2000|1
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聖年
山辺 規子
スターティウスの『テーバイス』
山田 哲子
「風が吹くまま」の記憶
鈴木 均
自著を語る 16
『コロッセウムからよむローマ帝国』を執筆して
島田 誠
鍋島元子さん追悼
牟田口義郎
<寄贈図書>
学会からのお知らせ
*3月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。
テーマ:15世紀末フランドルにおけるロヒール様式の流行
発表者:平岡 洋子氏
日 時:3月11日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
シチリアからスカンジナビア半島に至るヨーロッパ各地の教会や美術館に,15世紀末のブリュッセルやブルージュの群小画家たちにより制作された絵画が残っている。彼らは,ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの様式を踏襲した作品やコピー,中でもロヒールタイプの聖母子像を数多く制作した。絵画の販売形態,制作過程という側面から,当時の美意識,ロヒール様式を流布し,支えていった活動の構造を探りたい。
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
第5回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者募集の締切は2月10日(木)です。詳細は月報225号をご参照ください。
*第24回大会研究発表募集
第24回大会(6月17,18日,広島女学院大学)の研究発表の募集締切は2月10日(木)です。発表を希望する方は発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。
*会費口座引落について
口座振替依頼書の提出期限は2月25日(金)となっております。詳細は前号に同封しました「会費口座引落についてのお願い」をご参照ください。ご協力をお願いいたします。
表紙説明 地中海:祈りの場14
サン・ピエトロ大聖堂/末永 航
2000年である。今は単に世界標準になっているこの年の数え方だが,もともとキリスト誕生を紀元にしていることはいうまでもない。
本当にキリストが生まれたのは,5〜7年ほど前だったらしい。しかしとにかく千数百年間,この年に生まれたと信じてきたその歴史の方がむしろ重い。
カトリック信徒は今年,主の降誕二千年を「大聖年」として祝うことになる。
ローマへの巡礼者に特別の贖宥を与えたりする聖年という制度は1300年に始まったものだから,1000年にはまだなかった。1000年単位(ミレニアム)の区切りは今回が初。まさに「大」聖年なのである。
そして巡礼の目的地でもあり,さまざまに予定されているミサや式典の中心となるのが,ヴァティカーノ(バチカン)のサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂だ。昨年までつづいた正面の修復も終わり,一部の彩色も当初のものに復元された。
キリストの一番弟子ペトロの墓地があり,その近くに初期の信徒たちの墓が集まっていたこの土地に,キリスト教を初めて公認したローマ皇帝コンスタンティヌスが,ペトロを記念する祠を中心にして大きな木造の教会を建てたのがこの大聖堂のはじまりだった。320年代後半のことである。
以来西欧のキリスト教の歴史の中で,いつもここは祈りの中心でありつづけてきた。
建立から千年以上も経った,ルネサンス最中の16世紀になってようやく新しい聖堂への建て替えがはじまる。ブラマンテ,ラファエッロ,ミケランジェロなど華やかな顔ぶれのデザイナーたちが設計を担当,マデルノ,ベルニーニたちの手によって仕上げられたのは次の世紀,バロックの時代だった。
表紙は聖年とされた1565年,「聖なる扉」を開けた時の様子を描いたジョヴァンニ・バッティスタ・デ・カヴァレリスの版画。中世の教会堂が前半分に残り,ミケランジェロのプランにもとづくドームが工事中だ。この時期には新旧ふたつの建築が並立していたのである。
