1999|04
|
*会費納入のお願い
新年度になりましたので,会費の納入をお願いします。請求書および郵便振替払込み用紙は前号の月報に同封してお送りしました(賛助会費は別送)。
口座自動引落の手続きをされた方は,4月23日(金)に引き落とさせていただきましたので,ご確認ください。また,今回引落の手続きをされていない方には,後日手続き用紙をお送りしますので,その折はご協力をお願いします。(12月頃の予定)
ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込み時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。
なお,学会では財政上の理由により,誠に遺憾ですが前年度会費を大会開催までに納入されない場合は,以後の印刷物等の配布を停止することになりました。この点ご注意下さい(納入後,4月に遡って復活します)。
会 費:正会員 1万3千円
学生会員 6千円
賛助会員 1口 5万円
振込先:口座名 『地中海学会』
郵便振替 00160-0-77515
住友銀行麹町支店 普通 216313
富士銀行九段支店 普通 957742
目次へ
*第23回大会
第23回地中海学会大会を大阪芸術大学(大阪府南河内郡河南町東山469)において通り 開催します。
6月26日(土)
12:30 受付開始
13:15 開会挨拶
13:30〜14:30 記念講演
「地中海を行く」 小川 国夫氏
14:30〜15:00 授賞式
「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
15:15〜16:45 地中海トーキング
「人と映画と地中海世界」
パネリスト:重政隆文氏/鈴木均氏/
田之倉稔氏/司会:末永航氏
17:00 展示解説
「ケルムスコット・プレス刊本」 薮 亨氏
17:40〜19:10 懇親会
6月27日(日)
10:00〜11:30 研究発表
「ジャン=ジョルジュ・ノヴェール再考」
森 立子氏
「イタリア植民地政策,1880年〜1915年」
松本 佐保氏
「ペトラルカの聖地巡礼記について」
土居満寿美氏
11:45〜12:15 総 会 (12:15〜13:30 昼食)
13:00〜13:30 サロン・コンサート
「フランス古楽器ピアノ演奏」 谷村 晃氏
13:45〜17:00 シンポジウム
「ポセイドンの変身:馬と地中海」
パネリスト:岡村一氏/込田伸夫氏/
杉田英明氏/司会:本村凌二氏
大会期間中,大阪芸術大学図書館のご厚意により,ウィリアム・モリスが手がけた『ケルムスコット・プレス刊本』が,特別に展示されます。
27日(日)のサロン・コンサートは,谷村晃氏(音楽学)により,2台のフランス古楽器ピアノ<エラール・エ・プレイエル>の演奏が行われます。
目次へ
*石橋財団助成金
学会が申請していました石橋財団の1999年度助成金がこのほど認められました。金額は40万円で,申請の全額です。
目次へ
*春期連続講演会
5月の春期連続講演会は下記の通りです。会場はブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1),各回とも,開場は1時30分,開講は2時,聴講料は400円です 。
「地中海:異文化の出会い」
5月8日 ヴェネツィア:極東との出会い
石井 元章氏
5月15日 中世ヨーロッパへのオルガン導入
片山千佳子氏
5月22日 中世シチリアの異文化交流
高山 博氏
目次へ
研究会要旨
ベネデット・ブリオーニとロッビア派のプレセピオ
金原 由紀子
2月20日/上智大学
