1998|9
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学会からのお知らせ
*10月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。
テーマ:シトー会とパッラヴィチーノ家−−北イタリア・エミリア地方における
シトー会建築とゴシックの受容(12〜13世紀前半)−−
発表者:児嶋由枝氏
日 時:10月24日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
エミリア地方のシトー会建築は,同地方のロマネスク建築の伝統と融合した固有の様式を持つ。また,西欧の他の地域と同様にシトー会を通じて伝達されたフランス・ゴシック建築も独自に咀嚼されている。しかし,クロノロジーを始めとして,その具体的な状況についてはいまだ多くのことが詳らかでない。発表ではこの問題を,その背景にあると推定される封建領主パッラヴィチーノ家の役割に注目しながら検討する。
*第4回常任委員会
日 時:1998年2月28日(土)
会 場:上智大学L号館
報告事項
a.研究会に関して
b.『地中海学研究』XXI(1998)に関して 他
審議事項
a.第22回大会に関して
b.地中海学会賞・ヘレンド賞に関して 他
表紙説明 地中海:祈りの場1
ヴェッティー家のララリウム/島田誠
古代ローマの人々にとって,この世界のあらゆる出来事は神々の力によって引き起こされるものであり,神々と人間との間の協調関係が何よりも重大であると考えられていた。この協調関係は「神々との平和pax deorum」と呼ばれ,それこそが古代ローマにおける宗教の第1の存在理由であった。この「神々との平和」を実現して維持し,さらに協調関係の存在を確認するために,ローマ人は3通りの方法で神々と交渉していた。「祈り」,「犠牲(供犠)」,「占い」である。ローマ人は,「祈り」でもって神々に呼びかけて願いに注目させ,犠牲によって神々に願いを受け入れさせる気にさせて,その実現を確実なものとすることができた。また「占い」によって,神々の意思を知ることができた。
これらの三つの中で最も重要と考えられていたのが「犠牲」であった。神々への呼びかけである「祈り」の中でも,行うべき「犠牲」に言及されることが多く,時には神々が願いを聞き入れたときに返礼として「犠牲」を捧げることを約束する誓願votumも行われた 。森羅万象 の背後に多種多様な神格の存在を信じていたローマ人の町や村では神話に登 場する神々の祀られた壮麗な大神殿から野天の小さな境界石の前にまで無数の祭壇が設けられることになった。それらの祭壇では,人々が祈り,豚・羊・牛などの犠牲獣が屠られ,菓子や葡萄酒などの供物が捧げられていた。
無数の祭壇で祈りと犠牲を捧げられていた数多くの神々の中で,恐らくローマ人にとって最も身近な神格であったのがラールLar(複数形ラーレースLares)と呼ばれる神々である。コンピトゥムと呼ばれる場所(田園の三つ乃至四つの農場の接する地点や市街地の四つ辻など)にラーレースを祀る祠が設けられ,そこで農事暦の終わりを告げ,奴隷と自由人が一緒に参加するコンピターリア祭が祝われていた。なお帝政期にはコンピトゥムの祠に祀られるラーレースは「アウグストゥスのラーレース」と呼ばれるようになり,「アウグストゥスの守り神genius Augusti」も合祀され,そこでの祭儀は皇帝礼拝の一部となっていた。他方,ラーレースは個々人の家を守護する神格でもあり,各戸にララリウムLarariumと呼ばれる祠もしくは神棚が設けられていた。ララリウムには,普通2柱のラーレースと家父長の守り神であるゲニウスgeniusの彫像が安置されるか,それらの画像が描かれており,奴隷を含む家族たちは日々ララリウムの前で祈り,供物を捧げていた。
表紙に掲げた図は,ポンペイの「ウェッティー家(casa dei Vetti)」のアートリウムの壁に設けられたララリウムである。長いトーガを纏って頭を覆っている中央の人物がゲニウス(家父長の守り神)であり,短いテュニカを着た左右の人物がラーレースである。なお下部の蛇は「家(土地)の守り神」を象徴していると考えられる。
