1999|03
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*春期連続講演会
春期連続講演会を4月10日より5月22日までの毎土曜日(ただし5月1日は休講),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel.03-3563-0241) で開催します。今回のテーマおよび講演者は下記の通りです。各回とも,開場は1時30分,開講は2時,聴講料は400円です。
「地中海:異文化の出会い」
4月10日 オスマン帝国のチューリップ時代 鈴木 董氏
4月17日 港の中の異文化 深沢 克己氏
4月24日 ガウディ:エジプトとの出会い 鳥居 徳敏氏
5月8日 ヴェネツィア:極東との出会い 石井 元章氏
5月15日 中世ヨーロッパへのオルガン導入 片山千佳子氏
5月22日 中世シチリアの異文化交流 高山 博氏
*第23回大会
第23回地中海学会大会を大阪芸術大学(大阪府南河内郡河南町東山469)において開催 します。
6月26日(土)
12:30 受付開始
13:15 開会挨拶
13:30〜14:30 記念講演「地中海を行く」 小川 国夫氏
14:30〜15:00 授賞式「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
15:15〜16:45 地中海トーキング 「人と映画と地中海世界」
パネリスト:重政隆文氏/鈴木均/田之倉稔氏/司会:末永航氏
17:00 展示解説「ケルムスコット・プレス刊本」 薮 亨氏
17:40〜19:10 懇親会
6月27日(日)
10:00〜11:30 研究発表「ジャン=ジョルジュ・ノヴェール再考」 森 立子氏
「イタリア植民地政策,1880年〜1915年」 松本 佐保氏
「ペトラルカの聖地巡礼記について」 土居満寿美氏
11:45〜12:15 総 会 (12:15〜13:30 昼食)
13:00〜13:30 サロン・コンサート「フランス古楽器ピアノ演奏」 谷村 晃氏
13:45〜17:00 シンポジウム「ポセイドンの変身:馬と地中海」
パネリスト:岡村一氏/込田伸夫氏/杉田英明氏/司会:本村凌二氏
大会期間中,大阪芸術大学図書館のご厚意により,ウィリアム・モリスが手がけた『ケルムスコット・プレス刊本』が,芸術情報センター(大会会場)1階において特別に展示されます。
27日(日)のサロン・コンサートは,谷村晃氏(音楽学)により,2台のフランス古楽器ピアノ<エラール・エ・プレイエル>の演奏が行われます。
*地中海学会ホームページ
本学会のホームページを開設しました。アクセスしてみてください。まだ試行錯誤の段階です。ご意見,ご感想をお寄せください。
URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/
*講座のお知らせ
東洋英和女学院大学生涯学習センターでは,「地中海PartII:文学の旅」を開講します。受講料は2万円です(全10回,地中海学会会員は2割引)。詳細は同センター(Tel.045-922-9707)へ。
4月24日「エジプト人(M.ワルタリ)」 牟田口義郎氏
5月8日「オデュッセイア(ホメーロス)」 込田 伸夫氏
15日「旧約聖書とその周辺」 渡辺 和子氏
22日「ガルガンチュアとパンタグリュエル(F.ラブレー)」 荒木昭太郎氏
29日「ヴェニスに死す(Th.マン)」 塚本 哲也氏
6月5日「ガルシア・ロルカの詩とギター(ロルカ生誕百周年記念)」 濱田滋郎氏他
12日「イタリア紀行(ゲーテ)」 桂 芳樹氏
19日「カルメン(P.メリメ)」 荻内 勝之氏
26日「バイナル・カスライン(N.マフフーズ)」 塙 治夫氏
7月3日「モンテクリスト伯(A.デュマ)」牟田口義郎氏
