地中海学会月報 233
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2000|10 |
学会からのお知らせ
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。
テーマ:中世後期トスカーナの宗教建築におけるポリクロミアについて
発表者:吉田 香澄氏
日 時:11月11日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
ポリクロミアpolicromia(多彩装飾)は,イタリア,特に中世後期トスカーナの宗教建築において多数現存する。当時の人々が「構造」と「装飾」の同時解決と考えた,このポリクロミアへの憧憬と執着は,一種の芸術的風潮と考えるにはあまりにも疑問が多い。ポリクロミアの施された事例を紹介しつつ,複数の異なる色を持つ材料を使用することによって強調される表現の様態とその地域性について探っていきたい。
*秋期連続講演会
11月25日より12月16日の毎土曜日(計4回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1
tel.03-3563-0241)において恒例の秋期連続講演会を開催します。テーマおよび講師は下記の通りです。各回共,開場は午後1時30分,開演は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館に前売券があります)。
テーマ:都市ローマへの誘い−−聖年にちなんで
11月25日 古代ローマの偉容 本村 凌二氏
12月 2日 ローマの驚異−−宗教,芸術の巡礼地 小佐野重利氏
12月 9日 バロック・ローマの美術 宮下規久朗氏
12月16日 都市ローマを読む 陣内 秀信氏
*第10回常任委員会
日 時:6月17日(土)
会 場:広島女学院大学ヒノハラホール
報告事項
a.ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して
b.科研費に関して
c.財政に関して 他
審議事項
a.第24回大会に関して
表紙説明 地中海:祈りの場20
ダマスカスのウマイヤ大モスク/阿久井喜孝
敬虔なイスラム教徒は一日5回メッカの方角に向って祈りを捧げる。モスクの礼拝堂の中とは限らない。他人が見ていようといまいと無関係である。礼拝の前に水で手や足を清めるのが正式だが砂漠の真中では砂で清めることも容認されている。産油国の空港でカンカン照りの広大な滑走路の舗装の上に唯一人跪いて礼拝している姿を見て異様の感に打たれたこともあった。祈りの場と祭壇が常に一体であるとは限らない。人は皆,神を信ずる者も信じない者も夫々の心の中に祈りの場を秘めているのが人間という存在ではないだろうか。二十数年前,筆者は地域開発コンサルタントとして約三ヵ月現地のドラフトマン数人を預かってヨルダンのアンマンに滞在したことがあった。パレスチナ難民だった彼らはよく働いていたが仕事が一番忙しい時間帯にいつも姿を消してしまう人がいた。探してみるとオフィスの窓の外にあるヴェランダで黙々と祈りを捧げる姿がそこにあった。モスクの床には絨毯が敷きつめられているが真面目な信徒は旅先でも個人礼拝用の小さい絨毯を携帯していることが多い。彼はなんと大きな図面の反古紙を敷き,靴を脱いで固いコンクリートの床に坐っていた。座布団代わりでもないし,床が汚れていたからでもない。一枚の白い紙は彼にとって聖域を意味するものであったのだろう。
