地中海学会月報 231
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2000|7  




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学会からのお知らせ

 

*第24回地中海学会大会

 さる6月17日,18日(土,日)の二日間,広島女学院大学(広島市東区牛田東4-13-1)において,第24回地中海学会大会を開催した。会員118名,一般46名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中,正会員2名,学生会員2名の入会があった。

6月17日(土)

開会挨拶 13:0013:10 大里巖広島女学院大学副学長

記念講演 13:1014:10

「地中海をアフリカから見る−−黒いムーア人,胡弓,トンボ玉」 川田 順造

授賞式 14:2014:50

「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

地中海トーキング 15:0016:30

「酒と海と大地」

  パネリスト:樺山 紘一/橋口 收/福本 秀子/司会:木島 俊介

見学会 16:4018:30(ひろしま美術館等)

懇親会 18:3021:00(クルーズレストラン船銀河)

6月18日(日)

研究発表 10:0011:55

「浜田耕作と古代ギリシア・ローマ美術」 大木 綾子

「古代地中海の怪物ケートスの系譜とドラゴンの誕生」 金沢 百枝

16世紀中葉オスマン朝下エジプトとヴェネツィア」 堀井 優

総 会 12:0512:30

シンポジウム 13:3016:30

「巡礼のコスモロジー」

  パネリスト:安發 和彰/清水 憲男/堀内 正樹/宮下規久朗/司会:小池 寿子

 

 土曜日,午前中の悪天候も見学会の頃には回復。ひろしま美術館(橋口收館長)では印象派やエコール・ド・パリの絵を観賞。心豊かなひとときを過ごした。日曜日の朝は大学のチャペルで学会大会のための礼拝(司式・奨励:大里巖教授)が行なわれた。広島女学院大学,ひろしま美術館,関係機関のご厚意,ご協力に御礼申し上げます。

 

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*第24回地中海学会総会

 第24回地中海学会総会(大高保二郎議長)は6月18日,広島女学院大学で次の通り開催された。

議事

一、開会宣言

二、議長選出

三、1999年度事業報告

四、1999年度決算報告

五、1999年度監査報告

六、2000年度事業計画

七、2000年度予算

八、役員人事

九、閉会宣言

 

 審議に先立ち,議決権を有する正会員614名中(2000年6月12日現在)580余名の出席者を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし,本総会は成立したとの宣言が議長より行なわれた。1999年度事業報告・決算,2000年度事業計画,予算は満場一致で原案通り承認された。1999年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。また,事務局長の交替が発表され,承認された(次項参照)。

 赤字決算,予算の深刻な情況という学会の財政難について事務局長および財務担当委員より報告と説明があった。「事務局長・財務担当委員,およびその経験者による財政検討委員会を発足。財政基盤の強化策として,収入では,賛助会員および正会員の勧誘,月報の広告掲載,企画監修の促進に取り組む。支出では,事務所賃借料の軽減のため事務所を公募する。以上を柱として,財政の強化をはかりたい。会員各位にもご協力をお願いしたい。特に,所在地,広さ,賃借料の条件で適切な事務所があれば紹介してほしい」(要旨)

 

1999年度事業報告(1999.6.12000.5.31

T 印刷物発行

1.『地中海学研究』XXIII発行 2000.5.31発行

  「ダハシュール北部で発見された王の書記メスの石棺について」西本 真一/吉村 作治/長谷川 奏

  「トゥトアンクアメン王の折り畳み式寝台」西本 直子

  「ウェルギリウスのキルケー−−『アエネーイス』第7巻にみられる戦争の潜在的兆候」日向 太郎

  「プラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェリ聖堂実施案変更の経緯について−−ルネサンス期の集中式聖堂再考」石川 清

  「ジャン=ジョルジュ・ノヴェール再考−−舞踊批評としての『舞踊とバレについての手紙』」森 立子

  「海洋都市アマルフィの空間構造−−フィールド調査にもとづく考察」陣内 秀信/服部 真理/日出間 隆

  「書評 尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』」小田 謙爾

2.『地中海学会月報』221230号発行

3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

U 研究会,講演会

1.研究会(於上智大学)

  「ベラスケス作品の「あだ名型呼称」−−その成立と意味」久々湊直子(2000.1.22

  「15世紀末フランドルにおけるロヒール様式の流行」平岡 洋子(2000.3.11

  「ルッカの古代ローマ円形闘技場遺構の住居化について」黒田 泰介(2000.4.15

2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)

  秋期連続講演会(会場の改修工事のため休講)

  春期連続講演会「地中海世界の歴史:古代から中世へ」5.136.10(計5回)