フィレンツェのロッビア工房はルカ・デッラ・ロッビアが開発した釉薬を施した数多くのテラコッタを制作したが,15世紀末から16世紀前半に特にドメニコ会の説教の影響で制作したと思われる一部の作品については,像に写実性を与えるために敢えて釉薬をかけない場合があった。このような作品の中に,キリスト降誕の情景を信者の眼前に生き生きと再現した群像表現プレセピオ[伊](クリッペ[独],クレーシュ[仏])がある。それらは聖母,幼児キリスト,聖ヨセフ,羊飼い,動物などのいくつかの移動可能なほぼ等身大の彩色テラコッタ像で構成され,教会内の入り口近くのニッチに設置され,その奥の壁面に描いた背景となる風景のフレスコ画と共に一種のジオラマのような空間を作り出した。だが,フレスコ画はしばしば失われ,像は破損や盗難を被り,これらのプレセピオのオリジナルの様相を知ることは極めて難しい。
1480年代にフィレンツェで施釉テラコッタの工房を開いたベネデット・ブリオーニにより1505年頃に制作された,現在はフィレンツェの司教区美術館に保管されているプレセピオは,像の破損も少なく,像について記述した記録も多く残る。元々はフィレンツェ近郊のバルベリーノ・ディ・ムジェッロ郊外のサン・タンドレア・ア・カモッジャーノ聖堂の,入り口右側の小礼拝堂内のニッチに設置されていたこの作例は,彩色テラコッタのプレセピオの様相を再構成する上で手掛かりとなる貴重な例であるにも関わらず,ロッビア派やブリオーニの研究書でもこれまでほとんど紹介されてこなかった。現在は聖母,幼児キリスト,聖ヨセフ,牛,驢馬,二人の羊飼い,二人の礼拝する天使,燭台を持つ天使の10体の像から成るが,幼児キリスト像は近代の後補で,羊の像は1970年代に盗難にあった。他の像に比べスケールの大きい聖母と聖ヨセフの像は細部が入念に仕上げられ,それらの容貌表現の特徴からは1400〜20年頃に年代づけられる。C.アチディーニ・ルキナットによれば,1496年にパンドルフォ・ディ・ウルバノ・カッターニはサン・タンドレアの修道院長に就任し,その直後に聖堂参事会を設立してフィレンツェ大聖堂から基金を得ることに成功するとそれを基に聖堂の再建工事を行った。そして,工事が終了した1503年頃にパンドルフォが聖堂の絵画装飾を画家バルトロメオ・ディ・ジョヴァンニに,テラコッタ装飾をベネデット・ブリオーニに注文したと推測している。回廊のフレスコ画には1505年という年代が描き込まれており,最古の財産目録が作られた1508年にはおそらく聖堂の典礼機能が回復していたと思われるため,この時までに聖堂内の装飾は完成していたと考えられる。よって,ベネデット・ブリオーニのプレセピオの制作年代も1503〜1508年の間に位置づけられる。
しかしながら,G.ジェンティリーニが様式的な理由によりジョヴァンニ・デッラ・ロッビアに帰属した燭台を持つ天使像は,やや後の年代に制作された可能性がある。ロッビア工房で制作された燭台を持つ天使像の作例はすべて白色で施釉されているため,釉薬を欠き,自然主義的色彩で着彩されたこの天使像が別の場所に置かれるために制作されたものとは考えにくい。サン・タンドレア聖堂のニッチを照明する目的で,既存の像の色調に配慮して着彩された燭台を備えた像が後から注文され,プレセピオに加えられたと推測できるのである。
また,ブリオーニのプレセピオは孤立した作品ではなく,同時に注文されたサン・タンドレア聖堂を装飾する絵画・彫刻作品と共にキリストの生涯を視覚化する一つの有機的なプログラムを構成していた。プレセピオはキリスト降誕を,洗礼用の小礼拝堂のためにブリオーニが制作した洗礼槽はキリストの洗礼を表し,回廊の入り口の上にバルトロメオ・ディ・ジョヴァンニがフレスコで描いた《ペテロとアンデレの召命》はキリストの説教の2年間を示唆する。そして,同画家による祭壇画《磔刑と4聖者と寄進者》,カンヴァス画の《哀悼》と続き,祭壇画のプレデッラの中央の《キリストの復活》がプログラムを締めくくる。聖堂内の装飾プログラムにプレセピオが組み込まれた例はロッビア工房の作例には見当たらないが,アンドレア・デッラ・ロッビアのプレセピオの置かれたニッチの上にフラ・バルトロメオが《受胎告知》を描いた1515年のピアン・ディ・ムニョーネのサンタ・マリア・マッダレーナ聖堂の作例と同様,大衆芸術に過ぎなかったプレセピオを教化的な宗教芸術に格上げしようという意図がここでも伺える。
