地中海学会月報 213
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1998|10  




   -目次-

学会からのお知らせ

 

*会費口座引落について

 すでに,大会等でお知らせしておりますように,現在,年会費等を「郵便振替」等で実施していますが,1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施することになりました。

 「口座振替依頼書」については後日発送(1月頃)致しますので,お手元に到着次第ご返送下さいますようお願い申し上げます。

 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,会費請求データは学会事務局で作成しますので,個人情報については外部に漏れる心配はございません。

・会員のメリット等

 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。

 毎回の振込み手数料が不要。

 通帳等に記録が残る。

・事務局は会費納入促進・請求事務の軽減が計る。

・連絡事項

 「口座振替依頼書」の提出期限:

 1999年2月26日(金)(期限厳守をお願いします)

 口座引落し日:1999年4月23日(金)

 

*e-mail開設

 この度,学会ではe-mailを開設しました。事務局への連絡にご利用ください。

地中海学会アドレス: coll.med.komai@nifty.ne.jp



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表紙説明 地中海:祈りの場2

   ハラム・アッシャリーフと岩のドーム/山田幸正

 

 ユダヤ教,キリスト教,イスラームの3大宗教共通の聖都エルサレムは,ヘブライ語でイェルシャライム,アラビア語でクドスと呼ばれる。16世紀はじめオスマン朝によって築造された堅牢な石壁に囲まれた旧市街は八つの市門をもち,その内部は各宗派ごとにわかれた居住地区が形成されている。すなわち,その北西部はキリスト教徒地区,南西部はアルメニア人地区,中央部南側はユダヤ教徒地区,北東部から中央部にかけてイスラーム教徒地区となっている。そのなかにはイエスが十字架を担ってのぼったとされる「苦難の道」,ゴルゴダの丘の跡とされる聖墳墓教会など,キリスト教の聖地が数多く存在する。また,その南東隅部には,イスラーム教徒がハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖所)と呼ぶ区域がある。この区域はかつてソロモンが建立した神殿があった場所とされ,「モリヤの丘」とも呼ばれる。この聖域を囲む周壁の一部はヘロデ王時代からのものとされ,特にその西壁は第一神殿の遺構と考えられ,近代においてユダヤ教徒が「嘆きの壁」として重要視している。

 イスラームにとって,この地はメッカ,メディナに次ぐ第3の聖地であり,カーバ神殿に変更されるまで祈りの対象であった。ハラム・アッシャリーフのほぼ中央には,岩肌を露出した聖石があり,それを覆って黄金に輝くドームがそびえている。これが「岩のドーム」(クッバ・アッサフラ)である。この聖石は預言者ムハンマドが天界へのミーラージュに旅立った地点と信じられている。それを覆うこの建造物はウマイヤ朝第5代カリフ,アブド・アルマリクの命により西暦690年頃建立された,イスラーム最初のモニュメントである。

 全体に正八角形の平面プランで,その聖石を2重に歩廊がめぐっている。いわゆる「内陣」を形成している内側のアーケードは4本のピア(角柱)と,その間にそれぞれ3本の優雅な大理石の円柱がたち,それらをアーチで結んでいる。このアーケードは石造の円形ドラム,さらには木造のドームを支持している。一方,その外側のアーケードでは8本のピア,その各間に2本の円柱が立っている。この建物は平面・立面ともに,きわめて幾何学的に構成されている。たとえば,ドームの曲線が始まる位置(起きょう部)までの高さはほぼ内陣の直径に等しく,またその内陣の直径の半分は内側の歩廊幅に等しいのである。

 内部の壁や円柱,アーチには斑紋や縞の美しい大理石が用いられ,天井,特に内陣のドラムやドームは金と緑を中心としたモザイクが施され,大柄の植物文様を浮かび上がらせている。外壁のタイル・モザイクや,プラスターの格子のなかにはめ込まれたステンド・グラスはオスマン朝期の改修によるものである。

