1999|09
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テッサロニキの聖デミトリオス教会堂クリプト/伊藤重剛
地下空間は祈りの場所にふさわしい。そこは外界から暗く閉ざされ,小さな窓からの微かな明かりと揺らめくローソクの光が,信仰者の心を内側に向けさせ集中させる。禁教の時代,キリスト教徒たちはカタコンベの片隅などで息を潜めるようにして,不遇の時代の長い祈りを捧げたことであろう。聖デミトリオス教会のクリプトは,キリスト教初期のこうした受難の時代を偲ばせる。
テッサロニキはマケドニアと称される北部ギリシア最大の都市で,現在人口120万,ア テネに次ぐギリシア第 二の都市である。ヘレニズム時代に建設され,ビザンチン時代に 栄えたこの街には,ギリシア正教会の古い教会堂が数多く残っており,これらはユネスコの世界遺産としても登録されている。その中でも聖デミトリオス教会堂は,この町で最大の教会堂で日夜ローソクの灯が途絶えることがない。
聖デミトリオスは,紀元303年にテッサロニキで生ま れたローマ治世下の若い兵士であった。キリスト教徒であった彼は,テッサロニキの市場にある地下柱廊にキリスト教徒に集まるように扇動したとして,時の皇帝ガレリウスの命で逮捕され,槍で刺し殺された。死の後,早い頃から,聖デミトリオスは病を癒し町を守護する奇跡を起こす聖人として,熱い信仰の対象になったようだ。そのためテッサロニキは,オスマントルコの支配時代でさえも,ギリシアで数少ないキリスト教の巡礼地として知られた。
現在のクリプトは,ローマ時代に造られた浴場の東側部分である。聖デミトリオスの教会堂は,この浴場の上に5世紀に建設され,浴場の東側部分が教会のクリプトとして内陣の地下に統合された。オスマントルコの支配でクリプトは閉鎖されたが,1912年のテッサロニキの解放後,新たに修復され,現在は一般に解放され,ささやかな展示がされている。クリプトの中心は,内陣のアプス真下の聖水盤である。ローマ時代の浴場跡の一部に水槽が設けられており,キリスト教徒たちが癒しのための聖水を受けに来たところである。水槽の前には,おそらく洗礼に使われたと思われる水盤が設えてある。
現代の日本人にとって,祈りという行為ほど遠いものになってしまったものはないのではなかろうか。自分の力が悪しき現実の力に抗しきれず,何の手だてもなくなったとき,人は祈る。永遠の帝国と思われたローマ帝国も,その国力が次第に弱まっていった紀元4世紀,人々の気持ちも不安に襲われるようになり,新しい力に祈らずにはおられなかったのであろう。その状況を,高度成長を終え閉塞感が漂う現在の日本の状況に重ね合わせて考えるのは私だけではあるまい。日本の新しいクリプトは何か,どこにあるのか考えながら,聖デミトリオス教会堂の地下の粗末なクリプトに,ローマ時代末期の素朴で真摯な祈りの姿を感じた。
目次へ 地中海学会ヘレンド賞受賞に際して
渡辺 道治
今回,「第4回地中海学会ヘレンド賞」を拙著『古代ローマの記念門』(中央公論美術出版,1997年)に対し御授与いただき,まことにありがとうございました。受賞にあたり,地中海学会のみなさま,ヘレンド日本総代理店・星商事(株)の鈴木猛朗社長,そしてこれまでお世話になった方々に深く感謝申し上げます。また,受賞の対象となった拙著の出版に際して特にご迷惑をおかけした中央公論美術出版編集部の大島正人様にも感謝申し上げる次第です。
受賞の知らせを事務局の本村先生からうかがった際には正直に申し上げて驚きでしたし,また大きな喜びでもありました。なぜなら,対象となった著作はきわめて専門色の強い建築的な論文ですので,建築関係の学会からではなく,学際的な地中海学会から評価していただいたからです。
