地中海学会月報 227
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2000|2  




   -目次-








学会からのお知らせ

 

*3月研究会

テーマ:15世紀末フランドルにおけるロヒール様式の流行

発表者:平岡 洋子氏

日 時:3月11日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 

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*第24回大会

 6月1718日(土,日)の二日間,広島女学院大学(広島市東区牛田東4-23-1)で開催する第24回大会のプログラムは下記の通りです。詳細は決まりしだいお知らせします。

1日目 記念公演 川田順造氏

    授賞式(地中海学会賞,ヘレンド賞)

    地中海トーキング「酒」(仮題)

    懇親会

2日目 研究発表

    総会

    シンポジウム「巡礼」(仮題)

 

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*会費口座引落について

 口座振替依頼書の今回の受付は2月25日をもって,締め切りました。ご協力,有難うございました。

 新年度会費の引落日は,4月24日(月)となります。新年度になりましたら,再度ご連絡します。

 

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表紙説明 地中海:祈りの場15

 

  コルドバのメスキータとそのマクスーラ/山田幸正

 

 シリア・ダマスクスに首都をおいたウマイヤ朝は,750年第14代マルワーン2世がエジプトで殺されて100年足らずで滅びたが,一族のアブド・アッラフマーン1世はアッバー ス朝の追手を逃れて,はるかイベリア半島に渡り,756年そこで独立国家,すなわち後ウマイヤ朝の樹立を宣した。以来1031年までの間,有力なイスラーム王朝として当地に君臨し,華やかなイスラーム文化を産み出した。また,第8代アブド・アッラフマーン3世は自らをカリフと称し(929年),アッバース朝やファーティマ朝と互角に対抗するに至り,カリフによって治めるイスラーム国家が,このとき同時に三つ並び立った。

 この王朝の首都となったのが,フェニキアの植民都市に起源をもつコルドバであった。政治・文化・経済の一大中心として栄え,10世紀頃の中世世界を見渡すと,ビザンティン帝国のコンスタンティノープル,アッバース朝のバグダードと比肩する大都市であり,ここにはイスラーム世界だけでなく,ビザンティン帝国はじめキリスト教世界からも,人と物,情報が集散していた。

 この首都において宗教的中心となる会衆モスクが,785年,後ウマイヤ朝の初代君主に よって創建された。このもっぱら石造(一部に煉瓦)の建造物は,高い壁で矩形に囲われ,その北側を中庭とし,メッカの方角(キブラ)である南側に屋根で覆われた礼拝室を設けた。現在,礼拝室の面積が中庭のそれに比して約2倍になっていることが注目される。当初,礼拝室は間口11スパン,奥行12スパンにすぎなかった。その後,833年あるいは848年,アブド・アッラフマーン2世によって奥行方向に10スパン拡張され,952年にはアブド・アッラフマーン3世によって中庭とミナレットが付加された。961年から68年 にかけてハカム2世によって礼拝室の奥行はさらに11スパン広くなった。最後にヒシャーム2世の時代(987年),宰相マンスールによって東側へ8スパン付加された。このように文字 通り,後ウマイヤ朝歴代諸王による貢献の結果,現在みる規模東西約135m・南北約175mに達したのである。このような会衆モスクの拡張はコルトバが最盛期人口50万といわれるまでに発展した過程に呼応するものであったが,創建当初に考案された建築的構成,つまり,レンガと石を交互に配したアーチを2重にして礼拝室の奥行方向に架け渡すことを,200年以上営々と受け継いでいったことは驚嘆に値しよう。ひとつの到達すべき建築的イメージが時代を越えて共有されていたのであり,まさにそれがここに実現されている。一部をキリスト教会堂が占め,旧態とはかなり異なってしまったが,古代建築からの転用材を含め,大理石の円柱が無数に林立し,赤白2重のアーチが連続する,まさに無限定で,幽玄なる空間が創り出されている。