 岩のドームはモスクとして計画されたものではなく,平面プランが示すように,聖なる岩のまわりをめぐる繞堂(にょうどう)であって,巡礼者たちがカーバ神殿をめぐる宗教儀礼に通じる。その建築的モデルとなったのはビザンティンの殉教者聖堂とされる。そうしたプランや建築構成ばかりでなく,装飾技法においてもビザンティン美術を継承するものであった。聖都の新たな支配者となったイスラームはそれらを摂取し,継承するとともに,さらに優れた域へ導くこととなったのである。


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研究会要旨

 

9世紀初めのローマ美術

−−サンタ・プラッセーデ聖堂のモザイクを中心に−−

加藤磨珠枝

6月13日/上智大学

 

 8世紀から9世紀の都市ローマは,地中海都市というよりも西欧社会の一員として自らを意識し,巧みに政治的地位を確立していった。教皇権拡大の気運と共に再起したローマ教会の権威は,「カールの戴冠」を通じてアルプス以北の世俗的皇帝権力と結びつき,いわゆる西欧中世の形成を果たした。

 活発な対外政策と同時に,教皇レオ三世(在位795〜816)とパスカリス一世(在位817〜824)は,コンスタンティヌス大帝(在位306〜337)がもたらした「教会の勝利の時代」を模範に都市ローマの刷新を試みた。このローマの復古的芸術活動は,都市の経済復興と歴史的過去の再認識に支えられ,初期キリスト教時代のモニュメントに自らの起源を求めたのである。

 教皇パスカリス一世により再建されたサンタ・プラッセーデ聖堂はその代表作である。当聖堂の建築は,コンスタンティヌス帝のサン・ピエトロ大聖堂をかなり忠実に踏襲した三廊式バシリカである。モデルからの引用は,シンプルなファサード構成など外観の意匠,身廊と側廊を仕切る列柱に支持されたアーキトレーヴや独立性の高い袖廊などの内部構成,単一のアプシスや環状クリュプタ(これは6世紀に付加されたが当時は原型と混同された)といった内陣計画,さらには基礎や壁体に見られる建築技法,そして古代建築の部材再利用に際し行われた入念な寸法と材質の選択に至るまで,初期キリスト教時代の聖堂建築の意図的なリヴァイヴァルと考えられる。

 しかし聖堂内で観者を魅了するのは,当時の威光を留める見事なモザイク装飾であろう。中世美術の傑作とも言えるこのモザイクは,アプシス及び隣接する凱旋門型アーチ,内陣入口の同アーチの他,右の側廊の中央に建てられたサン・ゼノーネ礼拝堂全体を飾っている。アプシス中央には「テオファネイア」(神の顕現)が表され,その両側には使徒の仲介で殉教者の冠を奉納する聖堂の名義聖人,聖女プラクセデスとプデンティアナ,また聖堂模型を献呈する寄進者の教皇が示される。場面全体の構成は,背景を占める虹色の雲や棕櫚等の細部描写まで,6世紀のサンティ・コスマ・エ・ダミアーノ聖堂アプシスのモザイク装飾のタイプと一致する。また凱旋門型アーチを飾る黙示録場面(神秘の小羊と24人の長老の礼賛など)も,サン・パオロ・フォリ・レ・ムーラ聖堂を飾っていた初期キリスト教時代のモデルに基づいていた。

 さて従来の美術史研究では,9世紀初めのローマはリヴァイヴァルの側面が強調されてきた。それは聖堂装飾の図像プログラムやモザイク技法の復興(それ以前の約1世紀間,ローマでは大規模なモザイク制作は行われなかった)において明らかである。こうした動向は,カロリング朝美術の文脈で理解されることが一般的である。

 しかし当時のローマの制作環境には多くの謎が残る。なぜなら,ローマのモザイクの表現様式は,カロリング朝美術やビザンティン帝国本土のそれとは一線を画すからである。主な研究者は,我々のモザイクを「ローマ派」の名で呼び,都市ローマで発展し孤立した様式として位置付けてきた。こうした見解を単純にまとめると,当時のローマでは,新しく創設されたモザイク工房が初期キリスト教時代のモニュメントを参考に,独学で傑作を生み出したことになるが,果たしてそれは可能だろうか。

