地中海学会月報 214
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1998|11  




   -目次-








学会からのお知らせ

*第23回地中海学会大会

 第23回地中海学会大会は大阪芸術大学(大阪府南河内郡河南町東山469)に会場を借り

て,来年6月26〜27日(土〜日)に開催することになりました。 プログラム等の詳細は

決まりしだい,おってご案内します。ご期待ください。

*第1回常任委員会

日 時:10月2日(土)

会 場:上智大学7号館

報告事項

a.第22回大会に関して

b.ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して

c.『地中海学研究』編集委員会に関して

d.文部省科研費に関して

e.研究会に関して

f.事務局委員に関して 他

審議事項

a.第23回大会に関して

b.電子化活動に関して 他

*会費納入のお願い

 会費を未納の方には,振込み用紙をお送りしています。学会財政難の折,至急,お振込みくださいますようお願い申し上げます。ご不明の点は,お手数ですが,事務局へご連絡ください。










表紙説明 地中海:祈りの場3

        スレイマン・パシャ・モスク/堀井優

 全てのムスリムに共通する「祈り」とは,唯一神アッラーを心に念じ,アッラーに対して礼拝すること以外にない。その祈りの場は,アラビア語で「マスジド」と呼ばれる。マスジドとは,礼拝の最も重要な部分である平伏(スジュード)を行う場所のことである。したがって,家の中であろうと町中であろうと,ムスリムが礼拝を行う場所は全てマスジドである。しかしこの言葉の狭義の意味においては,イスラームの教えにしたがってムスリムが礼拝できるように建てられた建造物を指し,いわゆる「モスク」の語源となった。

 ムスリム社会においてモスクの建設に寄与することは自らの名声につながるから,支配層の人達や大商人など,経済的な余力のある者は競ってモスクを建設し,収益性のある財産を寄進してモスクの維持にあてた。とりわけ支配者にとっては,金曜日の集団礼拝を行なえるような大モスクを建設することは,自らの支配権力の正統性と強大さを示すものであった。こうしてイスラーム世界の大きな都市には,各時代・各地域に特徴的な,さまざまな様式・規模のモスクが建設された。

 表紙と右の写真は,カイロの城塞(カルア,シタデル)の一角にあるスレイマン・パシャ・モスクである。かつて私は,カイロに留学していたあいだ何度か城塞を訪れたが,そのときは最も長い時間をこのモスクの中で過ごした。城塞観光の目玉である壮麗豪華なムハンマド・アリー・モスクよりも,城塞の北東部分の片隅にあるこのモスクの静かで質朴な雰囲気が,妙に気に入ってしまったからである。

 スレイマン・パシャ・モスクは,エジプトにおける実質的なオスマン朝支配を確立させたエジプト総督ハードゥム・スレイマン・パシャが,カイロに駐屯するイェニチェリ軍団の兵士のために1528年に建立したものである。カイロにおいて最初に建設された,オスマン朝様式に特徴的なドーム型モスクのひとつで,信徒に対して祈りの呼びかけを行うミナレット(現在は使われていない)も,トルコ各地のモスクに見られるように鉛筆状に細く尖っている。

 内部の,さほど大きくないT字型の礼拝室は,中央ド ームと三つの半ドームの真下にある。ドーム部分の内側には,『コーラン』第3章第189節「天の王国も地の王国もともに アッラーのもの。アッラーは一切をなす権能を持ち給う」以下,第194節の章句までが記 されている。側 壁上部には,アッラー,ムハンマド,それに4大正統カリフを示すメダ ルが埋め込まれている。側壁・ミンバル(説教壇)・ミフラーブ(壁龕)の装飾には大理石が使われ,この点ではマムルーク朝時代の伝統をひいたものになっている。メッカの方向を示すミフラーブはT字の 尾部に位置する。礼拝者はこの方向に向かって立ち,アッラーに対して平伏することになる。

 










