけるある種の安らぎをもたらすと考えられていた。