 以上の問題定義からサンタ・プラッセーデの表現様式に注目し,別の視点で作品を考察してみたい。当モザイク人物像は,簡潔な線的描写と強烈な色彩対比が特徴であるが,この線描を細かく観察すると,それが単に輪郭を定める黒い線でないことに気付く。白衣の衣紋線は緑や水色の線で表され,繊細な表情を生み出す。本来は色彩の微妙なグラデーションで表現されたドレーパリーの量感が,色幅を極端に限定した結果,色の帯としてサンタ・プラッセーデの線描に用いられたのであろう。

 興味深いことに,共通する色彩線描の様式が,ほぼ同時代の南イタリアに認められる。例えばテンピエット・ディ・セッパニーバレ(現プーリア州)の壁画や初期ベネヴェント絵画と呼ばれるグループである。また,シチリア島シラクサのサンタ・ルチアのカタコンベに残る8世紀末の壁画は,ローマのモザイクに再三登場する皇族風の聖女と非常に類似した造形的特徴を備えている。こうした観察から示唆される,ローマと南イタリア絵画との影響関係は,当時の美術史を考える上で重要である。

 9世紀初めのローマ美術は,一見初期キリスト教時代のモデルの従順な追随者として姿を見せる。この過去への憧憬という理念は,同時代のカロリング朝美術と共通する。しかし両者の造形上の類縁関係は薄く,ローマ美術はアルプス以北よりむしろ,南イタリアとの芸術環境の中で理解されうるだろう。初期中世美術の分野では,ローマは依然として地中海世界の一員であった。


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地中海学会大会 シンポジウム要旨

地中海と書物

パネリスト:秋山学/松田隆美/ヤマンラール・水野美奈子/司会:小佐野重利

 

 アレクサンドリアのムセイオンやペルガモンの図書館収蔵の焼失した膨大な数の古代の書物にはじまり,15世紀の活版印刷術の発明以後まで,地中海世界は世界有数の書物の生産を誇った。イタリアは1500年までに出版されたヨーロッパのインクナブラ(揺籃期印刷本)の総数の約42パーセントを生産し,スペイン各地やポルトガルにも印刷所が設けられ,またユダヤ人がイスラーム世界へ印刷技術を持ち込んだ。

 秋山学氏は地中海世界のギリシア語古典文学写本の伝承について,4世紀の教父バシレイオスの著述に見られる古典古代の異教文学の受容姿勢の継承・復興という立場から論じられた。イコノクラスム以後,いわゆるマケドニヤ朝ルネサンスにストゥディオス修道院のテオドロスがバシレイオスを典拠にイコン擁護および修道制の確立を推進し,その過程でイコン制作と写本制作が再興する。現存するギリシア語古典文学写本のほとんどがこの時期以後のものである。同氏はバシレイオスの弟ニュッサのグレゴリウスの著作にみられるモーセとバシレイオスの類比に基づき,モーセの律法板への「神の指」−−「神の指」は聖書では聖霊と同義−−の刻跡を聖霊の化肉であるとし,書写に携わる修道士写字生の活動の中に同じく聖霊の御業を認める。こうした神学的意義付けを経て,写本制作が修道院活動にとり重要になっていく。1405年ルネサンスの人文主義者レオナルド・ブルーニによりバシレイオスの『若人に』のラテン語訳が行われ,キリスト教的古典文化受容の基本姿勢が復興し,エラスムスに至るまでルネサンス人文主義の方向を決定づけた。1438/39年フェッラーラ/フィレンツェの東西統一宗教会議で再びバシレイオスに依拠して「聖霊の発出」をめぐる東西教会の対立を解消させたニカイアの司教ベッサリオンは,自ら収集したギリシア語原典写本の比類のない蔵書をヴェネツィア政府に寄贈した人物である。

