1999|02
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学会からのお知らせ
*第23回地中海学会大会
第23回地中海学会大会は大阪芸術大学(大阪府南河内郡河南町東山469)で,6月26日
・27日( 土・日)の二日間,下記の通り開催します。
1日目午後 記念講演 小川国夫氏/地中海トーキング「映画のなかの地中海」(仮題)/授賞式/ 懇親会
2日目午前 研究発表/総会/午後 シンポジウム 「ポセイドンの変身:馬と地中海」(仮題)
詳細は決まりしだい,おってご案内します。
*会費口座引落について
新年度(1999年度)会費の「口座振替依頼書」の返送は2月26日をもって締切とさせていただきます。ご協力ありがとうございました。新年度会費の引落は4月23日(金)になります。
*第2回常任委員会
日 時:1998年12月5日(土)
会 場:上智大学7号館
報告事項
a.ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して
b.文部省科研費に関して
c.その他
審議事項
a.第23回大会に関して
b.電子化活動に関して
c.学会賞・ヘレンド賞に関して
d.その他
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表紙説明 地中海:祈りの場6
ジェノヴァのスタリエーノ墓地/亀長洋子
ジェノヴァの観光名所としてイタリア人が口にするのは,美術館でも教会でもない。大概以下の二つのうちのどちらかである。一つはジェノヴァ出身のレンツォ・ピアーノが設計した水族館,そしてもう一つが今回紹介するスタリエーノ墓地(Cimitero di Staglieno)である。モーパッサン,マーク・トウェイン他,幾多の知識人を驚愕させたこの墓地は,近代地中海人の死生観を考察する格好の素材を提供しており,F. アリエス著『図説死 の文化史』(日本エディタースクール出版部)でも数多くの写真が掲載されている。リソルジメント史に関心をもつ方ならば,マッツィーニの墓所の所在地としてこの地を耳にしたこともあろう。
鉄道駅から市バスで30分程度の小高い丘に広がる墓地群は,19世紀に現れる,墓地の都市外への移動,という死生観の変化と都市計画の流れのなかで生まれた。広大な敷地には,古典主義,新ゴシック,新ルネサンス様式,ロマン主義,自然主義,リアリズム,象徴主義,リバティー様式等,多様な様式の墓碑彫刻や巨大な礼拝堂建築が見られる。なかでも,19世紀の回廊にある墓碑彫刻群の感情表現とリアリズムは圧巻である(右図参照)。父が息を引き取るのを待機する子供達,病床の男性にとりすがる女性,ロザリオを手にして祈る女性,といった情景のリアリティに加え,衣服の流線やトンボロのレース模様の一目一目まで丁寧に刻まれた彫像群のもつリアリティ,そして天使に手をさしのべる背広の紳士像といった,死生観と現実の双方を同時に表現した,一見奇異にもみえる不思議なリアリティをも堪能できる。また主として20世紀初頭,墓地空間の大規模な拡大が行われたのちに建造された巨大な礼拝堂群が,小さな森の中に点在し,独特の山腹の光景を築いている。その代表的な建築がミラノのドゥオーモの尖塔を模した礼拝堂である。こうした個性的な墓碑や礼拝堂の多くは,遅ればせながらイタリアに現れた産業革命期の資本家層が自己を記念するために建立したものであった。
教会色の薄い世俗の墓地,家族愛の表象である写実色の強い墓地,個人の顕彰としての墓地。これらはこの時期の墓地に共通の性格だが,それに当時のジェノヴァの経済発展が加わってこうした巨大な芸術空間としての墓地が現れる。古くから個人主義者・世俗主義者といわれたジェノヴァ人は,この時代になってようやく自分達の精神にふさわしい祈りの場をつくることができたのだろうか。