V 賞の授与

1.地中海学会賞授賞 受賞者:陣内秀信

2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:石井元章

W 日本学術会議登録

  1999年9月14日付登録

  所属:第一部 研究連絡委員会:哲学

X 文献,書籍,その他の収集

1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations

2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)

Y 協賛事業等

1.『地中海の暦と祭』(仮題 刀水書房)編集協力

2.生涯学習センター講座『地中海PartII:文学の旅』(東洋英和女学院大学)協力

3.第14回「大学と科学」公開シンポジウム

  「エジプトを掘る−−それをめぐる様々な学問分野」後援

Z 会 議

1.常任委員会 5回開催

2.学会誌編集委員会 4回開催

3.月報編集委員会 8回開催

4.大会準備委員会 1回開催

5.電子化委員会 Eメール上で逐次開催

[ ホームページ

  URLhttp//wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr

  国立情報学研究所(旧文部省学術情報センター)のネット上

  「設立趣意書」「役員紹介」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」

\ 大 会

  第23回大会(於大阪芸術大学)

  1999.6.2627

] その他

1.新入会員の勧誘:正会員23名;学生会員13

2.学会活動電子化の調査・研究

3.「A.D.79悲劇と栄光 イタリアポンペイ展」展覧会招待券・割引券の配布

 

2000年度事業計画(2000.6.12001.5.31

T 印刷物発行

1.学会誌『地中海学研究』XXIV発行

  2001年5月発行予定

2.『地中海学会月報』発行 年間約10

3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

U 研究会,講演会

1.研究会の開催 年間約6回

2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期・春期連続講演会開催

V 賞の授与

1.地中海学会賞

2.地中海学会ヘレンド賞

W 文献,書籍,その他の収集

X 協賛事業,その他

1.『地中海の暦と祭』(仮題 刀水書房)編集協力

2.朝日サンツアーズ講演企画協力

Y 会 議

1.常任委員会

2.学会誌編集委員会

3.月報編集委員会

4.電子化委員会

5.その他

Z 大 会

  第24回大会(於広島女学院大学)2000.6.1718

[ その他

1.賛助会員の勧誘

2.新入会員の勧誘

3.学会活動電子化の調査・研究

4.展覧会の招待券の配布

5.その他

 

 

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*新事務局長および本部変更

 先の総会で本村凌二氏の事務局長任期満了により,鈴木董氏が新事務局長に決まりました。これに伴い,学会本部は下記の通りに変更します。

 

旧: 東京大学教養学部 本村凌二研究室

新: 東京大学東洋文化研究所 鈴木董研究室

 

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*論文募集

 『地中海学研究』XXIV2001)の論文および書評を下記の通り募集します。

論文 四百字詰め原稿用紙50枚〜80枚程度

書評 四百字詰め原稿用紙10枚〜20枚程度

締切 10月20日(金)

 本誌は査読制度をとっております。

 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡ください。「執筆要項」をお送りします。

 

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*課題研究募集

 学会に下記の課題研究募集の案内がありました。

募集機関(問い合わせ先):(財)なら・シルクロード博記念国際交流財団 シルクロード学研究センター(630-8215 奈良市東向中町28 奈良近鉄駅ビル6階 Tel 0742-27-24381822 FAX 0742-27-2434 URL http://www.pref.nara.jp/silk/kenkyu.htm

対象研究領域:シルクロードに関する学際研究で歴史学的領域を含むもの。

研究費:1テーマあたり400万円以内。

申込受付期間:9月1日(金)〜12日(火)

 詳細は上記募集機関へお問い合わせください。

 

 

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事務局夏期休業期間:7月29日(土)〜9月3日(日)

 

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春期連続講演会「地中海世界の歴史:古代から中世へ」講演要旨

 

古代ギリシアと地中海世界

 

桜井万里子

 

 地中海世界,それは,歴史学の立場から言えば,歴史上に実現した歴史的世界を意味する。つまり,単に地中海周辺の地域というのではなく,地中海を中心に成立した,あるまとまりを持った歴史的空間である。その空間は,ローマ帝国の出現によって政治的に統合された世界として成立した。しかしこの空間は,文化的,経済的な接触,交流という観点から見たとき,紀元前8世紀頃にひとつのまとまった世界として成立したといえる(以下年代について「紀元前」を省略)。

 このような地中海世界の成立を促した最大の要因が,ギリシア人によって750年頃から約200年間にわたり進められた植民活動であった。植民活動の舞台となったのは地中海を中心とする地域,すなわち西はイベリア半島,南は北アフリカ,北東は黒海沿岸地域である。そこにおいてギリシア人は多くの多民族と出会い,異文化と接触して,自己の文化をより豊かにした。古典期(54世紀)の文化はそのような背景の中で花開いたと言うべきであろう。このように大きな意義のある植民活動であるだけに,これまで多くの研究者がこれを研究の対象としてきた。ただし,文献史料の少ないアルカイック期のことであるため,どうしても考古学の研究成果を参考にしなければ十分な研究はできない。そして過去20年ほどのあいだの精力的な発掘によって得られた成果のおかげで,植民活動についての研究は新しい地平を切り開き始めている。