 松田隆美氏は,グーテンベルクの『四二行ラテン聖書』をはじめとする慶応義塾大学所蔵の稀覯本の高画質デジタル画像を見せながら,グーテンベルク聖書の印行の後,1465年ローマ郊外スビアコのベネディクト会修道院にイタリア最初の印刷所が設立され,1467年ローマに移った経緯,とりわけ,1470〜80年に50の印刷業者を輩出したヴェネツィアについて詳述された。インクナブラの頁レイアウト(2欄形式)や彩飾(手彩色のイニシャルや見出し文字など)がいかに中世写本の伝統を継承しているか,インクナブラのベスト・セラーがとりもなおさず中世後期写本のベスト・セラーであったかを指摘された。ローマ体の人文主義的な書物やアルドゥス・マヌティウス印刷所のギリシア語原典書の出版で名声を博したヴェネツィアでも,1480年代半ばにはその手の書物の出版とその部数が減少する反面,ゴシック体のラテン語聖書や典礼書の出版が増大する。これらはまだ大型フォリオ判だが,1501年アルドゥスによる八折り判の小型書物の刊行開始により,印刷本は一段と大衆向けとなった。この判型革命により,活版印刷本は中世写本の伝統と袂を分かつ。

 ヤマンラール・水野美奈子氏は,オスマン帝国の書物について,特に美術との関係から話された。まず,コーランの作成を中心とするイスラーム世界の書物の展開をオリジナルからの綺麗なスライドを映写しながら,説明された。コーランの筆写と連動した書道(能書)の発展と7種類の文様絵画(tezhib)の確立,オスマン帝国の書物の有する総合芸術としての特殊性が,早くに異教徒によって活版印刷術を伝えられながらも,写本制作に固執し続けた理由の一つではないかとの見解を述べられた。

 司会の立場から,西欧における彩飾写本→木版印刷本→活版印刷本という書物の発展にともなう図像(イメージ)の伝播の変化や,印刷本の普及と図像の大衆化の関係について述べ,特に印刷本の刊行による図像の大衆化に対する16世紀学識者の戸惑い気味の反応を指摘した。以上の発表を基に会場の出席者を交えたディスカッションに入った。まず,書物制作における地中海地域の諸宗教徒・諸民族の文字への格別の思い入れ,イスラームの信仰の一形態というべき能書による聖典書写,ヘブライの神聖四文字,発明者の名まで伝わるアルメニア文字,キリスト教におけるイニシャル等が話題にあがった。音楽との関係では,楽譜の印刷出版にともない宗教音楽以外の世俗・楽器音楽が普及したとの発言があった。近代的な投資産業としての印刷業については,グーテンベルクら創業者たちの思惑に反し,発行部数が少なく経営的には多難な船出であったらしい。こうした議論が現在の書物のデジタル化の問題を考える一助ともなろう。

 最後に,拙い司会のため,十分に議論を尽くしきれなかったことが残念である。

              (文責:小佐野重利)


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地中海学会大会 地中海トーキング要旨

地中海:旅と音楽

パネリスト:片山千佳子/小柴はるみ/内藤正典/司会:西村太良

 旅先で偶然,耳にする歌や音楽がその場所の印象に強い影響を与えることは,われわれがしばしば経験するところだろう。しかし,地中海の長い歴史と諸民族の入り組んだ絡み合いの中では,音楽と旅の関わりも単なる旅人の感傷を越えて複雑な様相をみせてくる。今回の地中海トーキングでは,「旅と音楽」というテーマで3人のパネリストの方々にそれぞれの立場からの興趣に富んだ話を伺い,またその演奏や楽器を見せて,あるいは聴かせていただいた。

