1999|12
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*1月研究会
テーマ:ベラスケス作品の「あだ名型呼称」
−−その成立と意味−−
発表者:久々湊直子氏
日 時:1月22日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
17世紀スペイン画家ベラスケスの作品には,製作当時の呼び名とは別に「あだ名」を持つものがある。《ロス・ボラッチョス》《ラス・ランサス》《ラス・メニーナス》《ラス・イランデーラス》といったこれら「あだ名型呼称」は,成立の時期こそ微妙に異なるものの,その命名のされ方にはある共通した特徴が見いだせる。「あだ名」には, 18〜19世紀の鑑賞者の視点が如実に反映されているが,一方,作品自体が含有する造形的特徴とのかかわりも見逃せない。報告は,財産目録から美術館のカタログへと引き継がれる作品の記述を糸口にして,その鑑賞のされ方の変化を跡付け,これが作品の持つ造形的な特質とどう関連するかを考察するものである。
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第5回「地中海学会ヘレンド賞」(以下ヘレンド賞,第4回受賞者:渡辺道治氏)の候補者を下記の通り募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞( 50万円,その他)が授与されます。授賞式は第24回大会において行なう予定です。応募申請用紙を希望する方は事務局までご連絡ください。
ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
・自薦他薦を問わない。
・受付期間:2000年1月 11日(火)〜2月10日(木)
・応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
*第24回大会研究発表募集
来年6月17,18日(土,日),広島女学院大学(広島市東区牛田東 4-23-1)において開催する第24回大会の研究発表を募集します。
発表を希望する方は,2月10日(木)までに発表概要( 1,000字程度)を添えて事務局 へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人 30分の予定です。
*会費口座引落について
先にお知らせしました通り,会費の口座引落にご協力をお願いします。また,今年度会費を未納の方は,至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,新入会員の方には「口座振替依頼書」を本号に同封してお送り致しますので,お手元に到着次第ご返送下さいますようお願い申し上げます。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,会費請求データは学会事務局で作成し,個人情報は外部に漏れないようにします。
・会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
・事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
・「口座振替依頼書」の提出期限:
2000年2月25日(金)(期限厳守をお願いします)
・口座引落し日:2000年4月 24日(月)
・会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
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−−豊作の年−−
三浦 篤
お米と同じく−−いやフランスならワインと同じくと言うべきか−−,展覧会にももちろん豊作の年と,今ひとつの年がある。そこで,1999年秋のパリの作柄,味を問われれば,今年はなかなか良いとにっこり笑って答えたい。少なくとも,10月初旬に私が滞在したときの印象はそうであった。