春期連続講演会「地中海:善悪の彼岸」講演要旨

女性擬人像にみる善悪のイメージ

小池 寿子

 中世は,象徴とアレゴリーの森である。キリスト教の象徴世界と並んで育まれてきたアレゴリー世界が巧みに絡まりあって織りなされたこの森では,光と闇,善と悪の大きなふたつの力が絶えざる戦いを展開する。勝敗はおのずとあきらかではあるものの,闇と悪あってはじめて至福の輝きをえるのが光明の世界。「暗黒中世」の光彩は,何より,両者の陰影に富んだせめぎあいから生まれるのである。ところでそこに,この善悪ふたつ,いや,ふたりの巨人は,いかなるいでたちで登場するのであろうか。女性擬人像に託された善悪のイメージを,13世紀フランスのアレゴリー文学の白眉である『薔薇物語』を中心にたどってみたい。作者については,前編はギョーム・ド・ロリス,後編はジョン・ド・マン。それぞれ1230年頃と1370年頃に執筆されたとみられ,作風は大いに異なるものの,アレゴリーの伝統とその成熟を存分に味わうことのできる大作である。

 物語は,5月の麗しい愛の季節。主人公は,夜鳴鴬や雲雀や鸚鵡が大歓びで愛らしい歌を歌うなか,かぐわしく澄んだ大気に懐かれて,心地よい夢を見る。「眠りのなかで夜明けを迎えたような気がした」彼は,いそいそと身繕いをし,陽気に元気に町の外にでかける。小川のせせらぎに誘われながら,ずんずんと歩を進める彼の前にあらわれたのは,壁に囲まれた「悦楽」の園という名の庭園。そして,そこで彼が出会ったのは「ナルシスの泉」に映る美しい「薔薇の蕾」であった。

 こうして,「夢物語」という枠組みのなかで,中世の楽園である「閉ざされし園」で見いだした「薔薇の蕾」,つまり「愛」の探求がはじまるのである。

 さてまずは,この「悦楽の園」を囲む壁に描かれた10枚の絵を見てみよう。それは「憎悪」「悪意」「下賎」「貪婪」「強欲」「羨望」「悲哀」「老い」「偽信心」「貧困」という10人の女の姿で描かれた「悪」である。そして女性の姿をとった「悪」は,容貌,動作,身なりに「しるし」として表れている。たとえば,怒りと不機嫌の塊のような「憎悪」のむっつりとひそめた眉,つねづね何かを奪い取ろうと企む「貪婪」の鉤形に曲がった手,「悲哀」のほどけて乱れた髪,また,ほぼすべての「悪」女に共通した痩せて貧相な容貌。ついで,「強欲」の玉葱のような緑色,「悲哀」の黄疸にかかったような顔,「偽信心」の死んだように蒼白な顔といった身体の色。そして,うずくまる,やぶにらみをする,かきむしるといった動作。身体の特徴と身振りと色,衣服の色と装いかたによって,「悪」が規定されるのである。

 一方,「善」はここでは,「悦楽の園」の10人の男女として登場する。すなわち「歓喜」「悦楽」「愛神」「優しい姿」「美」「富」「鷹揚」「気高さ」「礼節」「若さ」である。彼らは,雪のように白く薔薇色さした肌,なだらかに弧を描く眉をもった容姿端麗にして繊細優美な人々で,朗らかにして軽やかである。その詳細は省くとして,美善一致の思想が貫かれ,若さと富という価値観が加わっている。

