2018年2月号,407号
目次
学会からのお知らせ
4月研究会告知
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参加ください。
テーマ:熊野における大会に向けて
発表者:第42回大会実行委員会
日 時:4月14日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13 秋葉原ダイビル12階
JR秋葉原駅「電気街口」改札からすぐ,つくばエクスプレス秋葉原駅 徒歩2分,
東京メトロ日比谷線秋葉原駅・末広町駅 徒歩5分)
参加費:会員は無料,一般は500円
2018年度の第42回大会は,国際熊野学会との共催により新宮市で開催されることになりました。熊野は,日本最古の聖地の一つであり,神武東征,徐福伝説,熊野御幸,山岳修験,南方熊楠,佐藤春夫,中上健次など人文諸学にとってトピックの尽きることの無い地域です。そこで,今回は熊野にお詳しいゲストをお招きして,大会に備えることができれば,と考えています。国際熊野学会代表委員の林雅彦氏(明治大学名誉教授)に同学会の沿革等について,南方熊楠顕彰会学術部長の田村義也氏に熊楠と熊野の関わりについてお話しいただく予定です。
第42回地中海学会大会案内
第42回地中海学会大会を2018年6月9日,10日(土,日)の2日間,
新宮市福祉センター(和歌山県新宮市野田1-1)において下記の通り開催します(予定)。
詳細は決まり次第お知らせします。
6月9日(土)
14:00~14:15 開会宣言・挨拶 田岡実千年氏(予定)
14:15~15:15 記念講演「熊野の魅力」 林 雅彦氏
15:30~17:30 地中海トーキング「世界の中の熊野」
パネリスト:高木 亮英/松本 純一/奈良澤 由美/守川 知子/
司会:秋山 聰 各氏
17:40~18:10 授賞式 地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
18:10~18:40 総会
19:00~21:00 懇親会
6月10日(日)
9:30~12:30 研究発表
13:30~16:30 シンポジウム 「聖なるモノ」
パネリスト:山本 殖生/奥 健夫/太田 泉フロランス/加藤 耕一/
司会:松﨑 照明 各氏
2016年度第5回常任委員会報告
日 時:2017年 6月10日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス法文2号館2階 教授会談話室
報告事項:研究会に関して/石橋財団寄付助成金の申請に関して 他
審議事項:第42回大会に関して/第41回大会役割分担に関して/総会議案書の確認 他
会費納入のお願い
今年度会費(2017年度)を未納の方は,至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。なお,新年度会費(2018年度)については3月末にご連絡します。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313
熊野における大会に向けてⅠ
新宮市へのアクセスと滞在のご案内
大会実行委員長 秋山 聰
2018年度の第42回地中海学会大会は,新宮市当局のご協力を得て,国際熊野学会との共催により,熊野三山の一つ熊野速玉大社がある和歌山県新宮市において6月9,10日に開催されることになりました。そこで,本号から3回にわたって,熊野地方について少しご紹介してゆきたいと思います。その先鞭を切って,今日なお交通の便に恵まれているとはいえず,しかしそれ故にこそ聖地の古来の様態をなお良くとどめている熊野へのアクセスについて簡単に記します。
鉄道を利用して新宮市に向かうには,名古屋もしくは新大阪から在来線の特急に乗り換える必要があります。名古屋からは特急「南紀」によりおよそ3時間半で,新大阪からは特急「くろしお」によりおよそ4時間で,新宮市に到着します。但し,後者が電化されているのに対して,前者はディーゼル車両ですので乗り心地にかなりの差があるようです。時間帯によって,東京から出ても,新大阪乗り換えの方がスムーズな場合もあります。夕刻であれば,紀伊半島を南下するに従い,夕陽が沈みゆく様子を賞翫できるかもしれません。学会初日は開始時刻を通常より1時間繰り下げ,14時に設定してあります。これは,東京を8時前後の新幹線で出発すれば,名古屋から「南紀」に乗り換えて13時37分に,新大阪からは9時前後の「くろしお」に乗ると13時15分に新宮に到着できるためです。なお,大阪方面からは近鉄特急を利用して松阪に至り,「南紀」に乗り換えるという方法もあり,時間帯によってはその方が便利であったりもするようです。