目次へ
史実と伝説
−−皇妃コスタンツァの事例−−
榊原 康文
ダンテの『神曲』を読むと,さまざまな歴史上の人物が地獄・煉獄・天国のそれぞれに配置されていておもしろい。12・13世紀シチリア王家,シュタウフェン家の人人もまたこの三世界のそれぞれに登場する。例えば皇帝にしてシチリア王フェデリーコ2世は,地獄の第六の圏谷で,エピクロスやその派の者たち(すなわち霊魂の死滅を説いた者たち)とともに,火を吐く墓穴の中にいる。彼の子マンフレディ王は,煉獄でダンテに語りかけ,ダンテに娘コスタンツァ(アラゴン王妃,ペドロ3世の妻)への伝言を託す。そして栄えある天国入りを許されたのが,フェデリーコ2世の母コスタンツァである。彼女は意に反して修道院から俗界に引き戻されたがゆえに,月光天における地位を割り当てられている。
オートヴィル家のコスタンツァ。彼女はシチリア王ルッジェーロ2世の娘にして,皇帝ハインリヒ6世の妻,そして前述のようにフェデリーコ2世の母である。1154年,彼女は父の死後に生まれ,1189年,ミラノでハインリヒと結婚する。そして,1194年,ハインリヒのシチリア王位獲得と相前後して中部イタリアの都市イェージでフェデリーコを出産。1197年,夫ハインリヒの死後は,幼少のフェデリーコに代わって王国統治を担う。このように,彼女はとくにその後半生において歴史の表舞台で活躍する。しかし後半生に比して,彼女の前半生については史料がほとんどない。また,中世の人々にとってもコスタンツァの前半生は謎であったようである。となると史実の空白が伝説によって埋められ,さらに伝説が新たな伝説を呼び,まことしやかな挿話ができあがる,というのが中世の常である。その一例を,13世紀後半のフランチェスコ会士,パヴィアのトマスの記述から見てみたい。
「父ルッジェーロ(2世)王が死に,グリエルモ王が王国の権力を掌握した丁度そのころ,ある予言が広まった。すなわち,彼の妹コスタンツァがシチリア王国を破壊と滅亡へとみちびく,との予言が。それゆえ,王の友人たちや(王に近い)賢者たちが召集され,グリエルモ王は彼らに助言を求めた。彼の妹コスタンツァについて,自らにいかなる助言を行うことができるか,と。彼らの多数が,王のために以下のように決議した。すなわち,もしも王国の統治において彼が安寧であらんと欲するならば,彼女を殺害する(べきである),と。しかし,彼らの中にある者,(すなわち)タンクレディという名のターラント伯があった。(中略)かの人(=タンクレディ)は,他の人々の決議を拒否し,グリエルモ王を説得した。罪なき娘を殺してはならない,と。かくして以下のように処置がなされた。(すなわち)前述のコスタンツァは死から救われ,自発的意志によってではなく死の恐れから,修道女たちのいる某修道院で,修道女のごとく養育されるように,と」。(Thomas Tuscus: Gesta imperatorum et pontificum, MGH SS 22, S. 498)(括弧内は筆 者による補足)
ここでは,シチリア王グリエルモ1世とグリエルモ2世が同一人物になっており,史実の混乱がみられる。また,文中のタンクレディとはレッチェ伯タンクレディ。彼は庶出の系統とはいえ,ルッジェーロ2世の孫であった。グリエルモ2世の死後,タンクレディと,コスタンツァ(およびその夫のハインリヒ6世)とは,シチリア王位をめぐって激しく争うことになる。それゆえこの挿話によるなら,タンクレディは図らずも将来の敵の命を救ったということになり,運命の皮肉が際立つ。もちろん,グリエルモ2世がコスタンツァの殺害を図ったというような事実は史料から確認され得ない。しかも,コスタンツァが修道院で養育されたという事実すらも同時代史料にはみえない。これもまた伝説である。上述のダンテにおけるコスタンツァの記述も,このような伝説の一つに立脚したものであろう。