 礼拝室の最奥に設けられた八角形のミフラーブ(礼拝の方向を示す壁龕)と,その前方のマクスーラ(君主や宗教的指導者などの貴賓空間)はハカム2世の時代に属するものである。その中央のヴォールト天井をみると,正方形の区画内に内接する正八角形をなす8頂点からそれぞれ,その八角形の2辺を横断するようにリブ(肋材)が互いに交差して架け渡されている。この,いわゆる交差スクインチアーチによるヴォールトは,これ以降,イスラーム建築における特徴的な技法のひとつとなった。ミフラーブの壁面やヴォールト天井面などは,ビザンティンの工人による金地のモザイクで美しく飾られ,故地であるシリアのウマイヤ朝建築が強く意識されている。

 

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彫刻か建築か

−−ビルバオ・グッゲンハイム美術館−−

 

大高保二郎

 

 海に泳ぐ魚か,大洋に浮かぶ船か,それとも鳥か花のようにも見える。視点の移動で,その姿が刻々と変わっていく。この巨大な,異様な建造物をどう言葉で形容すればいいのだろう。しかも,それは美術館なのだ。

 2年前,美術界,建築界だけでなく,スペインのマスコミも巻き込んで話題となった北スペイン,ビルバオのグッゲンハイム美術館(正式名称Museo Guggenheim Bilbao)が開館したのは199710月のことである。開館当初の模様や経緯については,1999年5月の 本月報(220号)で渡部哲郎氏がすでに報告されているので,ここでは,昨年の晩夏に訪れたときの強烈な印象といくらかの感想を述べてみたい。

 建物のたつ敷地は,かつて工場や駐車場,造船所等が残されたさびれた地区で,背後はネルビオン川と小山がひかえ,近くに高速道路が走っている。そこに建築家フランク・オーウェン・ゲーリーは彫刻のような美術館を都市再生の夢を賭けて創り出したのだ。ゲーリーと言えば,バルセロナのオリンピック村施設やミネアポリスのワイズマン美術館等を手がけ,神戸にも奇抜なレストラン“フィッシュ・ダンス”を設計したことで知られる現代建築家である。

 建物はガラスと金属と石灰岩の組み合わせからなり,多様なフォルムの外装は高価なチタン材で仕上げられ,銀色の微妙なトーンを生んでいる。そうした構造とフォルムはキュビスムの自由奔放な構成と視点を思わせるが,事実,ゲーリーはピカソの難解な分析的キュビスムの傑作 《アコーディオン奏者》に霊感を受けたという。そうしたコンセプトを建造物として奇蹟的に三次元化しえたのは,コンピューターとハイテク技術を駆使しての成果であったに違いない。

 正面玄関で我々を迎えるのは,高さ10メートルもある季節の花で全面がおおわれたマスコット犬の大彫刻で,アメリカのアーティスト,ジェフ・コーンズの作品である。エロチックな膨らみと曲線を描くチタンの壁に誘われて内部に踏み込めば,高さが50メートルもあるアトリウムが現われる。ホルツァーやジム・ダイン,オルデンバーグ等のインスタレーションが天頂のガラス窓からの自然光で浮かび上がる。展示作品はニューヨークのグッゲンハイム美術館からの寄贈並びに貸与作品からなり,ピカソ,マティス,ミロ,カンディンスキーからジョーンズやローシェンバーグ,ウォーホールやリキテンシュタイン,さらにはキーファー,バスキア,クレメンティに至るまで,20世紀の前衛芸術運動のほぼ全系譜をたどることができる。しかもレベルの高い作品ばかりなのだ。

 筆者が訪ねたときは共に鉄や石を素材とした現代作家,アメリカのリチャード・セラ(1939年〜)と,サン・セバスティアン出身のエドゥアルド・チジーダ(1924年〜)の特別展が催されていたが,彼らの巨大で重厚な作品さえ軽やかに映る,柱が一本もないゆったりとした展示空間は印象に強く残った。

 ビルバオは鉄鋼,造船の工業都市として知られるが,その文化的再生を願って建設されたこのグッゲンハイム美術館は,スペイン内外から数多くの見物客を呼び寄せ,今や観光資源と化している。しかし,建物の奇抜な外観のみに目を奪われてはなるまい。展示スペースの規模や自然光の導入,優しく,自由で流れるような内部空間等,作品を見せる美術館として機能するばかりか,都市環境と見事に調和し,ビルバオのシンボルとなっている。我が日本においてこの種の美術館がいくつあるであろうか。作品は移せても,美術館は動かせないのだから。