 ところで,善悪を擬人像の戦いとして描写する伝統は古く,キリスト教においては,古代以来の伝統を色濃く受け継いだ4世紀スペインの文人プルデンティウスの『プシコマキア(霊魂の戦い)』にさかのぼる。これは,人間の魂に潜む善なるものと悪なるものの内的戦いを女性擬人像の熾烈な戦闘として描きだしたラテン詩である。中世を通じてこの内的善悪の戦いは,写本挿し絵や教会堂彫刻として表現されてきたが,しだいに当初の荒々しい「戦闘」の要素はうすらぎ,身体的特徴やアトリビュートによって,そして『薔薇物語』の13世紀以降は,身振り,衣服,色という新たな「しるし」にとって代わるようになる。それはとくに,説教修道会による身振りの刷新や宗教劇の普及,また,文化の世俗化によってもたらされた変化であろう。中世後期の文芸の面白さは,まさに,この具体的で日常的,ともすれば卑俗な側面にある。そこには,キリスト教的善の世界から踏みはずし,悪の世界に転がり落ちる寸前の愉快な人間世界が描かれているのである。

 ところで『薔薇物語』の鍵を握る女性が「閑暇」であるのは示唆的である。彼女は麗しく「善」でありながら,人間暇があればろくなことは考えない,と欲望の端緒ともされていたのである。善悪あわせもつ人間を最後に支配し,導くのはむろん「神」であるが,この時代,死神もまた,大いなる水先案内人であったことを忘れてはなるまい。










 バイアに再現されたクラウディウス帝の離宮のトリクリニウム 

                   小森谷慶子

 イタリアの考古学誌『FORMA VRBIS』に,バイアの博 物館の新しい展示に関する記事が連載されたので,この夏さっそく足を運んでみた。

 ナポリ湾の北西端,ローマ海軍基地のあったミセーノとポッツォーリ港の間に位置するバイアのエピタッフィオ岬の先,海底7メートルに沈むクラウディウス帝の離宮のトリクリニウムが,1980年代の初頭に発掘された。それは緩慢な地盤沈下によって地上から姿を消したもので,中央に海水を湛えた洞窟の形をし,突き当たりのアプシスと左右の壁に穿たれた壁龕にみごとなギリシア彫刻の複製が飾られたニンフェウム(水仕掛けをもち彫刻で飾られた清涼な空間)であった。これが近年,同湾にそびえるアラゴン城内のカンピ・フレグレイ博物館に再現され,発見された彫像も修復されて展示されたのである。このバイアには当時,ヘレニズム彫刻の複製を製作する大きな工房があったが,発掘された彫像はもちろんそこでつくられたものである(新しく製作された複製はEURのローマ文明博物館に展示される)。

 当時,ボートによって仄暗いこのサロンに招じ入れられた皇帝の客人は,突き当たりのアプシスに,皇帝お気に入りのオデュッセウスが一つ目の巨人にぶどう酒を勧める群像を目の当たりにした。ホメロスの『オデュッセイア』の中のエピソードだが,中央に座って酒のお代わりを所望する巨人の像は博物館には再現されていない。左手には,短いキトン(チュニック)とマントを身につけ,腿と脛の筋肉を緊張させつつも勇敢に酒碗を差し出すオデュッセウスの大理石像が置かれている。表現と技巧はみごとだが,惜しくも像の頭部は貝類に食い荒され,首から肩にかけては海綿状にふくれている。右側には彼の仲間が酒の入った革袋を左腿に載せて酒を注ぎ足そうと構えているが,顔と右手が失われている。

 アプシスを飾るこの群像は,サロン中央の海水を湛える水鏡を表現したブルーのガラスに映りこんでいる。当時はこの水面に料理も浮かべられたようである。これを囲んでコの字型に横臥式の食卓がつしらえられていたが,両サイドに四つずつ穿たれた壁龕には,計八体のギリシア彫刻の模刻が置かれて客の目を引いていた。向かって左手の奥を占めていたのは,紀元前5世紀のコーレ(豊穣の女神の娘ペルセフォネ)の神像をもとにして製作されたと思われるクラウディウス帝の母后アントニアの像で,透かし彫りの入った冠を斜めにかぶっている。その左の手のひらには愛の童神エロスの像が乗り,アントニアの肩にもたれかかっている。これによって,彼女がアウグストゥスの姉の娘で,愛の美神ウェヌスを祖神にもつユリウス一族の血を引くことを想起させようという意図である。さらに手前には,彼女の夫でクラウディウスの父ドルースス(ティベリウス帝の弟),アウグストゥス帝,二度目の結婚でその妻となった祖母リウィアの各像が並んでいたとされるがいずれも置かれていない。