丁度この原稿を書いている今日もまたイエルサレムの聖地をめぐって流血が繰り返されている。中近東にしても,印・パやユーゴの紛争にしても世間にはその原因をストレートに宗教的対立として解釈してしまう風潮が強いがこれは歴史的成り行きの結果であって宗教の本来は共存であり対立では決してないと筆者は信じている。いつの時代でも権力闘争の口実に宗教が利用されているだけではないのか。筆者はこの夏もテロに揺れるカシミールの旅を通して同じことを実感した。コーランの中でも旧約や新約聖書が信仰の基本として重複引用されている部分が多く原点においては皆兄弟であった筈である。権力に逆らう者は常に宗教的な異端者として処断されてきた。十字軍にしてもアラブ側からみれば宗教戦争とは口実にすぎない。日本人は近世の西欧史観にあまりにも影響されすぎてきたのではないだろうか。
表紙の写真はダマスカスのウマイヤ大モスクの礼拝堂の中心部である。モスクといえば大ドームを戴いた集中堂型式の空間を連想しがちだが,このモスクはバジリカ型式の細長い列柱廊の中央の柱間を拡げ直交軸にミヒラブを備えて,列柱交叉部にドームを載せており,この平面型式の極めて初期の大建築といわれている。ウマイヤ朝のカリフ・アル・ワリドの創建(707〜715)とされる。中世・近世を通して三度も火災に遭い大改造されてはいるが列柱廊や華麗なモザイク壁画が当時のヘレニズムやビザンチンの雰囲気を今によく伝える名建築である。もともとモスクが建てられる前はこの聖域にシリアの地神ハダトとローマのジュピターを習合した大神殿があったがローマ皇帝テオドシス(4c)により改築され,洗礼者ヨハネに献堂された教会堂が建てられていた。現存する壁体や列柱のかなりの部分がローマ時代の遺構の転用とみられている。写真の中央にヨハネの首を納めるという小さな祠堂が写っているがこの巨大な空間の中ではイスラム教徒にとってもキリスト教徒にとっても敬虔な祈りの場が違和感なく共存しているのである。
ヨハネの祠堂を内包しているダマスカスの大モスクを想い出す度に<祈りの場>とは何か? 宗教的対立とは何か? といつも考えさせられている。
(写真は1971年熊本大学環地中海建築調査団撮影による)
地中海性気候と砂漠の遺跡
長谷川 奏
エジプトで最も季節感に溢れたまちの一つは,アレクサンドリアであろう。なにより,海に表情がある。春先にはすがすがしい風が吹く。夏になると,穏やかな波間は遠方からも多くの人々を惹きつけるが,砂浜の焼きとうもろこし屋が姿を消す頃になると,まぶしい季節は終わる。冬には海岸通りまで,波の荒いしぶきが覆い,波しぶきで風化したまま放置された邸宅の並びが,現代のアレクサンドリアの明るさのなかにひそむ翳のようなシルエットを演出する。さらに冬には,雹(ひょう)が降り,大空に虹がかかることもある。
しかし海辺を彩るこの豊かな水分が,特に地下から掘り出した古代の遺跡には天敵なのだ。海辺に面した遺跡の代表に,チャットビー海岸の墓地がある。この遺跡などは,今世紀の初頭にイタリアの考古学者ブレッチアが掘り出した時,壮麗な墓碑と豊かな副葬品に満ちた遺跡は,王宮区に近い高貴な墓群はかくや,と大いに注目を集めたものであった。しかし発掘の後の長い星霜の中で,墓孔には水が沁みだし,墓の壁面は緑色の苔に覆われた。海辺のまちの遺跡には,海辺の気候と対峙する苦しみがある。
一方,ナイル沿岸の遺跡も,その痛ましさに変わりはない。ナイルのほとりは,長くナイルの氾濫に深く関わってきた。しかし,自然の氾濫が制御されるようになってからは,土壌の塩分が抜けないなどの別の問題が生じてきた。またカイロのような大都会では,現代社会と歴史的建造物との共存自体が問題となってきている。さらに8年前には,この地を大地震が襲った。街中に立ち並ぶ住宅がたくさん崩壊するなかで,長い歴史を誇ったキリスト教会やモスクなどの建築にも甚大な被害が及び,この地震を機に,カイロの歴史的建造物の保護・保存問題が活発に討議されるようになった。