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研究会要旨
英雄と聖人
−−サンティアゴ巡礼路における聖人伝図像への英雄譚の挿入に関する一考察−−
浅野ひとみ
1月30日/上智大学
中世ヨーロッパの代表的英雄叙事詩,『ロランの歌』は,シャルルマーニュの寵臣ロラン一行が身内の裏切りにより,ロンスヴォーの谷で,異教徒に殺害される悲劇を表したものであり,概要は11世紀後半のnota emilianense,12世紀の『オックスフォード本』によって現在に伝えられている。
中世の造形作例にこのような世俗主題を見出すのは困難を極める。R. Lejeuneら中世文学者によって70年代に『ロランの図像学』の集大成が試みられたが,今日,大幅な見直しを迫られている。D. Kahnによる94年の論考 では,12世紀の宗教建造物に組み込まれたロラン像は,ヴェローナ大聖堂扉口彫刻などわずか数例である。
一方,聖人伝に関して言えば,『黄金伝説』以前のまとまった造形作例として注目されるのが13世紀初頭のシャルトル大聖堂のステンド・グラスである。その中の一つ,内陣の「シャルルマーニュ伝」の窓に関しては,C. Mainesらが解釈及び再構成を試みているが ,その結果,下部は,サン・ドニ大聖堂の失われた「十字軍の窓」の意匠から採られたものであり,中央及び上部は12世紀半ばに編纂された『カリクスティヌス写本』の第IV書,『偽テュルパン年代記(シャルルマーニュ伝)』に基づいた造形表現であることが判明している。C. Manhesら, シャルトルの代表的研究書では,中央部に表された,戦いの場面を「ロランと巨人の戦い」と解釈することに疑問を持たないが,これらは服飾からシャルルマーニュ自身であることが推察され,中央部に関してはロランのあまり登場しない同年代記に基づいて忠実に再現されたものであることが判る。
現在の配置による同ステンド・グラス頂部の円形窓は,「サン・ジルのミサ」にあてられており,この窓の説話は大帝の贖罪によって完結している。祭壇に置いた「罪を告白した手紙が白紙に戻っていた」説話自体は中世広く流布していたものであり,聖アエギディウス(サン・ジル)伝中の一挿話として,すでに壁画(サン・テニャン・シュル・シェールなど)にも表されているが,前出『年代記』には触れられてはいない。
シャルトルのステンド・グラスは,「聖シルヴェステル伝」の窓にも認められるように,上下に対置して表された図像の形態上のアナロジーを援用して意味の二重性(デュアリズム)を喚起する手法を用いており,説話そのものがシャルトルの窓独自に考案されたものである可能性が大きい。シャルトルの「シャルルマーニュの窓」では,異教徒と戦ってキリスト教徒に勝利をもたらした大帝の事績を顕彰し,巷間に流布していた近親相姦の罪をあがなって1164年聖人の列に加えられたことを物語っているのではないだろうか。
さて,アラゴンのサラゴーサ県ルナLunaには12世紀末の制作と目されるサン・ヒル(聖アエギディウス)教会の彫刻作例が現存する。身廊柱頭のマスターはウエスカ王宮内のチャペル柱頭も手がけたが,扉口,タンパン及び教会堂内部のピア柱頭のマスターはF. Abbad Riosに よってサン・ホアン・デ・ラ・ペーニャ回廊柱頭の工房に連なると考えられている。
このピア柱頭には,当該教会のパトロンである聖アエギディウス伝の数場面が表されていることを以前筆者は同定したが,タンパンの図像に関しては意見を保留していた。これに関して,今回,1170〜80年代のハイデルベルク本『ロランの歌』の「シャルルマーニュの祈願」の場面である可能性を提示したい。また,それに伴ってピア柱頭に表されている「鷹を手にした騎士」もシャルルマーニュである蓋然性は高い。
