2000|9
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学会からのお知らせ
*常任委員会
・第6回常任委員会
日 時:1999年10月9日(土)
会 場:上智大学7号館
報告事項
a.学術会議学術団体登録に関して 他
審議事項
a.第24回大会に関して
b.会費長期未納者に関して 他
・第7回常任委員会
日 時:1999年12月18日(土)
会 場:上智大学L号館
報告事項
a.第23回大会会計に関して 他
審議事項
a.第24回大会に関して
・第8回常任委員会
日 時:2000年2月21日(土)
会 場:東京大学教養学部14号館
報告事項
a.『地中海学研究』XXIII(2000) に関して
b.春期連続講演会に関して 他
審議事項
a.第24回大会に関して
b.地中海学会賞・ヘレンド賞に関して 他
・第9回常任委員会
日 時:2000年4月15日(土)
会 場:上智大学7号館
報告事項
a.事務局長交替に関して 他
審議事項
a.1999年度事業報告・決算に関して
b.2000年度事業計画・予算に関して
c.地中海学会賞・ヘレンド賞に関して 他
表紙説明 地中海:祈りの場19
ヴォルト・サントと有髭の聖女伝説/秋山 聰
祭壇の上に長衣に身を包み王冠をかぶったキリスト磔刑像が安置されている。その前では男が弦楽器を奏している。よく見ると彼の前には靴らしきものがある。キリスト像の片足が裸足であることから,これが像からはずされたものと推測できる。この作品はハンス・ブルクマイアーによる版画(1507年頃)であり,画中に「ルッカの像」という銘があるように,ルッカ大聖堂の「ヴォルト・サント」と通称されるキリスト磔刑像に由来する伝説を描いたものである。ある時貧乏な楽士がこの像の前で祈りを捧げつつ演奏した。するとこの像は履いていた靴の片方を与えた。ところが男が窃盗犯と間違われたので潔白を証明すべくもう一度像の前で演奏した。すると磔刑像はもう片方の靴をも与えたというのである。当該作品はこの伝説の最初の奇跡を扱っているわけである。
この版画は本来聖キュムメルニスという聖女についてのテクストを伴っていた。この聖女はヴィルジェフォルティス(「乙女の力」の意からの派生らしい),アンカンバー,リベラータ,オントコンマーなどとも呼ばれ,ポルトガルの王女であったとされる。キリストを伴侶とする誓いをたてていた彼女は,父王に他国の王との婚約を迫られた折,誓いを守り通すべく熱心に神に祈りを捧げたところ,翌朝髭が生えてきた。このため婚約は破談となり,怒った父王によって磔刑に処せられたという。この聖女の伝説は14世紀半ば以降,専らアルプス以北のドイツ語圏やネーデルラント,スペイン,イギリスなどで信仰された。その図像は必ずしも有髯というわけではないが,メムリンクやボッシュにも作例がある。この北方で広く流布した聖女伝説は,恐らく実話ではなく,長衣のキリスト磔刑像から着想を得たものと思われる。しかし,長衣を着た磔刑像が見慣れないからといって,民衆の発想が「キリストが女装している」とは向かわずに,「髭が生えた女性が磔になっている」という方向に進んだのは興味深い。熱烈な信仰心が時にこのような途方もない想像力を喚起するのだろうか。いずれにせよこの聖女伝説がいつごろからかルッカの「ヴォルト・サント」に結び付けられ,後者にまつわる靴の伝説が聖女伝説に取り込まれるようになったらしい。ブルクマイアーの作例でも,「ヴォルト・サント」とこの聖女伝説が重ね合わされているのだが,そこには微妙なズレがうかがわれる。ここでは磔刑像は十字円光を戴いており,あきらかに聖女ではなくキリストとして描かれているのだ。ところでこの聖女信仰はバロック期に絶頂を極めたあと,20世紀にはほとんど消滅した,と辞典の類には記されているが,近年再びフェミニスムや同性愛の観点から脚光を浴びつつあるようだ。