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地中海学会大会 記念講演要旨
ロレートのサンタ・カーサは空を飛んだか
松原 秀一
パリの右岸にロレート聖母教会がある。ノルマンディーにもノートルダム・ド・ロレートと言う地名があり,第一次世界大戦の激戦地として知られ二万人の兵士の墓地がある。ロワール河流域のモース渓谷にもこの名の15世紀の教会がある。コルシカ島にLoreto di Casincaがあり,プラハ,クラコヴィーの教会にもロレート に捧げられたチャペルがある。パリのノートルダム・ド・ロレートは地下鉄の駅名にもなっているが旅行者で訪れる人も多くはない。私も行ったことは無かったがガリマール書店から出ているパリ案内を見て驚いた。そこには此の教会の名がこの界隈に1830〜1840年ころ徘徊した尻軽な女性たちロレートたちから出たと書いてあったからである。今パリに建っているロレート聖母教会はバシリカ型の19世紀の教会で何処にもロレート伝説のことは記して無く,辛うじて円天井に空を飛ぶサンタ・カーサが小さく描かれているばかりであった。
ナザレにあった聖母の家がイタリアのアンコーナの南,ロレートに天使によって空中を運ばれた伝説はガリマールのパリ案内の著者ばかりでなく今では一般に知られなくなっているようである。伝説によれば1291年にフランス語ではSaint-Jean d'Acreと云われるアッカがエジプ トの太守アル・マリク・アル・アシュラーフの攻撃に陥落した年の5月12 日に聖母マリアの生家が天使たちによって空に舞い上がりまずダルマシアのアドリア海岸のRaunizaまで空中を運ばれ,しばらく休んで3年後の1294年12月2日にイ タリアのRecanatiの傍の異教の寺院のあった月桂樹の森の中まで再び空中を飛来したことになっている。月桂樹の森をイタリア語でlauretoと云うところからロレート の名が出たとされる。月桂樹はサンタ・カーサの飛来にうやうやしく頭を下げたままであったという。一説ではこの場所の地主であった寡婦Laurettaの名から名付けられたとも云う。ところがこの地は強盗が多く巡礼者たちが被害を受けるので「聖なる家」は再び舞い上がりアンティチ兄弟の所有地に飛来するが,この兄弟も強欲で供物を奪って兄弟で争うのでサンタ・カーサは再び舞い上がって現在の地まで飛びロレートの名をこの地に与えることとなった。
ロレートは聖地の一つとなり多くの巡礼が訪れるようになり1380年にフランコ・サケッティがロレート巡礼の盛んであったことを証しているという。マリアの生家であるので天使ガブリエルの訪れた窓も見ることが出来る訳である。
我々にとって興味深いのはザヴィエルがインドに向かう前にここに巡礼していることであろう。コロンブスの船員たちも1493年に詣でているし,教皇ニコラス五世が1449〜1450年にピオ二世は1464年に,フリードリッヒ三世も15世紀に二度参詣している。タッソーが1581年に,モンテエニュが1581年に訪れている。ガリレオも1618年と1624年に訪れているが,デカルトが炉端の部屋での三つの夢のあとロレート詣での願を立て1623年にロレートまで行っている。1683年にはフランス王ルイ13世は皇子誕生に際してダイヤモンド入り王冠2個と新王子の体重の純金像を献納している。モーツアルトも1770年にロレート詣でをした。フランス革命後の1797年にはナポレオンが2月13日の真夜中に来てこの教会の宝物全部を奪いマリア像も持ち去ったが1801年にマリア像は教皇に返還し像は翌年ロレートに戻っている。
しかしロレート伝説も最古の文献はテラマーノに依る1470年のラテン語に依るものである,それ以前の中近東への巡礼記にもイスラーム側の文献にも出てこない。考古学的調査では教会を構成している石もロレートから1時間半ほどの行程にあるモンテ・コネーロのものと同定されている。マリア崇拝を巡っての論争の盛んになった15世紀にロレート聖母教会が各地に建てられたことは興味深い。アンコーナから近いロレートは寄る価値のある町であろう。