 

 

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既知の国ポルトガル

 

根占 献一

 

 アジア,アフリカ,アメリカを旅すれば,ヨーロッパ本国よりも,その植民地のほうに一足早く赴くことになるというのは自然なことであり,けして珍しいことでもなかろう。私にとり,マカオとポルトガルへの旅行はそのような一例であった。

 マカオにあるサン・パウロ学院教会は,16,7世紀の日本と関わりの深いイエズス会宣教師を知るなかで,どうしても見たくなった建物であった。設計者はイタリア出身のカルロ・スピノラで,今はそのファサードをとどめるのみである。スピノラ家は海上国家ジェノヴァの歴史に名を刻している一族であり,カルロは長崎で殉教する定めにあった。階段を登りながら,正面にこの遺跡を見上げたとき,数百年の時の流れがあったことを忘れそうになっていた。これは,中国に返還される9ヶ月前のことである。

 ついでポルトガルを訪れたのは,マカオ滞在から5ヶ月後の晩夏のことであった。ジャーナリズムの世界では,かつては同国の植民地であった東ティモール問題を巡って盛んに報道がなされていた頃のことである。先のこの欄に記したように,スペインも合わせておよそ2週間巡歴した。両国は同じイベリア半島の国家ということもあり,いっしょに語られたり,訪ねられたりする場合が多いと思うが,地中海から眺めた時には大いに異なっている。ポルトガルはこの海に面せず,大西洋に沿った国だからである。だが,トレドを流れるタホ川がリスボンではテージョ川となって大海に注ぐように,両国間には種々の点で関連性がある。

 そのポルトガルは,私には地理的にのみはるか遠い国であったのではない。18世紀からはリスボン大地震がヨーロッパの思想世界を震撼させたことを,19世紀から20世紀にかけてはモラエスの名が思い起こされることを除けば,かの国の知識は近世初期に来日したポルトガル商人やイエズス会士の名と活動に極端に限定されていた。にも関わらず,懐かしさを覚えずにいられないのは,この古い時代に私たちの先祖が出会った最初のヨーロッパ人であり,その影響は甚大なものがあったことによるのであろう。

 フランシスコ・ザビエルは来日するにあたって,日本の「大学」を強く意識していた。その時,彼にはポルトガルではコインブラのことが念頭にあった。ここはスペインのサラマンカ大学などと並んで,新スコラ学の拠点となった知的センターであり,今回,私がもっとも訪れたかった場所であった。今なお世界各地から留学生が来ているとのことだが,ザビエルから洗礼を受けた鹿児島の人ベルナルドは,日本からの,いわば初めての西欧留学生としてコインブラに学び,当地に眠っている。私は彼の墓前に頭を垂れた。彼はまた西地中海を横断した最初の日本青年でもあった。16世紀の50年代の話である。

 コインブラに較べれば,今世紀に奇蹟が生じた町ファティマにはさしたる関心はなかったものの,この地の民間信仰と知的エリートのキリスト教観は,宗教の社会性を考えるうえで興味深い視点を投げかけるように思われる。ファティマ祭はマカオでも大々的に祝われている。中国に返還されてもおそらくは祝祭として続いていくであろう。

 リスボンには三泊したから,主要なところは見学できた。国立古美術館の目当ては南蛮屏風やヌーノ・ゴンサルヴェスの《聖ヴィセンテの多翼祭壇画》であったのだが,ゆくりなくも見事なプレゼピオ作品と出会い,圧倒された。美術館や博物館を訪ねる目的のひとつに画集や図鑑で見たものの確認作業があろう。それらの作品は確かに期待を裏切らなかった。だが,楽しみは実はこのような発見にこそある。研究者にはこの細緻な作品は既知の事項なのだろうが,東方三博士との関連でプレゼピオに少なからず興味を抱いている私には,とても印象深いものとなった。天正遣欧使節団が滞在したサン・ロケ教会では,ザビエルがキリスト教を日本に伝えて節目の年ということで記念展が開かれていた。帰国後,ザビエル渡来450周年記念行事実行委員会委員長で上智学院理事長の高祖敏明教授にこの話をしたら,当教会のめぼしいものは日本に来ているとのことであった。確かに<大ザビエル展>が各地を巡回中で,展示品にはサン・ロケ教会から出品されているものも含まれていた。