春期連続講演会「地中海:善悪の彼岸」講演要旨
『アラビアンナイト』と悪女譚
−−心の傷と癒しの物語−−
杉田 英明
「アラビアンナイト」の名で親しまれている中東世界の一大説話集『千夜一夜物語』は,8世紀に『千物語』としてアラブ世界に登場して以来,長期間に亘って緩慢な成長を遂げ,13〜14世紀のマムルーク朝時代にはほぼ300夜からなる現在の形態の原型が整えられ たものと考えられている。この原型に近い14世紀の写本に基づく校訂版が1984年,ムフスィン・マフディー博士によってライデンから刊行され,最近ではその英語訳も入手可能となっているのは周知の通りである。1001夜が完備した現行のブーラーク版やカルカッタ第2版テキストと並行してこれらを利用すれば,原『千夜一夜物語』を纏め上げた編者の意図や説話集全体の主題も一層明確に把握できることだろう。
シャハラザードとシャハリヤール王とを主人公とする「序話」に始まり,「商人と魔王」「漁師と魔王」「荷担ぎ屋と3人の娘」「3つの林檎」「せむしの物語」など,現行の説話集の最初の方に集められた一連の物語は,ライデン版にもほとんどそのままの形で収録されていることからわかるように,いわば編者の意図を体現した重要な説話群である。そこでは,黒人奴隷との密会・姦通によって夫を裏切る悪女の物語が繰り返し現われる点に特徴がある。しかも,その悪女像の背景には,『コーラン』第12章で語られるヨセフと,彼を誘惑する主人の妻−−『旧約聖書』「創世記」ではポティファルの妻,後世の中東世界ではズライハーの名で知られる−−との物語が重ね合わせられているのである。「まったく,お前たち[女性]のたくらみは大したもの」inna kayda-kunna‘azimunという聖句こそ,「序話」で発せられ,説話集全体に響き続けるキーワードだと言ってもよい。
では,こうした悪女譚がここに意図的に集められたのは何故だろうか。説話集内部の問題として考えれば,それは編者が,物語全体を〈心の傷とその癒し〉という構想に即した形に整えようとした結果に相違あるまい。要するに『千夜一夜物語』とは,悪女の裏切りによって心に傷(jurh「深手」)を負ったシャハリヤール王に対する,賢女シャハラザードの癒し(khalas「救い」)の物語なのである。シャハラザードは,あえて王の心の傷に触れるような悪女譚を繰り返し語り続けることで,物語によってその傷を癒そうとする。これは,現代風に言えば一種の物語療法(mythotherapy/ Erzähltherapie)にほかならない。実際,シャハラザードを心理療法家とする解釈は,今世紀初頭のアドルフ・ゲルバーを嚆矢として,最近ではフロイト理論に拠るブルーノ・ベッテルハイムやユング理論を活用したジェローム・クリントンらにまで受け継がれている。ただし,現代の心理療法では患者自身が箱庭や絵画の制作を通して自らの心を癒すのに対し,ここでは患者が聞き手に廻っている点に違いがある。
また,こうした構造を持つ物語集全体とその外部に存在する聞き手ないし読者との関係を問題にした場合,編者はそこに独自の主張を籠めたと見るのが自然であろう。つまりそれこそが,全篇の主題ということである。これは受け取り手に応じてさまざまの解釈を許容しうる。例えば「序話」冒頭の「先人たちの行跡は後人たちへの教訓となっている」という言葉を受けて「物語は教訓を与える」,または「良い物語は生命を購う」といった主題を取り出してくることもできるだろう。その場合,『千夜一夜物語』とは,物語る行為自体に関する物語だということになる。また,フェリアル・ガズールが「産む者は死なず」elli khallif ma mat というアラブの諺を引いて説明するように,シャハラザードは言葉(1001夜の物語)と子供(3人の王子)とを産み出すその豊饒性によって死の宣告に打ち勝ったのだ,つまり死は生と再生の衝動によって打破されるのだという主張をここに聞き取ることも可能かもしれない。