ルナはレコンキスタの激戦地であったシンコ・ビージャス平野に位置するが,ウエスカが早々に1096年,奪還されたのに対し,サラゴーサがキリスト教徒の手に戻ったのは1131年のことであった。こうした史実が「シャルルマーニュ伝」の「サラゴーサの陥落」の挿話によって喚起させられたのではないか。
シャルトル大聖堂のステンド・グラスの図像構成は1194年の火災以前のものを踏襲しているという説があるが,前述の「サン・シルヴェステル伝」の窓に表された図像とウエスカのサン・ペドロ・エル・ビエーホ教会回廊の一柱頭に表されたものには他作例に無い共通点がいくつも認められ,アラゴンの作例とシャルトルとの密接な関連が想像される。
昨今,中世文学の分野では,「サンティアゴ巡礼路」の果たした役割は軽視される傾向にあるが,少なくとも造形表現においては,交易路が整えられて同時代的にクリシェが交換されるようになるという意味において,遠隔地にある作例を関連付ける大きな動機となり得ると考えてよいであろう。
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古代末期史研究のリーダー,P.ブラウン訪日記
松本 宣郎
ついにピーター・ブラウンに会えた。それがいつわらざる私の心境であり,その喜びの大きさはなかなか言い表せるものではない。一般にはあまりなじみがない名前かもしれないが,古代末期ローマ帝国とキリスト教を中心とする世界の歴史について,現在世界の学界のトップにあるのがこの人である。昨年秋,法政大の後藤氏の努力で学術振興会の招聘が実現,初来日した。この分野では,近代世界システム論のウォーラーステインや中近世地中海世界史のF.ブローデルにあたる研究者だ,と言えば(適切な比較ではないが)よいかもしれない。ブラウン氏についてはいまだ邦訳書がないことが,わが国でのなじみをうすくしている原因であろう。それは私たちの責任である。目下『アウグスティヌス』など四つの翻訳が進行中なので,近いうちに氏の鋭い洞察と豊かなイメージがあふれる歴史叙述に広くふれていただく日がくるであろう。
ブラウン氏はアウグスティヌスの研究から,古代末期・中世初期の転換期の地中海世界とヨーロッパ世界の社会・政治・文化の歴史的展開に向かい,そこに通底する精神史,すなわち古代末期の世界に根を下ろすにいたったキリスト教を焦点として考察してきた。1971年の「古代末期の世界」は紀元2世紀から7世紀までの概説書であるが,ローマ帝国の都市の衰え,空隙を埋めるキリスト教徒の進出,ケルト・ゲルマンの文化・社会風俗と地中海の文化との融合,共存,そして初期イスラムまで,考古学資料をも駆使した,パノラマ的な総合叙述で,読むものはまさに「目からうろこ」,の思いがする。最新の著書,「西方キリスト教世界の出現」も,イランのバルダイサンとか,スコットランド伝道のコロンバヌスなどに説き及んで,おおいに興味をわきたたせる。
今回氏は4本の講演を用意し,東京・仙台など7回の催しで語り,また学問的交流にのぞんだ。「末期ローマ帝国の「貧しさ」とリーダーシップ」は,ローマの都市的人間区分と社会の指導者層がこの時代,キリスト教の重みの上昇によって大きく変わった点を論じた。「新発見資料から見た司教アウグスティヌス」は,1967年と75年に発見された書簡と説教を紹介し,それらが神学論議よりも当時の社会における司教の具体的な行動を知らせる好個の史料であることを論じた。それぞれ出席者から活発な質問が出,氏は実にていねいに答えてくれた。もう1本は初期中世人の死生観の考察についてであったが,私は聞けなかった。趣向をこらしたのは,日本中世史家の網野善彦・五味文彦両氏とブラウン氏との鼎談(司会樺山紘一氏他),「東西における中世を語る」であった。まずブラウン氏から,日本の話もかなり交えながら,ピレンヌ・テーゼやブローデル,そして自身の古代末期論には再考の余地が生じ,古代からヨーロッパ中世への移行が,連続説ではなく断絶説に傾きつつあること,ここでもキリスト教の役割が大きかったことが指摘された。日本史両氏からのコメントも興味深かったが,相互対話にまでは至らなかった。