受賞対象となった拙書は7年ほど前に東京都立大学に提出した学位論文をもとにし,内容にはほとんど手を加えることなく1997年度に出版いたしました。ローマ帝国内に建設された400ほどの記念門の一覧を作成し,記念門がどのような場所に建てられたのか,平面 にはどのような形式が用いられていたのか,立面の意匠はどのような変遷をたどったのか,平面と立面にはいかなる比例関係が見られるのかを明らかにしたものです。結論として,記念門の建築的な変遷の新たな年代区分を提案し,建築としての記念門を通して見た古代ローマ建築の特性を3点指摘いたしました。著者としては記念門というひとつの建築タイプを通して,建築の意匠がその役割を確かに果たしている建築とはどういうものであるのか,そして意匠がその役割を果たさなくなった時に建築はどうなってしまうかのについてとりわけ力点をおいて記述いたしたつもりです。今,自分なりに振り返って見ますと,建築史研究に携わる者としては,満足できることと心残りなこととが見えてくる感じがいたします。
納得している点は,学位論文作成の時そして出版当時の状況において,いろいろ不備な点もあちこち目につきますが,自分なりにできることはすべてやれたのではないかという自己満足であります。
心残りな点は,いずれも自分の力のなさからくるものですが,二つあります。ひとつは建築というものに対する確たる意見あるいは信念といったものが自分の中であいまいであることを痛感させられたことです。ある先生からは「記念門は建築といえるのだろうか?」と問いかけられ,また仲のよい建築家の先輩からは「現代の建築に意見の言えない建築史家なんかいらない」と罵られました。それはいずれも「建築とは何か」ということを問われたのだと思います。建築史の研究は研究そのもので完結するものではなく,常に建築そのものへの問いかけが必要とされていると思います。それに対する答えを文章の中にわずかながらも表現したつもりでしたが,いくつかの書評ではそこを読みとってはいただけず,やはり書き手の意見が弱かったと思わざるを得ません。
もうひとつ心残りな点はいろいろな建築が併存する状況におけるひとつの歴史観といったものを描ききれなかったことです。建築史は建築に関するひとつの通史を述べなければならないのですが,ローマ時代のようにいろいろな建築が同時に併存していくような状況では,どうしても羅列的に説明する傾向になってしまいます。私が思うに,著名なイギリスの建築史家ウォード・パーキンスも彼の著書であるローマ建築史で通史を描こうと挑戦していますが,その章立てにみられるようにどうしても羅列的な記述に陥っております。私の場合もさまざまな建築が併存する状況であることを単に指摘しているにすぎません。では,どうすればよいかという答えは残念ながらまだ見つかっておりません。
おそらくここで述べました二つのことは今後の私に課せられた宿題であると思います。周知のように,日本における西洋建築史研究の歴史は深いものとはいえません。先学の諸先輩方の研究の成果の上にたって,私たちの世代は個別の建築についてひとつずつ確固とした深い研究を積み重ねていく世代となりました。そして独自の歴史観にたって西洋建築の歴史が通史として描けるような世代となれるように,あるいはそうしたことが可能となる次の世代への引継役になれれば幸いだと思っております。
ヘレンド賞は奨励賞的な意味を持つと言うことですので,受賞したことを励みにその宿題の回答が見つかるように努力していきたいと考えております。賞の授与に対して心より御礼申し上げます。
目次へ 春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」講演要旨
オスマン帝国のチューリップ時代
鈴木 董
18世紀は,イスラム世界の超大国オスマン帝国の歴史においては,一般に衰退の時代であったといわれてきた。しかし,軍事外交はさておき,文化に着目すれば,18世紀は必ずしも衰退の時代とはいえない。とりわけ,18世紀前半のいわゆる「チューリップ時代」は,華やかな文化の開花した時代であり,オスマン朝の人々が,西欧文化に新しい形でふれ始めた時代であった。