『千夜一夜物語』を楽しむ方法の一つに映画があり,エジプトでは1940年代に,この説話集を素材とした映画が 5篇ほど製作されている。なかでもフサイン・スィドキー,サーミヤ・ガマール主演,フアード・ガザーイルリー監督の『シャハラザード』(1946年)は,シャハラザードとシャハリヤールの枠物語に専ら焦点を当てた珍しい作品である。残忍なシャハリヤールの人物造形には当時のエジプト国王ファールークへの専制批判が籠められていると言われるが,そうした政治的意図を別にしても,ここには癒し手としてのシャハラザード像がはっきりと描き出されている点が何より興味深い。原作の編者の意図を真摯に受け止めたこの作品が,たんなる娯楽作品とはまた違った味わいを持つのも蓋し当然のことと言えようか。
地中海学会賞を受賞して
荒井 献
学会の事務局長から受賞のお知らせを受けたとき,私は一瞬耳を疑いました。学会賞というものは,比較的に歳の若い,将来性のある,有能な学徒の研究業績に与えられるものとばかり思っていたからです。歳を重ね,将来性に乏しい私の業績は,授賞の対象外ではないかと。
ところが,私が予想していた学会賞は,地中海学会の場合「地中海学会ヘレンド賞」であって,「地中海学会賞」とは別にあることを,この度はじめて知りました。このことは,私がいかに地中海学会に対して貢献度が少なかったかということを,はしなくも露呈したことになります。実際,私はちょうど10年前,1988年に仙台の宮城女学院大学で開かれた第13回大会に出席し,「地中海文化と女性−−パウロとコリントの女性たちの場合」というタイトルで公開講演をしたこと,その後の懇親会で妻と共に酒樽の「鏡割り」をしたことを覚えていますが,その後は一度も大会に出ていないのです。
にもかかわらずこの度学会賞を出して下さったのは,かつて日本学士院賞の対象となった私の処女作『原始キリスト教とグノーシス主義』(岩波書店,1971年)以来私が今日に至るまでこの分野の研究を何とか維持してきたことに対して「ご苦労さま」と言って下さったものと了解し,喜んでいただくことにいたしました。学士院賞の時は,天皇制が絡んでいたこともあって,内心忸怩たるものがありましたが,この度は気持ちよく頂戴いたします。
もっとも,『月報』210号に載った授賞の理由を読み ますと,授賞の直接の対象は,私が最近編訳者の一人となって公刊された二つの翻訳シリーズ,すなわち『新約聖書』(全5巻,岩波書店,1995〜1996年)と『ナグ・ハマディ文書』(全4巻,岩波書店,1997〜1998年)のようです。これらのシリーズで翻訳(訳注および解説)を担当した者はいずれもかつて私のゼミ生で(東京大学人文科学研究科西洋古典学専攻),現在はその殆どが大学の教師であります。その中でも,両シリーズで私と編集作業を共にした佐藤研君(『新約聖書』)と大貫隆君(『ナグ・ハマディ文書』)は,いずれも事実上の編集責任者の役割りを果たしました。この二人がいなければ,これらの翻訳は代に出なかったと思います。要するに,これらの翻訳シリーズはかつてのゼミ生(現在の同僚)私との共同作業であって,私の単独の業績ではありません。この度の賞は私共の共同作業メンバーを代表して私がいただくつもりでここに出てまいりました。
『ナグ・ハマディ文書』は,第1巻「救済神話」が1997年11月に,第U巻「福音書」が1998年1月に,第V巻「説教・書簡」が5月に公刊されており,9月に公刊される予定の第W巻「黙示録」をもって完結されます。この最終巻の原稿〆切が今月末で,私は,現在,私担当の「ヤコブの黙示録」の翻訳に四苦八苦しているところです。この「ヤコブの黙示録」はナグ・ハマディ写本Xの中に第三,第四文書として二種類収録されており,前者を「ヤコブの黙示録 一」,後者を「ヤコブの黙示録 二」として区別いたします。「ヤコブの黙示録 一」は訳了し,目下「ヤコブの黙示録 二」にかかっているところです。
このヤコブは,「主(イエス)の兄弟ヤコブ」なのですが(ガラテヤ書1章19節,2章9節参照),「ヤコブの黙示録 一」でも「ヤコブの黙示録 二」でも,イエスとヤコブが肉体上の兄弟であることは否定されています。