しかしながら,年代記の伝説的記述も歴史史料として無価値ではない。こうした記述が事実であるかという問題とは離れて,この記述を分析することも可能である。すなわち,後代にこのような伝説が語られたということそれ自体は事実なのであり,後代の人々が歴史をどう把握したのか,またそれをどう構成していったのかということを考える上で,このような伝説的記述も研究上貴重な情報を含んでいるのである。このような伝説がいかに生まれ,さらに複数の年代記作者の手を経る中でどのように膨らまされてゆくのか。またその際,年代記作者たちの党派的な立場はどのように物語の細部に反映されるのか,等々。興味は尽きない。
目次へ
フェズの商業と商人
山田 幸正
「キリスト教徒商人」とか「仏教徒商人」という言葉はあまり聞かれないが,「ムスリム商人」はよく耳慣れた言葉であろう。たしかにイスラームの文化圏を見渡してみると,どの地域においてもどの時代においても商業がたいへん隆盛で,交易活動は盛んに行われていた。概して,他の宗教が「金儲け」や「金銭感覚」などを軽視,あるいは軽蔑する傾向にあるのに対して,イスラームでは神の言葉であるコーランや預言者ムハンマドの言行であるスンナの中に商業にかかわる多くの字句が見い出せるように,経済活動,とりわけ商業活動に大いに好意的である。イスラームが商業を基盤においている宗教であるという印象すらもつ。
モロッコの古都であるフェズは,9世紀初頭の創建以来,常に政治的,文化的な中心であるばかりか,経済的にも大いに繁栄した都市でもあった。フェズの前近代までの経済について『保護領時代以前のフェズ』のなかでル・トゥルノーは,国家による規制や組織化などの強い影響を受けず,商人たちは自由で,それでいて自ら伝統的な規範を守って活動していたとしている。イドリース朝以降,ベルベル系の王朝など幾つかの権力がモロッコを支配したが,フェズの商業はそうした国家体制に大きく左右されることのない,しっかりした基盤の上に営まれてきたのであり,そうした状況は今世紀初めまで本質的に変わることはなかった。
中世ヨーロッパにおけるギルドとは基本的に異なるが,フェズにも同業者組合が存在した。組織の結束力,有効性などあまりなく,お互いに干渉をさけるようにして,併存している程度の集まりであったと言われる。当然多くの場合,ひとつの業種にひとつの組合が対応していた。例えば,窯業の場合,異なる三つの工程や技術に分業化されていたが,組合としては一つであった。しかし,皮なめし・染色業のように,もともと異なる場所に分散していて別個の三つの組織を形成していた例もある。また1,000人を超える機織り職工 の組合も,15人ほどしかいない篩い製造工の組合も,構成員の多寡にかかわらず,原則的に同等と考えられていた。しかし,実際には特別扱いされた組織もあり,そのひとつにキッサリーヤ(カイサリーヤ)内に店をもつ裕福な商人グループがあった。1920年代には161の組合があったとされ,保護領成立(1912年)の前後35年間で,その数はほとんど変わ っていない。ムフタシブ(市場監督官)など国家による干渉はなかったとは断言できないが,このことはフェズの経済環境の驚異的な安定性を裏付けているのかもしれない。職業を自由に変えたり,他の業種に割り込んだりすることなどは,いわゆる伝統的なルールで規制,抑制され,組合が無限定に増殖することを妨げていた。