地中海世界の東北部で台頭したオスマン帝国は,古くから西欧世界の隣人であった。しかし,西欧世界とのかかわり方は,時代により変化していった。
13世紀末に当時のイスラム世界の西北の辺境,イスラム世界とビザンツ世界の境界地帯に登場したトルコ系ムスリムの国家オスマン帝国は,アナトリアからバルカンへと勢力を拡げ,1453年にコンスタンティノープルを征服して以来,西欧世界にとり脅威と化した。16世紀は,西欧世界にとり「オスマンの衝撃」の時代であり,地中海世界のほぼ4分の3を支配下においた異教の帝国は,西欧世界の最大の脅威であった。
しかし,16世紀以降,東西の力関係は徐々に変化し,17世紀末には,西欧の優位が決定的となった。そして,1718年,ハプスブルク帝国との長い不毛な戦いをパサロヴィッツ条約によって終結したオスマン帝国のスルタン,アフメット3世は,寵臣ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャを大宰相に起用した。イブラヒム・パシャは,対西欧宥和策をとり,16世紀以来の仇敵ハプスブルク帝国の首都ウィーンと,同じく16世紀以来,ハプスブルク帝国を共通の敵としてきた古い友好国フランスのパリに大使を送り,友好促進と情報収集をはかった。西欧世界に対する聖戦を進めてきたオスマン帝国にとって,これは対西欧政策の大きな転換であった。そして,パリ派遣大使となったイルミセキズ・チェレビィ・メフメット・エフェンディの報告書『パリ使節記』は,公式活動についてのみならず,フランスの文物についての開かれた観察が誌され,オスマン朝人士の西欧体験の新しい頁を開いた。
アフメット3世とイブラヒム・パシャは,対内的には,イスタンブルの都市開発を進め,文人芸術家を庇護して文化の振興に寄与した。こうして1718年から1730年に至る12年間の間,イスタンブルの人々は,つかのまの泰平を享受し,チューリップ(ラーレ)愛好熱が高まったため,後代,この時代は,「チューリップ時代(ラーレ・デヴリ)」と呼ばれるようになった。
この時代,世俗的で享楽的な都市文化がイスタンブルで栄え,詩人にネディーム,ミニアチュール画家にレヴニーらが現われた。1720年には,アフメット3世の王子たちの割礼の祝祭が催され,詞書を詩人ヴェフビーが書き,画家レヴニーの華やかなミニアチュールで飾られた『祝祭の書』がつくられた。
アフメット3世と大宰相イブラヒム・パシャは,イスタンブルの都市開発にも努め,新たに郊外に水源が求められて水道が敷かれ,これを水源とする人工の泉(チェシュメ)が体系的に造られて,生活環境が整えられた。トプカプ宮殿の正門「帝王の門」の前にたつアフメット3世の泉や,アジア岸のウスクダルの波止場の泉は,その代表作に数えられる。
また,イスタンブル旧市街の北にのびる金角湾の奥の真水が豊かで木々に彩られたキャートハネの地には, 「サーダバード(至福の地)」の離宮が造営され,君主や貴顕の遊楽の地となったばかりでなく,庶民の行楽の地ともなった。
「チューリップ時代」の世俗的雰囲気のなかで,西欧の影響も,まずは異国趣味として入り,フランスの庭園の設計図などももたらされた。これに加えて,単なる異国趣味をこえた西欧の文明との触れ合いも生じた。とりわけ,遣仏大使イルミセキズ・チェレビィの子でパリに同行したメフメット・サーイトとハンガリー出身でムスリムに改宗しオスマン朝に仕えたイブラヒム・ミュテフッリカが協力して,1727年に近代西欧の活版印刷術を導入して,イスラム世界におけるムスリムが経営しアラビア文字を用いる最初の活版印刷所をイスタンブルに開き,1729年以降,書物を刊行し始めたことは,後代にも大きな影響を与えた事件であり,オスマン帝国における「西洋化」改革の一源流ともなった。