まずは,FNACで予約をして出かけたグラン・パレのシャルダン展。午前中を予約客に,午後を一般客に充てる方式は,手間さえ厭わなければじっくり見たい研究者にとっては好都合である。シャルダンと言えば,死後200 年を記念した1979年パリの大回顧展が思いだされるが,生誕300年を意識した今回はいかに差異化を図ったのか。出品数は少なくなっ たが(142点から99点へ),前回展示できなかったものを含めて質の向上を意図したとは ,両展の責任者である現ルーヴル美術館館長ピエール・ローザンベールの弁だが,内容的に物足りない,新味にかけると見る向きもあろう。むろん,まとまった形で作品を初めて目にする人間にとっては貴重な機会だし,前回と違って独,英,米を巡回する意義もある。ただし,二つのカタログを比べればわかるように,画家と作品に関する資料調査という点では,今回は前回を大きく凌駕してはいない。1999年展のカタログの特徴はむしろ,1979年以降の調査・研究の進展を跡づけたこと,とりわけアングロ=サクソン系の新しい方法論に基づく解釈を提示したり,17〜18世紀の美術と文学の境界領域で犀利な分析を展開するデモリスの論文を掲載したあたりにうかがわれよう。私自身は展覧会を見て,シャルダンの良さは風俗画ではなく,静物画にあるとの思いをさらに強くしたが,近代絵画の搖籃期に放射されたこの画家の刺激性をどう受け止めるのか,シャルダンをめぐる今後の言説に注目したい。
帰国日の関係であやうく見そこねるところだったグラン・パレのオノレ・ドーミエ展は,担当者の一人がたまたま知り合いだったため,開幕前に見せてもらうことができて幸運であった。油彩,素描,版画,彫刻等々を合わせた,これだけの規模の回顧展は初めてである。私のようなドーミエ・ファンにとっては,待ちに待ったというか遅きに失したというか,実に感動的な催しで,もう少し油彩の点数が多ければ文句のつけようがなかった。天才的な風刺画家としてならともかく,油彩画家としてのドーミエの仕事は,未だ充分な評価を受けているとは言いがたい。しかし,サイズは決して大きくないが,形態を単純化し,ときに恐るべき大胆な筆致を示すこれらの油彩をまとめて見ると,あらためてドーミエという芸術家のすさまじいポテンシャルに圧倒される。人間の普遍的な本質を抽出し,造形する表現力は,確かに並のものではない。カタログに関しては,アンリ・ロワレット率いるオルセー美術館のスタッフを中心に,カナダ国立美術館のマイケル・パンタッツィと19世紀版画研究の雄セゴレーヌ・ル・マンが協力して制作されており,堅実にして内容豊富な大部の一冊となった。
ドーミエ展とほぼ同時期にオルセー美術館で開幕したのが,テオ・ファン・ゴッホ展である。「画商,蒐集家,フィンセントの弟」という副題が示すように,あのゴッホの弟にちなんだ,歴史的な興味をかき立てられる展覧会であった。グーピル商会(1884年からはブソ=ヴァラドン商会に改称)のパリ・モンマルトル店支配人にまでなったテオが,画商として扱った作品群を冷静に眺めてみると,かつてジョン・リウォルドが提示した,当時の趣味や画廊の方針に逆らって印象派の作品を購入した英雄的な画商というイメージは,いささか偏った人物像に見えてくる。カタログの中でリチャード・トムソンが指摘しているように,テオが扱った画家は実に多様な傾向を示している。例えば,1880年代には評価,価格が既に安定していたコロー,ドービニー,デュプレなどバルビゾン派周辺の画家たちの作品を数多く扱う一方で,ドガ,モネ,ピサロら印象派の絵を購入しているように,売れ筋の作品を手堅く押さえながら新しい絵画にも触手を伸ばすという,画商としては当然の両面作戦を展開している。その意味でテオを印象派神話,ゴッホ神話と結びつけすぎるのは危険であろう。兄フィンセントと一緒に集めた個人コレクションの方は,ゴーガン,ベルナール,ロートレックなど同時代の前衛絵画から成っているのだが。ともあれ,19世紀後半の重要な一画商の戦略や趣味がわかる,たとえゴッホの絵が9点しかなくとも充分見応えのある展覧会であった。
さて,パリではその後,「モロッコのマチス」,「フォーヴィスム」など面白そうな展覧会が目白押しとのこと。フランス近代絵画の研究者にとって,今年のパリからはまだ当分目が離せそうもない。