 ロカ岬は,カモンエスが詠ったようにユーラシア大陸が西で果てるところである。果てるところでイベリア半島の人々は海に乗り出して私たちと出会い,極東と極西が一致することを発見した。西欧の原型はある意味では,イタリア半島からの人々をも含む南蛮人によって,安土桃山期から江戸初期にかけて形成されたから,私たちは常にこの地をデジャヴュのように捉え,遠い記憶を甦らせているのではあるまいか。

 

 

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 定礎式と占星術

−−17世紀フィレンツェの一事例−−

 

    金山 弘昌

 

 筆者は近年,フィレンツェのピッティ宮に関心を寄せている。15世紀から19世紀に及ぶその増築と改修の歴史は,興味深いエピソードに事欠かない。今回紹介するのは,17世紀の増築の際の出来事である。

 「1620年5月29日,金曜,1411分,ピッティ宮のグロッタ側,すなわち北側の端部に礎石が据えられた。鉛で封印された石造の箱の中に以下のものが入れられた。大公,大公妃,そして太后と皇太子の三枚の大理石の銘板。貨幣を入れた三つの鉛の箱。その中には金貨一枚,ピアストル銀貨,十三枚のターラ銀貨,一枚のジュリオ貨,テストン銀貨,複数の銅貨が入れられていた。礎石は担架に載せられて大公殿下の部屋に運ばれた。石工頭のジョヴァンニ・ダ・スカルペリアとジョヴァンニ・マイアーニによって,担架は大公殿下の居間まで運ばれたのである。そこで担架は,私の息子であるアルフォンソ,コジモ,パオロ,ジョヴァンニ・バッティスタによって担われた。フランチェスコがモルタル用の鏝を寝台の殿下の許へと運び,殿下は礎石の上にモルタルをおのせになった。そして礎石は階下に降ろされ,設置される穴まで運ばれた。ジロラモ・グィッチャルディーニ殿がそれを据え,モルタルを被せ,閣下の銘を入れた。アントニオ・ズッケッティ師が祝福を行い,ジョヴァンニ・ピエローニ氏が,吉兆をもたらすべく,太陽の位置を決定した」

 これはトスカーナ大公の建築家ジュリオ・パリージによる,増築工事の定礎式に関する備忘である。パリージ家はジュリオの父アルフォンソ以来,三代にわたり,大公の宮廷建築家を勤めた家系である。上の記事は同一族がしたためた雑記帳に所収のものである(Il Taccuino dei Parigi, a cura di M. Fossi, Firenze 1975, pp.67-68)。

 大公コジモ二世が病床にあったため,些か異例の定礎式自体も興味深いが,ここではあくまで,その日時が占星術によって決定されている事実に注目したい。パリージの備忘とは別の記述も残されており,そこには占星術師の関与がより明白に述べられている。

 「1620年5月29日。大公コジモ二世が,ピッティ宮の側面に,同様の建築オーダーをもって増築をおこなうよう決定を下されたので,大公殿下の宇宙学者(cosmografo)にして数学者のジョヴァンニ・ピエローニの良き占いにより,同日141120秒,北側の端部に礎石が置かれた」(ASF, Mss.132, VII, c.558

 このピエローニについて多くは知られていないが,数学者,哲学者,建築家そして技師としても活動した多才な人物で,おそらくアンマンナーティの弟子と考えられる。

 占星術は筆者の専門外なので,定礎式との関わりについてどの程度の研究がなされているのかは正直不明である。そこで,今回は,ローマのヴィッラ・ファルネジーナの同様の事例についての研究を紹介するに留めたい。その研究(M. Quinlan-McGrath, "A Proposal for the Foundation Date of the Villa Farnesina", Journal of the Warburg and Coutauld Institutes, 49(1986), pp.245-250)によると,都市あるいは建築物の創建日時を占星術で決定するのは,既にプトレマイオスが『百講話Centiloqui』の中で原理を示しており,さらにルネサンス期の占星術師ロレンツォ・ボニンコントリが,占星術による創建儀礼を定式化したという。