空路を利用して南紀白浜空港に到着する場合は,空港連絡バスでJR白浜駅まで行き,そこから「くろしお」を利用するという手もあります。東京からですと,JALが一日3便飛んでおり,1時間15分ほどで到着します。白浜から新宮までは特急利用で1時間45分ほど,普通列車利用だと1時間ほど余分にかかります。なお,関西空港からの場合は,JR日根野駅で「くろしお」に乗り換えて,3時間50分ほどで新宮に到着します。
東京からの場合,長距離バスを利用することも可能です。大宮・池袋から勝浦温泉行きの夜行バス(三重交通/西武観光バス)があり,池袋からは21:30出発で,新宮に翌朝7:35に到着するようです。なお,名古屋から新宮までは日中のバス便もあり,およそ4時間かかります。ともあれ,新宮市へのアクセスについては,まずは同市観光協会のホームページ(https://www.shinguu.jp/access)をご覧ください。
宿泊についてですが,会場となる新宮市福祉センターは,新宮市役所の向かい側に位置する施設で,新宮駅からも5分程度と便利な場所にあります。最寄りのホテルは,懇親会場にも予定している新宮ユーアイホテルとなります。最も新しいホテルはホテルニューパレス(「新宮」の英訳です)で,大浴場を備えています。もう少しカジュアルなビジネスホテルである新宮サンシャインホテルやステーションホテル新宮などからも会場はそれほど遠くありません。その他のビジネスホテルや,料理旅館,民宿,タクシーに相乗りすれば往来が可能な露天風呂付宿泊施設(高田グリーンランド雲取温泉)などについては新宮市観光協会の宿泊案内(https://www.shinguu.jp/spots/hotel)をご覧ください。那智勝浦や,本宮周辺の温泉街(湯の峰温泉や川湯温泉等)に宿泊し,朝夕タクシーや公共交通機関により通うことも理論的には可能です。
「新宮」の名は,神倉山のゴトビキ岩を祀る元宮(現在の神倉神社)に対する熊野速玉大社の呼称に由来するようですが,どちらの神社も徒歩圏内です。早朝の散歩には神倉神社がおすすめですが,ゴトビキ岩までは538段の急峻な階段を上る必要があり,とりわけ下りにはご注意ください。なお,新宮と呼ばれはするものの速玉大社は熊野の中では最も古い神社であり,紀元128年の創立と伝えられています。
大会2日目のシンポジウムは16:00に終了予定ですが,新宮駅を17時台に出ると,当日中に東京にも大阪にも戻ることができます。名古屋方面には17:30の特急「南紀」が好便で,名古屋には20:49に着きますので,東京駅にも23時前に到着が可能です。大阪方面には,同列車で松阪まで行き近鉄特急に乗り換えると,大阪上本町に21:16に,17:55発の特急「くろしお」を利用すると,新大阪に22:06に到着します。
なお,大会終了翌日の月曜日には,オプションとしてエクスカーションを計画しています。那智の滝で知られる那智山青岸渡寺および熊野那智大社や,八咫烏で有名な熊野本宮大社,さらには補陀落渡海の出発地,補陀落寺や伊弉冉尊(イザナミノミコト)の墓とも言われる花の窟(いわや)などをバスで巡るコースと,脚力に自信のある方々向けの多少とも熊野の山中に分け入るコースを設定しようと考えており,国際熊野学会のご協力を得て,プランを立案して改めてご案内する予定です。
研究会要旨
地中海古代神話と聖母マリア崇拝から
「オール・アバウト・マザー」の女性表象を読み解く
矢田 陽子 10月14日/首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
スペインのペドロ・アルモドバル監督作品の「オール・アバウト・マザー」は1999年度のアカデミー賞外国語賞を獲得したことでその名を国際的に知らしめた作品であり,アルモドバル女性賛歌三部作の一つとされている。
本研究では,女性の生き方を描いた「オール・アバウト・マイ・マザー」の構造と台詞表象を分析し,そこからどのようなスペイン独自の文化性が見られるのか,そしてその台詞の中にどの様なメッセージが含まれているのかの考察を進めた。
「オール・アバウト・マイ・マザー」は,表題の通り「母性」をテーマとする物語で,一人息子を交通事故で失い絶望の淵にある主人公のマニュエラが,友情に恵まれながら立ち直り,母としてのアイデンティティーを取り戻して再生していくまでを描く作品である。
アルモドバル作品は非常に個性的な特徴がある。なかでもこの作品はその特徴が際立っているのだが,それは男性登場人物が殆ど存在しないという点である。登場している女性にも夫や男性パートナーが存在しない,つまり男性が不在なのである。たとえ男性が登場したとしても,アルモドバルの脚本はすぐさまその存在を様々な形で抹殺してしまう。何故そのような筋書きなのか?