今日の午前中,私がここに出てくる前に机上で頭を悩ましていたのは,「ヤコブの黙示録 二」の中でヤコブに向かって母がヤコブとイエスの関係について語っている文言のラクーナ(欠損箇所)をどう読むか,ということでありました。この文言は,邦訳すれば「あの人(イエス)はおまえ(ヤコブ)の父[ ]兄弟なのです」となります。[]の部分が欠けているのですが,この部分に英語ではfor, in respect of, on behalf of等を意味するコプト語の前置詞haを補うのが最も自然であろうという点では「ヤコブの黙示録 二」の本文の校訂者たちはほぼ意見の一致をみているのです。とすれば,この文言は直訳すれば「あの人はおまえの父[関係の]兄弟なのです」となります。
「父関係の兄弟」「父に関わる兄弟」とは何か。私には二つの可能性があるように思われます。その一つは,「ヤコブの黙示録 二」ではヤコブの父とイエスの父が別人と考えられているので,ヤコブとイエスが「父に関わる兄弟」であるとすれば,両者の父は兄弟とみなされている可能性がある。つまり,イエスとヤコブは従兄弟となります。これは,ヒエロニュモスの証言と一致するのです。もう一つの可能性は,「父関係の」の「父」を「父なる神」ととって,イエスとヤコブを「神の子ら」としての「兄弟」と見るものです。
こうして私は,若い同僚に支えられて仕事を持続できることに感謝しています。授賞ありがとうございました。
(6月27日,授賞式にて)
地中海学会ヘレンド賞を授賞して
過渡期,散文,有機性
澤井 繁男
もともと過渡期に関心があったと思う。大学院に進学したての頃は,中世末期のトスカーナ語で書かれた説話集である『ノヴェッリーノ』を研究対象にしようと考えていた。それがさまざまな事情から,三次方程式の解法を公表した北イタリア人カルダーノの自伝を翻訳出版(平凡社ライブラリー)することになり,それがきっかけとなって,ルネサンス期を象徴する百科全書的な知と向き合うようになった。有機的に関連し合う知と相性がよかったのであろう。カルダーノの会得した,数学・医学・魔術・哲学・思想などの文献に当たることとなり,やがてカルダーノの域を越えて,ルネサンス期の自然魔術の研究に入っていった。
日本で魔術と言うとおどろおどろしい黒魔術の方が連想されるようだが,私の研究対象とした自然魔術は,自然を客観的に見つめてその原理法則を見出だすというもので,近代自然科学の成立に強烈なインパクトを与えた分野である。黒魔術に対して白魔術と呼ばれており,代表的な人物に『自然魔術』全20巻を出版(拙訳『自然魔術』青土社)したナポリ人G.デッラ・ポルタがいる。彼は当時大活躍した魔術師,つまり自然魔術探求者である。人間の人相を扱った書物(拙訳『自然魔術・人体篇」青土社)も著わしている。現代人が読むと苦笑を禁じえない箇処もあるが,16世紀においては超一流の博物学の本であった。
自然魔術は自然をあるがままに見つめようとしたが,自然を生き物とみなして自然の背後に<神>を見出だそうとした隠れた学,つまりオカルト学であったために,その研究態度は近代的だったのに,ついに近代自然科学には至りえなかった。
前記のカルダーノもデッラ・ポルタと同じ思想的位置を占めている。この二人とほぼ同時代人にカンパネッラなる人物がいて,ちょうどかのガリレオと同時代に相当する。カンパネッラも自然魔術師で,ガリレオから知的影響を受けながら,みずからの枠を乗り越えられず,いわば<ねじれた位置>において,ガリレオ的知と相対することになる。
私は,まさにこの過渡期を生きるカンパネッラに惹かれ,ガリレオ的知とのせめぎ合いを活写した『ガリレオの弁明』を翻訳出版した(工作舎)。ガリレオを光とすると,カンパネッラは陰の部分の人であるが,そうした陰の部分にこそ,時代の本当の姿が映し出されると考えられる。ちがうであろうか。そして実際,16世紀末から17世紀はじめにかけて,おおかたの知識人はカンパネッラ的考えを抱いていたのである。
カンパネッラも百科全書的人間で,代表作『太陽の都』にはさまざまな知が語られていて興味深い。この中で私は錬金術に焦点を当て,『錬金術』(講談社現代新書)を著わし,さらに,自然魔術と近代科学との相克を論じた『魔術の復権』(人文書院)を上梓した。こういう一般書を書くことで,少しでも魔術の何たるかを知ってもらいたいと希ったわけである。