−−スペインと私−−
根占 献一
地中海に面した地で,スペインはこの夏前までは未訪問の国に属していたものの,ある思想家の故に,私には忘れがたい,思い出のある国であった。それはルイス・ディエス・デル・コラール(Luis Díez del Corral)の名と結びつき,彼の来日,及び『歴史の運命と進歩』(初版1962年,出版社は以下も含めてすべて未来社),『ヨーロッパの略奪』(初版は同じく1962年だが,所持本は1969年第3刷),『アジアの旅』(1967年初版,所持本は1971年第6刷),『ラテン・アメリカの旅』(1971年初版),『過去と現在』(1969年初版)などの,彼の一連の書によって,間違いなくかの地と西欧への関心が若い私のなかで喚起された。最初の著書は,上京してから早稲田か神田の古書店あたりで入手したのであろう。なぜなら,1962年では12,3歳の年齢に過ぎないから。また最後の著書の刊行年は東京に出た年である。ひょっとしたら,恩師の鈴木成高先生の影響があるかもしれない。『歴史の運命と進歩』の訳者のおひとりであり,講義のなかでコラールの名が出た可能性がある。
分野を問わず,訪日する学者は年毎に増え続けているだろうが,以来コラールほどに関心を寄せた人物はいない。主著『ヨーロッパの略奪』には当時の毎日新聞の切り抜きが挟んであり,彼と堀米庸三東京大学教授が対談し,通訳は神吉敬三上智大学教授となっている。紙面によると,三度目の来朝であり,堀米は冒頭で「前回の来日は1968年春でしたが,それから4年,日本も世界も大きな変化をした」と語っている。コラールの言葉で印象に残っているのは,日本=極東=極西という歴史認識であった。オルテガ・イ・ガセットをかなり読んだのも,スペイン語を少しばかり勉強したのも,彼との関連があるであろう。
また人とのじかの出会いが,全く欠けていたわけでもなかった。学部学生の頃,ひとりのスペイン人神父を知ったからである。神父を通して,私はドン・キホーテとサンチョ・パンサが互いに相互補完的な人間関係を形成していることを教わった。だが,セルバンテスを読んだのは,はるか後年のことであり,語学の勉強は中途半端に終わった。それよりも視覚的なものに対する関心のほうが,強く持続した。エル・グレコからピカソまでスペイン絵画は常に興味の対象であり,同美術展にもよく足を運んだ。神吉訳のエウヘーニオ・ドールス(Eugenio d'Ors)の『バロック論』(美術出版社,1970年初版),『プラド美術館の三時間』(同社,1973年初版)は愛読した著書であり,書物の体裁もとても気に入り,大事な宝となった。が,グレコの町トレドは宗教史のうえでも,古典の翻訳のうえでもたいそう重要であることを学んだものの,現地に赴くことはなかった。長い年月の経過はむしろ,コラールやドールスの愛読者であることを全く過去のものとしたほどであった。
ところが,思いがけないことで,コラールの先の認識を改めて強く思い起こす機会が訪れた。拙著『東西ルネサンスの邂逅』(1998年刊)を執筆するにあたり,数多くの先人の業績を参照するなかで,とある研究成果を知ったからである。それは東西交渉史家岡本良知による究明である。それによると,同じイベリア半島の国でもアジアへの進み方に違いがあり,スペインは西回りで「ジパング」に大いなる関心を寄せていたが,ポルトガルは東回りでわれわれの国にさしたる関心がなかったというものであった。私はこれで蒙が開かれたような気がした。そしてこの時,コラールの言が胸に甦った。久しぶりに彼の著書を紐解くと,確かに彼は,地理方位的な見地からその言葉を発していた。かつての私はどちらかと言うと,日本がヨーロッパと類似した発展を辿り,それゆえに日本は西側世界の極西にあたると,歴史文明的に考えたのである。