前近代のフェズをみるとき,工房で仕事をする職人も商人の範疇に含められることが多い。つまり,伝統的手工業がほぼ完全に商業のなかに取り込まれ,彼ら職人は自分たちが生産した品物を,直接客に売るか,競売するかして捌いていた。競売する方がより一層の利益をあげられたといわれ,フェズにおいて重要な工業製品である皮や羊毛,バブーシュ(伝統靴),織物などが定期的に競売される場所が定められていた。競売は食料品などの一部を除いて,ダッラール(競売人)を仲介して行なわれた。そのダッラールは当時およそ700人を数え,専売 権をもった幾つかの組合を組織していた。
そもそもフェズはカイラワーンやアンダルース地方からの移民により成立した町であり,当初よりユダヤ人居住区も存在し,周辺の北アフリカ諸地域やイベリア半島などと商業的関係が盛んであった。さらに,地中海沿岸やサハラ北縁沿いのメッカへの巡礼路を中心にエジプトやアラビア半島,遠くスーダンなどアフリカ内陸部,イラク,イラン,インドといったアジア方面まで,人やものの交流があった。エジプトのカイロ市内のワカーラ(隊商交易施設)にもマグリブ商人の使用していたものが幾つもあり,フェズ商人の代理人もカイロ市内に住んでいた。文献的に裏付けられるのは16世紀以降のヨーロッパ側の史料からであり,ポルトガル,英国,イタリア,フランスなどの商取引などが示されている。例えば,16世紀半ばのフェズで一般に「税関」と称されていた大邸宅にヨーロッパの商人が滞在していたという。このようにアフリカやヨーロッパなど諸外国相手に活躍するフェズ商人の姿がみられ,モロッコにおける対外的な商業の拠点であったことを再認識させられる。少なくとも,16世紀には外国の商人に対して,領事館の設置を認めていたわけで,正式な通商が成立していたのである。その最も重要な要素は「税関」であり,その具体的な舞台となったのは,市内に立地するフンドゥクと呼ばれる「都市型隊商施設」であった。
目次へ
地中海人物夜話
流浪のスパイ,ラスカリス
黒木 英充
1798年にナポレオンが艦隊を率いてエジプトに遠征したとき,まずマルタ島を小手調べのごとく陥れたことは,よく知られている。この島には当時,十字軍時代のエルサレムに起源をもつマルタ騎士団が陣取り,海賊ビジネスを生業としていたが,彼らはさしたる抵抗もせずにフランスの大軍に投降した。その中に,5歳年長のナポレオンに惹かれてエジプトまで随行すると申し出た,血気盛んな24歳の若者がいた。テオドール・ラスカリス・ド・ヴァンテミーユという名の,プロヴァンス生まれの男である。彼の家柄は,マルタ騎士団長を輩出したのみならず,遠くビザンツ皇帝の血筋につながるという名門であった。
フランス軍占領下のエジプトでラスカリスは,マムルーク(コーカサス出身の奴隷軍人たちで,当時の支配階層)から没収した住宅の改修や,それら不動産や動産の競売監督という地味な仕事をした。一方で,彼はアラビア語の習得にも力を入れて(マルタ語はアラビア語に非常に近い言語なので,さほど困難は感じなかっただろう),頭の中で妄想を膨らませていった。エジプトは狂信の地であり,ここを統治するためにはエジプト人の漸進的なフランス人化が必要だ。しかし軍事情勢から,占領軍がエジプトを去る日が近いかもしれぬ。コプト(エジプトのキリスト教単性論派)数千人を武装させてフランス人将校とともにナイル上流のヌビア地方に派遣して拠点を建設させ,自分がそこでフランスの利益代表となる,というプランであった。これは占領軍司令部には受け入れられず,結局,1801年にフランス軍がイギリス・オスマン連合軍に敗北したところで,ラスカリス自身もエジプトを離れ,イギリス艦船に乗せられてフランスに戻った。