現在,聖堂の正面入り口には五つの大扉が並んでいる。初期ルネサンスのブロンズ彫刻として重要なフィラレーテ作の中央扉が有名だが,一番北側の扉が特に「聖なる扉」と呼ばれている。今のは1950年に作られた新しいものだが,普段閉まっているこの扉を教皇が開けることから聖年ははじまるのだ。
昨年のクリスマスに開けられたこの扉が来年1月6日に閉ざされるまで,大聖堂は特別に忙しい一年を過ごすことになる。
聖年
山辺 規子
ここ数年,ローマは,どこも工事ばかりだったという。著名な教会はどこも修理中,市内交通はさまざまなところで支障をきたしている。聖ピエトロ大聖堂に入るにも厳しいチェックが入るのがあたりまえとなった。これは,1996年に,ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が,2000年を1000年に一度の大聖年と位置づけ,1998年から3年がかりで聖年事業をおこなうと宣言したことによる。
ところで,1000年に一度とはいいながら,この西暦2000年の大聖年は一千年紀(ミレニアム)の境目におこなわれる最初の聖年である。というのは,紀元1000年には,「聖年」という行事はまだ始まっていなかったのだから。初めての聖年,それは1300年,教皇ボニファティウス8世によって宣言されたものである。
1300年を迎えようとするとき,人々はこの年にローマにある使徒(聖ペテロと聖パウロ)の墓所に詣ることで,贖宥が得られると信じて,聖ピエトロ大聖堂に殺到した。教皇庁では,ますます増えていく人々の動きになにか根拠があるのかどうか調査したが,根拠となることをどこにも見いだすことはできなかった。しかし,人々の期待を感じ取るのに長けたボニファティウス8世は,当時崇敬を集めていたヴェロニカのスダリウム(ゴルゴダの丘へ向かうキリストの顔をぬぐったとされるハンカチ)の開示の日に,この年を聖年として宣言した。彼は,ローマ人なら30日,外国人なら15日にわたって二つの使徒大聖堂に毎日参詣することによって,全贖宥が得られるとした。さらに,これから100年ごとに同 じように贖宥が得られることを宣言したのである。
この聖年宣言の教書は,ヨーロッパ各地に送られた。効果は抜群だった。おびただしい巡礼が,ローマへ向かった。フィレンツェの歴史家ジョヴァンニ・ヴィッラーニは「常に20万人がローマにいた」とし,アスティの年代記作者ヴェントゥーラは「200万人以上の 巡礼が訪れた」と伝えているが,実際のところ,その数はわからない。しかし,当時わずか数万の人口しかなかったローマの人口をはるかに上回る人々が押し寄せたことだけは,まちがいなかろう。
この直後のアナーニの教皇襲撃事件,続いて教皇庁のアヴィニョン移転は,ローマにとって嘆かわしいことだった。1300年の栄光を求めるローマ市民は,アヴィニョンを訪れ,聖年を早く実施するよう教皇に願い出た。これにたいして,教皇クレメンス7世は,できるだけ多くの人々が聖年の恩恵に与れるように聖年の間隔を50年にし,1350年に次の聖年を実施することを宣言した。そもそも,聖年(ユビレウス)の語源は,聖書の『レビ記』の中で,50年目の年を「ヨベルの年」として解放の年としたことにあるのだから,この点でいっても50年の方が間隔としてはふさわしい。1350年,教皇自身はローマに戻らなかったが,その代理によって聖年行事はとりおこなわれた。聖年の贖宥を求めて集まった巡礼の数は1300年に劣らなかった。ローマ人が捏造したらしい大量の偽教書も,巡礼を盛り上げるのに寄与した。
14世紀末から15世紀初めにかけては,ローマとアヴィニョンに教皇が並び立つ大分裂のために,聖年行事もまた混乱した。結局,混乱を収拾し,ローマでの「聖年」を確立するのは,ニコラウス5世による1450年の聖年まで待たねばならない。この後,25年ごとに,クリスマスに始まってクリスマスに終わる聖年行事がとりおこなわれることになり,19世紀に政治的混乱でとりおこなわれなかった以外は,ずっと25年ごとに実施されてきた。現在につながる「聖なる扉」の開閉という行事が始められるのも,1500年のアレクサンデル6世による「聖年」からであり,15世紀こそ定例的におこなわれる「聖年」の確立期といえよう。