 右側の四つの壁龕には,二体の若い酒神ディオニュソス像に挟まれて,クラウディウス帝と悪名高き妃メッサリーナの間に生まれた子供二人の像が置かれていた。そのうちの左側の女児は,頬のふっくらとした愛らしい六歳くらいの長女オクタウィアで,柔らかくカールした髪に大粒のパールの髪飾りをつけ,ウェヌスのように衣装をしどけなくまとって幼い肩と胸を片方あらわにしている。一歳下の弟ブリタニクスの像はエロスを模したものであったかと思われるが,展示されているのは,プシュケの化身である蝶をつまんで炎にかざす手先のみである。いずれも彼らがまぎれもなくユリウスの血統であることを暗黙のうちに明示している。

 そもそもクラウディウス帝は,ユリウス氏族の血が流れているとはいえ,クラウディウス氏族の男である。同氏族は共和政期には(アッピア街道の建設者など)多くの要人を出した門閥であったが,アウグストゥス以来,皇帝たるものは養子縁組をしてでもユリウス氏族の男でなくてはならないというのが不文律となっていた。カリグラは兄の子だが,兄ゲルマニクスは伯父ティベリウスの,そのティベリウスはアウグストゥスの養子であった。クラウディウスは,養子縁組によってではなく,甥のカリグラを殺した近衛軍団によって擁立されたが,自分の皇位継承には血統の裏付けがあることをPRすべく,ユリウスの血を引く母后アントニアや子供たちの存在を,ここに招いたと思われる国賓や元老院議員ら貴人要人たちの視覚に刻みつけようとしたのである。

 やがてクラウディウスはカリグラの妹にあたる姪のアグリッピーナと再婚する。彼女はやはりユリウスの血を引く自分の連れ子ネロを帝位に就けようと,夫のきのこ料理に毒を盛る。義弟のブリタニクスを毒殺したネロは,妖婦ポッパエアに見入られてからは,母のアグリッピーナをもこの地で暗殺し,義妹にして正妻の,おとなしかったオクタウィアさえも島流しにして殺害している。それにしても,海底から引き上げられた幼い彼女の像の何とあどけなくて可愛らしいことか。










ジョルジョーネ作《テンペスタ》の19世紀の消息

高橋 朋子

 ジョルジョーネ作《テンペスタ》は,ヴェネツィアのアカデミア美術館至宝の一点で,今我々は,この美術館以外にこの作品を所蔵するのに最適な場を想像することはできない。ところが,もしかすると我々はこの作品を見にロンドンのナショナルギャラリーへ行かねばならなかったかもしれない,といったことに言及した興味深い論考(註1)がHauptmanによって提出されているので以下に紹介したい。

 《テンペスタ》は1508年頃(あるいは1506年か?)にヴェネツィアの貴族ベンドラミン家の注文で描かれたらしい。ミキエルという人物は1530年に「テンペスタ(嵐)とジプシーと兵士を配した風景」をベンドラミン家で見たと記録している。この絵が《テンペスタ》と呼ばれるのはこの記述に依拠している。ところが1601年のベンドラミン家の財産目録の記述を最後に,この作品のそれ以降の由来は不明となる。再度我々の前に記述上この作品が登場するのは1855年で,ブルクハルトが著『チチェローネ』に於いて,ヴェネツィアのマンフリンコレクションで見たこの作品のことに言及した時であったとするのがこれまでの通説であった。ここで紹介するHauptmanの論考の主眼は,ジョルジョーネの《テンペスタ》に関する資料をブルクハルト以前に辿ろうとするもので,ナショナルギャラリーの話はこの文脈の中で語られている。