以下は私事にわたる。卒業論文以来,私が書いた論文には必ずP.ブラウンの著作の引用がある。私にとってはまぶたの恩師であった。古代末期の私生活に関する論文は,キリスト教徒の性観念に踏み込んでいて,学生と演習で読みながら,少々どぎまぎしたこともある。それが今回,東京と仙台とでゆっくり時間を過ごし,我々を常に研究者仲間(colleague)として接し,励ましを与え てくれる暖かさと包容力にひたることができたのである。平泉の中尊寺,松島の瑞巌寺などを案内したが,氏もベッツィ夫人も,実にていねいで貪欲な観察者であり,そのための対話もまた私には楽しかった。氏はアイルランド生まれでオクスフォドに学び,今は米国プリンストン大学教授である。地中海を眺める氏の視点の広さ,豊かさの根底には,このような人生の流れが関係しているのかもしれない。2台のカメラでスナップをとりまくっていたブラウン氏の次の仕事には,日本の歴史と景観のデータが生かされることだろう。
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須賀先生に教えられた,もうひとつの知の形
伊田久美子
須賀敦子先生が亡くなられて1年がたとうとしている。この1年の間に先生の多くの著書が刊行された。『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『ウンベルト・サバ詩集』『本に読まれて』そして『ミラノ,霧の風景』以降の主な著書,訳書が次々に文庫本になり,須賀敦子全集の準備も進められている。『文藝』は別冊で追悼特集を組み,未刊行の原稿も掲載した。本当にたくさん仕事をしておられたのだなと,畏敬の念を禁じ得ない。同時にこんなにも世の人々は先生の文を求めているのだなと,あらためて感嘆の念にかられるのだ。
『文藝』の表紙には私が見たことのない先生の若いころの写真が載っている。初めて見る懐かしいお顔に,不思議な気分でしばし眺め入った。ヨーロッパがまだまだ遠い世界だった時代に先生が求めて旅立たれ,溢れる才知と計り知れぬ努力,そして波乱の経験を積み重ねて理解されてきたものの,ほんの一端をしか私は知らない。しかしその一端さえもが,計り知れぬほど貴重なのだ。初めてお会いしたのは私が在籍した大学の集中講義に須賀先生が招かれた時だった。当時の私はイタリア文学という専攻の選択に確信を持ちきれないでいた。先生の授業は緻密な詩論を通じてイタリア語,そしてイタリア文学の真髄とでもいうべきものを,魔法のように解き明かしてみせ,私はイタリア語の魅力をようやく確信し,イタリア文学研究の入り口に立つことができたのである。先生の「魔法」は,しかし,単にイタリアの魅力と奥行きを開示してみせたのではない。
長い間日本のヨーロッパ観は地理的な距離と語学の壁の高さ,それに加えて崇拝と反発の近代的バイヤスゆえに,片寄った情報とわずかな経験にのみ基づく様々な断定の議論の横行から抜け出すことが困難であった。しかし外国への関心の伝統的構造は近年急速に崩れてきている。情報は地理的な距離も語学の壁も軽く乗り越え,もはや専門家の占有するものではなくなり,経験もまたそれ自体では何ら貴重なものではなくなりつつある。かつては文学研究が当然のように中心にあった外国語教育は大きく様変わりした。伝統的教養の解体は着実に進行している。