16世紀には,別のタイプの聖年が登場する。特別な目的のために宣言される「特別聖年」である。たとえば,トルコとの戦いのためとか,教皇登位を祝うためといった目的でとりおこなわれるもので,20世紀にも「キリストの贖い」の1900周年および1950周年記念,マリアの記念のために「特別聖年」が宣言されている。
このような聖年は,ローマへの巡礼をうながすとともに,ローマ教皇のイニシアティヴのもと,多くの巡礼を迎え入れられるようにローマを美化し整備する事業を促進した。多くの巡礼宿泊所の設置,橋や道路の整備など,ローマが生まれ変わっていくのに,大いに寄与した。現在おこなわれている事業もまた,この延長線上にある。
ヴァティカンのホームページでも語られているとおり,まさしく聖年は,ローマ・カトリックの伝統における宗教上の大イヴェントであり,700年にわたってローマ・カトリック教会と,ローマという町,それに救済を求める民衆の期待が結びついてきた歴史的存在である。1999年クリスマス,「聖なる扉」は開かれた。2000年,大聖年を目のあたりにするのは私たちである。
スターティウスの『テーバイス』
山田 哲子
古代ローマの帝政初期。文学史上「白銀時代」と称せられるこの時代の詩人スターティウスは,長大な叙事詩『テーバイス』を著した。題材は,ローマ人にも良く知られたギリシア神話。近親相姦から生まれた二人の息子エテオクレースとポリュネイケースが,王位を巡って互いに争い,そして二人とも死ぬという陰惨なもの。
舞台はテーバイ。アテーナイより北西にやや離れた地に位置し,背後にはキタイローン山が聳えている。この山に,かつて一人の嬰児が遺棄された。「この子供は父を殺し,母と結婚するであろう」という神託が下ったために。しかし偶然か宿命か,嬰児は生き延びてしまい,己の素性を知らぬまま,実の父を殺め,母と結婚し,生まれ故郷であるテーバイの王位に就いてしまう。言うまでも無くこれが,ソポクレースの悲劇作品やフロイトの解釈で世にその名を知られている,オイディプースである。
やがて真実は露見する。オイディプースは己が眼球を抉り,忌まわしい罪を犯した身を闇の中に沈めようとする。さらに,実の母との間にもうけた息子たち(前述のエテオクレースとポリュネイケース)にも呪いをかけ,彼らの上に破滅が降りかかることを熱望する。
父親の呪いは直ちに,天上の至高神と冥界の女神に諾われる。兄弟は互いに鋭い嫉妬を抱き,自分だけが王権を独占したいという欲望にとりつかれる。一触即発の状況を回避するため二人は,籤引きで一方だけが一年の間に限ってテーバイを支配すること,籤に外れた方はその間国外に退去することを取り決める。だが,籤で敗れたポリュネイケース(この名は「争い多い男」の意味を持つ)は,亡命先のアルゴスで国王の娘を娶り,義父の軍を率いて祖国に攻め寄せて来る。オイディプース王の呪われた息子たちの争いは,テーバイ・アルゴス両国を巻き込む戦禍となる。
数多の血が流された後,ついに二人の兄弟は一対一の果し合いで決着をつけようとする。兄弟の息の根を止めた者が,テーバイの君主となるのである。しかし,致命傷を負わせられたエテオクレースは,何としても兄弟にその座を渡さないために,わざと力尽きたふりをして倒れる。ポリュネイケースは,一刻も早く王冠を奪い取りたい一心で,瀕死の兄弟の上に屈み込む。その瞬間,最期の力を振り絞ってエテオクレースは兄弟を刺し殺す。
この陰惨な兄弟の神話は,スターティウス以前にも多くの詩人によって作品化されてきた。ギリシアでは,前述の悲劇詩人ソポクレースによる『コローノスのオイディプース』や,アイスキュロスの『テーバイを攻める七将』,エウリーピデースの『ポイニッサイ』などが有名であろう。下ってローマの時代でも,スターティウスよりわずか一世代ほど前の詩人セネカが,『ポイニッサイ』という悲劇を創っている。
言うなれば,すでに使い古された感すらある題材である。兄弟の運命の経過も結末も,読者は熟知しており,新しい要素が付け加わる機会は限られている。実際,現代の研究者の間でさえも,「独創性の無さ」を理由にこのスターティウスの『テーバイス』を低く評価する傾向は残っている。