そのようなスペインにポルトガルとともにこの夏初めて,出かけることになった。折りよくも,今年はイエズス会士ザビエルの来日450 周年ということで,いろいろな企画が実施中であり,私自身も鹿児島で開かれる国際シンポジウムでその末席を汚すことになっていた。そこで一段と深い関心をもって,この旅行に臨んだ。この旅から,改めて並々ならぬ情熱で,スペインが西へ西へと赴いたことを感得した。Plus ultra。その先頭を切った英雄はクリストーフォロ・コロンボである。セビーリャにある大聖堂内の彼の墓棺は,4人の巨人により運ばれている。その,向かって左肩わらの壁面には,幼子イエスを担ぐ巨人,聖クリストーフォロの大画面があった。それは極東=極西,「ジパング」を目指したジェノヴァ人,ひいてはスペイン人の意志の大きさを表わしているようであった。(付言。ドールスの著書はプラド美術館売店で「発見」した。)
貫井 一美
今年1999年はベラスケスの生誕四百周年にあたる。スペインではこの春,ベラスケスの遺体発見か,というニュースが新聞やテレビをにぎわし,夏にはオビエドで,そして秋にはセビーリャで,ベラスケスの展覧会が開催された。セビーリャの展覧会に関連して11月には,スペイン美術史,スペイン史研究の第一人者たちを集めてシンポジウムが開催された。さらに12月の半ばにはベラスケス,ルーベンス,ヴァン・ダイクを中心としたプラド美術館での展覧会が予定されている。プラド美術館のベラスケスの展示室も今年リニューアルして公開されたばかりである。
ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは,1599年6月6日にセビーリャに生まれた。彼が受洗したサン・ペドロ教会の聖堂の壁には,この画家の名を刻んだ小さなプレートが残っている。ベラスケスの父と師フランシスコ・パチェコの間に6年間の徒弟契約がかわされたとき,彼は11歳であった。1617年にセビーリャの画家組合に登録され,その翌年には師パチェコの娘フアナと結婚している。そして1623年,故郷を離れフェリペ4世の宮廷画家としてマドリードで一生を過ごすことになる。彼のセビーリャ時代に関する情報は極めて少なく,作品も現存するものはわずかである。セビーリャ時代のベラスケスの作品は《ラス・メニーナス》を始めとするマドリード時代の作品と比べれば,明らかに目立たない地味な題材であり,様式のものであろう。しかし,すでにこれらの作品においてこの画家のすぐれた観察力は際立っている。この時期,ベラスケスは,宗教画,肖像画,そして静物画のジャンルの作品を描いているが,中でもボデゴンと呼ばれるスペインの静物画(ベラスケスのボデゴンは厨房風俗画)数点は,極めて興味深い。これらの作品はフランドル版画,カラバッジオおよびカラバジェスキ,ピカレスク(悪漢)小説との関連性などがその成立の要因として指摘されてきた。しかし,《マルタとマリアの家のキリスト》(ナショナル・ギャラリー,ロンドン),《エマオの晩餐》(アイルランド・ナショナルギャラリー,ダブリン)などのように宗教主題が画中に描かれている作品を始めとして《卵を料理する老婆と少年》(スコットランド・ナショナルギャラリー,エジンバラ),《セビーリャの水売り》(ウェリントン・ミュージアム,ロンドン)などの作品を注文したのはどのような人々であったのか,画家はどのような意図でボデゴンのような作品を描いたのか,などについては今も決定的な見解を持ってはいない。このような作品を描かせたのは庶民の生活に好奇心を持っていた貴族たちであったとの指摘があるが,これを裏付ける具体的な契約書や売買に関する証拠はない。また,その制作に関する画家の意図も明らかではない。
例えばこれらの作品には寓意がこめられているとの説もある。《セビーリャの水売り》は,水売りというアンダルシアの夏の風物を描いた,一見風俗画的作品である。しかし,寓意的解釈によれば,水は浄化,潔白などの象徴であり,同時に経験の豊かさを示してもいる。そして水売りは豊かな知識の源を意味するのである。このようにベラスケスのボデゴンがそれぞれに描かれた対象に寓意的意味を持つものであるならば,若き画家はその知識をどのようにして身につけていったのだろうか。そこにはパチェコのアカデミーの存在が大きく影響している。