 先ず,古代ギリシア音楽を専門とされる片山千佳子さんは,過去へ遡る旅と音楽との出会いをテーマとして,画像と録音を使って古代ギリシアの音楽の復元をめぐる学者たちの尽きることのない探求の跡を辿ってみせた。紀元前5世紀の壷絵の図像の楽器(キタラ,アウロス)や演奏家(キタロードス,アウレーテース)の表現の細部から得られる情報に続いて,碑文やパピルス断片に残る40あまりの文字譜の内からエウリピデスの「オレステース」のコロス断片(v.338-334 P.Wien.G2315)についてPoehlmannとChailleyによるク ロマティコンによる復元とそれに基づきクロマティコンと解釈した演奏(パニアグァ)とエンハルモニコンと解釈した演奏(ハルーリス)が紹介された。オレステースの母親殺しに言及する劇的な言葉からすれば,それは悲しげではあるもののむしろ静かなメロディーだが,全体の印象として西欧音楽と比較するとその微小音程の使用などの点でむしろオリエント的ないしは小アジア的との指摘がなされた。

 次に,トルコの民族音楽を専門とされ,フィールドワークの経験も豊かな小柴はるみさんは,1969年にトルコでご自身が最初に手に入れられた美しいサズ(Saz)の 実物を持参され,アルメニア系の楽器製作者に床に楽器を直接おいてはいけないと教えられたこと,またトルコでは通常女性が手にすることのないサズを持って通りを歩いていて奇異の目で見られたエピソードなどを紹介し,トルコ音楽との出会いについて話されると同時に,バッハの無伴奏ソナタを思わせるような名手による絢爛たるサズの演奏を披露された。続いてエルヴィア・チェレビによって聴く者全てに悔悟の感情を起こさせると言われたネイ(あるいはナイ)という葦笛の実物と演奏が紹介された。これもイラン,アラブ,バルカン,ギリシアなどに広く見られる楽器だが,トルコでは主として宗教音楽に用いられている。これらの二つの代表的なトルコの楽器の演奏に見られる極度に微妙な音階には,西欧音楽で切り捨てられていった音楽が本来持っていた陰影に富んだ人間的な息吹と心が残っているのではないかと話された。

 最後に,トルコの移民問題の研究家でアラブ音楽にも造詣の深い内藤正典さんは,ドイツ国内だけで700万人 いるといわれるトルコ出身の出稼ぎ労働者や移民たちの調査を通じて知り合った,アムステルダムでミュージック・ショップを営むレヴェントという一人の若者の音楽について述べられた。トルコ国内の音楽状況は,アラベスクと呼ばれる演歌に近い民衆音楽と,西欧風なポップス,そして民謡に三分されているが,そのうち民謡については例えばクルド人の民謡は長く禁止された状態にあったように,近代トルコでは本来の文化的多様性が抑圧される傾向もあった。それがトルコの外に出ることによって,かれらの本来の音楽的ルーツのみならず,ヨーロッパという新しい環境の中での新しい可能性が開花しつつある。実際,このレヴェントという若者の憑かれたようなダルブサという太鼓の演奏は,内藤さんのヴィデオテープの映像を見なければどのように演奏しているのか判らないほどの多様な音色と技法に満ち溢れていた。

 それぞれ,個人的にも地中海の音楽に深く関わりをもってきたパネリストたちの報告だけに,楽器の構造から微小音階,あるいは女性と音楽の関わりにいたるまでパネリスト同士のみならず会場の参加者もまじえた興味深いトーキングがその後に続いた。期せずして地中海の文化的多様性についてのわれわれの認識を新たにすることができたように思う。最後にクレタ島の女性歌手による無伴奏の民謡を聴いて幕を閉じた。

                              (文責:西村太良)


