2000|11
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学会からのお知らせ
*第25回大会研究発表募集
第25回地中海学会大会は,来年6月30日〜7月1日(土〜日)の二日間,沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵1-4)で開催することになりました。詳細は決まりしだいお知らせします。ご期待ください。
なお,本大会での研究発表を募集します。発表を希望する方は2001年2月9日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
*第1回常任委員会
日 時:10月21日(土)
会 場:上智大学7号館
報告事項
a.研究会に関して
b.秋期連続講演会に関して
c.第24回大会会計に関して 他
審議事項
a.第25回大会に関して
b.小委員会に関して 他
表紙説明 地中海:祈りの場21
イエルサレム 黄金門/柳澤田実
イエルサレム旧市街をぐるりと取り囲む城壁には,八つの城門がある。その中で唯一つ閉ざされた門があり,黄金門と名付けられている。今日残存するものは,7〜9世紀に,当時当地を支配していたアラビア人たちによって建造されたものであるが,その礎は古くソロモン王の時代にまで遡るものとされている。二千年前,イエス・キリストはここからイエルサレムに入城し,棕櫚の葉を持った群衆たちに迎え入れられたとキリスト教徒たちは信じる。門は,神殿の丘の真東に位置し,オリーブ山と対面する形で建っている。門前に立つと,オリーブ山が一望でき,ロバに乗ったイエスが,オリーブ山を越えこの門をくぐって入城した時の様(マタイ21,1-11)が説得力をもって迫ってくる。おそらくイエスは,彼を待ち受けている最後の時への予感と,あくまでもそれを成就しなければならないという堅固な意志を携えてこの門を通ったことだろう。イエスの生は,彼が麗しき伝道の地ガリラヤを後にし,このイエルサレムの黄金門をくぐった時から,ただひたすら最後の時,十字架上の死に向けて加速していった。イエスがこの世から去ったとされる今,門は閉じ,ただひたすら彼の再来,すなわち世の終末を待ち構えているようだ。その意味では何かしら切迫した佇まいを湛えているようでもあり,また同時にその時の到来が余りにも遅いために待ちくたびれ,うらぶれているようにも見える。
この開かずの門は,ユダヤ教徒にとってもまた,終末にメシアによって開け放たれる聖なる門だとされている。そのため,オリーブ山やそれに隣接するケデロンの谷は,復活を待ち望むユダヤ教徒たちの墓地で覆われている。また同時に,門前はイスラム教徒たちの埋葬地にもなっており,夥しい数のイスラム教徒の墓が,城壁に沿ってユダヤ人墓地と対峙する形で広がっている。この聖なるトポスを巡ってユダヤ教徒とイスラム教徒は数多くの言説を生み出してきたようだ。ユダヤ教のメシアのメシアの到来を嫌ったイスラム教徒たちによって門が封じられたと言うもの。高貴なメシアが墓のような不浄な場所を通るべきではないと考えたイスラム教徒たちが敢えて門を閉鎖したと説くもの。果ては,イスラム教徒たちも共に復活に与るために門前に死者を埋葬しているという言説まで当地では耳にした。実際,門前から眼下に広がる墓石群を眺めていると,異教徒同士の死者たちは,共に静かに最後の時を待ち侘びているようにも見える。