1千万人以上の人々がひしめくこの町には,カイロの都市住民の生活に伴う排水や,車が出す排気ガスの問題が絶えず生じる。またカイロの南には,ムカッタム丘陵からヘルワン丘陵まで続く豊かな石灰岩盤があり,セメント工場が煤煙をたちあげる。これら都市に特有の環境が,都市内の遺跡に大きな影響を与えるのはいうまでもないが,これまで辺鄙な場にあったギザの砂漠地帯にも宅地開発の波が押し寄せてきた。観光に起因する破損も深刻である。ピラミッド・ゾーンの砂漠といえど,安閑としていられなくなった。
ちなみに砂漠の遺跡は,砂から掘り出されてもすぐに厚い砂に埋もれてしまう宿命がある。しかしこの厚い砂が,逆に遺跡を風化による破損から救ってきた。一例として,ピラミッド・ゾーンの一角にセラピス神(聖牛アピス)を葬った墓地がある。ローマ時代の記述家ストラボンは,この墓地周辺はたいへん強い風が吹くことで著名であったことを記している。強い風が吹けば,砂漠から吹いた砂が厚く堆積する。ストラボンの記述を信じたフランスの考古学者マリエットが,19世紀の半ばにこの地を発掘したところ,その砂の厚い堆積の下から,驚くべき立派な石敷きの参道と地下式の大規模な墓地がみつかった。
ギリシア・ローマ時代には,この遺跡は多くの人々が参詣に集った賑やかな場であった。彼らはまちから砂漠のへりまでやってきて,この地下墓地をめざした。ナイルの氾濫が引いた際にも,砂漠のへりには氾濫の際の水が引ききらないで残った沼沢地が至るところにあったらしい。小船で沼沢地を越えると,動物信仰の場や病気癒しの聖人崇拝地などの聖なる場が広がっていた。人々は砂漠の涸れ谷を渡り,あるいはこの石敷きの参道を渡って,祈りを捧げた。その歴史的な遺跡が掘り出されたのである。
それから,150年の年月が経て,地下墓地にも多くの観光客が訪れた。この遺跡を訪れる観光客が立ち寄る休息場は,マリエットが地下墓地を発掘した際の作業小屋であった。その後,作業小屋はたび重なり改築されて,カフェテリアができ,露天のおみやげ屋が並び,カフェテリアから観光客を連れるらくだ引きが集った。石敷きの参道は砂漠から吹く砂でもうすっかり埋まってしまったが,地下墓地はピラミッド・ゾーンを代表する観光名所であり,休息場は観光客の憩いの場でもあった。
その地下墓地が,いま崩壊の危機に直面している。ピラミッド・ゾーンは地中海性気候の影響を受け,冬場にはしばしば雨が降る。地下墓地の岩盤は,長い間湿気を含んだ外気に触れてきたため,とたんに脆くなってしまったことが原因である。もうひとつの原因は,カフェテリアで用いられた水が,遺跡に大きなダメージを与えたと考えられたことだ。本年になって,エジプト考古最高会議は,地下墓地の保存に本格的に取り組むべく,遺跡の公開を当面中止し,マリエット時代に由来する休息所も取り壊された。懐かしい景観がまた一つ消えて,廃屋の木屑が砂塵に舞う殺風景な砂漠の景観が残った。
地中海人物夜話
名無しの権兵衛の娘ペトロニア・ユスタ
樋脇 博敏
ナポリ・チェントラーレ駅からヴェスヴィオ周遊鉄道に乗って30分,エルコラーノ駅で列車をすてて,土産物屋やバールを横目に見ながらゆるゆると,海に向かって10分も降って歩けば,ローマ時代の別荘地ヘルクラネウムにつきあたる。ポンペイほど有名ではないが,79年のヴェスヴィオ大噴火で埋没した都市の一つで,品のある街並みが悦ばしい。この遺跡の北東隅,目抜き通りに面したかつての一等地に「二百年祭の家」という集合住宅の遺構が残っている。その二階の一室から興味深い訴訟記録が蝋板文書の形で発見され,今世紀初めに刊行されたが,それに名を残す乙女が表題にあるユスタである。彼女は私生児で父親は知れず,だから,自らを「名無しの権兵衛の娘」と称していた。また,母親はウィタリスといい,元奴隷の女だった。ユスタは,そんな無名の庶民娘であったから,歴史を動かすような大事件とは無関係だったが,身の丈サイズの波瀾万丈に揺れた彼女の半生は,元首政期イタリアにおける奴隷の家族環境を活写していて面白い。