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秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴−15世紀から19世紀まで−」講演要旨
英国建築家と地中海
−−アダムやソーンと古代建築−−
星 和彦
英国建築にイタリア・ルネサンスの影響がみられるようになるのは,16世紀も半ばを過ぎた頃からである。イタリアを中心とする地中海と英国の建築家の関わりは,この時期に始まるといえる。英国建築家にとって地中海は,縁遠かった古典的伝統との出会いの場であり,ギリシアやローマの古典建築,ルネサンス以降の建築など古典主義建築の源泉となった。しかし,時代により訪れ知りえた建築やその認識方法は異なり,それが17世紀以降の英国建築の変化を生みだす力のひとつとなっていくと思われる。ここでは,18世紀前半までの時期と,それ以後のいわゆる新古典主義期とにわけ,みてみよう。
イニゴー・ジョーンズは,建築家で初めてイタリアを訪れた英国人といわれる。ジョーンズの場合,舞台美術家としての活動から生じた建築への関心を決定的にしたのがイタリアだった,というべきであろう。とくに17世紀初めのイタリア再訪は,パラーディオとジョーンズを結びつけた点で,かれにとってもまた英国建築にも重要であった。続いてイタリアに赴くのは,その世紀末のトマス・アーチャーや18世紀初めのジェイムズ・ギッブズで,ともに英国ではバロック的な作風をもつとみなされる建築家であった。このうち,ギッブズは当時ローマで著名だったカルロ・フォンタナのアトリエで修行し,建築家となった。18世紀前半の英国建築は,よくパラディアニスムの時代といわれるが,それを主導したバーリントン伯爵は短期間であるがイタリアを訪れ,パラーディオの図面の蒐集などもおこなった。かれにみいだされたウィリアム・ケントはローマで長く,とくに絵画を学んでいた。この時期まで,地中海に向かった英国建築家の数は限られ,その多くは建築についてアマチュアであった。こうした建築家にとっては,イタリアの建築は同時代また古代建築に関わらず,まず鑑賞,あるいは観察の対象であったように思われる。
18世紀中頃になると,地中海と英国建築家のこうした関係に変化が生じてくる。ウィリアム・チェンバーズは,単にヨーロッパだけでなく中国も歴訪し,中国の建物に関する著書を公刊するなど,建築に対する広い見識を示した。他方,ジェイムズ・ステュアートとニコラス・レヴェットなどは古代ギリシア建築の考古学的な実測調査をてがけた。観察から一歩踏み込み,実測をとおして,建物を実証的・科学的に捉える方向が,この時期以降,英国の建築家にも育まれることになった。またジョージ・ダンスはこうした実測を経験し,当時英国では古代ローマ建築に関しては規範であったパラーディオに誤りのあることに気づき,その驚きを率直に表している。18世紀中頃以後,地中海をめぐる建築を自らの眼で捉えるようになったことが,英国建築を新古典主義へと変化させていく契機となったといえよう。
18世紀後半の英国建築を代表するロバート・アダムがイタリアや古代遺構を訪れた目的は,建築家としての素養をつみ,新たなパトロンを得るためもあったが,建築家の成功に出版物が肝要であるという認識から,その着想をえることも背景にあった。スパラトの古代ローマ皇帝,ディオクレティアヌスの宮殿の実測に加わり,いちはやく図集として世にだしたことはその現れである。建築表現では,古代ローマ建築を発想の源泉とする一方,細部には明らかにされつつあった古代ギリシア建築をすでに採り入れている点が,アダムの特徴といえる。19世紀前半にかけて活躍したジョン・ソーンは,イタリアにあるとはいえ,古代ギリシア神殿も実際に眼にした。