 8世紀はまた,ギリシアに特有な国家であるポリスが誕生した世紀であり,ギリシア・ルネサンスと名付けられるような新しい時代の到来した時期であった。そのうえ,「東方化の時代」あるいは「東方革命」などと呼ばれるほどに,東方すなわちオリエントの文化的影響を特に文字や美術工芸の分野で強く受けた時代でもあった。

 ところが,1965年にエウボイア島のレフカンディ(その古代名は不明)では,10世紀初めの大規模建造物の遺構が発掘され,複数の墓からシリアやキュプロスからもたらされた品が大量に出土した。ステアタイト(凍石),ファイアンス,ガラスの印章,スカラベ,指輪,ビーズなど,エジプトとの関連を示す物も多数出土した。いずれも当時のギリシアの他地域からは出土していない。ギリシア・ルネサンスを200年もさかのぼる暗黒時代のさなかに,いち早くこのエウボイアに新たな経済と精神の活動が始まっていたのである。

 他方,シリアのアルミナからは大量のギリシア製の土器が出土しており,テュロスからも相当量が出土している。これら近東で出土したギリシア土器とキュプロス島で出土した土器は,土の分析から中央エウボイアが製造の中心であったことが明らかになっている。さらに,同じタイプのエウボイア産の土器が西地中海からも出土している。では,このようなエウボイア島中央部で製造された土器を近東,キュプロス,西地中海に運んだのは誰だったのだろうか。

 エウボイアと近東の間の交易に携わった主体がエウボイア人自身か,キュプロス島のキティオンに拠点を持つフェニキア人かで,研究者の意見は分かれている。たしかに,キュプロスにフェニキア人の居住地が存在したことは確認されており,同島キティオンからはフェニキア文字の刻まれた土器出土やフェニキア人が制作したと見られる土器,青銅器が出土している。上記のエウボイア産の土器を地中海各地に運んだのは,フェニキア人の商人だったのだろうか? しかし,キティオンの建設は850年頃である上に,そこから出土したエウボイア,またはギリシア産の土器片は比較的少ない。このことは,フェニキア人がエウボイアへ進出したというよりも,先ずギリシア人が近東へ進出した可能性を示唆する。

 西地中海方面への植民もギリシア人の中ではエウボイア人が先陣を切っている(にもかかわらず,レフカンディの存在が資料に残らなかったことは,今後解決すべき課題である)。最も早いのは,エウボイア人が建設したピテクサイで,そこでは,出土資料からギリシア人とフェニキア人の共生が実現していたと見られている。さらに,イタリア半島のエトルリア人の存在も見逃せない。エトルリア地方南部のウェイイからはエウボイアからもたらされた幾何学文様の土器が多く出土している。8世紀にギリシア人,フェニキア人,エトルリア人の間には密な交流があった。彼らは自分たちの生活を物質的にも知的にも豊かにしようと,未知の人々や物への好奇心を旺盛にし,外の世界に対し開放的であったようだ。そのような姿勢こそが,8世紀に地中海世界が成立することを可能としたといえるであろう。

 

 

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春期連続講演会「地中海世界の歴史:古代から中世へ」講演要旨

 

ゲルマンと地中海世界

 

高山 博

 

 インド=ヨーロッパ語系諸族の一つであるゲルマン部族は,紀元前1世紀のカエサルの時代までにライン川の西に定住しており,南はドナウ川にまで達していた。紀元98年,タキツスは,これらのゲルマン人に関する情報を集めて『ゲルマニア』を書いたが,この書物から,私たちは,当時のゲルマン人の生活や風習,神話,社会の特徴を詳細に知ることができる。帝国はこれらのゲルマン諸部族の侵入を食い止めるために,国境沿いに軍隊を駐屯させていたが,ゲルマン人たちの一部はローマ帝国領内に移住し,農業に従事したり傭兵として帝国の軍隊で働くようになる。

 そのローマ帝国は,395年に東西の二つの帝国に分裂し,西側の帝国(西ローマ帝国)はまもなく皇帝を中心とする政治的統合力を失い,5世紀の間にガリアの大部分をゲルマン人たちに占拠されてしまう。帝国が分離する直前の375年,北東アジアから,カスピ海,黒海の北のステップに入り込んでいたフン族(匈奴)が,ゲルマンの一部族である東ゴート族を征服したのを機に,帝国国境の外にいたゲルマン諸部族の大移動が始まった。そして,5世紀の間に,西ローマ帝国には次々とゲルマン人の王国が建国されていったのである。5世紀前半には西ゴート王国,ヴァンダル王国,ブルグンド王国が成立し,5世紀後半にはフランク王国,東ゴート王国が成立している。476年の西ローマ帝国滅亡は,このようなゲルマン人諸国家の分立が進行する中で生じた。