また以上の研究と並行して当初抱いた『ノヴェッリーノ』の研究も行なって,説話を通してルネサンスを見つめようともした。つまり<散文>を介して文化を考えようというもので,実は魔術の思想も<散文>で語られているのである。
<文化>は自然と対立する語であり,人間の肉体的精神的営みの大いなる表現である。『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)を著わす機会を得たことは,<文化>をじっくり考える契機となり,以後,<ルネサンス文化>とは何かを考察の対象とするようになった。
抽象的な議論に陥ってはならず,つねに説話で描かれる視点を保持して生身の文化の経緯を凝視していきたいと思っている。その一環として『ルネサンスの知と魔術』(山川出版社)を今年の5月に出版した。
ルネサンスはひとつの知の有機的表現だと,少なくとも私は考えている。ルネサンス人のように知的万能人にはなかなかなれないが,万能人を志向して生きることは可能であり,研究もそうありたいと希望している。
「死海運河」・夢と現実・part 2
平山健太郎
海抜マイナス400メートルの内陸低地にある死海に地 中海から海水を導入し,水力発電 や淡水化に役立てよ うという構想が,中東和平への順風を背景に浮上していた事情を以前紹介させていただいた(『地中海学会月報』177号95年2月)。要約すると,死海の殆 ど唯一の水源 であるヨルダン川の水を,過去20年以上に亙ってイスラエルが上流のガリ ラヤ湖から都市用水や潅漑用水として汲み上げるようになったため,天然状態では年間10億トンと推定されているその流水量が3分の1に激減。このため死海は流入する水量と蒸発のバランスが崩れて,水位が著しく下がってしまっている。この流入量の減少分を海水の導入で補いつつ,その海水自体を一部淡水化し,また落差を利用した水力発電にも役立てようという構想だ。19世紀,この死海を経由して地中海と紅海を結ぶ水路の開削を夢想する人々がいたことなども先に紹介させていただいたが,その紅海から死海へ,地中海からと同様の目的で海水を導入する構想も,ヨルダン王国のプロジェクトとして,競合的に登場していた。
カサブランカ,アンマン,カイロと,和平プロセスの失速にしたがい,期待度を薄めながらも毎年続けられてきた「中東・アフリカ経済会議」でイスラエル代表団が提示する総合開発計画書の中でも,この死海運河構想は,これまた優先度とページ数を少しずつ下げながら,生き残ってきた。流会すれすれの低調さが伝えられた97年晩秋のドーハ会議でも,僅か数行ながら,地域の水資源開発の一環として言及されている。(余談になるが,地中海−死海−紅海を水路で結ぶ19世紀の構想の中には,海水面のレベルでヨルダン川峡谷をすべて水没させてしまう案もあったというから,万一これが実現していたとすれば,死海はもとより,海抜マイナス200メートル余の ガリラヤ湖やエリコ(ジェリコ),ベイト・シェアンなど多くの集落も水没してしまい,パレスチナをめぐる20世紀の歴史も大きく変わっていたかも知れない)
さて前稿では,海水導入の候補ルートが3本あると記したが,このうち候補からまず消えたのが中央ルート,ガザから最短距離で死海に至るルートである。山を越える80キロもの区間にトンネルを掘るコストがその最大の難点とされた。イスラエル側の関係者が,本命のルートとして現在考えているのは,いわゆる北方ルート。ハイファの南にある小都市ハデラに取水口を設け,イスラエル最大と言われる同地の火力発電所の熱源を利用した第一次の脱塩を行う。こうして塩分の薄められた海水は,イスラエル・ヴァレーと呼ばれるなだらかな斜面を,導水路でガリラヤ湖の南にある遺蹟の町ベイト・シェアン(海抜マイナス200メートル)に導かれ,ここで落差の 水圧を利用した「逆転浸透法」で脱塩を完了する。こうして得られた淡水は,近くのガリラヤ湖にポンプで送りこんで貯水し,一方淡水化プラントから排出される濃縮された塩水は,ヨルダン川にほぼ平行してその西側に設けられる排水溝で,死海に落とされる。