ベラスケスの師であったパチェコは,画家としての才能よりもスペインにおける最初の本格的な芸術書である,『絵画技法,その古代性と偉大さ』(1649年)の著者として有名な人物である。幅広い教養を持ち,文人,詩人,神学者などが集うアカデミーを主催していた。セビーリャでも一流の知識人たちが集うパチェコの工房は,パロミーノが記したごとく,若きベラスケスにとってまさに「黄金に輝く牢獄」であったことだろう。その工房で当時のセビーリャの文化人たちを,彼らの会話を身近に見聞きすることのできた6年間は,少年から青年への,多感で柔らかな心と頭を持つ時期を迎えていたベラスケスにとってまさに宝の山にいるような時代だったのではないだろうか。この「黄金の牢獄」で若きベラスケスは絵画に関すること以外にも,砂漠にしみ込む水のように様々な知識と情報を身につけていったに違いない。
ベラスケスの生家は,彼が受洗したサン・ペドロ教会に近い,狭い路地に今も残っている。小さな2階建ての,漆喰で塗られた黄土色の壁にはベラスケスの生家であることを示す簡素なタイルが一枚はめ込まれているだけである。ベラスケスはこのセビーリャという町でどのような少年時代を過ごし,絵画修業をしていたのだろうか。この夏,ベラスケスの400歳の記念の年にスペインの 地を踏み,その作品を間近にできた幸運を感じながら,スペイン黄金世紀の巨匠の若かりし姿を思い浮かべた。
福部 信敏
単眼のポリュフェモスは,いつ「単眼」になったのであろうか,そして,また,いつ「山巓のような巨人」になったのであろうか。前者に関しては,周知のように,情況証拠から単眼にならざるを得ないのだが,その物語を伝える『オデュッセイア』がその事実を明言しているわけではない。そしてこの主題が最も好まれた最初期の絵画,紀元前7世紀の《エレウシスのアンフォラ》やアルゴスの陶器断片,前6世紀中頃のラコニアの杯も全く「単眼」を意識していないようにみえる。もっとも,彫刻では,すでに前5世紀に「巨大な単眼」あるいは額に「巨大な第3の目」を表したテラコッタ作品(共にミュンヘン国立古代収集)が残されているから,絵画上の単眼は,顔をプロフィルで表現しなければならなかった当時の技法上の制約,あるいは醜を厭う気持ちが働いていたのかもしれない。しかし珍しい真正面の顔で描かれた前6世紀末のポリュフェモス(ベルリン国立美術館の黒像様式のスキュフォス)はいまだに普通の双眼である。
さて,本年3月から4月にかけて愛知県立美術館で「借用と創造の秘密」と副題のついた『プッサンとラファエッロ』展が開催されたが,1枚のエングレーヴィングに足を止めてしまった[作品31-2 エティエンヌ・ボデ《ポリュフェモスのいる風景》(プッサンに基づく)1701年]。全く門外漢の領域で誠に恥ずかしいのだが,「こんな巨大なポリュフェモスが描かれていたとは」という思いであった。ホメロスは「それがまったく驚くばかりの巨大な姿に,五穀を喰って命をつなぐ人間とは似ても似つかず,まるで高く聳える山々の,ただ一つ,他に抜きんで突き出て見える,森の繁った頂みたいな様子でした」(『オデュッセイア』第九書 189-191 呉茂一訳)と記述しているが,それをそのまま絵画 化したようなものであった。巨人ははるかな山巓に背中をこちらに向けて座り,巨大なシュリンクスを吹いている。真の遠近法を知らないギリシア絵画にとって,ホメロスの記述はまさに文芸上の詩的な比喩以外のなにものでもなく,このエングレーヴィングの遠近法による極く自然な,無理のない表現は,ギリシア絵画の可能性の外にあるものと思われる。もっともプッサンやE.ボデにとっても『オデュッセイア』の当該箇所を少し読むだけで,ポリュフェモスが人間との比較を絶するような巨人でないことは分かり切っていたことだろう。筆者にはその文化史上あるいは精神史上の文脈は理解できないが,展覧会カタログの解説によると「この作品ではポリュフェモスが積乱雲となって稲妻を引き起こす湿気と獣的な情念の象徴,云々」ということだそうで,そこにはなにか別の要因が働いていたようである。