聖なるトポスが同一であるという事実は,この都に果てしない憎悪と悲しみを産み出してきた。そしてその憎悪が生み出す争いは一旦止んではまた再燃するという形で今日まで継続している。昨今のニュースを見るにつけ,この聖なる都に内在する深刻な矛盾や対立が完全に解決する時など,現在のわれわれには想像もつかない。黄金門は依然として堅く閉ざされ,その時は到底訪れそうもないという諦観を醸し出している。しかしそれと同時に,この門が,真の平和としての終末の到来を象徴するものとして,存在し続けていることもまた事実なのである。様々な言説に彩られつつ,平和の時への希望と,その時の到来の果てしない遅延の両者を指し示すものとして,黄金門は相変わらず閉ざされたまま,しかし確かに存在している。
研究会要旨
ラファエッロと古代名画
―素描《アレクサンドロス大王とロクサネの結婚》をめぐって―
本間 紀子
9月30日/上智大学
ラファエッロは1516〜17年頃に「アレクサンドロス大王とロクサネの結婚」を主題とする素描を制作している。テイラー博物館とアルベルティーナ所蔵の素描,ルーヴルなどにある失われた素描の模写,素描をもとに版刻された銅版画,そしてドルチェやロマッツォら16世紀の著述家による記録によって,画家がおそらくモデッロ(雛形素描)の段階まで準備を進めていたことがわかっている。しかし,それは最終的に完成されることはなかった。本研究の目的は,第一に素描が描かれた状況を再考し,第二に文学テキストと絵画表現の比較などを通じて,注文主や画家が何を表現しようとしたのかを導き出すことにある。
ラファエッロの素描が何のために描かれたのか,なぜ完成に至らなかったのかという事情ははっきりしていない。一般的な説は,シエナの銀行家アゴスティーノ・キージの依頼で,ローマにあるキージ家の別荘(ヴィッラ・ファルネジーナ)の寝室の壁画のために描かれたというものである。その壁画は最終的にイル・ソドマによって1517年頃に描かれている。当時,ラファエッロがあまりにも多忙だったため完成できず,代わりにソドマに任されたのだと多くの研究者は推測している。ラファエッロ素描とソドマの壁画を結びつける16世紀の文字史料は残されていないが,両作品の影響関係は明らかである。キージはラファエッロにとって教皇と並ぶ重要なパトロンであったし,典拠となったルキアノスの『ヘロドトス,あるいはアエティオン』のラテン語訳はおそらくキージ家周辺で入手が可能であった。翻訳は当時まだ出版されていなかったのである。以上の点から見て,素描がキージの依頼で制作されたという説は最も可能性の高い仮説と言えるだろう。しかし,彼が壁画を完成できなかった理由は,ただ単に時間の問題だけだったのだろうか。
ルキアノスは『ヘロドトス』において画家アエティオンの《アレクサンドロス大王とロクサネの結婚》(現存せず)について記述している。ラファエッロとソドマの作品は,その絵画記述(エクフラシス)に基づいて描かれているのである。テキストと絵画表現を比較してみると,前者は古代彫刻を参考にルキアノスの記述をできるだけ忠実に絵画化しようとしている。一方,後者の作品には驚くほど相違点が多く,テキストにないモティーフも加えられている。ソドマはラファエッロほど古代の名画を正確に「復元」しようとはしていない。つまり,注文主にとってその事はラファエッロ以上には重要でなかったことがわかるのである。
キージは別荘の他の部屋も古典文学主題の壁画で飾らせており,自らの教養の高さを誇示している。ルキアノスの選択も同様の理由であったし,再婚の予定があったため,古代の英雄の結婚場面であることもまた重要であった。アエティオンの絵画に描かれていたという武具で遊ぶ童子は,ルキアノスによれば大王が恋に落ちても戦いを忘れないという戦士の美徳を表している。しかし,ソドマの壁画では童子の群れはむしろ大王の恋の情熱をあおる存在として登場している。このような解釈は,「愛の勝利」というキージ家の別荘装飾の総合テーマ―同時期に装飾されていたペルッツィの「眺望の間」,ラファエッロの「プシュケのロッジア」にも共通する―と結びついていると考えられるだろう。