『グラディエーター』雑感
島田 誠
7月中旬の暑い午後,古代ローマを舞台とした「スペクタクル史劇」として評判の映画『グラディエーター』を観た。6月中旬の試写会には日程が合わず,午前中に前期試験の監督を終えた帰途にようやく観ることができた。封切り後,1ヶ月経った平日の午後にもかかわらず映画の入りはそこそこであり,観客の反応は上々のようであった。筆者はといえば,二重の意味(悪い意味でも良い意味でも)予測を裏切られたというのが,正直な感想である。上映が始まり,まず浮かんだのは,これは喧伝されているような古代ローマ史劇ではないとの感想であった。しかし上映が終わったときには,エンターテイメントとしては上々の,人間ドラマとしてもほどほどの出来の良い映画だったとの印象が残った。
この映画は,哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウス帝と息子のコモドゥス帝の父子の争いとそれに巻き込まれて妻子を殺されて自らも奴隷・剣闘士とされた将軍アエリウス・マクシムスの復讐の物語である。長年の戦いに疲れたマルクス帝は,ゲルマン人との戦いに勝利した将軍マクシムスを後継者に選び,権力を元老院に委ねて共和政の回復を目指すことを命じた。父帝の決意を知ったコモドゥスは父への愛と裏切られた想いを吐露しつつ父を殺害し,近衛隊にマクシムスの処刑を命じた。何とか近衛隊の手を逃れたが,最愛の妻子を殺害されて自らも奴隷となったマクシムスは,剣闘士として人気を博し,コロッセウムで皇帝コモドゥスと対決して勝利するが,自らも命をおとす。
親子の葛藤,父(皇帝)殺し,妻子の復讐という普遍的なテーマに加えて,マクシムスとコモドゥスという善対悪の対立は明確でわかりやすい構図となっている。妻子を愛し,亡き皇帝を敬愛する表裏のない主人公マクシムスの性格や巻き込まれ型のストーリー展開は,一歩間違えると平板な印象を与えかねないが,父との葛藤に由来するコモドゥスの言動が映画全体に陰影を与えているように感じられた。
さて,これはローマ史劇ではないとの感想は私がローマ史を専門に研究しているためかもしれない。そのような批判は,エンターテイメントとしての映画に対しては不当な非難,言い掛かりに近いものであることは十分に承知しているが,時代錯誤な設定や繰り返される耳障りな台詞はストーリーに集中することを妨げた。
時代錯誤な設定には,例えば紀元2世紀の後期,マルクス・アウレリウス帝没前後に共和政への復帰が政治問題となるとの設定があげられよう。ちなみに字幕では,共和政をさすRepublicに連盟(?)という不思議な訳があてられていた。
台詞の中で最も耳障りだったのは,登場人物の役名である。主人公は,アエリウス・マクシムスと2世紀後半の将軍(恐らく騎士出身で皇帝によって元老院議員に列せられていたはず)に如何にもありそうな氏名である。ところが,主人公の副司令官(?)でコモドゥス帝に寝返って近衛兵の隊長になる軍人はクィントゥスと呼ばれている。クィントゥスは日本で言えば二郎,三郎に当たる個人名なので,低く見ても高位の騎士には違いない軍人が他人からそのように呼ばれるはずはない。皇帝側近の元老院議員の一人はガイウス(太郎か?)としか呼ばれない。また主人公マクシムスの従卒はキケロ,コモドゥス帝に対立する元老院議員が何とグラックスである。知名度の高い古代ローマ人の名前を適当に採用したのだろうが,正直なところ興醒めであった。邦語訳もあるJ.M.ロバーツの『SPQR』シリーズやR.デイヴィスの『密偵ファルコ』シリーズなどの古代ローマを舞台としたミステリ小説に比べて,この映画の脚本にはフィクションと史実を違和感なく両立させるための配慮に欠けている点が目立つ。