ユスタの母ウィタリスはステファヌスという金持ちの奴隷であった。ウィタリスがユスタを産んだのは,62年に大地震がカンパニア地方を襲う少し前のことで,この出産と同じころにウィタリスは奴隷解放された。文書によれば,ユスタは元主人のステファヌス家で「娘のように」養育されたとあるので,この母娘はしばらく別居生活を続けたらしいが,やがてウィタリスは娘の返還をステファヌスに願い出る。しかし,ステファヌスのほうでも可愛がっていた娘なので,話はなかなか決着をみなかった。そこでステファヌス家の家令であったテレスフォルスが調停役として両者のあいだに入り,ウィタリスがステファヌスにこれまでの養育費を支払うことで,ユスタがウィタリスのもとへ戻されるよう段取りをつけたのであった。こうして,晴れて母娘水入らずの生活がはじまり,事は一件落着したかに思われたが,やがてステファヌスが亡くなり,ウィタリスも亡くなると,ユスタの法的地位をめぐって,ステファヌスの未亡人テミスとのあいだでいざこざが生じる。おそらくはテミスが,ユスタは自分の解放奴隷であると主張し,保護者の権利を要求してきたものと思われる。もしも,このテミスの主張が通れば,ユスタは生まれながらにして自由なローマ市民の身分からユニウス・ラテン人という劣格身分に顛落し,恋人プリスクスとの結婚もだめになる。そればかりか,これから二人で築いていくだろう幾ばくかの財産を子どもに遺すこともできなくなるのである。かくしてユスタは,エロスという人物を訴訟代理人にたて,自分の法的地位の確定をめぐってテミスとその後見人テレスフォルスを相手に法廷で争うことに踏み切った。75年9月7日に両当事者間で,来る12月3日に首都ローマで裁判を行う旨の約束が交わされ,関係者の証言集めが始まった。しかし,ここで驚くべきことが起こった。ユスタの告訴を受けて立つはずの,つまりテミス側の人間であったはずのあのテレスフォルスが,ユスタは生まれながらにして自由なローマ市民であると,一転してユスタ側に有利な証言をしたからである。この裏切りにテミス側は慌てふためいたであろう。裁判の延期が申立てられ,翌年の3月12日にあらためて裁判開始の約束が結びなおされた。このときにはテレスフォルスは後見役から退けられ,かわってテミスの解放奴隷であったスペンドンという男がテミスの後見人をつとめることになった。
以上が,文書から復元できるユスタの境涯であるが,分からないところも多い。なぜユスタは,母親との別居生活を余儀なくされたのだろうか。母親の解放直後は生活の余裕がなくて,それで棄てられたのだろうか。それとも震災のせいか。あるいは,ステファヌスが実は父親だったからか。彼は,ユスタをひきとって「娘のように」愛育し,手放したがらなかった男である。しかし,父親といえば,あのテレスフォルスも有力候補である。彼は,ウィタリスとともに解放され,ユスタ返還の仲立ちをし,主人一家を裏切るような形であえてユスタに有利な証言をした人物なのだから。このように,ユスタの父親探しは,ワイドショー的興味すら覚える面白い謎なのだが,残念ながら文書からは分からない。
裁判の行方もまた興味の尽きない謎である。ユスタは,自分が生まれながらにして自由なローマ市民身分であることを証明できたのだろうか。それとも,テミス側が勝利して,ユスタはユニウス・ラテン人身分に落とされてしまったのだろうか。50人近くのヘルクラネウム住民がこの裁判に関わり,ユスタの身分について多くの証言が集められたが,例のテレスフォルスのように証言を翻す者や,怪しげな証言をする文盲の元奴隷なども加わって,事態は混迷を極めている。それはそれで面白いのだが,事の真相と顛末は,多くの謎を残したまま,79年夏の大噴火によってヘルクラネウムの町とともに火山灰に埋まってしまった。われわれはただ,あの乙女のその後に思いをめぐらすばかりなのである。
イドロ氏のカザーレ・モンフェラート
佐藤 公美