それでは,なぜラファエッロ素描には,注文主の意向にあわせた変更や妥協のようのなものがほとんど見出せないのであろうか。私はこの点について次のように推測している。1517年頃というのは,キージの別荘の二期目の装飾プロジェクトがおしすすめられた時期であった。「眺望の間」と「プシュケのロッジア」の装飾プランが次第に具体化してきた頃であり,そのような状況の中で,寝室の壁画に対する注文主の要求が変化していったのではないだろうか。別荘の装飾の方向性が次第に明確化していく中で,《アレクサンドロス大王とロクサネの結婚》も目新しい古典文学を絵画化した作品から,花嫁を迎える愛の館にふさわしい作品へ変化を強いられたのだろう。
このような注文主の意向の変化は,ラファエッロにとっては受け入れがたいものであったに違いない。当時の彼は《クオス・エゴ》などの版画に見られるように,古典の主題に積極的に取り組もうとしていた。古代彫刻を参考に,文学作品を出来るだけ適切なやり方で絵画化しようと試みたのである。だからこそ,テキストそのものが絵画記述である「アレクサンドロス大王とロクサネの結婚」は魅力ある主題であった。彼にとって古代名画の復元は,考古学的興味ばかりによるものではなかった。それは古代の画家の構想との対決であり,さらにはルキアノスの文章に対する一種の挑戦であった。すなわち,絵画表現は文学に十分に匹敵しうるのだということを示したいと望んでいたのだと私は推測する。
「フォンダコ」と「フンドゥク」
齊藤 寛海
ヴェネツィアにあるフォンダコ・デイ・テデスキ,すなわち「ドイツ人商館」は,アルプス以北の商人のための施設である。13世紀末以降,ドイツ,ボヘミア(チェコの北部),ポーランド,ハンガリーの商人たちは,そこを宿泊所,商品倉庫,取引所とするよう義務づけられた。フォンダコは,この三つの機能をもつ施設だったのである。ヴェネツィアの中心市場を大運河が貫通する場所にリアルト橋があるが,その橋のたもとにあるこのフォンダコは,16世紀に再建されたもので,現在は中央郵便局として使用されている。ロの字型をし,中庭をもつ五階建てのこの大型の建物は,大運河と道路の両方に対して出入口をもち,中庭には井戸がある。なお,ヴェネツィアには,フォンダコ・デイ・トゥルキ,すなわち「トルコ人商館」もあり,18世紀に全面的に改修されたその建物は,自然史博物館として使用されている。
フォンダコは,周知のように,アラビア語のフンドゥクに由来するイタリア語である。フンドゥクは,次のように説明されている(坂本勉「キャラバンサライ」,『イスラム事典』平凡社,1982年,参照)。ペルシア語で元来は「隊商宿」を意味するキャラバンサライには,二つのタイプがあった。一つは,街道沿いに建設された商人,巡礼者,旅人のための純然たる「宿泊施設」であり,アラビア語ではこれをハーンとよぶことが多かった。もう一つは,都市内部でバーザール(ペルシア語で市,アラビア語ではスーク)に隣接して建設され,「卸売商人の事務所として」使用される施設であり,アラビア語にはこれを意味する別の言葉が幾つかあったが,その中にフンドゥクがあった。フンドゥクは,在地商人ではない旅商人が利用することが普通であった。一般に中庭をもち,その周囲を二階建ての小部屋に区分された建物が取り囲み,一階部分は商品倉庫と取引所として,二階部分は宿泊所として使用された。