『グラディエーター』の古代ローマの描写には大きな違和感があるが,エンターテイメントとしては上出来な映画だった。なかでも特筆されるのは,やはりビジュアル面でのすばらしさだろう。プログラムやパンフレットで強調される冒頭の戦闘シーンやコロッセウムの剣闘士の試合の場面は迫力あるものである。コンピュータ・グラフィックスによるコロッセウムとその大観衆は見事なものである。しかし,それらのスペクタクルシーン以上に印象に残ったのは,繰り返される主人公の心象風景であった。麦の穂を撫でつつ一面の麦畑をかきわけ進む(主人公の)手のクローズアップや白い壁の門の向こうに続く糸杉(?)の道の映像は,故郷を想う農場主(字幕では農夫)でもある主人公の人柄をよく示している。
このような作品『グラディエーター』は,古代ローマを舞台にした歴史劇というよりは,歴史上どの時代,どの地域にもあっておかしくない人間の葛藤と愛憎を描くドラマであり,コンピュータ・グラフィックスを駆使したスペクタクルである。古代ローマの史実を意識せず,上質のエンターテイメントとして楽しむべきだろう。
地中海学会賞を受賞して
陣内 秀信
学際的な交流の場として素晴らしい活動を展開してきた地中海学会の栄えある賞をいただくことになりまして,誠に有難うございました。私自身にとって,地中海学会は,研究の領域を広げ,発想を豊かに膨らませてくれる,自分を育ててくれた場という気持ちが強いだけに,その学会から賞を授与されるということは,大変うれしいことでした。お世話になった方々に心から感謝いたします。
思えば,私の地中海学会との出会いは,とてもタイムリーでした。イタリア留学から戻り,本格的に研究を進めようと意欲を燃やしていた頃に,旗揚げしたばかりの熱気あふれるこの学会に参加できました。それまで建築,あるいは建築史の分野に限定されていた自分の知識の広がり,活動の場が,一気に膨らむ喜び,知的興奮というものを実感できました。地中海世界に関する様々な学問分野,しかもその中の多様な地域,そして古代から現代まで色々な時代を研究される多彩な専門家の方々との出会いは,その後の私の仕事(あるいは人生そのもの)にとってとても大きな財産となりました。何よりも自分の惚れ込んだ研究対象への情熱というものも,この学会の諸先輩や仲間から学んだ気がします。
不思議な巡り合わせで,とりわけ同世代に,いかにも地中海世界らしいテーマに取り組む素晴らしい研究者の仲間がそろっていたことも,とても幸せでした。古代ローマの社会史,イスタンブルを中心とするオスマン史,古代ギリシアの文化史(早世された桑原則正さんの研究は実に興味深いものでした),またシチリア文学,イタリア美術史,そして我が建築史などなど,贅沢な知的刺激をいつも仲間からじかに与えていただきました。それこそ私などより先に地中海学会賞を受けてしかるべき方々ばかりです。
そもそも私自身にとって,ヴェネツィアから研究を開始したということが,地中海世界に広く目を開くことに自然な形で繋がったと思います。伊東俊太郎先生がかつて,ヴェネツィアのことを「西洋の中のオリエント都市」と形容されたことがあります。この街の建築や工芸の様式,美意識に,そしてリアルト市場の賑わいに,サン・マルコ広場の見事な回廊に,さらには迷宮的な都市構造に,そして邸宅の美しい中庭に,オリエント的な香りがたっぷり感じられます。そのルーツを探って,東方世界,イスラーム世界へと関心を広げるのは,自分にとって自然な流れでした。その導きを,学会の諸先生や仲間の専門家からいただいた次第です。