 帝国の支配が終わり,ゲルマン人たちの王国が興亡を演じることになる西部とは対照的に,地中海東部に残った帝国(東ローマ帝国)は,長期にわたって政治的凝集力を保ち続け,これがギリシア・東方正教文化圏の基本的枠組となる。他方,地中海の南岸では,西側の帝国領だった北アフリカ西部が5世紀にヴァンダル王国となり,6世紀には東ローマ帝国領となる。そして,7世紀後半にイスラム教徒の支配に服するのである。この西ヨーロッパ(ラテン・キリスト教),ビザンツ・ギリシア,アラブ・イスラムという三つの文化圏が鼎立する状態が,7世紀以後の地中海の歴史の最も基本的な枠組みとなる。つまり,文化圏を越えた人的交流や経済活動は活発に行われるが,それぞれの文化圏が,政治・経済・文化の諸側面において一定の自立性を持つようになったと考えられているのである。

 その後,西ヨーロッパでは,ゲルマン諸国家の興亡の中でフランク王国が勢力を拡大し,8世紀末には,その王カール大帝が西ヨーロッパの大部分を征圧した。彼は,800年,西ローマ皇帝として戴冠したが,この戴冠により5世紀に滅びていた西ローマ帝国が理念的に復活する。歴史家の中には,このカール大帝のローマ皇帝戴冠により,西ヨーロッパと東ローマ帝国が完全に分離し,教皇と皇帝を二つの中心とする西ヨーロッパ中世世界が生まれたと考える者たちもいる。しかし,カール大帝が死亡すると,まもなく,王国は三つの王国に分裂した。そのうちの一つ西フランク王国では,9世紀から10世紀にかけて,ノルマン人,イスラム教徒の激しい侵攻が続き,王権の衰退と権力の分散が進行する。東フランクの場合は,マジャール人の侵攻に対抗する中で,王権が権力確立に成功し,王国の政治的凝集力を高めた。そして,10世紀半ばに,オットー一世が(神聖ローマ)皇帝として戴冠することになる。

 ところで,5世紀の西ローマ帝国滅亡後,環地中海地域(すなわち地中海世界)は,ゲルマン人たちが支配するラテン・キリスト教文化圏,東ローマ帝国のビザンツ・ギリシア文化圏,南側のアラブ・イスラム文化圏によって分割された状態となり,この三つの文化圏の鼎立が状況は,15世紀半ばにビザンツ帝国が滅亡するまで続いた。その後は,地中海をあいだに挟んで,アラブ・イスラム文化圏とラテン・キリスト教文化圏が対峙した状態となる。人間の活動に焦点を当てた場合,この環地中海地域が,政治・文化的に一つの閉じた世界を作ったことはほとんどないと言ってよい。ローマ帝国を除けば,この環地中海地域全域を統一的な支配組織の下においた民族,国家は存在していないからである。

 環地中海地域の歴史が歴史研究に大きく寄与するのは,地上の地域史と違って人間や人間が構成する国家が中心とならないという点である。地中海は,基本的に,人間たちが活動し交流しあう場としてしか存在しない。そこには,中心となる特定の民族の歴史が成立せず,人々が活動し,交流する場の歴史しか成立しないからである。つまり,地中海世界の歴史とは,環地中海地域を舞台に演じられる様々な人間集団の接触・交流の歴史なのである。ゲルマン人たちは,その地中海世界の歴史において,4世紀から9世紀にかけて,非常に重要な役割を演じた。しかし,彼らの活躍の舞台が主としてかつての西ローマ帝国領だった地域,とりわけ,のちに西ヨーロッパと呼ばれることになる地域に限定されていたことも忘れてはならない。

 

 

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地中海学会大会 研究発表要旨

 

日本における古代ギリシア・ローマ美術の受容

−−濱田耕作(青陵)の場合−−

 

大木 綾子

 

 西洋美術史において古代ギリシア・ローマ美術は常に独特なポジションを占めてきた。周知のごとく,西洋で近代学問としての美術史学が誕生したときも,古代美術への関心が重要な役割を果たしている。そのような古代ギリシア・ローマ美術が我が国へ紹介されたとき,一体どのように受け入れられたのだろうか。この問題の一例を,日本考古学界の草分けとして知られる濱田耕作(18811938・明治14〜昭和13)を取り上げて考えてみたい。