「チューリップ時代」は,1730年,イランとの国境方面の情勢が緊迫化していくなかで,常備歩兵軍団たるイェニチェリ軍団や庶民の一部に不満が高まって生じた「パトロナ・ハリルの乱」によって終焉を迎えた。しかし,一方で異国趣味として,他方では活版印刷術の受容にみられるような真剣な近代西欧の技術的所産の受容を通じて,近代西欧の文化と文明の受容が始まったこの時代は,異文化との新しい形での出会いとして,オスマン帝国の「西洋化」改革の一端緒となった。
目次へ 春期連続講演会「地中海:異文化の出会い」講演要旨
中世ヨーロッパへのオルガン導入
片山千佳子
異文化の「受容」は時として数百年の歳月を必要とする。そのあいだに,受容された当の事象は当然のことながら「文化的変容」をとげる。しかも多くの場合,変容のプロセスは直線的かつ一元的な形をとるわけではない。中世ヨーロッパにとってのオルガンの場合がまさにそうであった。オルガンという初期中世の西方キリスト教世界にとっての「異文化」は,きわめてゆっくりとした過程を経たのちに大修道院や大聖堂での礼拝に欠かせない楽器となり,15世紀中頃にようやく「教会楽器としての」受容が完了する。
紀元前3世紀のアレクサンドリアで,クテシビオスによって発明されたと伝えられる「水力オルガン(ヒュドラウリスhydraulis)」は,今日「オルガン」と呼ばれ る楽器の本質的特徴をすべて備えていた。前1世紀の建築家ウィトルウィウスの『建築論De architectura』(第10巻第8章)によれば,当時知られていた水力オルガンは,ポンプ式送風装 置,水力による気圧調節機構,複数のパイプ列へ別々に空気を送る鍵盤システムなど,機械工学的メカニズムを組み合わせた複雑な装置であった。それは,音楽的要請による考案というよりは,アレクサンドリアで花開いた機械工学的技術への関心の産物であった。前1世紀からほぼ後3世紀までのあいだ,ローマ帝国のいたるところで水力オルガンは普及し,豊かな音量のために劇場での剣闘士競技の伴奏などに使われた。しかし4世紀末までには水力オルガンは廃れ,ビザンツ世界では軽い「ふいご式」オルガンが一般的となる。
古代異教文化が生み出した水力オルガンとその製造技術についての知識は,民族大移動の混乱期に忘れ去られてしまった。757年にビザンツ皇帝コンスタンティノス 5世がフランク王ピピン3世に「ふいご式オルガン」を外交上・政治上の目的で贈呈したのが,西ヨーロッパにとってのオルガン元年であった。ただしこれが音楽演奏用の「楽器」であったのかどうかは明らかではない。ビザンツでは,儀式用の道具としての「合図オルガン」も存在したからである。また,ビザンツ典礼の影響としてオルガンが西方教会の修道院や聖堂に導入されたわけではない。ビザンツ世界では,オルガンは宮廷の華やかな行事に彩りをそえ,皇帝の権威を高める役割を担う贅沢な宮廷世俗楽器であった。ビザンツの教会とその典礼には,現在にいたるまでオルガンが導入されたことはない。キリスト教典礼へのオルガン導入は,西ヨーロッパで起きた「特異な現象」なのである。
それまで世俗的な楽器であったオルガンと西方教会を結びつけた様々な要因の一つとして,詩編の最後を飾る神への賛美の歌「詩編150」注解でのオルガンへの言及 を無視することはできない。この伝統はヒッポの司教アウグスティヌスの『詩篇注解Enarrationes in Psalmos』(420年以前)に始まる。アウグスティヌスは70人訳聖書からの古ラテン語訳にある「弦をかき鳴らし笛(organum)を吹いて神を賛美せよ」という一行に含まれる語 「オルガヌムorganum」の説明に,ふいご式オルガンを引き合いに出している。6世紀の カッシオドルスもアウグスティヌスにならって,詩編150への注解で複数のふいごと指で 操作される木製の「舌」を備えた豊かな響きのオルガンについて比較的詳しく説明している。