学際的な地中海学会から学ぶのに,自分が選んだテーマは幸いでした。建築史の分野では,従来,宗教建築や公共建築,宮殿・邸宅をはじめとする個々の建築作品が主たる対象として研究されてきました。先達の建築史の諸先生の後を行く世代として私は,そこに人々の暮らす生活空間を持ち込みたいと考え,住宅を,そして都市空間を自分のテーマに選び,その研究方法を学ぶべく,イタリアに留学しました。住宅や都市を扱うと,幸い他の研究分野の方々との接点がたくさん出てきます。人類学,社会史,経済史,地理学,文学などの方々から,実に多くの刺激をいただけました。
しかもオーソドックスな建築史ですと,ヨーロッパ建築史とイスラーム建築史をつなぐ切っ掛けがつかみにくいのに対し,地中海世界の住宅や都市空間を見ていると,北と南を相互に比較し,両方の世界の文化の質の違いと共通性を考えてみたい気持ちに自ずとなります。そもそも,ヨーロッパでも,アルプス・ピレネーの北と南の差は大きいわけですし,逆に,地中海世界全体において,南欧と中東地域を通じた,都市や住宅の共通項がたくさん描けると思います。
この場をお借りして,地中海都市に私の目を開かせてくださった都市建築史の分野のお二人の大先輩に,感謝したいと思います。イタリア都市研究のパイオニアの田島学先生には,留学前にヴェネツィアに関する貴重な文献を貸与いただき,懇切な研究の手ほどきをしていただきました。また,我が国のイスラーム建築史の第一人者,石井昭先生からは,私のヴェネツィア留学中に,イラン国内の都市・建築調査に同行する機会を与えていただき,イスラーム建築の魅力をご教示いただきました。その経験がなければ,自分の視野は広がりえなかったに違いありません。どうも有難うございました。
この数年,私はイスラーム圏の都市を調べるのと平行して,南イタリアの諸都市を,イスラーム側からの視点も入れて研究しています。一度そういう発想をもつと,発見がたくさんあります。研究室の若いメンバーと毎年,フィールド調査に取り組んでいます。また,ヴェネツィアを出発点にして,アマルフィをはじめ,オリエントと密接に結びついていたイタリアの中世海洋都市の比較研究に着手しているところです。この賞を励みにして,地中海世界の都市の魅力,価値をより深い所から描き出す研究に一層の努力をしていきたいと思います。
地中海学会ヘレンド賞を受賞して
石井 元章
今回,拙著『ヴェネツィアと日本 美術をめぐる交流』(ブリュッケ社1999年)に対して,第5回地中海学会ヘレンド賞を戴き,心より感謝致します。我々研究者奨励のためにヘレンド賞を設けてくださる星商事椛纒\取締役社長鈴木猛朗氏,選考に当たってくださった先生方,そして拙著が出版に至るまでに多くの御助言を戴いた恩師の先生方に衷心より感謝いたします。
今回受賞の対象となった著作は,1997年3月に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美術史学専門分野に提出した博士論文をもとに,加筆修正を行ったものです。この論文は私のイタリア留学生活の総決算でした。私は,ルネサンス美術の研究者としてまずイタリアと関わりを持ちました。主な関心事はヴェネツィアを中心とする北イタリア彫刻史であり,これは修士論文の研究テーマとなりました。しかし博士論文の研究題目選定に当たって,時代を15世紀から近代へと大きく方向転換しました。紆余曲折の後,第2回ビエンナーレに日本美術協会が参加したことを見いだし,調査を進めるうちにこの研究は,ヴェネツィアを中心とした日本とイタリアの文化交流へと次第にその対象を広げることになったのです。