 ブルクハルトがこの作品を見たマンフリンのコレクションとは,Girolamo Manfrinが自身の成した財で1787年にPalazzo Venierを手に入れ,そこに絵画を収集したことに始まる。1817年にはバイロンがこのコレクションを訪問していることから,マンフリンコレクションは,少なくともバイロンが訪れた頃には公開されていたと考え得る。バイロンはその数ヵ月後に,ジョルジョーネとその家族を描いた作品を見たことをその詩編『ベッポ』に於いて唱っている。ところがバイロンが唱ったその絵が,現在《テンペスタ》と呼ばれるあの作品であったという確証はない。マンフリンのコレクションには,かつてジョルジョーネの手に帰され,その当時《テンペスタ》よりはるかに高い評価を得ていた,男と女と少年を描いた三重肖像画があった。つまり大半の研究者は,バイロンが唱い挙げたのはこの三重肖像画の方であると考えてきたらしいとHouptmanは言う。

 1845年にはスイス人画家Charles Gleyreがヴェネツィアに滞在し,そこで見た絵画やモザイク,装飾模様などの模写を残した。その中の1葉に《テンペスタ》の模写も含まれている。この模写にはGleyre自身がジョルジョーネと記入している。従って《テンペスタ》はこの時点ですでにジョルジョーネの手に帰されていたことがわかるとHauptmanは推測する。

 1851年にマンフリンのコレクションが売りに出るという情報を得たロンドンのナショナルギャラリーは,さっそくこのコレクションを見積もっている。見積もりは評議員の一人が個人的に行なったものと,評議委員会の議事録として公式に残っているものがある。双方の見積もりの中に問題の《テンペスタ》と三重肖像画も含まれていた。前者の見積もりから,当時バイロンが『ベッポ』でジョルジョーネとその家族を描いたとして讃えた絵は,これまで考えられてきたように三重肖像画の方ではなく《テンペスタ》のことであったとHauptmanは指摘した。とするなら,かつて辻茂氏がその著『思想の画家ジョルジョーネ』に於いて,ベレンソンの見解を取り入れて,バイロンが見たとする作品を《テンペスタ》として語られたのは,慧眼であったといえる。

 一方評議委員会に提出された評価額では,三重肖像画が£2,500であるのに対して,《 テンペスタ》の方は£100 にしか見積もられていない。つまり《テンペスタ》 は当時全 く評価されていなかったのである。結局この時は見積もったもののそれ以上の交渉が行なわれなかったらしい。かくして《テンペスタ》はロンドンのナショナルギャラリーに所蔵とならなかったのである。

 この4年後にブルクハルトがこの作品をジョルジョーネの家族を描いたものとして紹介することになるのである。これ以降《テンペスタ》はその立場を一変させ,美術史上最も難解で,それ故多くの研究者を魅了する作品としての道を辿ることになり,金銭で見積もることのできない作品となったのである。

(註1)W. Hauptman, "Some new nineteenth-century references to Giorgione's 'Tempesta,'" The Burlington Magazine, CXXXVI(1994), 78-82.










イスタンブルの都市データと地理情報システム

浅見 泰司

 地中海諸国の地域研究においても,今後,地理情報システム(GIS)を利用した研究は, 空間情報データの充実 とともに増えてくると思われる。そこで,本稿では,GISの基本的な機能を紹介してみたい。

 空間情報データとは,場所を特定する位置データとその地点の情報を表す属性データとが組み合わされたデータを言う。「A国の人口はX人」という情報はすでに空間情報データである。2次元の位置に関するデータは,点データ,線データ,面データに分けられる。点データとは地点,線データとは線分もしくは連続した線分で表される線状のもの,面データとは面積を持つ領域を示す。「A国の人口はX人」という情報では,A国の領域(面デ ータ)の人口という属性データとしてXという値がある ということになる。

 図1はイスタンブルの都市データの一部を表示したものである。標高点のような点データ,道路・鉄道などの線データ,街区・建物形状などの面データなどが表示されている。これらは全て一緒に描かれているが,実際にはレイヤーといって,すべて異なる透明なシートに描かれているようなもので,表示したいものだけを選択的に表示したり,編集したりできる。