現在のカザーレ・モンフェラートはイタリアのアレッサンドリア県下の控えめな自治体だが,かつてはモンフェラート侯領の中心地でもあった歴史的「都市」だ。ある定住地を「都市」と呼ぶか「村」と呼ぶかは微妙な問題だが,カザーレのような小中心地は日本の“町”の実態に近いと思えば理解しやすいのではないだろうか。寺院や城郭のような歴史的中心を持ち,住民の主たる就労形態は農業や小経営,文化的・経済的には隣接する「市」の影響圏内に矛盾なく包摂されているというような。生活基盤は周辺の「市」や「村」との関係の中で形成され,強烈かつ排他的なアイデンティティーはなんらかのプラクティカルな契機がない限り発動しない。
この「プラクティカルな契機」をカザーレは13世紀に一度経験している。この時期カザーレは定住地として,また共同体として急速な成長を成し遂げた。カザーレが都市的中心であるという強烈な自意識を住民が形成していたことは,周辺の集落にカザーレの裁判権を押し広げて行く様子から読み取ることができる。だがそこに至るまでに,世紀前半には支配都市ヴェルチェッリとの長年にわたる対立の結果集落全体を破壊された。この痛手から復活し世紀後半の自信に満ちた中心に成長する過程については断片的史料しかなく,したがって想像することだけが許されているのだが,これは“語りえないもの”の領域−−しばしば現実の歴史にとってはしかしもっとも重要な領域−−に属する。
だが,それを語った人がカザーレにいた。市立図書館で私は自分が調べていた時代と完璧に年代設定の一致した本を見つけた。『カザーレ・サン・ヴァクス(カザーレは中世には別名「カザーレ・サン・エヴァジオ」と言った。Vaxはevasioの別表記):1215〜1220年の歴史』。著者イドロ・グリニョリオ。とりあえず請求して手にとってみれば,小説だった。すると一人の老人が近づいてきて話しかけてきたのだ。「これをあなたが読むの?かなり特殊な本だが……」私が中世のカザーレについて調べていることを話すと,彼は13世紀の出来事を嬉しそうに語り始めた。1215年,カザーレはヴェルチェッリに破壊され住民は離散。一部住民はヴェルチェッリが建設した新集落への移住を余儀なくされ,苦難の時代を過ごした後,フリードリヒ二世によって城砦の再建を許可されるに至る……。「私はもう20年間カザーレの歴史を調べている」彼はそう言って『カザーレ・サン・ヴァクス』の表紙をめくり,著者の写真と自分を交互に指差した。イドロ・グリニョリオ氏であった。
小説の荒筋はグリニョリオ氏が語った通りで,また果たして小説として面白いのかどうかと言われれば判断に迷う。だが彼が長期に渡る史料調査を想像力で補って再構成した13世紀のカザーレと,そこに生きた登場人物にあふれる愛情を注いでいることが疑問の余地なく伝わってくる。史料の引用と注記は詳細にわたり,なんと挿絵も自作である。面白いのは登場人物が持っている世界の広がりだ。カザーレのマギステル・ライネリオの義兄にあたる人物はカザーレ近郊の村から結婚後ヴェルチェッリへ移住,ヴェルチェッリ評議会に属していて,ヴェルチェッリの政治情勢に関する情報をカザーレの親族にもたらす。さらにカザーレ住民の多くはモンフェラート辺境伯に従って十字軍遠征に参加,帰還者は多くの東方情報をもたらした。ここに登場するカザーレの住民たちは近隣都市や東方の政治情勢を非常によく知っているのである。ほんの小さな中心地にすぎないカザーレも常に「地域情勢」と「世界情勢」に対して開かれているのだ。そんなカザーレの自意識高揚の契機はやはり敵から受けた破壊と屈辱の経験で,それを象徴的に表すのが主人公の一人ドナデオだ。この人物は常宿を持たない巡礼者だったが,補囚と移住の運命をカザーレ人とともにし徐々に土地の人間になっていく。悲惨な経験の後,最後に彼がすがるのは神である。カザーレ人たちが破壊された聖エヴァジオ教会の再建のためにパヴィーアの聖堂参事会に借金を繰り返していたこと,また打ちひしがれ救いを求めてフランチェスコ会修道士の説教を聴くために遠くアスティまで足を運んだことを,後世の編年史は語っている。