このような時勢の中で須賀先生の仕事が求められることには深い意味があると私は思う。たとえば長く外国に滞在した者が情報と経験を披露しつつ日本社会の批評をするというスタイルの本は従来日本では多くの読者を獲得できる類いのものであったが,先生の仕事はその種の本とは根本的に異なる。一方対象を絞った高度に専門化された研究もまた,先生の仕事の一部ではあっても,そのすべてではない。情報も経験も希少なものではなくなった今日,先生の本が多くの人々の心を捉え続けるのは,先生が生涯をかけて求めてこられたものの全体が深い共感を引き起こしているからである。それは,情報の氾濫の中でまさに今見失われようとしている知の体系,いやそれを含めた生の形の核心を,その全体像において捉えようとするひたむきな求道の姿勢にほかならない。いや「捉える」は適切な表現ではない。先生は関心の幅も奥行きも大変に広く深い方だったが,その知識と教養の驚くべき蓄積,そして類い稀なる語学の才は,「獲得」の野望ではなく,一体化して理解しようとする没入の結果であった。「知ること」とは「愛すること」にほかならなかったのである。「本に読まれる」と母親に言われたという,幼少時からの書物への没頭は,カトリックへの入信,フランス,そしてイタリアの生活への長く深い関わりとして展開する先生の生涯を導く「羅針盤」であったことだろう。先生が最後まで手を入れたという『遠い朝の本たち』を読んで,迂闊な私は,初めて合点がいったのである。私が若く今以上に浅はかであった時代に,先生はテキストを知的ゲームの材料にするよりは「畏怖して拝読する」ことの大切さを厳しく説かれた。魅力的であると同時に容赦なく恐ろしい師であった。いかに取り繕おうと,自己の無知に無自覚な傲慢や思い上がりが先生の鋭い眼差しに見透かされてしまうのだった。
誰もが絶賛する,先生の作品の心を癒す奇蹟のような魅力は,「獲得」や「征服」ではなく「愛」であり「受容」である,このもうひとつの知の形から発せられているのではないか。先生がシモーヌ・ヴェイユに生涯関心を寄せ続けられたことにも深く納得がいくのである。葬儀の席で,先生が宗教のことを書きたかったと話しておられたことを聞いた。カトリシズムこそ,先生が惹かれ続けた知と愛の大いなる体系であった。先生の生涯は,それを書くことを目指してきたといえるかもしれない。それがかなわなかったことは私たちにとっても本当に残念であるが,晩年の長くはない年月に驚異的なペースで書かれたたくさんの素晴らしい作品に心から感謝したい。
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リヨンとダンス・ビエンナーレ
横山 昭正
1991年9月から1年間,リヨン第Uリュミエール大学文学部(Lumiereは映画創始者) の客員研究員として家 族とリヨンで暮らした。昨年春から私の大学の同僚になった末永 航氏の薦めでこの学会に入らせていただくことになったが,私の専攻はフランス近・現代詩で,地中海と直接には関わらない。けれどこれを契機に,私の大好きなリヨンの街を,今まで意識しなかった地中海とのつながりのなかで見直してゆきたいと考えている。
その後三度,リヨンを訪ねたが,いつも安全設備会社部長のジャック・ドゥーシェ宅に下宿した。垂直の崖に寄りかかって立つ三階建てのヴィラ風の家は,半円劇場(B.C.15,直径108メートル,1万人収容で,夏にはオ ペラや劇が上演される)とオデオンが残るフルヴィエールの丘の南方,聖ロラン通り(montee[登り坂]という)にある。ここは元のローマ街道で,一部に古代の石垣が残っている。またソーヌ河に沿って南北に長く伸びる丘の斜面のそこここに,水道橋の遺構が見られる。私も中学3年生の娘も,この道を通うのが好きだった。紀元前43年,カエサルの副官だったムナティウス・プランクスMunatius Plancusがこの丘にルグドゥヌムLugdunumの街を創ったのがリヨンの始まりである。