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地中海人物夜話

ピエール・ドゥヴァルと「扇の一打」事件

工藤 晶人

 フランスの在アルジェ領事ピエール・ドゥヴァルが,アルジェリア侵略のきっかけをつくった人物として歴史に名を残すことになった顛末はつぎのようなものだ。

 フランス政府は1790年代にアルジェリアから小麦を輸入したが,その代金のアルジェ政庁に対する支払いは王政復古政府が成立してもなお滞っていた。その大部分は貿易を仲立ちしたユダヤ商人バクリとブスナッチの手にわたっていたのである。1818年にアルジェ太守となったフサインは,フランス政府による直接の支払いもしくはバクリらに対する督促を求めた。1814年から在アルジェ領事の職にあったドゥヴァルは,この問題の交渉にあたっていた。

 1827年4月,ドゥヴァルは,フサインとの会談中に彼の羽根扇で「三度乱暴に打ちすえられた」と報告し,アルジェを退去する。フサイン側の証言によれば,羽根扇を「二,三度軽くあてた」だけであり,それもドゥヴァルがバクリらと結託し,交渉の席でことさら無礼な態度をとったためだ,というのだが,いずれにせよこの衝突をきっかけに両国の関係は断絶し,事件から三年後の1830年にフランスはアルジェリアを侵略することになった。

 さて,「扇の一打」とよばれるこの事件の原因をめぐってはさまざまな見方がある。現代の歴史家は,バクリ,ブスナッチとドゥヴァルの結託を重くみることが多いようだ。こうした批判は事件直後からフランス国内に存在し,本国の国益よりもユダヤ商人の利益を優先して交渉を決裂させ,フランスを望まざる戦争にまきこんだ張本人,というドゥヴァルに対する評価を生んできた。なるほど,ドゥヴァルはフランス人であり,フランス政府の外交官として交渉にあたっていたのだから,彼にあびせられた批判は,一見もっともにも思える。

 ピエール・ドゥヴァルは,三代続いた有力なフランス領事館付き通訳官の家系の出身であった。通訳官は,もともとは海事国務卿の管轄下にあって,トルコ語,アラビア語に通じ,領事の活動を補佐し,ときには自ら領事として働くこともあった。イタリア系,ギリシア系,フランス(なかでもマルセイユ)出身者を中心とするいくつかの家系が形成されており,そうした家系の子弟は,フランス以外の土地で生まれ,少年期にフランスで専門教育をうけたのち,地中海の商港の領事館を転々として生涯の大部分をすごした。その人生は,コンスタンティノープルを頂点とする出世のらせん階段をのぼることにたとえられることもある。ピエールの経歴はその典型ともいえるもので,1758年にコンスタンティノープルの城外区ペラに生まれ,1765年から74年までフランスで学んだのち,アルジェに赴任するまでにラタキア,アレッポ,アレクサンドリア,バクダードなどで通訳官や書記官として勤務している。このように経歴をたどってみると,彼のアイデンティティが地中海世界に強く結びついていたことが想像できる。

 領事や通訳官は,革命期に外務省の管轄下に移されたが,その中心的な職務が本国の商業上の利便をはかることにあった点に変わりはない。そして,フランスと北アフリカの商業関係において,リヴォルノとマルセイユを地盤とする大商人であるバクリたちがしめていた位置の重要さを思うと,地中海人としてのドゥヴァルが彼らの利益を優先するのは,さほど不自然ではなかったのではないか。こう考えると,さきに紹介したドゥヴァルに対する批判は,誤りとまではいわずとも,彼ら地中海に生きた人物群に対する見方としてはやや一面的だといえるだろう。

 もっとも,ドゥヴァルやバクリが,国家による武力介入という結末に責任がないわけではない。フランス政府との関係を利用して,商業上の係争を国家間の紛争に変質させるきっかけを作ったのは,ほかならぬ彼ら自身なのだ。さりとて,事件から征服にいたるまでには両国内外の政治力学が作用していたから,ドゥヴァルたちの行動のみが征服の原因ではないことももちろんである。ひとたび国家間の紛争となれば,事態は謝罪要求から最後通牒,そして,すでに退潮いちじるしかったアルジェの海賊活動の禁止を名目とする征服へとエスカレートしていった。