苦難の記憶から呼び覚まされた信仰心が再建の推進力になったことは間違いない。それは単なる集落史ではなく,托鉢修道会の興隆という信仰史上のうねりと,中世の都市コムーネ史,さらにカザーレのローカルな地域史の三層が重なった一つの歴史的事件だ。だがそのリアリティーをためらいなく描けるのは,地域史への思い入れに満たされ,一冊の歴史小説を書くために20年を費やすことのできたこの人物だけだろう。私は自分とイドロ氏との距離を思い,自分に描き得る歴史の像を結ぼうとしばしば試みるが,それは未だ混沌としているのだ。
春期連続講演会「地中海世界の歴史:古代から中世へ」講演要旨
古代ローマと地中海世界
−−ローマ帝国:古代地中海世界の近代性−−
本村 凌二
前2千年紀に馬にひかれた戦車が登場すると,歴史の舞台が拡がり,急速に進展してくる。とりわけ前1千年紀前半にユーラシア全域に騎乗技術が普及すると,歴史はめまぐるしく動き出した。騎馬遊牧民スキタイの出現はアッシリア帝国やペルシア帝国が形成される誘引となり,馬を駆る匈奴の勢力拡大は秦漢帝国が成立する遠因でもあった。たくさんの人や物が馬によって遠方まで運ばれ,情報はより速く伝わるばかりか,戦場でも騎馬軍団は圧倒的な優位を誇った。
周知のごとく,地中海沿岸地域は岩山や丘陵が連なるばかりで,広々とした平原には恵まれていない。これは自然のおりなす地形として,まずこの世界が馬を活用するには,もともとふさわしくなかったということである。あきらかに,西アジアや東アジアの世界帝国ほどに戦車も騎馬も用いられなかった。それにもかかわらず,ローマ帝国において頂点にいたる古代地中海世界は,古代の諸文明ばかりか中世をも含む前近代の歴史のなかで,ひときわ繁栄を享受し,高度な文化の華を咲き誇らせたかのように見える。
このような高度な文明を築いた古代地中海世界とは,いったい何であったのか。そこでは,豪華絢爛たるパルテノンの馬の浮彫も,民衆を熱狂させたローマの戦車競走も,その華やかさにもかかわらず,せいぜい添え物でしかない。馬は,この古代のなかで繁栄のきわみを誇った文明世界にあって,いかなる役割を果たしたのだろうか。これは人類の文明史を考える上でも,きわめて価値ある問いかけであるように思われる。
ここで,ギリシア神話で周知の「海の神」であるポセイドンは,かつて「馬の神」であったという話を思い出してもらいたい。草原の馬を知っていたインド=ヨーロッパ語系のギリシア人は,移住して南下すると,青々とした海原の地中海を身近に見るようになった。そのとき,彼らの脳裏になにが浮かんできたのであろうか。
地中海沿岸は海岸線が入りくんでおり,あちらこちらに島々も点在する。しかも,海全体が内海になっており,大洋にくらべれば,はるかに波も穏やかである。冬季の荒海の時期をのぞけば,紺碧に輝く海原は人間の冒険心を誘い込まずにはおかなかった。豊かな木々を切り倒し,船を造って,海に浮かべて進み出す。そのとき,海原を走る船は草原を駆ける馬の姿と重なって目に焼きつく。そこで,「馬の神」ポセイドンは「海の神」に変身するのである。
馬と草原,船と海原。両者を比べてみると,さまざまな点で共通点をもつことに気づく。なによりも,人も物も情報も速く移動することになり,空間が拡大し,時間が短縮される。こうしたことは人間の営みを大きく変えてしまうのである。
そういえば,しばしば,近代世界は海から始まる,と言われる。としても,海の交易そのものは古代にはなかったわけではなく,さまざまな領域で行なわれていた。しかし,おおざっぱにながめれば,宝石や香辛料などの高価な奢侈品にかぎられ,日常の必需品が大々的に取引されるわけではなかった。そうするには,あまりにも危険が大きすぎた。さまざまな生活必需品が海上交易の中心をなすような時代は,やはり近代になってからであろう。それには船を建造したり操縦したりする技術が高まり,波の高い外洋を少しでも安全に航海できるようになることが求められた。こうした条件が実現されたとき,諸地域を結ぶ「海域世界」が成立する。まさしく,これらの「海域世界」こそが,やがて近代の世界システムをもたらしたのである。