部屋のバルコニーからは,レンガ色の屋根の街並が見渡せる。眼下に緑色のソーヌ河,半島を挟んだ向うにローヌ河(岸沿いに第U・第V大学のスレート屋根)が望まれ,遠く東の地平線をアルプス山脈が限っている。晴れた日暮にはモン・ブラン(白山)の峰がサフラン色に染まる。二つの河(荷風はソーン,ローンと間違って発音)は右手(南)の半島の鼻で合流し,ローヌとして地中海まで流れ下る。ソーヌにかかる国鉄のキッチュネル鉄橋のたもとには,モネがセーヌ河で描いたような細長い川船penicheが大てい二列に十 艚ほど舫ってある。20年前,川船の家族を主人公にしたテレビ・ドラマのシリーズが好評だったことを思い出す。
フルヴィエールのノートル・ダム寺院前からフニクラで降ると,サン・ジャン(聖ヨハネ)大聖堂(1165年創建)前に出る。裏手を流れるソーヌの対岸のサン・タントワーヌ(聖アントニウス)河岸では毎朝9時半から12時半まで,500メートルに亙って,400年以上の歴史をもつ市が賑わう。南仏の農産物や地中海の魚介類は,今は主にトラックであるが,かつては多くが川船で輸送されたのだろう。また古くは皇帝ウィテリウスVitellius, Aulus (A.D.15〜69)が69年,船でリヨン(当時Lugdunum)を訪れている。このようにロ ーヌ河によって密につながるリヨンと地中海との関わりをこれまで調べたことがなく,無知で過してきたのは悔やまれる。日本では笹本駿二に『ローヌ河歴史紀行』があるけれど,リヨンについてはほとんどふれていない。
昨年夏,リヨンに20日間滞在した。ドゥージェ宅に5日,残りは建築家のフレデリック・ピア宅に泊まった。ピア家とは,1992年夏の私と妻の帰国後さらに1年間,娘がホームステイして以来のつきあいである。9月11日から29日まで,恒例の「国際ダンス・ビエンナーレ」が開かれ,前夜祭の翌12日,私はピア夫婦と「モーリス・ラヴェル公会堂」で幕開き公演を観た。統一テーマはMediterranea−−。
まず若いフランス人のペアが,全裸に見えるレオタード姿で創作バレエを踊る。陸と海,舟と波,魚と潮,嵐と凪,性交・誕生・死亡とそのくり返し……,しなやかで清冽なエロスに息を呑む。次に真紅のイヴニング・ドレスの舞台女優が,ヴァレリーやサン・ジョン・ペルスらの詩を引用しながら「地中海頌」とも呼ぶべき長編の散文詩を朗誦する(残念ながら私の研究するボードレールには地中海をうたった詩がない!)。続いてマラケシュのターバンに白い民族衣裳の男の4,50人が,鉦や太鼓,歌やかけ声に合せて複雑なステップやコザック風のダンスをくり拡げる。チュニジアのグループのオダリスクは,浅黒い肌,黒い大きな眼の美少女でベリー・ダンスにアクロバティックな業を交えた後宮の舞で観衆を蠱惑する。最後にスペイン舞踊団がフラメンコを歌い踊ったが,これは小さい親密な空間の方がよかった。
翌日の日曜昼ごろ,これらのグルーブにギリシアやトルコの民族舞踊団が加わり,半島の中心街でパレードを催したが,私はゆけなかった。勇んで出かけたピア夫婦によると,大変な人出で盛り上がったのに,途中にわか雨に見舞われ,踊り手も群衆もずぶ濡れになったとのこと。二人は他にも二晩,別の公演を楽しんだが,切符の入手が難しかったようだ。
このビエンナーレについて私なりに感じたことを大まかに言えば,欧州同盟が誕生し,一つの有機体としての統合に向かうヨーロッパの枠を地中海の南と東まで拡げ,多様な文化の豊饒な色彩と音とリズム,ダイナミックな生命力を見直そうとする狙いがあったように思われる。
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インターネットのある静かな生活
福井 千春
未明,午前3時。何やら胸騒ぎがして寝付かれず,ご そごそと起き出しては,パソコンの電源を入れる。家人は隣室で寝息を立てている。ディスプレイが深緑色に染まって,さあ今日の仕事の開始である。まずはメールのチェックから。だいたい毎日10数件は溜まっている。そのほとんどはメーリングリストから配信された議論で,たいていは流し読みをする。個人的な書簡はごく僅かで,他に本屋からのダイレクトメールもいくつか舞い込む。