だが,細部での描写や叙事詩全体から醸し出される雰囲気には,やはりこの詩人ならではと感じさせるものがある。特に注目すべきは,嫉妬や憎悪や欲望などが強調されている点であろう。例えば「息子を呪う父」という話そのものは他の先行作品でも語られているが,スターティウスの描くオイディプースは,根深い憎悪の化身となり,幽鬼の如き姿で息子を戦いに駆り立てる。兄弟たちの間にも一片の愛情も慈悲も無く,相手を殺すことに悦びさえ覚えている。独裁者の地位への執着は,他作品には見られないほど強烈なものとなり,家族や民衆に対する疑心暗鬼にまで膨れ上がる。
このことは実は,先行作品と比較することでむしろ鮮明になる。ギリシア悲劇に登場するオイディプースやその息子たちには,まだ「義憤」と言える感情が残っていた。兄弟同士の争いと言えど「祖国防衛」の理念は完全に喪われたわけではなかった。だがこのような家族や祖国に対する義務の観念(ラテン語ではPietasと呼ぶ)は,『テーバイス』ではもはや地に堕ちている。
『テーバイス』では,伝統的な神話の世界を枠組みとしながらも,その中では,伝統的な道徳が力を失った世界が描き出されている。ここにはおそらく,詩人の資質もさることながら,彼が生きた時代の影響(文学的にも社会的にも)が色濃く現れているのではないかと想像されてくるのである。
「風が吹くまま」の記憶
鈴木 均
昨年の10月から2年間の予定でイランに滞在している。所属するアジア経済研究所の海外調査員として「イランの中央・地方関係」に関する調査研究を目的とした滞在なのだが,自分の研究関心に基づいて2年間という時間をどう料理してもよいといういわば猶予期間である。
今回の滞在中,地方農村部で1960年代頃から数多く形成された小都市(ペルシャ語でrusta-shahrという)をまずは出来るだけ多く見てみたいと考え,僕は持ってきた有り金12,000ドルを叩いて日産パトロール2ドア(4WD)の中古を買った。
これから現在のイランで数多い映像作家志望の若者のなかから気の合う人物を見つけ,一緒にイランの地方小都市の形成過程についてのドキュメンタリー映像を作りたいというのが僕のささやかな目標なのだが,最近このことを考えるときに常に念頭に浮かぶ映画作品がある。キヤーロスタミー監督の「風が吹くまま」(日本ではユーロスペースで昨年12月4日から公開,イランでは未公開)である。
冒頭四輪駆動の車がビーストゥーンを越え,タクデラフティー(目印の大きな木)を越えたところで農夫に道を聞く。「スィヤーダッレ村はどこか。」クルド訛りで応える農夫。死者を弔う珍しい民俗行事を映像資料に収めようとクルドの村に向かうTVクルー。余りに美しい階段状の村である。子供に村を案内させる。女がカフェを営んでいるが,都会出身の主人公ベヘザードは完全に気押される。子供を産んだ翌日から立ち働く逞しい女。一方件の老女はなかなか死なない。携帯電話(都会の象徴!)でテヘランと連絡をとるため,ベヘザードは何度も村の高台へ,そこで知り合った井戸を掘る男が落盤事故に逢う。男は助け出されるが,町からきた医師のバイクに同乗したベヘザードは死を巡る印象的な言葉を交わす。やがて老女は死に,もはやベヘザードは民俗的な風習にはことさら関心を向けない。
大体このような筋なのだが,ゆったりした物語の心地よさに僕は途中何度か居眠りをしてしまったので,案外大事な部分を見落としているかもしれない。だがとにかくこの作品から僕は多くのことを学び,また考えさせられた。都会からテレビ番組の取材のためケルマンシャー近郊のスィヤーダッレ村にやって来た主人公のベヘザードの視点や振舞いは,イランを現地調査する外国人研究者のそれと何ら変わるところが無いからである。
ベヘザードは村の娘にフォルーグ・ファッロフザードの詩を詠み聴かせる。だがそこに我々がイラン文化という独自の閉じた世界のようなものを感受することはない。なぜならキヤーロスタミーはここでむしろペルシャ語文化の閉鎖性よりも開放性や普遍性(クルドの娘の心をも揺り動かす)を暗示しているからである。キヤーロスタミー監督のきわめて微弱な政治性をこの作品の中に求めるとすれば,この場面をおいて無いであろう。