 ともあれわれわれは,ドゥヴァルのエピソードに,ひとつの地域としての地中海の姿と,国家の集合としての姿という,ふたつの層に根ざした人物たちの交錯する様子をみることができるだろう。ところで,侵略直後のアルジェリアには,ピエールの甥アレクサンドル・コンスタンタン・ドゥヴァルが領事として赴任しているが,まもなく離任している。陸軍の占領地として植民地化がはじまったアルジェリアは,もはや,外交官である彼らの活動の場ではなかったのである。


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春期連続講演会「地中海:善悪の彼岸」講演要旨

 

中世の心象風景:天国と地獄

高山  博

 

 フランスはブルゴーニュ地方のオータンという小さな町に,12世紀前半に砂岩で作られたロマネスク様式の大聖堂がある。キリストの力によって病死後四日目に生き返ったとされるサン・ラザール(聖ラザロ)の名を持つこの大聖堂は,その身廊の柱の柱頭を飾る彫刻とともに,中央入口のタンパンに刻まれた「最後の審判」図でよく知られている。この「最後の審判」図は,ギスレベルトゥスという名の工匠によって1130〜40年頃に作られたものだが,そこに描かれた審判の情景と恐怖におびえ絶望に打ちひしがれた人々の様子は,850年を経た今でも見る者に強い衝撃を与える。18世紀の聖堂参事会員たちがこの図を漆喰で塗りこめたのもうなずけるほど,私たちの心を強く揺さぶるのである。

 中央に大きくそびえ立つキリストの左では,死者の魂が天秤にかけられて計量されようとしている。悪魔の一人は天秤に手をかけ自分の方に引き下げようとし,別の悪魔は天秤皿にカエルを投げ込もうとしている。一つの魂は大天使の衣の裾に頭を隠しておびえている。キリストの足の下には,墓から出てくる死者たちが描かれている。中央の天使の左側では,誰もが恐怖に身をよじり,頭を両手でおおい,うつ向いている。右側では,安堵と歓びに満ちた表情で前方を見上げている。絶望に沈む死者たちの上には,地獄の入り口があり,怪物リヴァイアサンが口を開けている。

 この図像を見ていた12世紀の教区民が,天国と地獄の存在を信じ,来るべき「最後の審判」におびえながら日々の生活を送っていたかどうかはわからない。私たちに,彼らの心のうちを確かめる術はないのである。しかし,彼らが,大聖堂を訪れるたびにこの恐ろしい「最後の審判」図を目にしていたことは間違いない。そして,繰り返し目にするこの情景が人々の心に深く刻まれ,彼らの心象風景の一部を形作っていたであろうことは容易に想像できる。

 このような「最後の審判」の図像は,オータンの大聖堂に限られたものではない。12世紀初頭に南フランスのボーリューの教会に現れて以後,多くの教会の扉口を飾っている。12世紀に作られたコンクの教会の扉口にも,天国と地獄,魂の計量の場面を含む「最後の審判」図がある。多くの人々は,このような図から天国と地獄を思い描き,自分が迎えるべき最後の審判をイメージしていたであろう。

 人々の心に,あの世のイメージを植え付けたのは,このような図像だけではない。聖職者たちは,説教の中で頻繁に地獄や天国,あの世に言及するだけでなく,聞き手の関心を引き,自分の話を信じさせるために,あの世と関わる奇跡物語や不思議な出来事を実話として紹介した。説教に利用されるそのような短い物語を例話というが,13世紀前半には例話を集めた例話集がいくつも編纂された。例話の中では,たいてい,ある人物が,あの世の人々,つまり,キリスト,聖母,聖人,死者,魔物,サタンなどと,出会い,不思議な出来事を体験する。そして,それまでの信仰によって窮地を救われたり,信仰に目覚めることになる。

 例話の中では,この世とあの世が分かちがたく結びついており,生者と死者がそのあいだを行き来している。生者は仮死状態であの世を訪ね,死者は蘇生してこの世に戻ってくるのである。そして,死者は生者の世界に影響を与え,生者は死者の世界に影響を与える。まるで死者の世界と生者の世界が一つの宇宙を構成するかのように,死者と生者は二つの世界をまたぎ,接触・交流するのである。