良い水はガリラヤ湖,悪い水は死海に仕分けされてゆく訳だ。ヨルダン王国側は依然,紅海(アカバ湾)からの南方ルートに執心のようだが,いずれのルートをとるにせよ,工事にはそれぞれ30億ドルという巨額の資金が必要になるため,どちらかの一本にしぼった上,イスラエル,ヨルダン両国の合弁という形をとるしかあるまい。4,5年以内には結論を出さねばなるまいが,死海の東西両岸では,イスラエル,ヨルダン両国の業者が炭酸カリウム(肥料)を採取・精製する工場を持っており,海水に含まれる硫黄分の流入を嫌って,海水導入のプロジェクト自体に反対しているところから,計画断念という選択肢も残っている。・・・
こう話してくれたのは,前稿の取材源でもあった当時イスラエル経済省のラファエル・ベンベニスティ氏。エルサレムの帰属問題などをめぐって著名な元エルサレム市助役メロン・ベンベニスティ氏の実弟である。定年を前に今春退官し,世界銀行のコンサルタントに転身。周辺アラブ諸国との経済協力が先細っている昨今は,中央アジアなど開発の新天地を求めて東奔西走している。「死海運河・・・ひびきの良いプロジェクトですね・・・」と私。「シモン・ペレス好みのロマンですよ。・・・」とベンベニスティ氏は,ネーミングの由来を種明かしして苦笑していたが,この運河構想を付属議定書に盛り込んだ「オスロー合意」(イスラエルとパレスチナの和解)本体の方も,ネーミング倒れの夢想に終わることのないよう,心から期待したい。
19世紀以来の数多くの「死海運河構想」の資料の山を管理しているイスラエル地質研究所のヴァルダ夫人にも再会した。「About that canal, lots, lots of talks・・・」皮肉な微笑が,夫人の口もとをかすめた。
“烈烈たる”中世史家レジーヌ・ペルヌー女史を悼む
福本 秀子
ジャンヌ・ダルク研究の権威であり世界に名だたる中世史家,レジーヌ・ペルヌー女史が4月22日,88歳で永眠された。仏ル・モンド紙は「烈烈たる中世史家」と題する弔文を掲げ,フィガロ紙は「中世の貴婦人」という書き出しでその死を悼んだ。女史の教区にあるトマス・アクイナス教会で彼女の葬儀を主祭した司教は「中世と中世の女性たちは非常に人間的であった,とペルヌー女史は感じていたので中世の本をたくさんお書きになった」と述べたが,まさしく現代の中世ブームは女史に負うところ大である。女史は従来の「暗黒の中世」という妄説を破して,中世においてこそ女性は輝く,比類なき影響力を持っていたことを次々と証明していった。こうして生まれたのが「中世を生きぬく女たち』『王妃アリエノール・ダキテーヌ』等で,これらの拙訳が日本で出版されると女史は「この女性の地位という問題が,清少納言や紫式部を生んだ国以上に,よく理解される国がどこにありましょうか」と喜ばれたのであった。これら数々の啓蒙的著作の故に1981年と97年の2度にわたり,アカデミー・フランセーズ大賞を受賞されている。
女史の作品群を大別すると前記のような女性史の系列作品の他に,ジャンヌ・ダルクを主人公としたもの,十字軍や聖堂騎士団に関する作品,中世フランス文学史及び美術史を扱ったもの(ちなみに女史は,エクサアン・プロヴァンス大学で美術史の講師をしていた時,中世に深い理解を示した晩年のマチスと10年に及ぶ親交があった)に分けられる。
十字軍関係では『十字軍の男たち』『十字軍の女たち』等多々あるが,いずれも「参加人物を中心にすえた十字軍」で,ことに『十字軍の女たち』はこの未曾有の歴史的事件の中で,今までの歴史書が取りあげたことのない女性たちの演じた積極的参加,活動を描いて読者を魅了している。