都会と農村の対比と邂逅を鮮やかに印象的に描いたこの作品のなかで,キヤーロスタミーはどちらの側に身を置いているのだろうか。それは第一義的には都会の側ということになるだろう。だが同時に都会の側ということは近代的な普遍性を背後に持っているということであり,監督は肉体的には農村にありながらそのような都会をなかなか離れようとしないベヘザードの振る舞いをいささか滑稽に描いてもいるのである(カメラや携帯電話はベヘザードと都会をへその緒のようにつなげている)。そこでキヤーロスタミーの視点は,農村と対比される都会の普遍性よりもさらに高度な地点に置かれているといえよう(それは見方を変えれば「どっちつかず」ということでもある)。
だが初めは2,3日のつもりが2,3週間も居着いてしまったベヘザードは医者との会話などを通じてこの村の人たちの死生観に直かに触れ,それをきっかけに死者を弔う珍しい儀式の民俗資料の撮影という当初の目的よりももっと大切なものを手に入れるのである。それはいわばこのクルドの農村から都会人のベヘザードへの思いがけない文化的な贈与でもあった。
キヤーロスタミーは日常の何でもない風景を極度の編集によって映像詩にまで高めるマジックをここでも存分に発揮している。ベヘザードが井戸掘り人の事故を伝える場面で煙草を指に挟んでいるといった瑕疵も,ほとんど気にはならない。この作品はエブラーヒーム・ハータミーキヤーの「紅いリボン」などと同等,ただし明らかに異質の力強さを湛えている。
* 「風が吹くまま」(Bad ma-ra khahad bord..., The Wind Will Carry Us)1999年,フランス(mk2)・イラン 合作,監督・編集:A.キヤーロスタミー,カメラ:M. キャラーリー。1999年9月27日,京橋片倉ビルの試写会で観る。会場は満員だった。
自著を語る 16
『コロッセウムからよむローマ帝国』を執筆して
講談社選書メチエ 1999年7月 262頁 1,600円
島田 誠
昨年夏に,『コロッセウムからよむローマ帝国』と題する書物を講談社選書メチエの一冊として上梓した。以下では,この拙著の執筆の経過と著者の意図,刊行後の現在抱いている反省点などについて述べてみたい。
本書の執筆のきっかけはコロッセウムを主題とした本を書かないかとの編集部からの依頼であった。コロッセウムやそこで行われる剣闘士の試合についてはほとんど勉強したことがなく,別にもっと適当な執筆者がいるのではないかとのためらいもあったが,結局依頼を引き受けることにした。それは次の二つのことが念頭にあったからである。
一つはコロッセウムとそこで行われる剣闘士の試合をローマ市民の頽廃の証拠とみなし,そこにローマ帝国衰退の徴候を見出す傾向への疑問であった。実は最初に依頼を受けた際に見せられた編集者の企画案にもその主旨の文があったのだが,そのような筋書は私には単純すぎるように思えた。剣闘士の試合の残虐さや非人道的なことは言うまでもないが,そこから直ちにローマ帝国衰退を論じるのは短絡であり,余りにも性急である。二つ目は,以前に読みかけで止めてしまい,その後は記憶の底に滞留していたある論文の記述を思い出したことであった。それは本書の第2章で言及したアウグストゥスの「劇場法」とローマ社会における身分区分(Discrimina Ordinum)の問題を取り上げたものであり,剣闘士の試合も含む見世物の観客席の席次が当時の社会階層を反映したものであることが論じられていた。依頼を受けて,この芝居や見世物の観客の問題と従来から研究していたローマの社会階層の問題との関係を調べてみようと思い立ったのである。
執筆を引き受けた後も筆は進まず暗中模索の状況が続いていたが,締切り(1998年末)も大分迫ってきた1998年夏に古代ローマの見世物の特色に気付くことになった。剣闘士の試合等の見世物は共和政期には競技祭・凱旋式・葬礼等の行事の一環であり,民会や裁判と同じく広場で催されていた。帝政期の見世物の開催される劇場や闘技場は皇帝と臣民たちが一堂に会して世論が知られる場であることも従来からしばしば指摘されていた。これらのことから共和政期の民会や裁判と見世物との広場の集会として共通性に注目したのである。