 濱田耕作は,東京帝国大学文科大学史学科にて西洋史を専攻し,同大学院を経て,1909(明治42)年に京都帝国大学文科大学講師に任ぜられた。彼は主に,日本考古学を中心に研究・執筆活動を行っているが,美術史に関する著作も多く,古代ギリシア・ローマの美術や建築について論じたものも少なくない。また大学においては,ギリシア,ローマ,エトルリアに関する講義も担当しており,慶応義塾大学の澤木四方吉と共に,我が国で初めて古代ギリシア美術についての授業を開講した人物として位置付けられる。

 彼の大学時代のノートから推測すると,その関心は東京帝国大学在学時代に始まったと言える。それらノートには,伊東忠太による西洋建築史及び日本建築史,磯田講師によるギリシア史,阪口教授によるローマ史,「ラオコーン」についての簡単な論考等が散見される。そのような学問的経験を経て,1905(明治38)年,濱田は「漢唐の間に於ける希臘的美術の東漸を論ず」という卒業論文を提出した。その中で濱田は,ギリシア美術が飛鳥・奈良時代の仏教美術に影響を与えたと主張する。この頃より彼は頻繁に,日本の仏教美術を古代ギリシア美術と比較しながら論を展開するようになる。例えば,1906(明治39)年に『国華』に発表された「推古時代の彫刻」には,仏像の衣紋表現を「これ恰も希臘初代の彫刻と其の軌を一にし……(以下略)」と述べている。

 実は,濱田のこうした考え方には,その背景に当時の日本美術史におけるひとつの傾向があった。それは伊東忠太が1893(明治26)年に『建築雑誌』に発表した「法隆寺建築論」に代表される,いわゆるギリシア美術東漸説である。これはそもそも,1878(明治11)年より東京大学講師として来日していたアーネスト・フェノロサのような日本美術愛好家たちによって我が国へ紹介された,ガンダーラ美術の成立についての知識等をもとにして展開されたものであった。

 この説には岡倉天心も少なからず関与していた。後に彼は,ギリシア美術東漸説そのものからは離れてしまうことになるのだが,ギリシア美術に対して,幾分,特別な感情を抱いていたようだ。1890(明治23)年9月より東京美術学校で開講された「泰西美術史」の講義において,彼は,ギリシア美術を「希臘は其の国土の小なること寧ろ日本に劣ると雖も,其の文明の極点なる能く欧州哲学の基礎をなし,且つ美術原素の国と称賛せられ,今尚ほ欧州世界を支配するに至る。是れに依て顧るに凡て開明,美術なるものは全く国の大小に関せざるや明かにして,我が国細小なる亦敢て憂ふるに足らざる所なり。」と述べている。即ち岡倉は,ギリシア文明およびその美術は近代ヨーロッパ世界を支配しており,しかもそれを我が国と比較し,日本人を励ますような言説へと導いているのである。ただし,我が国における古代ギリシア・ローマ美術の知識という点に関して言えば,極めて断片的であり,西洋文化史全体の中の一部として紹介されていたに過ぎなかったと言える。

 こうした背景を経て,あらためて我が国への古代ギリシア・ローマ美術の紹介という問題における濱田の果たした役割を考えるなら,それは,それまで断片的にしか知られていなかった古代ギリシア美術の全体像を,具体的に我が国に紹介したことにあると言える。それは彼の紀行文『希臘紀行』と『南欧游記』によって実現された。これらの著書は,我が国で初めて古代ギリシアの遺跡や美術を専門的な立場から紹介したものとして,好評を得た。

 濱田は1913(大正2)年3月〜1916(大正5)年1月までヨーロッパに留学している。その間彼は,2度にわたり南ヨーロッパへと旅立ち,南イタリア,ギリシア,クレタを巡った。『希臘紀行』,『南欧游記』いずれにおいてもロマンチックな気分が多分に含まれており,濱田が古代ギリシアの遺跡に対して,単なる史実として見る以上の感情をもって見ていたことが推測される。

 濱田については今後,彼が留学時代に得た学問的経験を明らかにすること,そして1927(昭和2)年に翻訳刊行されたミハエリス著『美術考古学発見史』,及び濱田の古代ギリシア・ローマ美術講義の内容的検討と,周辺事実の調査が課題として残る。

 

 

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地中海学会大会 研究発表要旨

 

古代地中海の怪物ケートスの系譜とドラゴンの誕生

 

金沢 百枝

 