ところが,地中海世界は,いち早く「海域世界」を形成する可能性を秘めていた。なによりも,穏やかな内海が広がり,複雑な海岸線を頼り,あちこちに浮かぶ島々を目印に進めば,航海の危険も少なくてすむのである。この内海の世界のなかで,フェニキア人やギリシア人はさかんに植民活動を行ない,各地に交易の拠点が生まれることになる。やがてカルタゴは西地中海を中心に海洋文明圏を築き,東地中海からオリエントに広がる世界にはヘレニズム文明圏が形成された。そして,それらを継承し吸収する形で生まれたのがローマ帝国である。このような視点でながめれば,ローマ帝国とはなによりも「地中海帝国」であり,そこにひとつの「海域世界」を実現したものと言えるのではないだろうか。それは,古代における近代の先取りであった。
地中海帝国を築いたローマ人は,この海を「我らの海」(Mare Nostrum)と呼んでいる。この内海を包み込む世界に「ローマの平和」が訪れたのである。そこでは,なによりも穀物,ワイン,オリーブなどの日用品が取引された。馬を手掛かりに地中海世界を考えれば,この海に新しい意味を見出だすことができる。
春期連続講演会「地中海世界の歴史:古代から中世へ」講演要旨
ビザンツ帝国と地中海世界
大月 康弘
ビザンツの皇帝は,「神の摂理」oikonomiaを地上において実現する「神の代理人」でした。皇帝が帯びたこの使命は,当時の史料の随所に読みとれます。例えば,帝国の聖俗儀礼,有職故実に造詣が深かったコンスタンティノス7世(在位906〜959年)は,その『儀式の書』序文の中でこう述べています。「それ(=皇帝の責務)は創造主がこの世の全体に与え給うている調和ある運動を目の当たりに映像化する(エイコニゼイン)こと」。
つまり,皇帝が主宰する儀礼の意味は,「天上の帝国」を地上において現前化させること,そして,地上の帝国を統べるビザンツ皇帝の権力を,神の恩寵のもとにあるものとして超越化させることであったわけです。
皇帝の支配は「世界」oikoumeneの全体を包含するものでした。それは,ビザンツ国家の政治空間が,物理的な境界によって区切られるものでなかったことを意味します。少なくとも,皇帝をはじめとする当時の文人,政治家は,そう考えていたと見えます。ユスティニアヌス(在位527〜565年),バシレイオス2世(在位976〜1025年),マヌエル1世(在位1143〜1180年)の再征服活動もまた,かかるモチーフに支えられていたと考えるべきでしょう。中世の「ローマ皇帝」は,常に「キリスト教世界」の全体に責任を負っていたのでした。
「中世キリスト教世界」は,言うまでもなくコンスタンティノープルに座す「皇帝」によって支配されていました。ビザンツ国家機構の中でも,皇帝は「神の代理人」として,それを統括する存在として立ち現れます。そして,皇帝に統べられる「帝国」もまた,周辺諸民族を包含する普遍形象として観念されていました。「ローマ皇帝」は,全「世界」の「統括者」「救済者」として君臨していたのです。「神の摂理」にもとづくこの世界認識は,キリスト教の諸観念によって高度に鍛え上げられた独特な政治イデオロギーでした。それは各種史料上に現れ,帝国支配の現場や,諸民族との交渉の場でも可視化されていました。