以上のような経過を経て1998年秋に本書の構想が最終的に固まった。まず広場での市民たちの集会が,民会,裁判,祭,葬礼,見世物などの種別を問わず共和政ローマの政治と社会にとって重要であったこと,この広場が共和政末期から多くの建造物に侵食されて市民たちの集会が変質し,見世物はコロッセウムに代表される専用施設で開催されるようになったことを論じる。次いでアウグストゥス等の皇帝たちによる闘技場のアレーナや観客席の規制を帝政期ローマ社会の身分秩序成立過程との一環として位置付ける。その後,これらの結果を受けて二つの身分に注目して帝政期の身分秩序の実態を考える。まず本来は身分秩序においては市民の最下層に位置付けられる解放奴隷たちの傍若無人な活動に,次に解放奴隷たちの活動が目立たなくなった1世紀後半から登場した地方都市や属州出身の新人元老院議員たちに注目してローマ帝国の身分秩序が安定に向かったことを論じる。
このような構想の下,広場に集まる市民たちから成る無定形な群集に象徴される共和政末期のローマ社会が社会的立場や身分ごとに秩序正しく区分されたコロッセウム等の観客席が視覚的に表現する帝政期の身分社会へと変貌する経過を示すのが著者の意図であった。
刊行後5ヶ月近く経つと,再考すべき点が幾つか出てきている。ここでは,それらの反省点の中から2点だけ述べておきたい。まず広場の集会の一環としての見世物を論じる際に,競技祭における演劇競技ludi scaeniciなどで数多く上演されていた劇をほとんど考慮していないことが反省点である。本書の執筆後にローマ市民たちの政治や社会への認識に対する演劇の影響が意外に大きいのではないかと思い始めている。最後に2世紀中葉の元老院議員の代表として取り上げたフロントの評価の難しさである。最大の資料であるフロント自身の『書簡集』の写本の残存状態の悪さ,編者およびその編集意図が不詳であることなどが判断を困難にしている。これら2点については,機会があれば改めて検討してみたいと思っている。
本書には反省すべき点もあるが,共和政末期から帝政成立期を経て安定期へと至るローマ史上の変動期を研究する際の一つの新しい視点を導入することが出来たのではないかと考えている。もちろんこのような著者の意図が本書の中でどこまで説得力を持って伝わっているかの判定は読者に委ねるしかない。
鍋島元子さん追悼
牟田口義郎
会員でチェンバリストの鍋島元子さん(桐朋学園大学教授)は1999年11月22日,腹膜がんのため死去された。鍋島さんには,私が事務局長だったころ,熊本大学を当番校として年次大会が行われた際に記念公演をお願いし,この企画は県立劇場でのコンサートとなって実現した。また,ブリヂストン美術館との共催で,毎年秋同館で行う連続講演会にも出演していただいている。
このように,わが学会の「積極会員」だった鍋島さんの死に際し,私は同月30日,ルーテル市ヶ谷センターで催された音楽葬で読み上げた弔辞の要旨をここに紹介し,彼女に心からの弔意を表したい。
◇
私は鍋島さんの父上・直康先生(日本美術史)の葬儀の席上,弔辞を読ませてもらった者だが,その先生の令嬢,私よりはるかに若かった元子さんの遺影の前で弔辞を述べようとは,夢にも思っていなかった。
鍋島さんに初めて会ったのは20年ほど前で,そのときコミュニケーションの問題について話し合ったことを私はよく覚えている。彼女のオランダ留学時代と私のパリでの新聞特派員時代とが重なっていたのがわかったことがきっかけだった。
私は,自分が書いた記事を不特定多数の読者にわかってもらうよう努力する。そのための道具になるのは日本語なのだが,彼女の場合は音楽,それも洋楽なのだから,おまけに取り返しのつかぬ一回勝負なのだから,コミュニケーションの実践についての悩みは,私とは比べものにならないほど深いものがあるようだった。
それから20年。話せば長いことは一切はしょって,今年(1999年)の鍋島さんの思い出を語ろう。
彼女は8月中旬の2週間日本を離れ,中部ドイツのミュールハウゼンのシティホールでのリサイタルを,前年の約束に基づいて実行した。ただし,それは病院から成田,そしてドイツ。ドイツから成田,それから再び病院へ,というコースだった。病院からは「まだスタミナがあるから大丈夫」というお墨つきが出たから,実行する決心がついたのだそうである。