 現在,カタルーニャ地方,ジローナ大聖堂に残る《天地創造の刺繍布》には,この世に産まれたばかりの様々な生き物たちが色鮮やかに描かれている。中でも特に印象的なのは,海から天を仰ぐ,二匹の怪物である。本発表は,この刺繍布に登場する海の怪物を出発点として,古代地中海の怪物ケートスが中世ヨーロッパ世界に移入される過程で,どのように形を変えていったのか,またその変化はなぜ起こったのか,そして最後に,ケートスがどのようにして「ドラゴン」という新しい怪物を生み出していったかについて,聖書の翻訳や古代文化の受容の問題と関連づけて論じた。

 刺繍布の海獣の一匹にはcete grandiaという銘文が記されている。これは創世記1.21そのままの記述で,このラテン語cetusは大きな怪物や鯨と翻訳されることが多いが,古代世界のketos/cetusはある決まった形態を有していた。海のニンフ,ネーレーイスの乗り物であり,アンドロメダを襲い,ペルセウスに退治された怪物ケートスである。アイリアーノスによると,ケートスとは様々な獣頭と前足,とぐろを巻いた長い尾をもつ海の怪物である。初期キリスト教時代の石棺を飾るヨナ場面には,荒海に投げ出されたヨナを救う生き物として,獣の頭と前足,長い尾からなる古代世界のケートスが描かれている。

 しかし,中世後期のヨナ場面には怪物ケートスの姿はなく,ただの「大魚」が描かれている。この変化の要因には,図像学的な問題と,翻訳の問題という二つの可能性が考えられる。ヨナ場面のcetusは水中に描かれるため,尾先は水中に没し下半身が見えない場合が多い。故に,アルプスを越え,地中海世界を遥か離れて古代文化の残照が失われた時,海中に没している下半身が「とぐろを巻いた長い尾」だという情報が失われることになる。そしてその失われた下半身を何に代替するか考えたとき,ウルガタ訳聖書のヨナ書が怪物をpiscis grandis大魚と呼んでいる事実は,失われた尾を魚の尾に変えるに十分な情報だったように思われる。怪物ケートスのイメージが忘れ去られた時,ヨナ書の記述に忠実にヨナの怪物は魚へと変化したのではないだろうか。中世後期には頭部さえ魚に変化するが,水没することのなかった頭部はケートスの面影をわずかに残し,体の後部のみが魚に置換されているジローナの刺繍布の魚型の海獣は,その変容の中間段階に位置づけられる。それに対して,古代文化を継承し,ケートスという単語が一貫して使われているギリシア語聖書を原典としているビザンティン世界では,ケートスが魚に変化することは一切ない。

 この時点で,ケートスは歴史から姿を消したのではない。次に述べるように「ドラゴン」と名前を変えて,中世ヨーロッパ人の空想世界に花開くのである。

 カロリング期には,竜はケートスや蛇など様々に描かれていたが,次第に形態が固定化し,ロマネスク期には,犬のような頭部,翼,二本の足をもつ「ドラゴン」となる。「ドラゴン」が,いかにしてその形態を獲得したか探るために竜の図像を追うと,意外にも古代世界のdracoは「ドラゴン」ではなく,大蛇であった。そして,dracoという単語が,はじめて空想的な要素を持ち始めるのは,キリスト教教父の著作の中である。アウグスティヌスの「竜が空に舞い上がる」という聖書注解の記述を,後の百科全書家はひたすら繰り返し,竜のイメージを決定づけているからである。図像においては,遅くとも10世紀には翼と足のある竜が見出されるにも関わらず,竜が翼を持つことを言明した文字資料は13世紀のアルベルトゥス・マグヌスを待たなければならないのである。

 では竜の翼や足はどのように生じたのか。従来は,竜は蛇から変化したとする説が一般的であったが,本発表は,ケートスこそ「ドラゴン」の前身だという仮説を提示した。「ドラゴン」の形態のうち,尾先の鰭や胸部の膨らみという,必然性のない形態の存在は,蛇から進化したと考えると説明できないからである。翼は,空を飛ぶ竜についての文書資料が霊感源となって生じる可能性もあるが,テクストには前足や胸部のふくらみや尾鰭についての言及は全くなく,ケートスから発生したとする以外説明できない。実際,ロマネスク期の「ドラゴン」は,獣頭,前足,長い尾などケートスの特徴を十分備えているのである。

 ケートスという一匹の海獣のイメージの変遷と「ドラゴン」への発展に,中世ヨーロッパにおける,古代地中海文化の受容と変容,そしてヨーロッパ文化の萌芽を垣間みることができるだろう。

 

 

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地中海学会大会 研究発表要旨

 

16世紀中葉オスマン朝下エジプトのヴェネツィア領事・居留商人

 

堀井 優

 