こうした詩編注解を通じて,神の賛美とオルガンとが結びつけられる素地が生まれたのである。有名な『ユトレヒト詩編書』(816〜836頃成立)には,詩編150への挿絵に想 像上の水力オルガンが描かれている。水力オルガンという図柄は,カロリング・ルネサンス特有の「古代の権威」への敬意とも解釈できる。12世紀ドイツのベネディクト会修道士テオフィルス(偽名)は,『諸技術論De diversis artibus』のなかで,ふいご式オルガ ンの製造技術 と,聖堂内での設置方法について詳述している。オルガン製造の技術と知 識は,アルプス以北で育まれていったのである。
オルガン導入以後数百年たった13世紀末のスペインの音楽理論家,サモラのエジディウスはオルガンは教会内で使われる唯一の楽器であると明言し,様々な聖歌や,行列,セクエンツィア,賛歌の際に使われると書き記した。オルガンが今日知られているようなきわめて複雑で巨大な形へと発展したのは,教会への導入が大きな要因となったことは疑いない。しかし,中世のあいだに教会とその典礼にオルガンが加わった正確な年代,具体的なプロセスは,現在でも西洋音楽史における最大の謎の一つとされる。P. ウィリアムズに よる最近の研究は*, 資料の解釈上障害となる用語の多義性,要因の複雑さをあらためて浮き彫りにしている。
*P. Williams, The Organ in Western Culture: 750-1250, New York: Cambridge University Press 1993.
目次へ 地中海学会大会 シンポジウム要旨
ポセイドンの変身:馬と地中海世界
パネリスト:岡村一/込田伸夫/杉田英明/司会:本村凌二
このごろでは動物といえば,ペットの犬猫の類で,とくに都会では動物に接する機会はきわめて少ない。しかし,長い歴史をふりかえってみると,人間はかなり動物と密着し,そのお世話になっている。とりわけ馬はさまざまな面で人間の生活や社会において深い関わりをもっている。
人類の歴史を通じて,馬は文物輸送や情報伝達の手段として,見世物娯楽・スポーツの友として,さらには戦車や騎馬隊による軍事行動の一環として重要な役割を果たしてきた。アレキサンダー大王の東方遠征もシルクロードによる東西文化交流もジンギス汗のユーラシア支配も,馬がなければ起こりえなかったことである。
そこで,馬をめぐる話を地中海世界を舞台に考えてみよう。ひとまず,地中海世界において馬が人間といかなる関わりをもったか,その歴史を略述することにする。
馬の家畜化は紀元前4000年ころにウクライナ地方で始まっている。すでに前3000年ころにはメソポタミアでは荷車を暗示する絵文字がある。前1800年ころからヒクソス人やヒッタイト人は戦車を乗り回しオリエントを蹂躙した。注目されるのは,馬が人間の文明に入り込んでくるとともに,歴史の速度が早まっているのである。
『旧約聖書』のソロモン王は戦車用の馬40,000頭と乗用馬12,000頭を所有する史上最大の馬主であったという。伝承の数字はともかく,メギドの遺跡には大厩舎の跡が確認されている。
馬の口にかませるハミの普及とともに,前一千年紀初頭には騎乗のスタイルがユーラシア大陸で広く見られるようになる。アッシリア帝国やペルシア帝国といった世界帝国が歴史の舞台に登場するのは,まさしく優秀な馬と騎乗スタイルの普及によるのである。
ギリシアでもホメロス時代以前から戦車が登場している。しかし,重装歩兵は戦場では戦車や馬から降りて戦ったようである。クセノフォンは『馬術論』を著して,馬の取扱い方を解説している。前4世紀半ば,マケドニアのフィリッポス2世は騎馬軍団を戦力としてまとめあげ,カイロネイアの戦いで勝利をおさめた。アレキサンダー大王の愛馬ブケファラスは史上に名高く,彼の東方遠征も馬がなければ実現しなかったといえよう。