そらから受けた印象は,ソーンが自らの建築表現とさらに建築観を形成していくうえで重要な働きをしている。またソーンにとって,こうした古代遺構をできればそのままの形で英国において建築家を志すものにみせようとする構想が生まれ,これはのちにソーン美術館として具現化する。ソーンは古代ギリシア建築を極めて高く評価したことでアダムやチェンバーズと異なるが,それは実際にその建築を眼にしたことをつうじ,建築自体のもつ力をかれが感じ取ったからといえるだろう。19世紀になると,古代遺構とりわけギリシア建築は,英国建築家にとってより身近となった。エルギン卿がパルテノンの破風彫刻などをもたらしたし,また陸続と古代建築の実測図集も出版されたからである。しかしそうした状況は,新しい建築的創造と必ずしも直截結びつくものではなかった。むしろ,ギリシア建築を意匠のみで使う傾向,あるいは古代ギリシアの観念的な意味を強調し,また流行として捉える方向となったからである。
英国建築家にとって地中海とは,新たな建築表現の体験と認識であり,鑑賞,観察から実測へという摂取の相異は英国建築の変化の起因ともなりえた。そこに英国建
築家における地中海の意味をみることができる。
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秋期連続講演会「芸術家の地中海遊歴−15世紀から19世紀まで−」講演要旨
ルーベンスのイタリア滞在
−−ネーデルラントの伝統との関連で−−
中村 俊春
1600年5月,23歳の誕生日を前にしたルーベンスは,アントウェルペンからイタリアへと旅立った。この才能豊かな若者は,ただちにマントヴァ公ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの関心を引きつけ,同年7月,公の宮廷画 家に任命される。以後,彼は,母の危篤の 報を受けて1608年10月に帰国の途につくまで,7年4ヶ月にわたって公に仕えた。このルーベンスのイタリア行きは,ネーデルラントの伝統に従って企図されたと考えられる。
ブルゴーニュ公フィリップのローマ行きに随行したヤン・ホッサールトが,道中の都市やローマで古代の遺跡をスケッチしたのは1508年のことである。それ以来,ヤン・ファン・スホーレル,マールテン・ファン・ヘームスケルクなどが次々とローマを訪れ,16世紀中葉には,ネーデルラントの画家たちにとって,イタリア旅行は,画家修業のための必要不可欠な過程と見なされるようになっていた。人文学者のランプソニウスは,自らの師で,画家であるとともに古代学者でもあったランベルト・ロンバルトについて,「彼は,故郷では,ただ膜を通してしか見ることができなかった・・・・ラファエロ,ミケランジェロ,ティツィアーノ,それにマンテーニャの諸作品を見るためにイタリアに出かけた」と述べている。古代彫刻と並んで,イタリア・ルネサンスの巨匠たちの作品は,ネーデルラントにおいても美術の規範となっていたのである。複製版画や模写から得られる知識だけでは不十分だと考えた画家たちは,オリジナル作品を見るためにイタリアへと出かけていった。
ルーベンスも同様の目的をもって南の国へと赴いたことだろう。したがって,彼がイタリア滞在中,非常に精力的に,多くの古代彫刻や,ルネサンスの巨匠たちの作品を模写したのも当然のことである。彼はまた,同時代のカラヴァッジョの新しい作風にも強い関心を示している。こうしたイタリア美術の学習成果は,生涯を通じて,ルーベンスの芸術創造の最も重要な源泉であり続けることになる。