ナポレオンはすでに1799年にフランスに帰還して,ブリュメール18日のクーデタで政権を掌握していた。ラスカリスは,この飛ぶ鳥も落とす勢いの第一統領と再会して自らの東方戦略を開陳しようとしたが,どうやらそれは叶わなかったようである。ラスカリスは,アラビア半島の紅海沿岸都市ジェッダのフランス弁務官に自分を任命してくれとか,ビザンツ帝国を再興すべくアナトリア半島の北東部からグルジアにかけての地域をオスマン帝国から奪取して自分に与えてくれとか,無理難題を政府高官に要求した。このため,てんで相手にされなかったのか,それともこの変人を利用してしまえと思われたのか不明だが,ともかく,次にラスカリスの居場所が確認されるのは,5年の空白を経た1806年,レバノンの地中海沿岸都市シドンであった。そこからフランス居留民の代表としてイスタンブルに出かけたこと,翌年もやはりシリアの沿岸都市であるラタキアの近郊に滞在していたことが,フランス領事の報告からわかっている。
次に彼の所在が確認されるのは1809年のアレッポである。この国際貿易都市で,彼は一人の地元のキリスト教徒の青年をつかまえ,アラビア語家庭教師に雇いながら自分の通訳として手なずけ,翌年から共に遊牧民工作に乗り出した。ここから先の砂漠の道行きについては,『人と人の地域史』(木村靖二・上田信編,山川出版社,1997年)所収の拙稿をご覧頂きたいが,彼は,当時アラビア半島を席巻していたワッハーブ派に対抗する遊牧民連合をつくりあげ,ナポレオンのために「インドへの道」を準備しようとしていたのだ。
彼の砂漠行は,この通訳の青年の回想録を大幅に換骨奪胎した巻を含む,フランス人作家ラマルティンの人気小説『東方への旅』によって,19世紀のヨーロッパ人に広く知られた。しかし,ラスカリスが果たして本当にナポレオンの意を受けた特殊工作員だったかどうかは,今もなお不明な点が多い。当時アレッポのイギリス領事は,彼を明白にフランスのスパイと見なしていたが,肝心のフランス側外交文書にその証拠がしかと確認できないのである。ラスカリスに資金を融通するための手形振出しをめぐるトラブルで,アレッポ在住のヴェネツィア生まれの商人が,フランス領事を通じて外務大臣に嘆願書を提出した,という1812年の情報のみである。一方同じ頃,スイス生まれの冒険家ブルクハルトや,大政治家ピットの姪で遊牧民の間で「イギリスのスルタンの娘」として知られていたレディー・スタンホープなどの顔ぶれが,イギリス側の情報員としてワッハーブ派の動向を探ってシリア砂漠で蠢き,二人ともラスカリスと接触して火花を散らせていた。
ナポレオンの没落後,1816年秋にラスカリスはイスタンブルを経てエジプトを再訪し,そこで太守ムハンマド・アリーの息子のフランス語家庭教師となったが,翌年春にぽっくり死亡した。百年後,ロレンスというイギリスのスパイが同じく中東を歩き回ったが,彼も『東方への旅』を読んでラスカリスのことを知り,自分の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
地中海は今日もなお,文物が交流する広場であるとともに,欲望と策謀が渦巻く舞台となっている。
目次へ
エストムボールへの旅
−−クラビホの旅日記にみるコンスタンティノープル−−
太記 祐一
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは,イスタンブルと名前を変えた現在と同様,地中海世界でも有数の大都市だった。当時もまた様々な国から来た多くの異邦人が,この街をさまよっていたはずである。現在まで残された文献史料の中には,そんなことに読み手の想いを自然と向かわせるものが数多くある。
唐の正史である『唐書』の卷二百二十一下「列伝西域」の下には「拂菻」(フー・リン)という名でビザンツが登場する。ここには,例えば大宮殿の青銅門に関するかなり詳細な記述と,脳外科手術などの荒唐無稽な内容とが,前後して記されている。中国から「拂菻」への使節の「見聞」によるものであろうか?