しかし,フンドゥクは,次のようにも説明されている(湯川武「フンドゥク」,同事典,参照)。地中海沿岸地域に見られる商館,商人用の宿で,語源はギリシア語にさかのぼる。フンドゥクは,11世紀にはすでにファーティマ朝領域の各地,またファーティマ朝から独立した北アフリカ各地に多数存在していた。この時代には,小型の,旅館と商品倉庫を一つにしたような宿泊施設だった。シーア派のファーティマ朝領域で多数のフンドゥクが建設されたので,それに対抗するものとして,スンナ派領域ではハーンが建設された。フンドゥク,ハーン,カイサリーヤ,など,「同じ性格をもつ商業用施設」は,多くの異なる名称でよばれたが,13世紀以降,マシュリクではハーン,マグリブではフンドゥクとよばれ,シリアの地中海沿岸とエジプトではさまざまな名称でよばれた。13世紀には,大型のものも建設され,単なる宿泊施設ではない,取引所も兼ねる「常設の商館」となったものも多い。地中海沿岸の大きな港には,ヨーロッパ商人専用のフンドゥクもつくられた。
上記二つの説明には,筆者が原文の内容を尊重しつつ,本稿での説明の便宜上,その表現を変更した箇所があちこちにある,ということをことわっておかなければならない。
いずれにせよ,フォンダコの先祖探しの旅は,レヴァントへの上陸直後に道に迷ってしまった。フンドゥクは,史料用語としては,取引所としての機能をもたない,単なる宿泊施設を意味する用語としても多用されてきたのか。概念用語としても使用されているならば,それはなにを意味するのか。フンドゥクとよばれる施設は,ペルシアないし内陸アジア起源なのか,ファーティマ朝領域ないしは地中海沿岸起源なのか。それとも,内陸アジアにも,地中海沿岸にも,多少とも類似の性格をもつ施設があったのか。そもそも,この言葉はいつ誕生したのか。
また,フンドゥクの子孫は,ヴェネツィアより彼方には拡散しなかったのか。14世紀以降,ヴェネツィアやジェノヴァの商人は,ロンドンやブリュージュなどで宿泊所,商品倉庫,取引所をどのように手配していたのか。そこでは,外来商人に必要なこの種の施設をめぐる物理的,法的な対応は,どのようになされていたのか。このような僻遠の土地には,この先祖の名前も記憶ももたなくなった,しかしその血筋を引いている子孫が,一人もいなかったのであろうか。
トスカーナの辺境ルニジアーナ
野口 昌夫
アルノ川の本流はアレッツォ,フィレンツェ,エンポリ,ピサを結んで東から西へと弧を描くように流れていくが,そのすぐ北側にはアペニン山脈がほぼ平行に走っている。この二つの地理的なラインの間の丘陵地帯は,アペニン山脈を区切りとして他の文化圏と接しているという点で,トスカーナの中では特異である。東から西へと具体的にあげると,ウンブリアとマルケに接するテヴェレ川上流域(サンセポルクロ,アンギアリ),エミリア・ロマーニャに接するアルノ川上流域のカセンティーノ地方(ポッピ,ビビエンナ),ムジェッロ地方(ボルゴ・サン・ロレンツォ),ガルファニャーナ地方となる。そして最西端にあってエミリア・ロマーニャとリグーリアに接するのがルニジアーナ地方である。
この春,ルニジアーナを初めて訪れた。ピサからヴィアレッジョ,ピエトラサンタ,マッサ,カラーラとリグーリア海を左に見て北上する。この地方名の由来となったルニを通り過ぎて海から離れ,アペニン山脈に向かっていくフランチジェナ街道沿いのマグラ川流域が,ルニジアーナである。マグラ川下流域のサルツァーナ,ルニはリグーリア州。上流に向かってアルビアーノ,カプリリオーラ,フィヴィザーノ,ポントレモーリはトスカーナ州。さらに上流を遡るとチザ峠があって,その北はエミリア・ロマーニャ州というわけで,現在なお他州との境界領域にある。