電子メールといっても,本質的には郵便と同じ制度だから,誰かに手紙を書く,そしてそれに返事をする,これだけである。ならば郵便で済むではないか,誰でもこう考えるらしく,木曜日に私に用が発生して手紙をくれるとする。しかし思いの他手間取って,夜になったらしい。慌ててポストに入れるも,集配は翌日になり,近距離ならともかく,翌土曜日に配達されることは稀で,たいがい週明けになる。しかし月曜の朝,私は早く出かけることにしているので読むのは夜になる。連絡が遅れて申し訳ないとお詫びの一言も添えて,血相変えて私が電話をかけるのは火曜の朝になる。中4日である。これでは仕事には使えない。ならば電話かというと,電話をかけても良い時間は社会通念上の制約があり,そういう時間に人は電話のそばにはいないものである。用件によっては,例えば展覧会の通知とか会議の召集など,電話には馴染まないものもあり,加えてそもそも電話は相手を選ぶ。たとえ気心しれた仲であっても天麩羅を揚げている最中であったりと,どうしても電話は最後の手段となる。結局,電子メールが一番便利ということになる。
メーリングリストというのは,一対一の文通を,一対多,多対多に拡張したシステムである。どういうものかは,口で説明するのも難しく,一度体験していただくのが手っ取り早いのであるが,要するに,架空の会議室のようなものが通信上にあって,ひとりがそこ宛にメールを出す。するとそのメールは登録者全員に配信される。そして誰かがそれにメールで答える。するとその返事も全員に配信される。一対一だと単なる問答で終わっていたものが,その全てのやりとりを全員に配信することで全員が会議に出席しているのと同じことになるのである。少しは理解していただけただろうか。私が参加しているmediber 「中世のイベリア」という会議室では,今この瞬間にも,学会の最先端の議論が繰り広げられている。他人の論説ばかり読んでいても面白くない。ひとつこちらから疑問を投げてみる。もちろんすぐに返事はない。なぜなら地球の反対側は夜であるからまだ寝ているのであろう。ところが,半日後,まずスペインの学者が返事をくれる。それで納得してはいけない,間髪を入れず英国の碩学から反論が出る,さらに6時間後,米国の若い研究者が問題を広げる。24時間して私の番である。一日かかって調べたことを書く。ますます議論は深まって,架空の会議室は太陽の進行とともに白熱してゆくのである。
このような会議室は世界には数え切れないほどあり,今日もどこかで新しいリストが開設され,あるいは閉鎖されている。リストの中には活発に質疑応答の行なわれているところもあれば,論文募集の広告だけが月に2度ほど載る程度の停滞した所もある。自分と相性のいいリストを探すまでには苦労するが,入会も無料なら,退会も自由である。どのようなものがあるか,ぜひhttp://liszt.comを覗いてみて頂きたい。
文科の大学の教師という商売は,日がな一日,本を読むか,時に気まぐれに文章を書き散らしたりするくらいで,極めて地味である。インターネット・ショッピングでは,危険な薬物から火星の土地まで買えるらしいが,初物食いは却ってこういうことに警戒する。唯一の愉しみは古本探しであるが,ここで初めてメールが重宝する。業界最大手はamazon.com,その他にも同種の本屋があって,こういう本を探しているとメールで伝えておけば,3ヶ月か半年して,あるいは本当に忘れた頃に,例の本が見つかった,2巻目が破損しているが400ドルでどうか,というメールが 舞い込む仕組みになっている。私はこうして,20年来探してきた幻の一冊と巡り合うことが出来た。
こんな具合に本を注文したり,飲み屋のツケを払ったり,時に亜麻色の髪の乙女に長い恋文を認めたりで気がつくと東の空も白み,牛乳配達の自転車が瓶をガチャガチャ鳴らすのが聞こえてくる。そうだ地中海の月報に寄せる原稿を忘れていた,と気がついて,コーヒーを入れ直しては今日もパソコンに向かう。