法律を学んだ後,商社に勤めた経歴を持つ私を,厳しいながら温かい目で長い間見守り,人並みの研究者に育んでくださった高階,青柳,小佐野,セッティスなど恩師の先生方に言われ続けたことは,常に「研究におけるオリジナリティー」であったと考えます。これはイタリア留学中も,トラウマのように私の脳裏から離れませんでした。日本人のイタリア研究者として,イタリア人や他の欧米研究者と異なる独自性はどこに求められるのか,それを,ルネサンス研究においては新しい視覚的発見,博士論文においては日本人であることを出発点として両国の関係を洗い直すことに努めました。それが,本当に幸運にも先生方の評価と大阪芸術大学の出版助成を得て一冊の本として刊行され,その結果ヘレンド賞を受けることができました。
さてここで,本書の内容について少々触れておきたいと思います。この本は,明治期における日本とイタリアの文化交流の諸相を,基本的にヴェネツィアに舞台を絞って検証しようとするものです。明治期の日伊交流は,主に岩倉使節団の訪伊や,エドアルド・キョッソーネ,工部美術学校のイタリア人教師たちを中心としてこれまで研究が行われ,多くの事象が明らかにされてきました。確かに岩倉使節団やお雇い外国人の活躍は,この分野のハイライトであり,その重要性は大きいといえます。しかしながら,相互に何のつながりも持たせぬまま個々の事象を扱っていたのでは,明治という時代のもつダイナミズムの根幹を見逃してしまう気がしてなりません。
私が目指したのは,これが相互に有機的関連を持ちながら進展していく様子を示すことでした。まず,岩倉使節団の訪問を契機としてヴェネツィアには行政機構である総領事館が設置され,その後名誉領事職がその任務を引き継ぎます。同時にアレッサンドロ・フェー・ドスティアーニ伯爵の発案によってヴェネツィア商業高等学校に設けられた日本語講座には,数人の日本人留学生が教師として着任,イタリア文化を学んで帰国しました。この海の都においては,前者名誉領事職にあったグリエルモ・ベルシェーと,後者日本語講座が主体となって日本への興味を喚起した訳です。続いて1897年に開催された第2回ヴェネツィア・ビエンナーレは,イタリアで初めて日本美術を紹介することになります。これらの事象が結び付いていくのは,最終的には人と人の繋がりを基礎とします。本書で取り上げるヴェネツィアの場合,それはフェー・ドスティアーニ伯爵を始めとして,ベルシェー,長沼守敬,佐野常民などでした。
私は美術史が専攻であるため,本書の中心となる議論は,1897年の第2回ヴェネツィア・ビエンナーレに日本美術協会が参加した事実の調査・追跡です。これを第3部で扱い,その参加に至る環境の形成を第1部でつぶさに検証,日本語講座が設けられた経緯や,ヴェネツィア滞在中の川村清雄,長沼守敬らの活躍を再構成するよう努めました。また第2部では当時のイタリアにおける日本美術への興味や,明治美術の持つ問題点を取り上げました。1897年のビエンナーレが持つ特徴や問題をより明確にしたかったからです。以上が本書の概要です
これからも今回の受賞を一層の励みとして,新しい分野の研究を新しい視点で進めていきたいと考えます。先生方の一層の御指導・御鞭撻をお願いいたします。現在『ヴェネツィアと日本』のイタリア語版を準備中であることを付け加えさせて頂き,感謝の言葉と致します。
自著を語る 21
『オスマン帝国の解体−−文化世界と国民国家』
ちくま新書 筑摩書房 2000年5月 238頁 660円
鈴木 董
先日,長年にわたって構想をあたためてきたが,なかなか書き進めることができなかった一冊の本を刊行することができた。この本について企画を話しあい,想を練り始めたのは,5年以上前のことであった。しかし,実際の作業は,遅々として進まなかった。ところが,旧ユーゴのコソヴォ紛争が熾烈化し,アルバニア系の人々が流離の民となって流亡しつつあるとの報に接し,今度は,何としてもこの書を書き進めねばならぬと痛切に感ずるようになった。そして,コソヴォの人々の流離の愁いに心をいたしながら漸く何とか刊行にこぎつけたのが本書である。そこで説きたかったのは,文化を異にする人々の共存はいかなるとき可能となり,いかなるとき紛争が生ずるのかということであり,また「近代」において,なぜ文化を異にする人々の争いが「民族紛争」の形をとりがちとなるのかということであった。