 本発表は,16世紀前半の東地中海世界におけるイスラーム・キリスト教両世界間の商業秩序の変容過程を解明するための,一作業をなすものである。最末期のマムルーク朝において破綻したヴェネツィア商人の香辛料取引が,1517年のオスマン朝によるマムルーク朝領併合後,16世紀中葉までに復活したことは,すでに諸先学によって指摘されている。問題はこの間の変容過程の解明であり,そのための若干の論点を得るために本発表で注目したのは,16世紀中葉エジプトのヴェネツィア居留民社会とオスマン公権力・現地社会との関係をめぐる状況であった。利用した史料は,ヴェネツィアのアレクサンドリア領事Daniele Barbarigo(在職154953年)およびLorenzo Tiepolo155356)の報告書(relazione)である。

 当時のエジプトのヴェネツィア居留民社会をめぐる社会関係において最も重要なのは,居留民社会の代表として本国から派遣されるアレクサンドリア領事と,オスマン朝中央からカイロに派遣される総督との関係であった。領事にとって総督は,居留民社会に関わる問題の交渉相手であった。また居留商人の商業活動に関わる存在として史料に現れるのは,ムスリム商人とユダヤ教徒であった。一方ヴェネツィア商人の取扱商品を見ると,彼らがエジプトから輸出する商品は,インド洋から紅海経由で供給される香辛料と,エジプトで産出される穀物であり,輸入商品は絹織物・銅・その他の品物であった。

 問題は,これらの輸出入商品の流通過程をめぐる,居留民社会と公権力・現地社会との関係である。まず注目されるのは,アレクサンドリア・カイロ間に介在し,ヴェネツィア商人に多大な損失を生じさせたユダヤ教徒の存在である。彼らは香辛料・穀物をカイロからアレクサンドリアに輸送し,ヴェネツィア商人に売却することによって多大な利益をあげる一方で,ヴェネツィア商人による輸入商品の売却の時期をも左右していた。このようなユダヤ教徒の活動は,当時のエジプトにおいて確立されつつあったオスマン支配体制の特徴と,密接に関連していた。財政制度確立の一環として征服直後に導入された都市における徴税請負制により,ユダヤ教徒が各港の税関における関税徴収者として台頭したことが,明らかにその背景をなしていたのである。

 ユダヤ教徒の活動に対抗するためにヴェネツィア側がとった方法は,輸出入商品の流通過程をヴェネツィア側に有利に変更するために,領事・商人の居留地をアレクサンドリアからカイロに移すことを画策することであった。Daniele Barbarigoが商品取引上の悪条件を本国に報告したことにより,1552年に彼に本国から「カイロ居留」実現のための指示が送られ,これを受けて彼は総督と交渉して許可を得て,翌年領事の駐在地をカイロに移すことに成功した。後任者Lorenzo Tiepoloも,カイロにおいて領事職を引き継ぎ,離任までの大半をカイロに領事として駐在した。

 ここで重要なのは「カイロ居留」許可によってヴェネツィア側が得た成果であり,Daniele Barbarigoの報告はこれを強調している。彼によれば,領事のみならず商人もカイロに居留するようになり,かつ彼らは香辛料と輸入商品の取引において多大な利益を得るようになった。また穀物取引についても,領事は総督から一定の譲歩を引き出すことができた。しかしLorenzo Tiepoloの報告は,その成果について否定的である。彼によれば,ムスリム商人とユダヤ教徒との結びつきにより,結局ユダヤ教徒がカイロにおいて香辛料を購入したので,ヴェネツィア商人はカイロに居留せず,また穀物取引についても,ユダヤ教徒の介入によって総督の政策は変更された。つまり,領事の駐在地のカイロへの移動は,エジプトにおけるヴェネツィア商業上の一定の前進であったが,ヴェネツィア居留民社会とユダヤ教徒との軋轢は継続し,そのため商品の流通過程に対するヴェネツィア側の影響力には,なおかなりの制限が存在したといえる。

 「カイロ居留」の許可とヴェネツィア人・ユダヤ教徒間の軋轢の継続のいずれの現象も,見方をかえれば,商業秩序の維持におけるオスマン公権力の立場の反映と見ることができる。オスマン側にとっての商業秩序の維持とは,ヴェネツィア人とユダヤ教徒との間の利害を調整しつつ,国庫収入の増大を図るところにあった。このような公権力の立場は,ヴェネツィア居留民社会との間に香辛料取引をめぐる直接の利害対立が存在した最末期のマムルーク朝スルターン政権の場合とは,明らかに異なっていた。したがって,この相違の間をつなぐ変容過程を明らかにすることが,16世紀前半のエジプトにおける商業秩序の復活もしくは変容過程を明らかにする上で重要であると考える。

 

 

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自著を語る 20

 

E.ガレン著『ルネサンス文化史−−ある史的肖像』

 

澤井繁男訳 平凡社 2000年3月 301頁 2,800

 

澤井 繁男

 