ローマは周辺の騎馬部族民を活用し,たとえばザマの戦いでカルタゴ軍団を制圧した。しかし,自ら馬産に熱心であったわけではなかったので,イベリア半島の征服でも内陸部族の騎馬隊には苦戦している。また,名高い戦車競走の見世物では碑文から北アフリカ産馬が重用されたことがうかがわれる。
ローマ帝国の滅亡後,イスラム教徒の優秀な騎馬軍団との遭遇はヨーロッパ世界にすばやく動ける戦闘力の高い専門騎士団の軍隊が必要なことを認識させた。このため,馬産が活発になり,とくにスペイン産の馬が重んじられた。さらに十字軍の遠征におけるアラブ馬との出会いは,ヨーロッパの人々に品種改良への意欲を高めさせることになる。地中海地域の馬は軽快で敏捷だったが,小柄だった。重装備の騎兵を乗せるためには,すばやく機動的であるとともに,大型でなければならない。このためにアプリア産の種牡馬と在来の大柄な雌馬とをかけあわせたロンバルディア産の馬はロンドン市場で大きな注目を集めるようになった。
しかし,軍備や戦術の転換とともに,16世紀になると大型馬への需要も減少し,再び軽快な馬が求められるようになり,その延長上に17世紀末,イギリスにおいてサラブレッドが生産されるようになる。また,ルネッサンスには獣医学関連の著作が多くなされ,馬を冷静に観察する意識の高まりが感じられる。
近代におけるサラブレッドの誕生はイギリスを舞台としているが,そこには地中海世界が深く関わっている。実に,サラブレッド生産の基幹種牡馬3頭はアラビア産馬,トルコ産馬,北アフリカ産馬なのである。さらに,20世紀になってイタリアに生まれたネアルコは名馬中の名馬であり,種牡馬としても大きな成功をおさめている。今日の競走馬のほとんどにこの地中海産の名馬ネアルコの血が流れているのである。
パネリストの方々には,それぞれ専門の分野から馬の話題を提供してもらった。
ギリシア文明学の込田伸夫氏は,ポセイドンはもともと馬の神であり,ギリシア民族の地中海沿岸への到来によって海の神になったことを,伝承・神話や考古学遺品から説明してもらった。スペイン文学の岡村一氏は,叙事詩『わがシッドの歌』を素材として,戦闘期の社会にあって馬がいかに富の象徴であり身分上昇の手段として権力に結びついていたかを解き明かしてもらった。アラビア文学・比較文化論の杉田英明氏は,ユーラシア全般に普遍的な現象としてある水と馬との結合をめぐって,とくにイスラム世界と東アジアを比較しながら,海馬・水馬の伝承を分析してもらった。
シンポジウムを通じて明らかになったことは,地中海系の馬はほっそりとして敏捷であり,なによりも速度において優れていることである。それが,古代から近代にいたるまで,さまざまな伝承や民話や物語のなかで語り継がれてきたのである。(本村凌二)
目次へ トスカーナの温泉
高橋 友子
フランコ・サッケッティの『三百話』(Trecentonovelle)の第131話(杉浦明平抄訳『ルネッサンス巷談集』岩波文庫,では第34話)に,フィレンツェに住むある夫婦が,子授かりのためにシエナ領のペトリウォーロの温泉に赴く話がある。夫婦は湯浴みをしては子作りに励むが,温泉浴の効果が現れるどころか,亭主は重病に伏す。その後,病気が回復した亭主は,子作りのためにまた温泉へ行こうと言う女房に,行きたければ他の相手と行けと答える。女房は親族を連れて温泉へ行くが,それから間もなく死んでしまうという話だ。