ギリシア美術に巨像がなかったわけではない。前6世紀の10メートルとも推定される《デロス島のクーロス像》(現場に胸部と腰部が残存),フェイディアスの《アテナ・パルテノス像》や《ゼウス像》,湾を跨ぐロドス島の《太陽神ヘリオス》にいたっては 30メートル以上もあったといわれている。しかし,これらの単独像は物語と背景をもったポリュフェモスの場合と少々文脈を異にしている。E.ボデの作品から連想される古代作品ということになれば,筆者にとってはウィトルウィウスが伝える次の話だけのような気がする(U,序)。アレクサンドロス大王に取り入るためにディノクラテスという建築家が一つの図面を持参し,大王にこう語ったという,「実はわたくしはアトース山を男身像(注,大王の似姿)につくり,その左の手に広大な城壁をめぐらした都市を,右の手にその山にあるすべての川の水を受けてそこから海に注ぐような鉢を,意匠いたしました」(森田慶一訳)。この話は18世紀に好まれたらしく,1725年の版画(A. Stewart, Faces of Power, 1993, Fig.1参照)やP.H.ドゥ・ヴァレンシェンヌの油彩画(1796年 シカゴ美術研究所)に造形化されて いる。これらの作品がE.ボデとなんらかの直接の関係があったのかど うか分からないが,大王像が山巓から刻みだされた巨大な人物像になってはいるものの,作品の構成や精神風土を同じくしていることは確かであろう。ディノクラテスの構想はあくまで創造図であって,無論それ自身実現されたわけではなく,その影響によってなにか古代の作品が直接生み出されたわけでもない。しかしここで語られているアレクサンドロス大王の誇大妄想的な,巨大なるものに対する偏愛が一つの時代思潮となっていったことは確かである。必要があって最近読んだN.スパイヴィは1章をかけてこの問題を論究している。アッリアノス(V,29,1-2)その他の歴史資料が伝える,大王が西パキスタンから退却する置き土産にベアス河畔に作らせたという,巨人を想定したすべて3倍の規模の巨大な12の神々の祭壇や陣営がそうした時代思潮の真の開始である,云々。
それはともかく,最初の問,ポリュフェモスはいつ「山巓のような巨人」になったのか。これは,そうした時代思潮にもかかわらず,やはり真のギリシア的な人間的尺度を保ったようで,人間との尺度を逸脱した「山巓のような巨人像」はギリシア世界では考えられなかったようである。古代のポリュフェモス像は彫刻ではスペルロンガの群像,絵画ではピアッツァ・アルメリーナのモザイクで終わったと云っていいだろう。それらの作品中でさえ,人間とポリュフェモスとの大きさの関係は赤子あるいは子供と大人のそれくらいのものである。
●XVIII(1995):込田伸夫「ポセイドンとインド・ヨー ロッパ語族」小林標「ラテン・ロマンス諸語における《ユダ/オイディプース説話》」加藤由紀「ツァルリーノの施法論−−施法概念と施法の判断方法をめぐって」 Michiaki Koshikawa「Contribution to the Drawings of Domenico Tintoretto」Setsuko Yoshikawa「 The First Impressionist Exhibition and the Salon」 Madoka Suzuki「Akoris through out the Predynastic to the Graeco-Roman Periods: a brief outline」中山恒夫「書評 小川正廣著『ウェルギリウス研究−−ローマ詩人の創造』」
●XIX(1996):藤井信之「タケロト2世治下におけるテ ーベ反乱−−リビア朝治下エジプトのアメン神官団の検討から」篠塚千恵子「テセウスの船−−「フランソワの甕」再考U」秋山聰「デューラーの第二次イタリア滞在における「速筆」の意義」小川正廣「書評 Naoko Yamagata Homeric Morality」
●XX(1997):Sakuji Yoshimura et al.「A Preliminary Report of the General Survey at Dahshur North, Egypt」亀長洋子「中世後期ジェノヴァ商人貴族における 公債の受容−−ロメッリーニ「家」の事例から」宮武志郎「 16世紀地中海世界におけるマラーノの足跡−−ドナ・グラツィア・ナスィ」高橋朋子「ジョルジョーネ作《ラウラ》の主題の再解釈」和栗珠里「 1520〜1570年におけるヴェネツィア人の土地所有−−アルヴィーゼ・コルナーロの活動と思想」石原忠佳「南スペイン(アル・アンダルス)のアラビア語における言語学的諸相1−−音韻論的立場から」藤原久仁子「研究ノート 聖人信仰と社会集団関係考−−マルタ南村アーシャを事例に」西村太良「書評 丹下和彦著『ギリシア悲劇研究序説』」