今日,我々は,ルーベンスの作品について論じるとき,頻繁にイタリアの美術作品からの影響を指摘し,先例にもとづきながらも如何にそれを改変し,独自の世界を生み出したのかについて考察することが多い。彼の作品中に先例から借用が潜んでいることは,実は既に,彼の同時代人たちも明確に意識していたのであった。ただし,ルーベンスによる模倣は,決して否定的に捉えられていたのではない。サミュエル・ファン・ホーホストラーテンが述べているように,「この偉大な才能の持ち主は,これを受け取って,それに返答することができた」からである。当時の芸術愛好家たちは,こうしたルーベンスによる先例の「変奏」の仕方を見て取ることに,通としての喜びを感じていたのではないだろうか。
ところで,ルーベンスのイタリア滞在中の行動を検討してみると,自らを,言わば正当のイタリア絵画の継承者として位置づけようとする態度が極めて顕著なことに気づく。ルーベンスもそうであったように,通常,ネーデルラントの画家たちは故国で画家としての修行を終えた後にイタリアへと赴き,滞在中,自らの腕で生計を立てた。その点,芸術のための支出を厭わない多くの貴族や聖職者のいたイタリアは,理想的な環境を提供してくれたと言えるだろう。しかし,その一方で,イタリアの芸術保護者の間には,ネーデルラントの画家に対するある種の偏見が形成されていた。実は,その偏見は,ネーデルラント絵画に対する礼賛と表裏一体となっていた。というのは,15世紀にヤン・ファン・エイクが,油彩を用いた精緻な対象の描写を実現して以来,イタリアの美術愛好家にとってネーデルラント絵画とは,何よりもまず,衣服,宝石,動植物,風景など,およそ目に見える多様な事物の迫真的な再現において賛嘆すべきものであった。実際,16世紀のネーデルラントは,そうした技法を生かして,優れた風景画や肖像画を描く画家を輩出するようになる。イタリア人たちは,こうしたネーデルラントの画家たちの専門的な能力を高く評価する一方で,物語の内容を的確に把握し,人物たちを巧みに構成する必要のある歴史画の分野においては自国の画家たちのほうが勝っていると考えていた。それ故,ネーデルラント出身の画家たちは,イタリアにおいて,風景画家か肖像画家として登用されることが多かったのである。当然ルーベンスも,多くの肖像画の制作依頼を受けている。しかし,取るに足らない宮廷美人画の制作などは断るといった態度にも明らかなように,彼は,自分の才能が,大画面の歴史画や宗教画の制作にこそふさわしいものであると公言していた。そして実際,ルーベンスは,ネーデルラントの画家としては異例の,極めて重要な祭壇画の注文を得るようになるのである。
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ナント奴隷貿易商人 ギヨーム・グル
−−フェドー島の住民−−
藤井 真理
13世紀末のジェノヴァやヴェネツィアの船乗りたちがそうしたように,今日はジブラルタル海峡をこえて北へむかい,ブルターニュの海港都市ナントに立ちよっていただきたい。一寄港地として利用された時代から時はながれ,18世紀になるとこの都市はフランス第一の黒人奴隷貿易港として発展する。
ロワール河岸のフォス岸壁から出港した船は,西アフリカ・セネガルやギニア湾沿岸あるいは南のアンゴラ沿岸に接岸して,手もちの青色綿布や装飾品とひきかえに黒人奴隷を購入する。奴隷船はカリブ海のサン・ドマング島やマルティニク島をめざして大西洋を西進し,ここで奴隷を競売にかけ熱帯産品と交換する。砂糖や綿花をつんだ船は出港から約一年半ののちナントへ帰港する。ここにいわゆる三角貿易が完結するのである。同世紀のあいだにナント商人は,1,481隻の奴隷船を出港させ, 第二位のボルドー出港数(461隻)を圧倒している。こ の時代に活躍した奴隷貿易商人のひとりが,フェドー島Feydeauに屋敷をかまえたギヨーム・グルGuillaume Grou(1698〜1774)であった。