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表紙説明 地中海:祈りの場7
イェルサレム旧市街・西壁(歎きの壁)/高橋正男
旧市街を取り囲んでいる城壁の一辺の長さはおよそ800〜1000m。城壁の全長は約4q 余。高さは平均12m, 厚さは約2.5m,城内の広さは約0.87 ,その約三分の 一は第二 神殿ん時代後期のもの。現在の城壁の大部分は,16世紀前半,スルターン・スレイマーン1世の時代に再建されたもので,十字軍時代の城壁に沿って築造され,部分的にはさらに古い時代の礎石の上に建てられている。八つの城門のうち,現在は東側城壁の黄金門を除いて七つの城門が開いている。旧市街の内部は各宗教・宗派ごとに分かれた居住地区が形成されている(月報213号参照)。現在の居住地区区分は15〜16世紀にさかのぼる。
神殿の丘の外壁,巨大な石壁はヘロデ王が神域を二倍に拡張した折に築いた見事なものである。帝政ローマの圧政に苦しめられ離散の民となったユダヤ人は,4世紀以後,当局の許可を得て年に一度神殿破壊記念日にこの石壁の前にきて佇んでは往事を偲び,祖国を懐かしんでは歎き悲しみ,祖国恢復を祈るようになったことから,とりわけローマ軍に破壊されずに残った神殿の丘西側のこの石壁が「西壁」と呼ばれ現在に至っている。
現存の神殿の丘を支えている石組みはローマ・ビザンツ・イスラーム・オスマン=トル コ帝国諸時代の遺産で あるが,西壁の下層の巨大な石組みはヘロデ時代のものである。 石組みには幅4〜5m,高さ1〜1.2mもの巨 大な石灰岩の切り石が用いられている。1967年6月の六日戦争までは,西壁の石積み地上5層(段)までがヘロデ時代のものだったが,戦後さらに2層掘り下げられ,現在では地上7層までがヘロデ時代のものである。地上はヘロデ時代のものを含めて15層から成っている。それに加えて埋没部分は19層21mもあり,現在はその一部分が西壁に沿って調査がすすめられている。西壁の地上の高さは18m,南北の幅(長さ)は60mもある。
六日戦争の開戦3日目に,イスラエル軍の手で,1900年ぶりに西壁を含む旧市街が奪還された。西壁の西側に密集していたアラブ人の民家は,戦後間もなく跡形もなく取り壊され,西壁の前は,文字通り「ユダヤ人の祈りの広場」となった。広場は,向かって左側が男性の,右側が女性の祈祷所となっていて,朝な夕な万国平和の到来が祈り続けられている。ここは今日,オープン・シナゴーグとして,信教の自由が保障され,誰でもが訪れることができる。ただし,安息日は撮影禁止。広場では,ユダヤ教の安息日や祝祭日の特別な勤行に加えて,月曜日と木曜日には親類縁者立ち会いのもとに男子の成人式が執り行われる。
ちなみに,西壁に向かって左側(北側)の建物の内部に古代の橋脚の遺構がある。その一部は,ヘロデ時代のものでなく,7〜8世紀のウマイヤ朝時代のものだったことが判明した。次いで1987年,西壁北接に沿って南北全長約480mに及ぶ水路トンネルの全貌が明 らかになり 観光用として一部公開された。1996年9月末,ユダヤ教暦新年祭明けに,こ の観光用トンネル北側出入口開通が発端となって,パレスティナ人とイスラエル軍との衝突騒乱が起こり,双方に多数の犠牲者が出た。中東和平最大の難問は聖地イェルサレムの帰属問題と難民の帰属問題。
(写真は1998年4月石黒健治氏撮影)
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地中海学会事務局 〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201 電話 03-3350-1228 FAX 03-3350-1229 |