アルモドバルのこの「男性不在」の設定には,彼独自の明確な意図がある。それは,「女性が男性の保護に依拠せずに自分の力で逞しく人生を歩んでいく姿の表象」である。
女性主人公にとって苦しみや重荷となる男性の存在そのものを取り除き,真の意味で自立の道へといざなうのである。主人公の人生を彩るのは,男性の存在や結婚といったものではなく,強烈な個性を発揮しながら主人公を支えていく女性達である。
そこで,「男性不要論」とも取れるアルドモバルの女性賛歌の根源はどこにあるのかを探る為に,第一に,古代地中海文化圏に存在した女神神話にそのルーツを探った。
スイスの心理学者ノイマン(1982)によると,古代地中海圏には数々の女神:グレート・マザーが存在し,その女神達はそれぞれの地域で女権社会を形成していた。
欧州地中海圏には「動物の女主人」と呼ばれる女神が頂点に立つ,男性不要な社会構造が存在し,男性は女神や女性達を守る護衛隊として働き,たとえ女神達と関係を持っていたとしても一定の役割を果たした後はその社会から葬り去られるという運命にあった。大切にされたのは,母娘,姉妹,女友達,というように女性同士の繋がりであった。
スペインの国技でもある闘牛のルーツは,虐げられる運命にある男性が女性の前で自分の力を見せつける場であったという解釈もある。心理学者ノイマンは,スペインの闘牛はまさに「動物の女主人」の元に生きた男性達の闘いの形が現在にも引き継がれたものであるという見解を示している。
アルモドバルが示す彼の作品の構造は,常にこの女権社会の構造に符合するものがあり,男性を必要としない「動物の女主人」を彷彿とさせる「女性本来の強さ」を示す物語である。
ユングは神話,儀式,宗教,童話などには我々が思い浮かべる象徴イメージの祖が存在し,それを“元型”と名付けている。その元型は,我々人間の集合的無意識を構成しているのである。女神神話のグレート・マザーの存在はこの元型であり,我々の意識に存在し,それぞれの文化における象徴的イメージをつくりだす。「動物の女主人」の影は常にアルモドバル作品に存在しているのである。
第二に,母性の表象については,もう一つの「象徴イメージの元型」とも言える聖母マリア崇拝の要素から分析した。
聖母マリアはまさしくスペイン文化における女性の象徴イメージであり,特に,自己犠牲を厭わず,人の痛みに寄り添う「痛みのマリア,苦しみのマリア」のイメージは,女性自身の自己形成だけではなく,スペイン文化に育つ人間の精神性に今も昔も影響を与えうる存在である。アルモドバルの台詞の中には随所にその聖母マリア崇拝によって構成された精神性が存在する。
アルモドバルは映画作家としてそれを批判としてではなく,スペイン文化の大きな特徴として表象している事を,分析し確認した。
古代から現代へ,長く複雑な文化形成の中で培われた地中海性やスペインの精神性は,娯楽映画であるアルモドバルの作品の随所に見られ,アルモドバルは強くしなやかな女性の底力を表象するだけではなく,これから生き抜く為の精神的自立の必要性を大きなメッセージとしてこの映画に託している。
※本研究は,平成29年度科学研究費助成費(奨励研究:課題番号17H0012)を受けたものです。
オータンのエヴァ展を見て
高野 禎子
「オータンのエヴァ」といえば,ロマネスク美術に関心のある方なら大方ご存じのことと思うが,あの蠱惑的な眼差しと樹の間をぬうようにしなやかな肢体で,見る者を魅了する有名な彫刻である。そのエヴァ像が修復され,ルーヴル美術館での数か月の展示期間を経て地元に戻ってきた。そのお披露目をかねた記念展がブルゴーニュ地方オータンのロラン美術館で開催された。展覧会のタイトルは《EVE ou la folle tentation》。昨年の夏,展覧会の企画者から親切な案内状が届いたので,是非とも装い新たになったエヴァに会いたくなり,オータンを訪ねることにした。