ルニジアーナの歴史はルニに古代ローマの植民都市(BC 177)が建設されたことに始まる。マグラ川河口のルニは,カラーラで採れる大理石を海路でローマへ運ぶ交易拠点として栄えた。4世紀にマラリアが流行してからは衰退に向かうが,5世紀には司教座が置かれ都市機能が回復する。その後1204年に司教座がサルツァーナに移るまでは,この地方の支配の中心的役割を演じた。中世後期になると,フランチジェナ街道の重要性がこの地方に富をもたらす。この街道は,マグラ川沿いを北上し,チザ峠でアペニン山脈を越え,パルマ,ピアチェンツァ,トリノを経てアルプス越えをしてフランスに至る遠隔地商業の重要なルートである。ルニの司教はカプリリオーラで街道の通行税とマグラ川の渡河税(ラ・スペツィア,ジェノヴァに向かうにはこの川を渡らなければならない)を徴収し,権力を支える財源とした。13世紀に司教は居城をルニから丘上のカプリリオーラに移すが,この頃からルニジアーナに第2の主役が登場する。マラスピーナ家である。
東リグーリア,北トスカーナ一帯は,ピサ,ジェノヴァ,フィレンツェ,ミラノの勢力が複雑に交錯した特異な地域である。11世紀前半,モデナのエステ家からルニジアーナとガルファニャーナの一部の領地を割譲された時からマラスピーナ家の歴史は始まる。皇帝の権力を後楯にして司教勢力と抗争を繰り返す中で,マグラ川流域に数多くのカステッロ(城砦)を築いた。14世紀前半にはスピネッタ・マラスピーナ(大スピネッタ)が現れ,ヴェルコラ(マグラ川支流域のカステッロ)を拠点に司教勢力を抑え,領土の拡大をめざした。ルニの司教との約1世紀にわたる抗争の末に1306年,カステルヌオヴォ・マグラの講和の調印。これでマラスピーナ家の優位が確定的になった。ここで短命ながらこの地方の第3の主役カストルッチョ・カストラカーニが現れる。
この人物は1281年に生まれ,1320年にルッカのカピターノとして,1328年にはピサのシニョーレとしてこの2都市の全権を握った強力な傭兵隊長である。この時期のトスカーナのギベリーニ(皇帝派)の中心人物として,しばしばミラノのヴィスコンティ家と手を組んでフィレンツェを痛めつけた。彼が生まれ,成長したルッカのすぐ北にあるルニジアーナは,マラスピーナ家を追放して領土とすべき当然の標的だった。1310年,彼はスピネッタの居城ヴェルコラを14日間包囲し,陥落させる。スピネッタはヴェロナに亡命した。しかし,カストルッチョは1328年,フィレンツェの同盟国ピストイアを陥落させた約1ヶ月後に急死。スピネッタは18年振りにヴェルコラに戻り,そこに前より強力で堅固なカステッロを建設し,再びルニジアーナの主役に戻った。その後スピネッタはフォスディノヴォの領主(1334〜43)となり,最後はマッサ侯として終わる。1400年を過ぎると,最後の主役がマグラ川下流域から次第に勢力を増大させて迫ってくる。フィレンツェである。
フィレンツェのトスカーナ領域支配の最終段階に入った15世紀,アルビアーノ,カプリリオーラ,ヴェルコラ,フィヴィザーノの順に陥落。1500年までにルニジアーナのマラスピーナ家の小都市のほとんどすべてを支配下に置いた。15世紀に完了するフィレンツェの領域支配も,このようにトスカーナの一辺境の地方から逆に眺め返すと,リアリティをもって感じることができる。建築史の側からの小都市の調査とはいえ,地域の歴史と風土は,都市や建築の形態と空間の形成に大きく関わっていることを,この地方を訪れて改めて認識した。
春期連続講演会「地中海世界の歴史:古代から中世へ」講演要旨
中世イスーラムと地中海世界の歴史
私市 正年
アラブ・ムスリムの地中海地域への進出は,640〜41年に将軍,アムルに率いられたおよそ4万の兵が西アジアからアフリカへと進軍し,今日のエジプトを征服したときから始まる。翌,642年にはフスタートが建設される。征服軍の兵士と家族が住むいわゆるミスル(軍営都市)である。その後,フスタートを基地として,イブン・サアド,ムアーウィヤ,ウクバの代々の総督によるイフリーキヤへの遠征が幾度となく繰り返される。