彼は,パリの小売商であった父とスペイン商家の出身である母とのあいだに生まれ,アムステルダムでの修業ののち,兄弟とともにアメリカ直行貿易をいとなみ,まもなく奴隷船を艤装しはじめる。有力なアイルランド商人の娘との結婚は,ギヨームの事業拡大を資金面でささえ,またナント実業界全体にひろがるグル家の姻戚関係は,彼の信用を強化した。ギヨームの奴隷貿易商人としての活動は,1740年から1756年のあいだに最盛期をむかえ,多い時には年12隻(1749年)の奴隷船の艤装主となった。また彼は,当時セネガル黒人奴隷貿易を独占していたフランス・インド会社と契約をむすび,ほかの商人には許されない特権事業への参入もはたして,ナント海運業を強力に牽引していったのである。
ナントの眼前を流れるロワール川にはいくつもの小島があったが,そのなかで市街地にもっとも近いそれはフェドー島と呼ばれた。度々浸水の害をうける同島について18世紀初頭の市政体は,堡塁による整備と石造橋建設を計画する。国際商業の伸長にともなって増加する来訪者を受けいれるためには,都市空間の拡充が必要であり,この観点から当初の計画では,島上での宿泊施設建設に重点がおかれていた。しかしナント海運業それ自体の急速な発展は,計画の具体的内容に影響をあたえ,実業界との結びつきがつよいジェラール・メリエが市長に就くと(1720年),島の整備目的は変化する。彼は島に波止場と倉庫を建設して,ここを商品積み降ろしの拠点にしようと考えたのである。市長のイニシアティヴにしたがって技師がえらばれ,フェドー島を海運・艤装都市ナントの前線基地にするための基礎工事がはじめられた。
海運の利便性を最優先させた島の整備計画は,有力業者の関心をひいた。当時のナントを代表する貿易商人たちは分譲地を購入し,流行建築家をやとって倉庫兼住居を建てはじめる。1752年ギヨーム・グルは島上でもっとも大きなもののひとつである邸宅を完成させた。小オランダ広場2番地とケルヴェガン通り32番地にまたがる土地に建てられた屋敷は5階建てで,一階の倉庫は波止場に接岸する船と直接に商品の出入庫ができるよう設計され,中二階は事務所として活用された。上層階はグル家の住居であったが,ここには共同事業者であるミシェル家が事務員を常駐させる部屋も用意され,彼らはまさに寝食をともにしながら奴隷貿易をいとなみ,事業を発展させたのである。1753年にはこの新興地に住む75家族のうちの41件が海上商業に従事しており(奴隷商人,船舶建造業者,材木商,遠隔地貿易船の船長など),フェドー島はまさに国際貿易都市ナントを凝縮する場所になった。
1930年代にはじまった島周辺の埋立事業の結果,現在ここにかつての島としての景観をえることはできない。しかし旧フェドー島の建築物を息づかせる装飾は,当時の住民たちの生き様をたしかに伝えてくれる。海の神ネプトゥヌス,商業の神メルクリウスを形どったマスカロンは,大海を舞台として活動する貿易商人のこころをあらわすだろう。また優雅で繊細な曲線をえがくバルコンの鉄細工は,彼らの彩られた日常生活の一面を容易に想像させる。大西洋へそそぎこむロワール川のながれを日々見つめ,アフリカへとこぎだしていく船を見送った奴隷商人たちは,いったいどのような人々だったのか。色あざやかな花々に飾られたグル邸を見上げた4年前の夏の思いが,私の好奇心をくすぐり,研究の原動力になっている。
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ミステリアスなイタリアに目覚めて
三津田信三
『ワールド・ミステリー・ツアー13』という全13巻予定のシリーズ書籍を企画・編集しています。
このシリーズは,1巻毎に「ロンドン」「イタリア」「パリ」といった地域を定め,その地の歴史的,文化的背景に彩られたミステリー・スポットを,そのテーマにふさわしく実際にその地に立ったことのある筆者に執筆いただくという企画です。
シリーズ・タイトルの「13」は,全13巻の意味もありますが,各巻毎に設けた13のテーマ(13章)と13人の筆者,また各章で取り上げる13の項目(例えば@ロンドン篇の「13軒の怪奇パブで一杯やる」など)の意も含んでおり,シリーズを通して偏執狂的に(私は特にアブナイ人ではありませんが)13にこだわっております。