石灰岩の明るい地肌を取り戻したエヴァは,以前の時代がかって黒ずんだ姿とは打って変わり,まるで今しがた彫られたばかりといった生命力あふれる姿で眼前に横たわっていた。そういえばサン・ラザール大聖堂のタンパン彫刻《最後の審判》も汚れがすべて落とされて淡いクリーム色の綺麗な姿に変わっていた。かの11世紀の修道士ラウール・グラベールの年代記にある「教会の白い衣」さながらの光景である。
今回の修復の結果,幾つかの発見があったという。一つには,エヴァが後ろ手で摘み取ろうとしている禁断の樹の実だが,修復されて汚れが落ちたため幾筋かの線条が現われた。その結果,形態的特徴から柘榴であることが確認された。柘榴といえば古代の女神プロセルピナやアドニス,アフロディテなど生命と死との二重の象徴性を備えた果実とされる。永遠の若さ,不死,さらに愛と多産豊穣の意味も付与され,キリスト教では受難や復活の象徴にもなる。一方エヴァの身体は横向きだが,その裸身を前と後ろから交互に挟むように生え出た樹木は垂直に伸びている。葡萄の樹といちじくの樹,さらに左端の樹は赤い実をつけるナナカマドの樹と同定された。その他エヴァの背後に迫る悪魔の蛇に鋭い爪があることも判明した。周知のとおりエヴァ像は大聖堂の翼廊部入口の楣石(まぐさいし)を飾っていたが,楣石全体の幅は約5.4mと推定されている。現在残るエヴァ像は2つの石材から成っており,その合計は1.34m。楣石右半分の約2.7mの中にエヴァと悪魔の蛇が置かれていたことになる。ロラン美術館ではエヴァ像の隣りに,悪魔の頭部と思しき像が展示されていた。同じ楣石の一部であったことが判明したとのこと。禁断の実をもぎ取り向かいのアダムにこっそり渡そうとするエヴァは,背後に迫る爪をたてた悪魔の形相にたじろいだのだろうか。それとも……,想像をかきたてられる光景である。
展覧会の見どころの一つに,内陣部にあった「聖ラザロの墳墓」の復原案がある。これはエヴァ像と同様1766年に破壊され,大理石の柱をはじめ多くの貴重な部材が散逸したが,それらを可能な限り集めて復元を試みたものである。石材の出自など資料的な価値も大きいが,何よりその大きさが圧巻で,大聖堂の内陣に鎮座まします「小聖堂」とも呼べる大規模なお墓である。そこには2人の聖女像,聖マルタとマグダラのマリアの姉妹がほぼ等身大で良く残されており,兄弟ラザロの遺骸を囲んで立っている。優美な衣紋とラザロの復活を目の当たりにした姉妹の奇跡にたちあう姿がとても印象的だった。
最後に大切な事を加えておきたい。今回カタログで強調されていたので初めて気付いたのだが,サン・ラザール大聖堂は通常のように東向きに建てられてはいなかった。シュベは南向きでやや東に偏っており,今日の入口であるGislebertus作《最後の審判》の彫刻のある大きな正面は,しばしば美術全集の解説にあるように「西正面」ではなく,北側を向いている。それ故エヴァ像のあった左側面の翼廊は東向きになっており,これは近くにあった旧大聖堂サン・ナゼールに最も近い入口として機能していたからである。12世紀半ばの巡礼達は翼廊の東入口を通って聖堂内に入り,北側から出たものと現在推測されており,《最後の審判》のある北正面は,巡礼の動線からすれば出口になっていたというのである。なお2011年に刊行された《最後の審判》の修復に関するカタログでは,この方角の間違いがきちんと訂正されている。
サン・ナゼール旧大聖堂では10世紀に聖ラザロの遺物を入手しており,それが1146年に現在のサン・ラザール大聖堂に移された。従って私が迂闊だったばかりでなく,実はV. Terret神父の著書(1925年)やD. Grivotと G. Zarnecki の著書(1960年)も方角を間違えており,こんな基本的で大事な点が検証されないまま日本の美術全集等に踏襲されてきたというのは,何だか不思議な気もする。虚心に物事を見る眼を養わなくてはいけないと改めて思い知ったことである。
イスタンブルのテクフル・サライ
――ある歴史景観の変容―― 草生 久嗣