当時,この地域を支配していたのはビザンツである。アラブ・ムスリム軍の遠征の主たる目的は戦利品の獲得であって,領土の拡大を意図したものではなかったし,ましてやイスラームの布教を明確に意識してはいなかった。その意味では,遠征はアラビア半島でイスラーム以前から行なわれていた遊牧民による略奪行の延長であったといえよう。
総督ウクバの代になってチュニジアのカイラワーンに新たにミスルが建設される。マグリブ地域への前線基地がエジプトからチュニジアにまで伸びたわけである。これは,アラブ・ムスリムのマグリブ領有意識が明瞭になったことを示しているのだろうか。恐らくそうではあるまい。エジプト,リビア方面での遠征から得られる戦利品が少なくなってきたので,あらたな「狩猟場」を求めての拠点拡大であったとみるべきだろう。
アルジェリアとモロッコ地方への遠征はカイラワーンを拠点に行なわれた。ウクバによる大遠征軍は680〜83年についに大西洋岸まで達した。だが,指揮官のウクバは帰途,アルジェリアのオーレス山地でベルベルとビザンツの連合軍との戦いに敗れ,戦死した。この連合軍を率いていたのがベルベル人のクサイラであった。ベルベル族はマグリブの先住民で,アラブの遠征軍に激しい抵抗をした。中でも女王カーヒナ(ユダヤ教徒といわれる)の武勇は有名で,オリーブの畑を焼く焦土作戦は,アラブ・ムスリム軍を大変てこずらせた。そのため遠征は一時,頓挫せざるを得なかった。686年カーヒナの死とともに再び遠征が活発となり,695年,ハッサーンによってカルタゴが征服され,そして710年ころまでにムーサーによって北アフリカ征服が完了した。
地中海地域への進出は海上からも行なわれた。東地中海では649年ころからアラブ・ムスリム軍は海上に乗り出した。アレキサンドリアから船出したが,それには理由があった。エジプトに住むコプト教徒の中には,造船と船の操縦にたけている者がいた。海上に乗り出すには,彼らを水兵として雇う必要があったからである。655年,キプロス島の西北での会戦「帆柱の戦い」において,アラブ軍はビザンツ軍に大勝した。
地中海の真中にはシチリア島が浮かんでいた。ギリシア,ローマの時代から,地中海交易の拠点として栄えていた。アラブ・ムスリム軍によるシチリア島の侵寇は652年ころから始まり,征服が完了したのは902年であった。このような長い年月がかかったのもやはり,略奪が主たる目的で,領有は二の次であったからであろう。しかし,領有によって,シチリア島は,アンダルス程ではなかったが,イスラームとヨーロッパとの文化交流の拠点として歴史的に重要な役割を果たすようになる。
イスラームとヨーロッパがもっとも長期間,深い関係を結んでいたのはアンダルスである。ムスリムのスペインへの進軍は711年からである。スペインへの遠征はアラブ兵とともに,相当な数のベルベル兵も加わっていた。711年の遠征軍の指揮官ターリクは,カイラワーン総督ムーサーのマワーリー(解放奴隷)でベルベル人であり,彼が率いていた7千の兵士,および途中から加わった5千の兵士もその大部分がベルベル人であった。同年,西ゴート王国が征服された。712年には総督自らが,1万8千の兵(すべてがアラブ人)を率いてジブラルタル海峡を渡った。
両者は競うようにしてスペインを北上していく。山のような戦利品がムスリム軍兵士たちの手に入った。ところが,714年ウマイヤ朝のカリフ,ワリード一世から突然,帰還命令が届く。理由はわからない。莫大な戦利品を携えてムーサーとターリクはダマスカスに戻った。スペインの遠征は部下たちによって継続され,ピレネーを越えて,732年ついにはフランス中部のトゥール−ポワティエ間でフランク軍と会戦するに至る。これは,フランクがイスラーム勢力を撃退し,キリスト教のヨーロッパ世界を守った戦いとしてあまりにも有名である。このような歴史的評価がヨーロッパ側の視点からのものであることはいうまでもない。イスラームの側からすれば,当然評価は異なる。第一に,これは数ある略奪行の一つに過ぎない。第二に,仮にこの戦いに勝利したとしても,人的供給能力の限界や気候・風土から言って,ムスリム軍は領有することはせず,戦利品を得たら,立ち去っていったと思われる。