ビザンツ帝国と地中海世界の関係を考える場合,まずこの独特な国家理念を仮設的に了解することが肝要です。それは,現代の国民国家を基本要素とする国際・外交関係の認識枠組みとは根本的に異質でした。様々な事象もまた,当時のこの世界秩序観に沿って理解されなければなりません。例えば,ゼノン帝のヘノティコン(484年),ヘラクレイオス帝のエクテシス(638年),コンスタンス2世帝のテュポス(648年)等の諸施策もまた,離反傾向にある単性論派アレクサンドリア,シリア教会,つまり分離傾向にあったこれら東方地域を帝国内に留保するための融和策にほかなりませんでした。イコノクラスムの開始にしても,いまや他の要因とともにこの文脈において考える必要があります。
上述の世界観は,上記コンスタンティノス7世の『帝国の統治について』の中でも端的に示されています。そこでは,「ローマ人」romaioiと「夷狄の民」ethneの対置が機軸に据えられ,当時知られた諸民族,諸国家の君主たちが,「家父長」たる皇帝の「兄弟」「友人」と呼ばれて,いわば「神の国」のオイコス秩序論が展開されるのです(渡辺金一『中世ローマ帝国』岩波新書,1981年,1-72頁を参照)。この世界秩序観は,コンスタンティノープルを来訪した幾多の外交使節との接見の場(マグナウラ宮殿ほか)でも,荘厳な雰囲気のなかで再現されていたようです(一例として,Liudprand, Antapodosis, vi, 5, ed. J. Becker, Die Werke
Liudprands von Cremona, Hannover-Leipzig, 1915, p.154-155を参照)。
さてところが,この「世界秩序」は,10〜11世紀の経過の中で変容をきたします。いうまでもなく,西欧世界の「王」がこの「世界秩序」の長たる皇帝の称号を帯び,実質的にもこの「世界支配」に意欲を見せ始めたことに端を発します。オットー1世の戴冠(962年2月2日),オットー2世とテオファノの婚儀(971年4月14日),また1054年7月の教会分裂劇も,一連の「変動」過程の中に位置付けることができるでしょう。
10世紀後半以降,「世界」秩序の覇権をめぐる経過は,高度な政治レベルにおいてキリスト教地中海世界の編成を深層から組み替える震源になった,とすら見えます。実際,西欧世界では,10世紀末から「ローマ皇帝」の称号を帯びる「王」の意欲的な行動が目に付くようになります。都市ローマを再び「世界」=ローマ帝国の中心にしようとしたオットー3世の夢想的な復興策はその端的な例です。このテオファノの息子は若干21歳で夭折しましたから,上記の計画は頓挫しましたが,彼が長命で,予定された二代続けてのビザンツ皇女との結婚が実現していたなら,「世界」はかなり違った相貌を示したかもしれません。
現象はなにも政治・外交面に限られません。10世紀末半ば以降,西方でのラテン語による著述活動は活発化し,豪華福音書,時祷書写本もまた,皇帝の肝煎りにより多く作製・献納されました(例えばライヒェナウ派の活躍)。それは,オットーネン・ザーリア期の王=皇帝の政治意識の反映,と見ることも許されるでしょう。
Translatio Imperiiという主題で論じられるこの歴史上の問題は,具体的な作例によっても変遷が辿られうる興味深いテーマです。ヴォルフェンビュッテルの文書館に収蔵される「オットー2世とテオファノの婚姻証書」,パリ・クリュニー美術館収蔵の《オットー2世とテオファノ戴冠の象牙浮彫》。それらには,様式における東方の影響が色濃く見られます。また,福音書写本挿画中に描かれるオットー3世,ハインリヒ2世像の革新性なども,この「変化」の一端であるようです。
「神の摂理」のもとにある地上の帝国の秩序ある運営。その遂行を責務としたローマ皇帝理念は,周知のように近代に至るまでキリスト教世界を規定しました。ダニエル書第7章に根拠をもつこの政治的「幻影」は,ことさら中世地中海世界にあっては,多大な影響力を有する社会の規定要因だったと言えそうです。
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