イスタンブルの都市景観は,マルマラ海と金角湾に迫る急な段丘面のひな壇に並ぶ建物群によって特徴づけられ,海側から眺める者に強い印象を残す。街は喧騒と雑踏に満たされているにも関わらず,景観全体には不思議に静謐な安定感が漂う。それは居並ぶ史跡や大ドーム,尖塔といったアクセントが,風景上に不動の座標となり,歴史的景観の記憶をつなぎとめているからであろう。
旧市街の一辺を囲むテオドシウスの大城壁,その東北端近くにあるテクフル・サライは,ポリフィロゲニトスの宮殿とも称されたビザンツ遺構である。今は失われたブラケルナエ宮殿を構成した施設であり,タイル細工も飾られる壁面には,テオドシウス城壁同様ビザンツ時代を象徴する赤いレンガによる縞があしらわれる。三層建ての一層正面入り口にはコラムが配され,特徴あるマチコレーションやバルコニーによって瀟洒な小砦といった風格がある。建築の時期や由来は不明ながら,パレオロゴス家の盾章などから,後期ビザンツ建築の意匠や築法を今にとどめる「唯一の遺構」として学術的に高く評価されてきた。
ただ,これまでテクフル・サライは,近在のカリエ博物館(旧コーラ修道院)のモザイク人気に比して,市販の旅行ガイドに取り上げられることは少なかった。長きにわたりテクフル・サライは主体部の壁面しか現存しなかったからであろう。屋根はなく,内部に木製の床もなく,窓や明かりとりとしての開口部は壁面に確認できるものの,その調度や内部構造については分からない,文字通り「壁だけ」の遺構であった。
しかしそのテクフル・サライは,2011年ごろから開始された「復元」と「整備」を終えて,現在,実用に供せるホール(博物館展示室)に生まれ変わった。城壁地帯一帯は,当局の「イスタンブル歴史地区」における「保存」対象地域の一つとなっていて,その整備活動がすすめられている。赤い屋根がかけられ,窓枠はサッシの枠を備え,開閉ガラス扉がはめ込まれた。外壁の補強も内装も推して知るべしである。筆者は2014年春に,テオドシウス城壁を巡検する行程で,その変容ぶりに遠目から驚いた。たとえて言えば,アテネのパルテノンを,現在の建材と技術で不足を補い,完全復元した形であろうか。もともとファサードや外壁部分のみが有為な遺構としてあった旧構造物に,後から内部構造と内装を加えて「復元」とした形である。「ファサード保存」すら建築遺産の残し方として議論になる中,この対応は凄まじい。
批判的な記事によると,イスタンブル市長は屋根をのせることを喜び,監修の学者は修復に際して「17世紀のオスマンスタイルの住居建築を参考にした」ので,最善の対応であったと言い切ってみせた(Hurriyet誌,2014年5月5日記事※)。ビザンツ時代の史跡と謳いながらオスマン風調度ではおかしく,学術的な正確さを追求する姿勢には乏しかったと言わざるを得ない。ユネスコの世界遺産委員会および国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が査察対象とし(2017年6月2日付報告),トルコの内外誌文化欄のいくつかも,この復元に対し批判的であった。それでもほとんど学界内の声を喚起しなかったことからも,相応の危惧と関心の広がりを見せたとは言い難い。むしろイスタンブル内外で現在も進行中の他の懸念案件の一つに埋もれた感がある。米国のビザンツ建築史家のR.ウスタホートは,上記の批判的記事を米国内のビザンツ研究者ネットワーク上の回覧に供し,これ以外にも危機に瀕する遺構のあることを訴える(Financial Times誌, www.ft.com, 2015年6月5日※)。※閲覧はいずれも2017年12月9日。