以上のように,アラブ・ムスリム軍の地中海地域への進出は,アラビア半島で行なわれていた略奪行の延長線上で考えられる。それが恒久的な領有とイスラームの布教を意図したものに転換をとげるのは8世紀半ば以降,つまりアッバース朝以降のことである。この領有とイスラーム化とともに,イスラーム文明の発展が約束されることになる。その中心舞台が地中海周辺地域であり,その原動力が地中海をとりまく多様な民族,宗教の融合と交流であった。
<寄贈図書>
『西洋建築様式史』熊倉洋介・末永航・羽生修二・星和彦・堀内正昭・渡辺道治著 美術出版社 1995年
『東南アジア仏跡の回廊を巡りて』田中瑛也著 たいせい 1997年
『ヨーロッパへの眼差し』田中瑛也著 白亜書房 1998年
『21世紀の民族と国家第10巻 アジアの芸術と文化―エロスをめぐって』田辺清編 未来社 1998年
『ルイス・デ・ゴンゴラ 孤独 翻訳・評釈』吉田彩子著 筑摩書房 1999年
『ヴェネツィアと日本 美術をめぐる交流』石井元章著 ブリュッケ 1999年
『食の起源 メソポタミアとイスラーム』牟田口義郎著 れんが書房新社 1999年
『東方正教会の絵画指南書 ディオニシオスのエルミニア』上田恒夫・寺田栄次郎・中澤敦夫・木戸雅子訳 金沢美術工芸大学美術工芸研究所 1999年
OPUSCULA
POMPEIANA, The
Paleological Association of Japan, IX(1999)
『アルタミラ洞窟壁画』A.ベルトラン監修 大高保二郎・小川勝訳 岩波書店 2000年
『北アフリカのイスラーム聖者信仰―チュニジア・セダダ村の歴史民族誌』鷹木恵子著 刀水書房 2000年
『ノストラダムスとルネサンス』樺山紘一・高田勇・村上陽一郎編 岩波書店 2000年
『ルネサンス文化史―ある史的肖像』E.ガレン著 澤井繁男訳 2000年
『映画をとおして異国へ ヨーロッパ/アメリカ編』石原郁子著 芳賀書店 2000年
『王宮炎上―アレクサンドロス大王とペルセポリス』森谷公俊著 吉川弘文館 2000年
『イタリア文学を歩く』井手正隆著 あざみ書房 2000年
『SPAZIO』ジェトロニクス・オリベッティ 59(2000)
『古典古代における語彙と語法』高橋通男・西村太良編 慶応義塾大学言語文化研究所 2000年
『日本中東学会年報』日本中東学会 15(2000)
『地域研究論集』国立民族学博物館地域研究企画交流センター 3-1(2000)
『芸術学論集』新潟大学教育人間科学部造形芸術学研究室 1(2000)
『イタリア 小さな町の底力』陣内秀信著 講談社 2000年
『捨児たちのルネッサンス』高橋友子著 名古屋大学出版会 2000年
『地中海世界史1 古代地中海世界の統一と変容』歴史学研究会編 青木書店 2000年
『海の文明ギリシア―「知」の交差点としてのエーゲ海』手嶋兼輔著 講談社選書メチエ 2000年
『ルネサンス舞踊紀行 イタリア』原田宿命著 未来社 2000年
『ルネサンスを彩った人びと ある書籍商の残した『列伝』』岩倉具忠・岩倉翔子・天野恵訳 臨川書店 2000年
『都市の破壊と再生―場の遺伝子を解読する』福井憲彦・陣内秀信編 相模書房 2000年
『地中海都市周遊』陣内秀信・福井憲彦著 中央公論新社中公新書 2000年
『イタリア覗きめがね―スカラ座の涙,シチリアの声』武谷なおみ著 日本放送出版協会 2000年
『文藝言語研究』筑波大学文芸・言語学系 37(2000),38(2000)