 ともあれフィレンツェの場合,定礎式の日時を占星術で決定するのは,15世紀以来の伝統であった。事実パラッツォ・ストロッツィや,サン・ジョヴァンニ(・バッソ)要塞の定礎式における同様の例が知られている。もっとも,それが果たして恒常的な慣習であったのかは不明である。パリージの備忘録には,16世紀以来の幾つかの定礎式の記事が載せられているが,他に占星術師の関与が明示された例はない。ただし,時間は常に記録されており,少なくともホロスコープを後日製作するための便宜は図られているようである。

 また占星術に多大の関心を寄せたメディチ家の下で,占星術が美術や建築と結びついたこともよく知られている。有名な例として,コジモ・イル・ヴェッキオがサン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室に描かせたホロスコープや,コジモ一世の多用した山羊座のインプレーザ(一種の紋章)が直ちに思い出されよう。またメディチ家以外にも,シエナ出身のアゴスティーノ・キージ,下って17世紀にはフィレンツェ出身のバルベリーニ家など,トスカーナの文化的環境下において,占星術と芸術の結びつきは頻繁に見られる。

 コジモ二世といえば,ガリレオが『星界の報告』(1610年)を献呈した君主である。しかしそのガリレオ自身も,実は占星術に熱心であったことが知られている。17世紀バロックの時代,古代中世の自然魔術と近代科学は,いまだ分化しきっていなかったのである。

 

 

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自著を語る 17

 

マッシモ・モンタナーリ著『ヨーロッパの食文化』

 

山辺規子・城戸照子共訳 平凡社 1999年9月 341頁 3,600

 

城戸 照子

 

 香辛料入りソースたっぷりの山盛りの肉のロースト,ラザーニャにラヴィオリ,砂糖菓子,パンは白パン,ブドウ酒は逸品,生チーズと旬の果物もふんだんに。精進日には肉はご遠慮いたしまして,ウナギのパイにチーズにブラマンジュ,牛乳で煮たソラマメ,果物,白パン。美味満載の食卓に同席した気分にひたれる愉しさこそ,食文化に関する本を読む醍醐味ですね。しかし,本書の著者は,人肉食も辞さない飢饉の凄惨な状況や,気の滅入るほど貧しい農民の食事の描写にも筆を惜しみません。マッシモ・モンタナーリの『ヨーロッパの食文化』(原題『飢餓と飽食』)は,ヨーロッパ史を対象としたただのグルメ本ではないからです。現在ボローニャ大学で教鞭を執るモンタナーリ教授は,イタリア中世史学界でも随一の中世農村史研究者です。本書は,4世紀から現代にいたるまでのヨーロッパの食糧の生産,分配,消費にいたるまでを,社会構造の分析や食に関する神学論争,異文化受容の過程も踏まえて,その透徹した目で見て描ききった名著といえましょう。これは,J.ルゴフが総監修するシリーズ『叢書ヨーロッパ』の一冊として刊行されました。皆様もよくご存じの同シリーズはそのうち4冊が日本でも既に紹介されており,本書は5冊目ということになります。

 モンタナーリは,ギリシア・ローマ文化とゲルマン文化における食を巡る文化の対立と融合から説き起こし,中世社会の成長と停滞を辿り,大航海時代と宗教改革を経て,現代に至る長い時間における,食糧事情と食生活の様々な変化を俯瞰しました。地球上の緯度と経度においても,読者はあちこち駆けめぐることになります。ラップ人の住む氷の大地からコーヒー原産地のアフリカ東部まで。香辛料がやってくる「幸せなアラビア」から同じくイスラーム文化の香りを残すイベリア半島まで。魚を追っては,ニシンの北海,タラのニューファンドランド沖,コイの養殖池を訪ねてボヘミアまで,チョウザメの捕れる黒海とカスピ海もお忘れなく。もちろんジャガイモやトウモロコシ,カカオにトマトを寄越してくれた新大陸も言うに及ばずです。