また中世アイスランド文学の代名詞であるサガにも,ミクラガラド(大きな町)の名でこの都市はしばしば登場する。もっともノルウェー王ハラルド・ハルドラアダが若き時分に放浪の冒険者としてこの街へ渡り,ヴァランギ(北欧人からなる外人部隊)の隊長として活躍したことを考えれば,これは何ら驚くには値しないが……。
コンスタンティノープルの異邦人は,パライオロゴス朝期になっても決して減りはしなかった。この時期には個人の旅行記に充実した記述が多い。イブン・バットゥータ,ヴィルヘルム・フォン・ボルデンゼーレ,ベルトランドン・ド・ラ・ブロキエール,ペロ・タフール。そのなかでも特に異色かつ有名なのはルイ・ゴンサーレス・デ・クラビホだろう。
クラビホは生年不明,没年1412年,カスティリア王エンリーケ3世の宮廷人で,1403年に王命を受けティム
ールへの大使としてコンスタンティノープル経由でサマルカンドまで赴いた。このときの記録が彼の旅行記(Ruy Gonzalez de Clavijo, Embajada a Tamorlan, ed. Lopez Estrada, Madrid 1943)で,日本でも1967年に山 田信夫氏の訳で桃源社から東西交渉旅行記全集第三巻クラヴィホ著『チムール帝国紀行』として出版されている。これは英訳版(Embassy to Tamerlane, 1403-1406, eng. transl. Guy le Strange, London 1928)をもとに しており,ハ ギア・ソフィアを「聖ソフィア寺」とするなど,いささか古めかしい趣も あるが読みやすい。
さてこの日本語版をひもときつつ,彼のコンスタンティノープル滞在を追ってみよう。まず往路,彼は1403年10月24日から11月13日まで滞在した。ペラに宿をとり,皇帝の婿のジェノヴァ人「イラリオ氏」の案内で市内を観光している。筆者はこの「イラリオ氏」が何者か不勉強のため知らないのだが,当時の皇帝マヌエル2世の嫡子は男子6名とされることから,庶出の娘イサベラの夫かとも思われる。
彼は10月28日にブラケルナイ宮で皇帝と謁見。そして30日に「ペトラの(洗礼者)聖ヨハネ寺」,「聖マリヤ・ペリブレプトス寺」とストゥーディオス修道院を見学している。それから「ヒッポドロム」に行くが,彼はここを馬上槍試合が行われる「演武場」としている。次いで総主教座のある「聖ソフィア寺」へ行き,教会の前のユスティニアノスの像や,教会堂の建築・装飾に驚嘆し字数をさいているが,同時に教会堂の周囲が荒廃している様子も記している。なお彼はこの日さらに(マンガナイの)「聖ゲオルギオス寺」も訪問している。また11月1日にブラケルナイの「聖マリヤ寺」を見学しペトラの洗礼者聖ヨハネの修道院を再訪して前回見のがした聖遺物を見た後「『全能神』と呼ばれていた貴婦人の修道院」と「デッセトゥリア(ホデゲトゥリア)の聖マリヤ寺」,そして「マホメットの貯水池」を訪問している。続いて記述は市内の様子へと進み「(テオドシウス2世の)城壁はこんなに長大であるし,地域は広大であるが,市域全体はそれほど人戸ちゅう密ではない。その城壁内には田畑・果樹園のある丘や谷が多くあり,果樹園のあいだには小さな集落などもあって,すべてこの市域のなかにふくまれるのである」(p.87)と述べ「町中いたることろに大きな宮殿,寺院,僧院がたくさんあるが,その大部分は今は荒廃している」(同)ことを語っている。また興味深いことに「ギリシア人は,われわれが呼ぶようなコンスタンティノープルという名は知らないで,ふつうエストムボールとよんでいる」(p.88)とも伝えている。
その後,彼は黒海へ出港するが悪天候のため航行できず,1403年11月22日から1404年3月20日までペラで冬を越すことになる。また帰路も1405年10月22日から11月4日までここに滞在している。しかしどちらも市内の様子にはふれていない。