『イタリア図書』イタリア書房 25(2000)
『イミダス2001年版』集英社 2000年
訃報
11月10日,会員の前川道郎氏が逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
読書案内―徳橋 曜
『ルネサンスを彩った人びと ある書籍商の残した『列伝』』
岩倉具忠・岩倉翔子・天野恵共訳 臨川書店 2000年5月 552+10頁 4,700円
本書はヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチの『列伝』(Le Vite)から18編を選んで訳出したものである。著者は1421年にフィレンツェに生まれ,1499年にフィレンツェ近郊のアンテッラで亡くなった書籍商で,コジモからロレンツォまでのメディチ体制期を生きた。ルネサンス期のイタリアを研究する者には馴染みの名前だが,これまで邦訳はなく,本書が初の訳書ということになる。
内容は第一部(教皇および王侯)と第二部(政治家および人文主義者)に分かれ,原書の114名から,主にヴェスパシアーノと関わりの深い人物が選ばれている。総てを列挙する余裕はないが,ニコラウス5世,アルフォンソ1世,フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロ,コジモ・デ・メディチ,ジャンノッツォ・マネッティ,レオナルド・ブルーニ等の著名な知識人が名を連ねる。彼はいわば知のネットワークの結節点だった。書籍商はフィレンツェに彼一人ではなかったが,彼の知識・教養が書店を一種のサロンとした。そのサロンの主(あるじ)として直接見聞きした,あるいはおそらく顧客から得た情報を元に編んだのが『列伝』である。
印刷本普及の前夜,書籍商は希少な書物を客のために探し,購入あるいは複製した。彼がそれに十分な造詣と情報網を持っていたことは,コジモ・デ・メディチ伝のエピソードからも判る。フィエーゾレの修道院図書館に本を揃えて欲しいと,コジモに言われ,「購入しなければならないとすれば,おいそれとは見つからないので,難しいでしょうと答えた。すると『それじゃ図書館を充実するにはどうしたらいいかね?』とかれ[コジモ]は言った。書き写させることですというと,かれは私がその役目を引き受けるよう望んだ……金に糸目はつけなかったので短期間のうちに四十五人の写字生を採用し,二十二ヵ月のうちに二百冊を完成した」(本書,p. 330)。それだけのものを準備する知識と,筆写させてもらえる縁故(コジモの縁故も利用したであろう)を持っていたのである。特にフィレンツェ以外で「原本が見つかりそうなところへ使いを出した」場合,書籍販売を通して得た各地の知識人との交遊は大いに役立ったと思われる。
彼が日常的に交流していた人士の多くはメディチ派で,例えばパッラ・ストロッツィについては同情的な伝記を書いているものの,直接の交流があったようには書かれていない。その限りで彼の人脈はメディチに連なる傾向がある。また,権力におもねる風情は全くないが,敬愛する人々を擁護する傾向は割り引いて読むべきかも知れない。とはいえ,偉大な「本屋の親父」が残した15世紀の貴重な証言である。「朝かれが食事をとっているところへ来てみると,すっかり顔色を変えて食卓に着いていた」(アーニョロ・アッチャイオーリ伝,p. 385)などという記述には,いかにも臨場感がある。その一部が日本語で読めるようになったのは喜ばしい。訳注も懇切で,巻末の著者に関する論考も理解を助けてくれる。15世紀という時代の声と雰囲気を伝えてくれる一冊である。
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