 こうして時間的にも空間的にもかなりの広がりを視野に納めていくわけですが,その叙述が決して散漫にならないのは,一つには,食糧を得るための採集,狩猟,農耕,牧畜,漁業といった多様な営みの変遷が,人口動態,開墾の進展や技術革新,領主=農民関係の変化,天候不順による食糧危機や疫病の流行といった大きな歴史の流れと関連づけられて説明されているためです。また,ゲルマンのビールとラテンのブドウ酒,お粥とパン,バターとオリーヴ油,貧者の飢餓と富者の飽食,食の節制と大食,四旬節の精進と謝肉祭の肉食などなど相反する二極が選ばれ,その間を揺れ動く人間と社会がダイナミックに描き出されるよう,叙述も工夫されています。

 さらに,食文化自体が,支配と被支配の枠組であるとズバリと言いきった分析も,明快です。いつの時代でも社会階層によって,食べるもの,食べていいものが非常に違い,しかもその違いこそ社会秩序を維持するための重要な規範であり倫理であったというのです。農民はブタのように食べるのが正しいあり方。エリートたちは洗練された料理を並べて会食し,ごちそうとともに連帯感と優越感も一緒に味わえる道理です。政略結婚の結婚披露宴は,富と権力を誇示する政治的パフォーマンスの場になります。身分と食物の格には呼応しあう厳しいランクづけがかつてあり,そのランクづけが封建的身分を伴わない新しい富によってうち砕かれていくとき,いわゆる近代市民社会の成長が始まるともいえましょう(食べ物の恨みはこわいってことでしょうか)。

 大航海時代を経て,ヨーロッパは新しい食物を知るようになりました。コーヒー,茶,カカオ,砂糖のように,熱狂的に歓迎されたあげく,産地の植民地化とプランテーション経営を推進させる原動力になった,魅惑的で罪深い食物もあります。ジャガイモとトウモロコシのように,最初は嫌われた新顔もあります。現代では食をめぐる事情は,ますます錯綜してきました。エリートがベジタリアンになり,飽食社会で病的なダイエットが流行し,缶詰・レトルト・冷凍食品が隆盛を極め,遺伝子組み替え食品や狂牛病による食肉汚染がパニックを引き起こす。この20世紀のほんの100年で起こった急激な変化は,実はモンタナーリによれば,長期にわたる歴史の必然的帰結と考えられます。ヨーロッパの長い時間を辿りながら話が現代に及ぶと,読者も今や確かに,時間と空間を共有している事に気づきます。モンタナーリの提起した現代の問題は他人事ではないことを感じて,頁を閉じるときには満腹(ちょっと食べ過ぎ?)の気分になっていること,請け合いです。

 

 

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ジョルジョ・パドアンの思い出

 

原  基晶

 

 僕らの人生は初めから行き詰まっていたから,ちっぽけなポストを握り締めて放そうとはしなかった。けれども,何かがあったのだろう,瞬く間に何もかも失い,屈辱と怒りを感じながら,明日を暮らすお金をどうするか,計算ばかりするようになった。ただ,進むべき道を見失うことはなかった。ぼくはもう,文学者だったから。途方にくれたぼくを,ヴェネツィアの著名なダンテ学者,ジョルジョ・パドアンは,快く,政府給費生に推してくれた。199810月,色あせた夕焼けの中,ぼくを乗せた列車は,4キロもある「自由の橋」をのろのろと渡っていた。うれしくはなかった。それでも,長い長い逃避行がやっと終わるような気がしていた。次の日から授業が始まり,冬になった。毎日,島は霧に覆われ,空は黒かった。洪水の日に,サン・マルコ広場を横切り,ザッテレ海岸を抜けてサン・セバスティアーノまで行くのは嫌だった。