 著書でも訳書でも本を出版するときいちばん気になるのが,ともに作業をしてきた担当編集者が帯に何と書いてくれるか,ということである。表紙カヴァーの図柄もそうだが,帯文の言葉ひとつで,その本の性格づけがほぼなされ,買い手の気持ちを動かす力となるからである。

 今回は,ズバリ「ルネサンスとは何か」と大きく記されてあり,その下に<歴史意識から哲学・科学・芸術まで史上最大の文化運動の多様な特質を浮彫りにする斯界の泰斗による簡にして要を得た名著>とあった。帯の背には<ルネサンス再入門>とあり,編集者の配慮が身にしみてうれしかった。

 <斯界の泰斗>とは原著者のガレンのことで,クリステラーとともに,世界の<ルネサンス学>を主導している,今年91歳にして健在のイタリア人碩学である。<簡にして要を得た>とは,本書が四百字詰原稿用紙で,本文がたった365枚の訳出量であるのに,<史上最大の文化運動>の本質・正体を的確にかつ滋味深く論述しているからである。

 <ルネサンス再入門>とは,これまで邦訳されてきたルネサンス概説書のほとんどが,ルネサンスの本場イタリア以外の国の研究者によるものであり,いまここでイタリア人が自国の(あえて)「維新」というべき文化現象をどう捉えているのかを,(ビザンティンも含む)全ヨーロッパという大きな枠組の中でいかに考察しているかを「再び」確認し,ルネサンスを問い直すべきではないか,と訴えているのであろう。

 本書を一読すると上述の事柄が実によく判り,理解だけでなく感受もされる。

 たとえば,ふつうルネサンスというと,「人間と世界の発見」というミシュレやブルクハルトの名定義が思い浮かぶが,よく考えてみればこの文言がきわめて漠然としていると知れよう。つまり一種の修辞にすぎない。

 これをガレンは,ルネサンスとは「生への清新な意識,自然に対する新たな見識,新しい倫理観,新奇な哲学理論,斬新な科学といった,人間や世界に関わる新鮮な想像力を精魂込めて練り上げていった」文化現象と具現化してみせてくれる。「人間と世界の発見」の内実が提示されてすっきりする。

 全編こうして具体的に描象化された筆致なので,一字一句納得のいくここちよさがある。

 ガレンによると,「歴史家が共通して抱く想いは,未来をいかに方向づけていくべきかを問いかけることである。つまりすでに生じたものを容認するのでなく,何が生まれるか決めることなのである」と述べて,彼自身の歴史認識を顕わしているが,この想いはルネサンス期の知識人にもあったからこそ記されているのは論を俟たない。

 ルネサンスなる文化運動の胎動が顕著だったのはほかならぬイタリアであり,「ルネサンス論争は文化面でだけ意味」をなし,政治・経済とは直結しない。もちろん関連性のないわけではないが,<積極性>の面からすると,ルネサンスが「ルネサンス社会全体,その諸局面の再生という理想的な水準の反映でなく,逆にきわめて広範囲にわたる文化的事実」であり,「文化という地平で生まれ,とりわけ芸術の地平で生まれたルネサンス運動には,その芸術のレヴェルでのみ<積極的>価値がある」と特定している。

 そしてこの<積極性>のモティーフは,「古代世界と古典知への回帰」「人間の歴史の時代の幕開けと中世の終焉」の告知,この二つにある。「中世の終焉」とは<蛮族>にイタリアが支配されていた過渡期の終結を意味しており,「蛮族が西洋文明の歴史の中に穿った空白期」の終末でもある。

 <蛮族>がラテン民族以外の人々を指しているのは言うまでもなく,ルネサンスの素地には<民族意識>が根強くある。<民族的そして市民的>なるものの復興ということである。

 こうしたものの規範を古代ギリシアやローマの古典や知に求めるのだが,忘れてならぬのは,古代人に対して自分たちが<現代人>であるという自覚であり,さらに見落としてはならぬ大事は,<蛮族>に支配されていた中世の間にも古典は歪曲されはしつつも息づいて研究されていたことで,ルネサンスが独自の文化として自立性を得るためには,中世を確定しきちんと認識すべきだ,という重要な作業である。

 つまり,古典古代の発見は中世世界の意義を見定めた上ではじめて成り立つものなのである。そうして会得されたルネサンスの古典主義や人文主義はオリジナリティーに富んでいるかに見えるが,それとて「中世で批判・検討された古典古代をめぐっての手法」の域を出ていない,とガレンは論難する。つまり,ルネサンス文化の源泉が,厳密な文献学の復活と,歴史意識の革新の二つにあると論じており,日本のルネサンス学徒も肝に銘ずべきかと思う。

 

 

 

 

 

 

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