 GISの基本的な機能として,図形の属性を表示する機 能がある。属性としては,データ種類,位置情報,長さや面積,表示情報などの他,データとしての内容(建物利用種類,建物名,建設年代など分析者が入力した情報)がある。それらの情報をもとに検索もでき,特定の条件を満たす建物を選択するなどの操作ができる。

 ある図形から一定距離以内の領域という設定の仕方もGISが得意な機能である。この機

能はバッファリングと 呼ばれ,重ね合わせなども可能である(図2)。

 点データ,線データ,面データを有機的に関連づけるとトポロジーデータと呼ばれるデータに変換できる。すなわち,どの頂点がどの辺につながっているかが整理されているため,全体としてネットワークを構成するデータとして分析が可能となる。代表的なものは,最短路検索であろう。ある点からネットワーク上を通って,別の点まで行くのに最短の経路はどれかという問題を容易に求めることが可能である(図3)。

 古地図と現代の地図との重ね合わせも可能である。古地図をスキャナーで読みとると画像データとして読み込まれる。ただ,古地図は現代の地図のように位置が正確に描かれているわけではないため,補正する必要がある。そのために,ラバーシーティングという機能がある。これは画像データをゴムの板のように変形させて,補正する機能である。図4は,1941年と1995年のイスタンブルの地図を重ね合わせたものである。ガラタ橋の位置がずらされたことを簡単に見て取ることができる。

 GISには他に,ボロノイ図(最近隣利用の場合の施設 圏域図)作成,3次元表示,可視性判断など様々な機能がある。

 地中海沿岸諸国で,現代において海外研究者が自由に使える空間情報データはまだあまり整備されていないかもしれない。しかし,すでにラフなリモートセンシング画像は公開されており,今後は1〜3m程度の解像度のデータも公開される予定となっている。

 なお,GISに関しては近年多くの参考書が出版されて いる。例えば,下記の文献を参考にされると良い。また,GIS関連の研究は,地理情報システム(GIS)学会を中心として行なわれている。詳しくは,GIS学会のホームペ ージ(http://gisa.t.u-tokyo.ac.jp/)を参照されたい。なお,本稿の内容についての詳細な情報はホームページ(http://okabe.t.u-tokyo.ac.jp/okabelab/asami/ist-j.html)を参照されたい。

参考文献

安仁屋・佐藤(共訳)(1990)『地理情報システムの原理』 古今書院

岡部・貞広・今井(共訳)(1992)『入門 地理情報シス テム』共立出版

高阪・岡部(編)(1996)『GISソースブック』古今書院

                             (東京大学 都市工学)










図書ニュース

鼓 みどり 『女神−−聖と性の人類学』田中雅一編 共著 平凡社 1998年10月

福本 秀子 『フランスは可笑しい−−フランスで本を出してみれば』社会思想社

      1998年11月

<寄贈図書>

『ワールド・ミステリー・ツァー13 パリ編』小池寿子他著 同朋舎 1998年

『文藝別冊 追悼特集須賀敦子』河出書房新社 1997年『イタリアの詩人たち』須賀敦子 青土社 1998年










訃報 4月13日,会員の冨岡倍雄氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。

訂正 213号5頁「地中海トーキング要旨」左段を下記の通り訂正します。

14行(誤)キターラ→(正)キタラ

15行(誤)キタローデース→(正)キタロードス

19〜20行(誤)PoehlmannとChailley によるクロマティコン,エンハルモニコン二通りの  復元と→(正)PoehlmannとChailley によるクロマティコンによる復元と

20〜21行(誤)それらに基づいた演奏(パニアグラ,ハルリース)→(正)それに基づき  クロマティコンと解釈した演奏(パニアグァ)と,エンハルモニコンと解釈した演奏  (ハルリース)



地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話
03-3350-1228
FAX 03-3350-1229




 
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