 大学は居心地が悪かった。ある教官は,カトリック信者のようなプラトンやアリストテレスを教え,イスラムもアヴェロエスも存在しない歴史には神の意図が隠されていた。ダンテの授業では,どの本の受け売りをしているのかすぐに分かった。一度,学生に頼まれて卒論をみた。安部公房の翻訳をしたつもりらしい。『縄』の主人公の頭にはなぜか深い縦皺があり,イタリア語で書かれた解説の中に安部はいなかった。担当教授はそれを出版したがっていた。なぜだろう。卒業を祝ったインド料理屋で彼女は打ち明けた,沼野充義のありもしない本を捏造したことを。そう,題名だけ考えたのだ。それは教授には絶対に分からない。日々霧は深くなり,空はさらに黒々と鉛のように重くなり,月が満ちるたびサン・マルコ広場は沈み,運河は灰色の腐臭を漂わせた。ぼくは自分の部屋に閉じこもり,戦争を考え,『神曲』を読み,アリオ・オリオばかり食べて本代を貯めようとしていた。

 三月になった。一限目の授業が終り,慌ててサン・セバスティアーノ修道院の中庭を通り抜け,スカルパがデザインした白い門をくぐると,教会堂の前にかかる橋の上に,その人は立っていた。見上げると,ぼくは気づいた,冬が終わったことを。太陽の光はまっすぐに落ちてきた,青空から,軽々と,透明な大気の中を。ぼくは話しかけた。−−パドアン教授−− −−研究室で待っていてくれるかな。たどりつくのに時間がかかるから−−その日から,ぼくはロマンス文献学科の図書館で教官達と同じように自由になった。彼の研究室に通い,自宅に大事な資料を見に来るように言われた。その授業はすばらしかった。戦争と政治,植民地とコソボと移民の群れの中から,君主論と教皇庁と大航海が現われた。そして,パパ(教皇)は悪くないと主張する学生に,マキアヴェッリのように,つまり文学で,彼は答えた。ぼくは彼の授業中,安心だった。

 春の終りはいきなりやってきた。ある日,予定を変更して,彼はミケランジェロの最後の審判のことを話し,何かを伝えるように地獄篇第三歌を高らかに読み上げた。あの日,橋の上から,ぼくは彼が心配で,ザッテレの方に消えていくのをずっと見ていた。太陽の光の中で,地獄篇十五歌でダンテが師をそう呼んだ,永遠の人のようだった。週末,真夜中に電話が鳴った。はっきりと聞こえた,−−モトアキ,パドアンが死んだ−−その言葉が響いてきた。ぼくは理解しようとしなかった−−でも,水曜日に会ったんだ−−。

 1999年,4月29日,木曜,朝8時,ペースメーカーが止まり,彼の心臓も止まった。若い頃からの,度重なる発作と手術に耐えながらの人生だった。翌週,澄み切った青空の下,カ・フォスカリ館の中庭で大学葬がおこなわれた。死の前日,彼は若き日の出世作『ダンテ入門』の初版本をぼくにくれた。遺族に返そうと思い,花束といっしょに持っていった。なぜか教授たちの席に通された。献辞を見ながら葬儀委員長は言った−−誰に何を話したら良いか分かっているね−−壇の脇に連れて行かれた。パドアンの師ブランカの演説は胸を打った。他の人々は自分のことばかり話した。ぼくは不思議と落ち着いていた。壇に登り,聴衆を見た。伝えるべきことがあった。言葉がひとりでに出てきた。

 「『心臓が悪くて,階段の上り下りさえまともにできないのに,なぜ,ぼくは授業をするのか。それは,ぼくの志だ』最後の日,パドアンはそう言った。彼が伝えようとしたのは生きるということだった。世界がどのようにできていて,その中で人が何をしなければいけないのか。生きるということはいかなることか。身をもって彼はそれを示した。ぼくらはその道を歩まなければならない。そして,ぼくは文学者としてそれを歩もう」

 しばらくたって,ヴェネツィアのサン・ミケーレ島の墓地が,パドアンの遺体を引き取らなかったことを聞いた。カ・フォスカリにでかけると,あんなに広く見えた中庭は小さかった。照りつける日差しの中で,藤棚の花だけが変わらずに美しかった。すでに初夏になっていた。

 

 

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<寄贈図書>

 

『アジア都市の諸相』友杉孝編著 同文舘 1999

『ブローデル『地中海』入門』浜名優美 藤原書店 2000

『レコンキスタの歴史』F.コンラ著 有田忠郎訳 白水社クセジュ文庫 2000

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地中海学会事務局
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