筆者は,公式の改修報告書などを確認できておらず,また復元にまつわる学術的な評価については,専門家の発言にゆだねるしかない。ただ素人目にみても同市のこれまでの「実績」,テオドシウス城壁の整備・復元や,装いを新たにしたゼイレク・モスク(ビザンツ期のパントクラトル修道院遺構)の修繕など,往々にしてやりすぎの感が否めない。少なくとも,テクフル・サライの「史跡としての姿」は,最も深刻な形で「復原」不可能になってしまった。従来,あらゆる学術事典で壁だけだが貴重な遺構と長らく紹介されてきた姿は(Oxford Dictionary of Byzantiumのシリル・マンゴーによる“Tekfur Sarayi”記事ほか参照),かつての写真や専門書掲載の図版でしか認め得なくなったのである。
来る2021年夏,イスタンブル市内で第24回国際ビザンツ学会が開催される。そのころにはテクフル・サライに連なるブラケルナエの城壁からアネマス牢に至る「修復」も終わっていよう。そのとき,そしてそのときまでに,歴史学者は何を語るべきだろうか。
自著を語る91
『ウェヌス――豊穣からエロスへ――』
悠書館 2016年10月 178頁 2,000円+税 高橋 朋子
ウェヌスといえば,古代以来「慎みのウェヌス」とよばれる,裸体でコントラポストの姿勢で立つ女性像であろうか。しかし本書では,16世紀前半にヴェネツィアで流行した「裸体で横たわるウェヌス」を主として取り上げている。時に屋外の風景の中で,時に寝室のベッドの上で,あるいは娼婦の館で,蠱惑的な眼差しでその裸身をさらす馴染みのエロティックなイメージである。それにしても何故いまさらウェヌスなのか,もうすでに多くが語りつくされてきたではないか,といった印象を持たれる方も多いのではないだろうか。
本書で取り上げた多くの作品,ティツィアーノの《ウルビーノのウェヌス》《ウェヌスとオルガン奏者》《ダナエ》,そしてゴヤの《着衣のマハ》などは近年我が国の展覧会で目にすることができたし,展覧会カタログや付随する解説書も充実していた。また,過剰なほどのエロスを発散させるこのイメージは,心理学的側面から,またフェミニスムの立場から,格好の題材となり,多くの刺激的な試論が展開されてきた。しかしそうした考察の大半は,このイメージが発散するエロティシズムがあまりにもあからさまであったことから,描かれた女性は,この作品を享受する男性の恋人(あるいは娼婦)である,との立場にあらかじめ立って考察されてきたように思われる。
確かに作品の注文主である男性の正妻をセクシュアルなアウラを発散させる女性として描くとは,なかなか受け入れがたいかもしれない。もともとウェヌスは「愛」を司る女神であり,その「愛」の本質は「豊穣」すなわち「子孫繁栄」であった。一方「産む」ことが危険な命がけの行為であり,また嫡男誕生の祈願は真摯で切実であった時代にあって,確かに花嫁は重責を担っていた。その花嫁の「多産」(産む力)を保証し,また彼女が単に子孫繁栄の能力を有する「器」であるばかりか,美しくて魅力的な「器」である,つまり正妻がセクシュアルな魅力を持つ女性として描かれた,との解釈もまた可能ではないか。ジョルジョーネが描いた《ラウラ》と呼ばれる作品のモデルを新妻と解釈し,子孫繁栄が祈願された絵画である,と論じるために悪戦苦闘していたのは25年以上も前のことであった。その時ティツィアーノの《聖愛と俗愛》のモデルを新妻と解釈し,まさにこうした視点から論じたローナ・ゴッフェンの論考に出合った。その後もゴッフェンは,《ウルビーノのウェヌス》も同様の視点から論じ,ティツィアーノが描いたエロティックなウェヌスの解釈に対するそれまでの枠組みを,根底から変更するよう迫った。こうした考察を踏まえて,本書の前半は16世紀前半にヴェネツィアで描かれた裸体女性横臥像の解釈に集中する。そこでは花嫁の真摯なエロティシズムが,やがてあっという間に卑俗な恋愛遊戯のためのものへと変貌する様も解説している。