現代の中東・バルカンは,民族紛争・宗教紛争のるつぼの観を呈している。パレスティナ,ボスニア,コソヴォと,紛争の連鎖は,果てしがないようにみえる。このような熾烈な民族紛争・宗教紛争は,限りなく単一民族国家に近い,異例に同質的な日本の社会に生まれ育った我々にとっては,甚だ不可解なものにみえる。そこで紛争激発の原因として,我々がまず思い浮かべるのは,このような民族紛争・宗教紛争の激発は,中東・バルカンという地域の地域的特性なのではないかという考えである。確かに,中東・バルカンは,様々の民族・言語・宗教に属する人々が,複雑に入り組んで分布する民族・言語・宗教のモザイクのような社会からなる。確かに,そこは,イスラム・キリスト教・ユダヤ教といった厳格な一神教が深く根をおろしている地域である。しかし,はたして絶えまない民族紛争・宗教紛争が,常に中東・バルカンをおおっていたのであろうか。
歴史をふり返ると,現在のバルカン・中東の大部分は,かつてはオスマン帝国に属していた。ここでオスマン帝国の歴史に立ち戻ってみると,けっしてそれは絶えざる民族紛争・宗教紛争の連鎖であったとはいえない。オスマン帝国は,トルコ系ムスリムが中心となって形成され,イスラムを国是とし,前近代のイスラム世界の世界帝国的存在となった政治体であった。しかし,同時に,この帝国は,多種多様な人々が一定の枠内で共存する世界でもあった。その版図に属していた諸地域が,民族紛争・宗教紛争のるつぼと化したのは,むしろ,近代西欧世界が台頭し,「西洋の衝撃」にさらされつつ,この地域が,近代西欧世界体系へと包括され始めた後のことであった。それでは,なぜ,オスマン帝国支配下の前近代の中東・バルカンは,諸民族・諸宗教が少なくともある程度安定した形で共存する世界でありえたのか,そしてなぜ,「西洋の衝撃」の到来とともに,民族紛争・宗教紛争の巷と化していったのであろうか。この本の中では,この問題に対する一つの回答を,提示しようと試みた。
純然たる歴史書のような題名をもつこの書は,必ずしも普通の意味での歴史書ではない。この書物の中で,私は,オスマン帝国の解体過程を歴史的におっていくことより,むしろ,オスマン帝国の解体過程を例にとりながら,近代における民族紛争・宗教紛争の激発の原因について考察したいと考えた。そして,現代の中東・バルカンの起源であるオスマン帝国のケースについて,その歴史と,さらにその背景にある一つの特異な大文化圏,すなわち文化世界としてのイスラム世界の伝統にまで遡りながら,人々の共存の条件,共存モデルといったものの探求を試みた。
そこで明らかとなったのは,近代西欧が原動力となって近代世界体系が形成される以前には,この地域は複数の大文化圏ないし文化世界からなっていたこと,そして,各々の文化世界には各々に固有の社会と政治体のあり方があり,人々の統合と共存のシステムが存在していたということであった。さらに,このような複数の文化世界に固有の統合と共存のシステムは,それら諸文化世界が近代西欧が世界大に進出し始めた後に,「西洋の衝撃」の下に近代西欧世界体系へと包括されていく過程のなかで,変容し解体していったということであった。実に,この過程のなかで,中東・バルカンの地は,民族紛争・宗教紛争のるつぼと化していったのである。そして,その大きな原因の一つは,「西洋の衝撃」の一環として,近代西欧に特有な特異な政治体のありようとしてのネイション・ステイトなるものが,他の諸文化世界にも,新たな希望に満ちた政治社会のモデルとして,いささか変形されつつ受容されていったことであった。本書は,政治社会の新モデルとしてのネイション・ステイト・モデルと,異文化世界の伝統との相剋を,オスマン帝国のケースを中心に検討した共存モデルの一探求なのである。