 このように,例話は,死後の世界とその世界の住人の実在を前提に,この世で起きた不思議な出来事を物語る。しかし,死後の世界が実際にどのようなものであるか,その情景や地理がはっきりと示されるわけではない。実話として語られる例話の場合,その主人公は常に現実世界に実在する人物として描かれ,現実世界とのつながりが常に意識されている。そのため,話の信憑性に疑義がもたれるような描写はできるかぎり回避されるのである。

 しかし,人々に天国や地獄の情景を知りたいという強い欲求があれば,その欲求を満たすものが現れてくる。12,13世紀においてその役割を果たしたのは,『アルベリックの幻視』(1115年頃),『ツンダルの幻視』(1149年),『ゲラルデスカ(1210〜1269)の幻視』などの幻視物語であった。仮死状態からの生還者が他界遍歴を語るという筋立てをもつ幻視物語は,古代以来の長い伝統をもつが,12,13世紀には,上記のような作品が広く流布し,ベストセラーとなっていた。

 例話の場合には主人公の運命が中心テーマだが,幻視物語の場合は他界の情景が興味の対象である。したがって,火の川や暗黒の谷,山,壁などで形作られるあの世の地形が具体的に描写され,地獄のおぞましい光景や裁きを受けた者の魂が責めさいなまれる様子が克明に描写される。これらの話を聞いた人々が,どの程度それを信じていたのか,知ることは出来ない。しかし,彼らは,間違いなく,この幻視物語に描かれた地獄や天国の情景,自分が受けることになる責め苦や快楽を頭の片隅に記憶したことだろう。

 教会の扉口に描かれた「最後の審判」図,説教の中に挿入される例話,そして,幻視物語。これらすべての中にあの世のイメージがある。現実社会におけるそれぞれの役割に応じて,その注目するところは異なるが,そのいずれもが「あの世の実在」を前提としている。歴史家たちは,この前提はこの時代の西欧キリスト教社会全体に見られる特徴だと考えている。人々の意識の中では,「あの世からの来訪者たちがあふれかえっていた」(ジャン・クロード・シュミット)というのである。


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<寄贈図書>

 

『ローマ古代散歩』小森谷慶子・小森谷賢二著 新潮社 1998年

『図説世界建築史 ルネサンス建築』P.マレー著 桐敷 真次郎訳 本の友社 1998年

JOURNAL OF ANCIENT CIVILIZATION, The Institute for the History of Ancient Civilizations 12(1997)

『日仏美術学会会報』日仏美術学会 17(1997)

『SPAZIO』日本オリベッティ 57(1998)

『地域研究論集』国立民族学博物館 1-2(1998)

『日本中東学会年報』日本中東学会 13(1998)

『エジプト学研究』別冊 早稲田大学エジプト学会 2(1998-2) 

『DRESSTUDY』京都服飾文化研究財団 33(1998)

『イタリア図書』イタリア書房 21(1998)

『古代文化』古代学協会 50-1〜10(1998)

『MECCJ』中近東文化センター 7(1998)

 

図書ニュース

 

片倉もとこ 『「移動文化」考』岩波書店 1998年7月

小島 俊明 『アシジの雲雀』(詩集)思潮社 1998年1月

小森谷慶子 『ローマ古代散歩』共著 新潮社 1998年7月

前川 道郎 『西洋の建築−−空間と意味の歴史』翻訳 ノルベルグ=シュルツ著 本の      友社 1998年7月

      『聖なる空間をめぐる−−フランス中世の聖堂』学芸出版社 1998年7月

 

 


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訃報 8月5日、会員の藤沢章氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。

訂正 211号11頁「意見と消息」欄の金窪周作氏消息中,

   「天主物語…」(誤)→「天守物語…」(正)


 
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