その演奏会に,彼女の親友であるオランダ人のヨーケ・グローリー夫人が,600kmの距離を物ともせずに駆け つけて来ている。そのことを記した鍋島さんへの手紙からは,演奏会場の熱気まで伝わって来るようだが,最初,それを原文で読んで私がギクッとしたのは,彼女が鍋島んさんから事前に,「これがヨーロッパでの,たぶん,最後の演奏会」といわれていたことだ。
そのことは,彼女が主催する「古楽研究会」の会報10月号に載ったその手紙を見れば明らかだ。彼女はその覚悟で出かけたのか。それならば演奏会は,現地のうるさい専門家にどう受けとめられたのか−−それは,すぐ送られてきた新聞でわかった。『チューリンゲン新聞』の「ミュールハウゼン版」は,文化面のトップで写真つきの長文の記事を掲載していたからだ。
そこにはグローリー夫人の手紙の内容が,専門家の筆によって裏づけられている。まず夫人の手紙から何行か引用してみよう。
「私には,自分の友が若々しく,幸せに見受けられ,この,本当は最後になるかも知れぬ演奏会を,いつもと変わりなくやっているのを見て,幸福な驚きに満たされた」
次に,そのような内輪の事情を知らぬ新聞の見出しはこうだ。
「積年のチリを吹き払い,モトコ・ナベシマが弾いた初期バロックのチェンバロ音楽」
そして評者は,「このチェンバリストは,深い考えに満ち,学ぶべきものの多いコンサートをわれわれに提供した」と,さまざまな例をあげたあとで結論に入る。
「何よりも,この夜の驚嘆すべきことは,やや荒削りな作品にもなお生命をみたしたモトコ・ナベシマの魔法のような闊達さであった。彼女の演奏における正確無比さと感情の豊かさとの幸福な共存。それらは,彼女がスケールの大きな一流の音楽家であることを立証した。フィナーレに弾いたバッハのホ短調組曲(BWV996)のブーレなどは,彼女の繊細な手の下から宝石がはじけ出るようだった。300年もの 間埋もれていたためのチリも,その宝石を何ら損なうものではなかった」
−−そこには国籍を超え,演奏家と聴衆の間に,完全なコミュニケーションが成立していたことを,評者は証言しているのである。
鍋島さんは,最後になるかも知れぬ演奏会に全力を投入,バッハゆかりの地であるミュールハウゼンでバッハを弾き,これだけの評価を得た。彼女は有終の美を飾った。「プロは死ぬまで現役」が口ぐせだった彼女は,見事,その信条に殉じたのである。
◇
鍋島元子さん
あなたは演奏家として,また教育者として,音楽人生を立派に生き抜いた人でした。
さようなら
<寄贈図書>
La casa appoggiata al pino, Naomi Takeya, Milano 1999
『ビザンツ帝国史』尚樹啓太郎著 東海大学出版会 1999年
『麗しき島 コルシカ島紀行−−ヴァンデッタとパオリの夢を訪ねて』田之倉稔著 集英社 1999年
『コロッセウムからよむローマ帝国』島田誠著 講談社選書メチエ 1999年
『聖ヴァレンタイン物語−−ちょっぴり怖い聖人たちの「黄金伝説」』森実与子著 三一書房 1999年
『中世シチリア王国』高山博著 講談社現代新書 1999年
『ヨーロッパの食文化』M.モンタナーリ著 山辺規子・城戸照子訳 平凡社 1999年
『死を見つめる美術史』小池寿子著 ポーラ文化研究所 1999年
『母なる地中海』D.フェルナンデス著 大久保昭男訳 河出書房新社 1999年
『ギリシアの美術さ・え・ら』前田正明著 日貿出版社 1999年
『イスタンブールから船に乗って』澁澤幸子著 新潮文庫 1999年
『地中海の覇者ガレー船』A.ジスベール・R.ビュルレ著 深沢克己監修 遠藤・塩見訳 創元社 1999年
『ナポリと南イタリアを歩く』小森谷賢二・小森谷慶子著 新潮社 1999年
『ポンペイの遺産−−2000年前のローマ人の暮らし』青柳正規著 小学館 1999年
『市長のつぶやき』佐藤孝志著 北日本新聞社 1999年
『ローマ教皇歴代史』P.G.マックスウェル・スチュアート著 高橋正男監修 月森・菅沼訳 創元社 1999年
『ローマ人の愛と性』本村凌二著 講談社現代新書 1999年