以上,概観したことからもわかるように,彼のコンスタンティノープルに関する記述は,パライオロゴス朝期の様子を鮮明に我々に伝えてくれる重要な史料である。
ところでクラビホはティムールへの使節としては,相手側の問題もあり,成果をあげることができなかった。しかしいかなる理由からか旅の記録を克明に記し,そしてそれが彼の名を後世に残すこととなった。これもまたひとつの歴史のあやというものなのだろうか。
目次へ
表紙説明 地中海:祈りの場8
カルタゴの「トペト」/矢島文夫
今日のチュニジア共和国の首都チュニスの郊外を青と白で塗った小ぎれいな電車が走っている。港の近くの駅でこれに乗ると,半時間足らずでカルタゴ遺跡のとばくちにあるサランボー駅に達する。ここで下車し,少し海岸よりに下ってから左折して,タニト神域の片隅にあるトペト「焼き場」と呼ばれる古代の墓地遺跡へ向かうことにしよう。
トペト(トフェト)とは,本来はこの地の名ではない。それはエルサレム東方城外にあるベン・ヒノムの谷に設けられた祭壇をさす用語で,なにか恐ろしい連想を伴うものであった。なぜならば,ここは異教の神モレク(モロク)に捧げられたところで,古くにここで男子・女子の子供が供儀のために火に焼かれたとされ(「エレミヤ記」7:31〜32。のちにヨシヤ王により廃止された),またここは伝染病や処刑による死者を焼いたところでもあり,ベン・ヒノムからゲヘナ(アラビア語ジャハンナ,地獄)という語が出たとされているからだ。
初児をこの恐るべきモレク(モロク)神に捧げ,火に投ずるという悪習がフェニキア系カルタゴ人のもとで行なわれていたといううわさは,早くからギリシア人も知っていたようで,シチリア(カルタゴからごく近くにある)のディオドロス(紀元前1世紀末)がその歴史書(XX, 14)で記して以来,広く知れわたっていた。フローベールが『サランボー』の後半,第13章「モロク」で描いている無惨な光景は,それらの伝承によったものと思われるが,前世紀半ばに始まったフランス人たちによるカルタゴの発掘,とりわけ今世紀前半の「トペト」の本格的な調査で,この伝承がある程度まで正しいことが明らかになった。ここからは子供たちの遺骨を葬った多数の墓と墓碑銘(新ポエニ語で書かれたもの)が見つかったからであった。
ナツメヤシなどの樹木に取り囲まれたトペト遺跡には,タニト女像のシンボル(円形をいただいた三角形)をつけた墓標にまじって,子供の姿を刻んだものも見受けられた。そのうちの一つ(表紙)を撮影しながら,私はふと思った。これは何らかの理由で早死にした子供の墓には違いないが,本当に火に投じて焼かれた子供の墓だろうか。ここにも古代アラビアであったような,「間引き」があって,そのために命を絶たれた子供への両親,とりわけ母たちの涙と祈りの場が,この墓地なのではあるまいか,と。この時からだいぶ経った1996年に訳書の出たマドレーヌ・ウルス=ミエダンの『カルタゴ』(高 田邦彦訳,白水社)を読んでいると,本文で著者は「カルタゴで生まれた初子は……男女の別なく生きながら焼かれて,この神に捧げられたからである」としているので,やっぱりそうかと思い,次に訳者の解説を読むと,この幼児供儀というのは単なる妄想と誤解にすぎないとしている学者がいることが書かれていた。またこの訳者としては,アメリカの考古学者ローレンス・スティガーと共に,幼児供儀の実在を肯定した上で(これは発掘結果で明らかである),古代地中海一帯に行きわたっていた人口抑制法の一つの形態とみなしたいとしているのを読み,フローベールの重苦しい描写を頭の片隅にいくらかでも押しやることできるように思った。
(写真は筆者撮影)
目次へ
地中海学会事務局 〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201 電話 03-3350-1228 FAX 03-3350-1229 |