地中海学会大会 シンポジウム要旨
巡礼のコスモロジー
パネリスト:清水憲男/安發和彰/堀内正樹/宮下規久朗/司会:小池寿子
西暦2000年。世紀の大きな転換期にあたり,かつ「聖年」にもあたる年にふさわしいテーマとして,今年は「巡礼」をとりあげた。地中海世界では,エルサレム,メッカ,メディナ,ローマ,そしてサンティアゴ・デ・コンポステーラなどの主要巡礼地が東西および中央に位置して,「巡礼のコスモロジー」ともいうべき時空間を形成している。そしてなお多くの大小の巡礼地が,この巡礼の世界,あるいは宇宙に遍在し,それぞれが,さらに稠密な小宇宙を築いてきたといえよう。人々はなぜ,巡礼に旅立つのか。巡礼地,あるいは聖地という「選ばれた場・空間」とは,いかなる特質を有するのか。本シンポジウムでは,主要巡礼地をおさえながら,各専門分野の方々から,巡礼の実態,巡礼という行為から派生するさまざまな社会・文化現象,そしてむろん,巡礼とは何か,という本質的な問いに至るまで,お話いただいた。
まず清水憲男氏は,「聖ヤコブ巡礼路の虚実とスペイン文学の展開」と題して,スペインにおける聖ヤコブ崇敬およびサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼伝統の形成を概観した。9世紀までには既成の事実として容認された聖ヤコブ崇敬とその墓の発見譚は,8世紀のイスラム教徒によるスペイン侵略以降のレコンキスタ運動と緊密に結びついて展開してゆく。それはさらに,12世紀,十字軍との関連で聖戦としての性格を強めてゆく一方,巡礼路は整備され,宿泊施設なども整い,国際化されてゆく。同時にコミュニタスが成立し,また商業化も進むなど,「巡礼」のもつ多様な側面が顕在化してくる。こうした巡礼の展開は,スペイン文学においてもその足跡を辿ることができる。
ついで安發和彰氏は,「サンティアゴ巡礼路の街レオン−−スペイン・ロマネスク彫刻をめぐる問題」と題して,同巡礼を美術史の立場から論じた。上記のようなサンティアゴ巡礼の形成のなかで,主要巡礼路沿いにロマネスク聖堂が設立される。とくに,西南フランスからサンティアゴに至る巡礼路沿いに建立されたトゥールーズのサン・セルナン聖堂,ハカ大聖堂,フロミスタのサン・マルティン修道院聖堂,レオンのサン・イシドーロ参事会聖堂,そしてサンティアゴ聖堂には,様式的類似が見られる。なかでも彫刻における類似性については,石工たちが共通の手本を使用したのみならず,彼ら自身が巡礼に伴う人的移動・交流のなかにあり,様式の伝播と発展が促されたと考えられる。レオンは,レコンキスタの主軸となり,セビリアのイシドルスの遺骸移葬以降,聖遺骸信仰を礎に発展した中心地である。これらの都市を中心にして国際化(フランス化)と地方的伝統の双方が展開していった。
かわって堀内正樹氏は「共食と場所−−北アフリカ(現代モロッコとエジプト)におけるムスリムの偉人廟参詣」と題して,イスラム圏における巡礼の実態を論じた。イスラム世界では,巡礼という訳語にふさわしいとされるのは大巡礼および小巡礼を包含する「メッカ巡礼」であるが,それと峻別される行動として数種の集団参詣と個人参詣を含む「廟参詣」がある。前者を,日常生活からの離脱やコーランおよび預言者ムハンマドに直接結びつくイベントという意味において「聖」なる行為とみなすならば,後者は,タブーの不在などといった観点から「俗」と規定しうるのか。むしろ,聖俗二元論という枠組で論じるのではなく,「共食」と「場所」という観点から両者を論じることにより,巡礼なる行為の新たな地平が開かれると提示する。「共食」などの行為により,その「場所」「廟」に収斂しているある種の「チカラ」を自身の体内に取り入れ,祈願,治癒,死者との邂逅といった巡礼の目的が達成されると同時に,そこに行為者によるコミュニタスが形成される。それは,いわば「チカラ」の不均一な配分によって成立している世界の認識のありようでもある。