フィレンツェ大学の中世史教授のジョヴァンニ・ケルビーニによると,温泉行は古代末期から中世中期までは廃れていたが,13世紀から15世紀にかけて,イタリア諸都市の市民のあいだで流行するようになった(G. Cherubini, Scritti toscani. L'urbanesimo medievale e la mezzadria, Firenze 1991, 151-168)。温泉は,当時 の医師によって,皮膚病や痛風,不妊などの病気に効果があると考えられ,彼らの著作や助言を通して温泉の効果が都市の市民に流布された。ペトリウォーロの温泉は,すでに13世紀の中ごろには,温泉客に宿坊を賃貸しする制度が整っており,シエナの都市政府がその規定料金を定めていた。ケルビーニは,当時の温泉の入浴料や宿代についての具体的な金額を挙げていないが,ペトリウォーロの場合,入浴料や温泉場の治安は,都市のポデスタ(司法長官)が任命する役人によって監督されていた。というのは,温泉場には裕福な客をねらう犯罪者や物乞い,娼婦などが入ってきたからだ。また,賭け事も禁止されていた。ペトリウォーロは,11月から12月にかけての晩秋と,3月から5月にかけての春の季節が客で賑わい,皮膚病の治療は5〜6日,その他の病気の治療は約20日を要したという。13世紀末ごろのこの温泉の規定によると,客は滞在中の食料品(パン,ブドウ酒,卵,食用の鳥や鶏,チーズなど)と藁や薪を温泉場に持ち込むさいに,通行税の支払いを免除されていた。とはいえ,温泉行には金がかかったので,裕福な者しか果たせなかったにちがいない。
サッケッティのノヴェッラに登場する女房は,亭主を家に残して自分の親族と温泉行を試みたために,夫より先に死んで同情の余地なしと,男であり上層市民である作者は話を閉じる。けれども,温泉行は,家事や家政で日々明け暮れていた都市の市民の妻たちにとって,めったにない旅の機会でもあっただろう。
中世に人気を博した温泉の中には,今日でも多くの湯治客に通われ続けているものがある。モンテカティーニがそのひとつだ。この温泉は,今日のイタリアの典型的な温泉だろう。筆者は数年前に通訳の仕事でこの温泉を訪れたことがある。町は近代的(中世の町並みは,丘の上のモンテカティーニ・アルトで見られる)で,主要な温泉施設が二つある。施設の中には美しい庭園があり,ちょうどフェリーニの名作「81/2」に出てくる温泉施 設の光景にそっくりだ。施設内には医師がいて,かならず検診を受けてからでないと,施設が利用できない。庭園には飲用の温泉があり,誰でも飲めるようになっている。しかし,効果を引き出すには,一日に一定量を飲まなければならないそうだ。一方,温浴室は個室になっていて,それが日本のマンションの浴室のように殺風景だった。日本の温泉にあるような岩風呂や露天風呂がないのが寂しい。施設の利用者はほとんどが高齢者で,治療(最低10日は滞在しないと効果がない)のためという点も,日本とは異なる。イタリアにも,日本のように娯楽を目的とした温泉(男女混浴で,水着を着て入るので,温水プールのようなもの)もあるそうだが,数は少ない。
モンテカティーニの近くには,たいへんユニークな温泉がある。モンスンマーノという町のグロッタ・ジュスティは,自然の洞窟を利用した蒸気浴(サウナ)が売り物の施設だ。この洞窟は3層に分かれていて,入ってすぐの層にあるのは低温の「天国」で,その先に進むと中温の「煉獄」が現れ,最後に高温の「地獄」がある。さすがはトスカーナの温泉,ダンテの『神曲』にたとえて,蒸気浴を楽しもうという趣向だ。ダンテに因んでいるのは,洞窟の名前だけではない。利用客はみな修道士のような白衣に着替え,その上に,これまた修道士が着るようなフード付きの白いマントを羽織る。つまり,服装も『神曲』に因んで「地獄」巡りと洒落ているのだ。なかなか遊び心があるではないか。ダンテになった気分で蒸気浴を楽しんだ後は,温泉浴や泥エステなども利用できる。というわけで,近くを旅される温泉好きの方には,ぜひお立ち寄りをお勧めしたい温泉だ。
地中海学会事務局 〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201 電話 03-3350-1228 FAX 03-3350-1229 |