ジャンヌ・ダルクの権威であり,アンドレ・マルローとともにオルレアンにジャンヌ・ダルク研究所を創立したペルヌー女史は1982年,東京・名古屋で開催された「ジャンヌ・ダルク展」の折に来日された。女史はジャンヌ自署の手紙を「腹巻きに入れて」飛行機に乗られたのである。筆者はこの機に女史の知遇を得てその作品の翻訳を始めた。そして日本にも多くなったペルヌー・ファンのために「ペルヌー女史と歩くフランス中世発見の旅」を企画し,毎年20数名と渡仏し,旅の最終日には女史の講演をきき,夕食を共にするのが例年の行事であった。今年の演題は「中世の女性のイメージ」の予定で,これは女史の最後の著書の題名と同じである。今までの講演は63年が「近代技術の発展と文化交流」,次年が「中世の女性の権威と現代女性の使命」,「アルビジョワ十字軍」とつづき,66年の「フランスの中世」の講演会の際には,フランス文化放送が取材に来て,我々参加者のつたないフランス語の挨拶も電波にのり,女史も喜んでおられた。昨年の演題は「ロマネスクの建築」で,スライドを使って分かりやすく話してくださった。女史の愛弟子V.クラン女史が館長をつとめるパリ大学医学部歴史博物館で講演は行われたので,そのあとの会食は同博物館の展示室で,ナポレオン一世の死体解剖をしたメスや18世紀の手術用のナイフ・ノコギリ等の展示に囲まれての夕食となった。
女史は自宅で息を引きとられたが,注射を打ちにくる医者に「延命のためなら打たないで下さい。私はそろそろジャンヌ・ダルクに会いに行きたいのですから」と仰った。女史の座右銘はジャンヌに関する古文書からとったもので,それは「すべての可能性は汝の内にあり」。女史を慕って来る人々を拒まず,その人々の中に内在する可能性をひき出して下さる先生であった。弟子の一人は新進作家に,あるいは共著者に,または図書館学芸員になり,筆者も弟子の末席として歴史書の書き方の指導を受け,フランス語で出版した日本女性史2冊には女史の序文をいただいた。女史は求めに応じて23冊の本に序文を記されている。その著書は100冊(内邦訳されてい るものは10冊)に近く,毎年行われるフラン スの図書 展のサイン会では,女史の著書はあっという間に本の山がなくなってしまう。昨年のポルト・ド・ベルサイユの図書展でも最新作『ジャンヌ・ダルクとナポレオン』(共著)のサインに応じて,あのほこりだらけの会場で2時間も元気な姿を見せておられたのだが。ペルヌー女史にお会いしたのはこれが最後となった。
いつもほほ笑みをたやさず,他人のためにつくし,しかしひとたび自己の信念に反する事態に出会うと一歩も引かぬ厳しさが読みとれる御人柄。フランス出版界で,最後の「19世紀的貴婦人」と云われていた燈は,こうして静かに消えていった。合掌
学会からのお知らせ
*秋期連続講演会
恒例の秋期連続講演会を11月7日から12月12日までの毎土曜日(計6回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)で開催します。各回とも開場は1時30分,開演は2時,聴講料は400円です。 テーマ,講演者は下記の通りです。奮ってご参集ください。
テーマ:芸術家の地中海遊歴−15世紀から19世紀まで−
11月7日 やはり放浪好きな近世の芸術家たち 小佐野重利氏
14日 デューラーのイタリア旅行 秋山 聰氏
21日 エル・グレコのイタリア時代 越川 倫明氏
28日 オリエントへの旅−19世紀フランスの画家たちと地中海− 三浦 篤氏
12月5日 英国建築家の地中海−アダムやソーンと古代建築− 星 和彦氏
12日 ルーベンスのイタリア滞在−ネーデルラントの伝統との関連で−
中村 俊春氏
*常任委員会
第5回常任委員会議事録
日 時:1998年4月18日(土)
会 場:上智大学7号館
報告事項
a.第22回大会に関して
b.役員人事に関して
c.協賛・監修事業に関して 他
審議事項
a.地中海学会賞・ヘレンド賞に関して
b.1997年度事業報告・決算に関して
c.1998年度事業計画・予算に関して 他
第6回常任委員会議事録
日 時:1998年6月27日(土)
会 場:慶應義塾大学三田校舎北新館
報告事項
a.文部省科研費に関して
b.第23回大会に関して 他
審議事項
a.第22回大会役割分担に関して
b.ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して
c.会費長期未納者に関して
d.家族会費割引に関して 他
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