この2月には最新刊のE「東欧篇」が出ますが,地中海学会の方が興味を持たれるのは,既刊のAイタリア篇でしょうか。この巻は水木しげる氏の「イタリアお化け紀行に驚く」という誠にユニークな章をはじめ,小池寿子氏がサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会,別名〈骸骨教会〉に言及し,島村菜津氏が非常に謎めいたイタリアの代表的な未解決事件〈フィレンツェ連続殺人〉の謎に挑み,竹山博英氏が身も凍る〈パレルモのカタコンベ〉に入り,巖谷國士氏が〈ボマルツォの怪物庭園〉を歩き,谷川渥氏が怪物の蠢く〈パラゴニア荘〉を訪れるなど,皆様ご満足間違いなしの13章から成っております。
ちなみに私は,13章目で「もっとも怖いイタリア映画13作を観る」と題して,大好きなイタリアの映画監督ダリオ・アルジェントの作品13作の紹介と,その特徴を13の項目に分けて述べております。
アルジェントはいわゆるホラー映画の監督ですが,ともすればB級やZ級?になりがちなホラー映画の中で,狂気さえ感じられる独特のカメラワークと,なんともいえない不安感を誘う戦慄の音楽と,ミステリ作家顔負けの大胆な仕掛けを施した脚本と,三拍子揃った傑作を撮れる稀有な人なのです。「撮れる」と書いたのは,「撮れてない」作品も多々あり,なかにはプッツンして(そう彼はプッツンします!)なんだこれはという破綻だらけの作品もありますが,一度アルジェントのファンになると,そんな中にも彼の歪んだ美学を見つけて,喜びに浸るようになります!! 彼のことを書くと止まらないので,このくらいにしておきます。
さて,こういう企画をするわけですから,いわゆるミステリーという分野には興味があります。惜しむらくも休刊した雑誌『GEO』の編集をしていたときも,独り「 ロンドン・ミステリー・ツアー」「ヨーロッパ・ゴースト・ツアー」「イタリア・ショッキング・ツアー」なる特集ばかりを企画していました。
しかし,元々ミステリ小説が好きなだけで,このシリーズのようにミステリアスなテーマと実際の地域(場)が絡む物件(!?)に対して,特に知識があるわけではありませんから,楽しみながらも結構苦しんでおります。個人的にはイギリスが一番好きなので,@ロンドン篇やDイギリス篇の構成はそれほど大変ではありませんでしたし,誰にでもできる企画ですが(おい,おい),あまり興味のない(と言い切る!)フランスを扱うBパリ篇やFドイツ/フランス篇などは,正直しんどかったです。
ただ,企画をしていて面白いのは,同じ切り口であるはずのミステリーそのものが,扱う地によって全く違った様相を呈することです。例えば,イギリスは怪談やミステリ小説の本場だけあって,全体のイメージとしては,お話や物語といったフィクションとしてのミステリー,また歴史的背景に彩られた史実に基づくミステリーといった色合いが強いです。対してイタリアは,ルネッサンスという非常に大きな背景の中,エロチシズムとグロテスクが混交した美術的なミステリー色が濃厚に感じられます。
このイタリアに抱いたミステリー観は,よく考えればそれほど意外でもないのですが,私にとっては大変心地よい発見で,それまでイタリアでミステリーといえばエーコの『薔薇の名前』ぐらいだったのが(そんなわけないか?),一気に興味が出てきました。
というからでもないのですが,8月刊行予定のH巻では「地中海篇」を考えております。そう思って辺りを見回せば,なんとここは地中海学会!! 決して意図したわけではありませんが,この文章が皆様への執筆依頼の予告のようになってしまいましたところで,筆を置きたいと思います。では,近々お目にかかれる日を楽しみにしております。
ちなみに,ミステリ小説にはどんでん返しが付きものですが,H巻の「地中海篇」も本年1月現在の考えですので,これが「北欧篇」に変わる可能性もあることを含みおき下さい。(編集者)