(各号1部3,000円+送料。
I〜XVII号は前号に掲載)
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アヤ・テクラ(ハギア・テクラ)と女性の祈り/足立広明
小アジア南東部,キプロスの対岸のある岬から少し入ったところに「シリフケ」という,日本語で聞くと何やらユーモラスな名前の町がある。名前の由来はヘレニズム時代に作られた都市,セレウケイアにある。近くを流れるゲクシュ(古代名カリュカドノス)川はあまり大きくないが,後に第三回十字軍のときに,ドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサが渡ろうとして,腰までほどしかないのに,なぜか溺れ死んだというので有名である。
しかし,セレウケイアの町の名前を地中海に知らしめたのは,なんと言っても女性聖人テクラの聖地が近くにあったからである。古代末期の一時期,この町には地中海の各地から巡礼が訪れ,後にコンスタンティノープル総主教となるナジアンゾスのグレゴリオスは, 375年こ こに逃れて隠遁生活を始め,5世紀後半には東ローマ(ビザンツ)皇帝ゼノンがテクラを記念する大聖堂を献ずるなどして,殷賑を極めていたのである。
聖書外典『パウロとテクラの行伝』によると,パウロに従って母親や婚約者と離れた女性テクラは,アンティオキアの町でパウロからも否認され,女性支持者たちの声援だけを背に,暴漢アレクサンドロスの放つ野獣と対決する。野獣たちは雄であり,男の暴力性を象徴するが,雌のライオンがテクラの側に立って戦い,女性の群衆が闘技場に投げ込む花や香料がこれらの野獣を眠らせてしまう。
3世紀の始め,北アフリカの教父テルトゥリアヌスは,とくにこの戦いの渦中でテクラが自己洗礼を施す場面をとらえて,パウロの名前を用いつつ,女性に洗礼や人を教える権利を認めるものだとして厳しく断罪した。しかし,彼の断罪より2世紀近くもたった4世紀の末,彼よりずっと西方の属州ヒスパニア北西部からやってきたと思われる女性巡礼エゲリアは,このセレウケイア近くのテクラの聖地でテクラの『行伝』全てが読み上げられるのを聞いたのである。テルトゥリアヌスによれば女性は人類を原罪に導いた「イブの子孫」であり,「誘惑の源」だった。その肉的な性質は彼女らのお化粧好きなところにも現れているので,ヴェールの着用により,その誘惑の力を減じようとした。これはキリスト教のみならず,イスラムにも共通する思想であろう。だが,テクラの『行伝』では,女性を飾る花や香料は誘惑ではなくて,男性の暴力を無化する聖なる力の源として肯定的に描かれているのである。
いったい,こうした女性的ジェンダーを肯定的に歌い上げる物語はいかにして誕生し,そして,その後どのように継承されていったのだろうか。ある研究者は,女性民俗学者が中東で収集してきた女性だけの集会でのパフォーマンス劇に類似すると言い,また別の研究者は正典と異なるもうひとつのパウロ伝承の存在を確証するのだとも言う。いずれにしても,それは古代末期において,なお女性たちに励ましを与える信仰内容を持ち,そしてセレウケイア近郊のテクラの聖地がその祈りの場所となっていたことだけは確かである。5世紀前半,これまた現地司教からは破門されたある修辞家の手になるとされる『聖テクラの生涯と奇跡』には,聖地にアジールを求めてやってきた女性たちの姿が生き生きと描かれている。写真は美術史家浅野和生助教授の撮影されたもので,現在も残る5世紀後半のアプスの一部である。 目次へ
地中海学会事務局 〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201 電話 03-3350-1228 FAX 03-3350-1229 |