最後に宮下規久朗氏は,「聖年と美術−−1600年聖年前夜を中心に」と題して,聖年と宗教美術との関連を論じた。ペテロとパウロの殉教の地としてのローマの重要性は言うまでもないが,とくにローマ教皇ボニファティウス8世が1300年を聖年と定めたのに始まり,同地を聖年に巡礼する者には全贖宥が与えられるという特権が賦与された。50年に一度から25年に一度へと更新されたこの聖年は,クレメンス8世の時代,反宗教改革の基軸となり,多くの教会が改修・装飾され,バロック美術の開花を促した点で特筆に値する。ローマ市内の主要教会をはじめとしたこれらの刷新事業において,宗教感情の高揚を促す表現,テーマ,モティーフなどが選択される。なかでも,初期キリスト教時代以来の殉教者たちを,その残虐さを風景描写などで緩和しつつも,取り上げた作品が多いのも,巡礼地としてのローマの特質であろう。
以上,4名のパネリストの方々の発表および会場とのディスカッションに十分な時間がとれなかったのはきわめて残念であるが,「巡礼」という大テーマのもつ多義的・多角的かつ本質的な論点が浮き彫りになったと思われる。聖者および聖遺物崇拝,そして,それがもたらす奇跡や心身の癒しといった現象も「巡礼」を論じる上で欠くことはできまい。また,異界と現実世界との往還運動である「巡礼」は,死者と生者との交流を果たす行為でもある。癒しや異界への希求がいや増す今日にあって,巡礼は,さらなる展開を見せることであろう。
(小池 寿子 記)
意見と消息
・4月より浜松市に新設された静岡文化芸術大学の文化政策学部国際文化学科に勤務することになりました。「公設民営方式」の大学で,同学科には五つの専攻系の一つとして「地中海文科系」が設けられています。 高田 和文
図書ニュース
饗庭 孝男 『日本の隠遁者たち』
筑摩書房 2000年1月
有田 忠郎 『子午線の火』詩集
書肆山田 1999年11月
『レコンキスタの歴史』F.コンラ著 翻訳
白水社 2000年1月
木村 重信 『木村重信著作集』8巻 思文閣出版
1999年12月より隔月順次刊行
小島 俊明 『おとなのための星の王子さま』(改訂版)
近代文芸社 2000年8月
小森谷慶子 『ナポリと南イタリアを歩く』
新潮社 1999年11月
澤井 繁男 『臓器移植体験者の立場から』
中央公論新社 2000年1月
『実生の芽(みしょうのめ)』
白地社 2000年3月
『ルネサンス文化史』ガレン著 翻訳
平凡社 2000年3月
白崎容子・上村清雄他訳
『ローマ百景−−建築と美術と文学と』
M.プラーツ著 ありな書房 1999年7月
高田 和文 『NHKスタンダード40 イタリア語』
日本放送出版協会 2000年2月
高宮いづみ 『古代エジプトを発掘する』
岩波書店 1999年4月
丹野 郁 『西洋服飾史』東京堂出版 1999年4月
仲谷満寿美 『エケリニス−−ヨーロッパ初の悲劇』
アリーフ一葉社 2000年3月
三角 美次 『フランスわが愛』田辺保編 共著
青山社 2000年5月
横山 淳一 『イタリアに学ぶ医食同源』
中央公論新社 1998年5月
地中海学会事務局 〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201 電話 03-3350-1228 FAX 03-3350-1229 |