その一方で,ジョルジョーネの《眠るウェヌス》を出発とする「裸体女性横臥像」は,いうまでもなく裸体表現の問題でもあった。その頃ぴんと張った肌,柔らかで血の通った温かい女性の肉体を描かせたら彼に優るものなし,との評判を得ていたティツィアーノの筆の技は,王侯貴族,さらに教皇庁にまでパトロンを拡大させていった。そしてそれは中央イタリアの美術理論の頂点に君臨していたミケランジェロを刺激した。そこで後半ではミケランジェロとティツィアーノを競合関係という観点から捉え直すことで,ウェヌスが当時の社会でどのように受容されていったか,といった意味内容だけでなく,ウェヌスをめぐる美術家同士の確執,つまり中央イタリアの「素描主義」対ヴェネツィアの「彩色主義」という,16世紀イタリア絵画の基本的な対立構造の問題としてまとめてみた。
またティツィアーノは女性の裸体を様々なポーズで,様々な角度から鑑賞できるようにと目論んでいた。というのも彼は,スペインのフェリペ2世に対して女性裸体を「表向き」からと「後ろ向き」から楽しむようにと書簡で伝えていたからである。こうした「裸体女性横臥像」の享受(消費)態度は,その後のスペインの宮廷内で秘匿されながらも,しかしながら脈々と受け継がれ,最終的にゴヤの《着衣のマハ》《裸のマハ》へと結集していったと考えうることを最後に付け加えた。これもまた,ロンドン・ナショナルギャラリーでかつて偶然出会った論考を基に解説しているが,この最終章(「スペインの横たわるウェヌス」)を追加することによって,16世紀初頭に描かれたジョルジョーネの《眠るウェヌス》を嚆矢として,さらにティツィアーノを経由して,19世紀初頭のスペインにまで,描かれた裸体女性の見方が継承されていったその様を,一筋の流れとして捉えることができたと考えている。
表紙説明
地中海の〈城〉11:王妃の塔/村田 奈々子
この可愛らしいお城は,アテネの中心部から約6キロ北のイリオンにある「王妃の塔」と呼ばれる城である。王妃とは,ギリシア王国初代国王オトンの妻アマリアをさす。ドイツやフランスで目にする城とは比べものにならないくらい小さいし,このような「ヨーロッパ風」の城をギリシアで目にすることも,まずない。
近代のギリシア国家は,1830年にオスマン帝国から独立を勝ち取ることで成立した。その3年後,バイエルン国王ルードヴィヒ1世の次男で17歳のオットー(ギリシア名オトン)(1815-67)が初代国王として即位する。オトンは20歳でオルデンブルク大公の娘アマーリエ(ギリシア名アマリア)(1818-75)と結婚した。
オトンにとっても,アマリアにとっても,生地ではないバルカン半島南端の貧しい小国で,新しい暮らしをいとなむのはけっして容易なことではなかっただろう。夫がカトリック,妻はプロテスタント信者である王家に,正教徒であるギリシア国民は反感を抱きさえした。それでも国王夫妻は,彼らなりにギリシアを愛した。
王妃アマリアが残した仕事としてよく知られるのは,今日アテネの中心部にある国立庭園の造営である。
庭園の造営中,アマリアは,アテネ郊外に広大な土地を購入した。オスマン帝国時代にはチフトリキと呼ばれた小作人が耕す農地に,王国の模範農場を作ろうと考えたのである。
彼女は,当時のギリシア人の心をとらえていた「メガリ・イデア」(コンスタンティノープルを首都として全ギリシア民族の包摂をめざす領土拡張主義思想)を象徴するものとして,この土地にコンスタンティノープルと同じ7つの丘をつくらせ,それぞれにアルゴー船船員の名前をつけた。その際王家の別荘として作られたのが,王妃の塔である。ネオ・ゴシック様式の建物で,オットーの故郷バイエルンのホーエンシュヴァンガウ城を真似たといわれる。
完成したのは1854年8月25日。この日はオットーの父ルードヴィヒ1世の誕生日にあたる。城内で最も広い2階のホールには,ギリシア,バイエルン,オルデンブルクの紋章が掲げられている。青を基調とした壁と天井,亀甲文様の床,小ぶりな家具,ゴシック様式の照明は,アマリアのロマンチックな趣味を反映している。
オトンがあまりこの城を好まなかった一方で,アマリアはよくひとりで訪れたという。彼女はここで故郷のドイツを偲んだのだろうか。
城の完成からわずか8年後,国民の蜂起により,国王夫妻はギリシアから追放された。その後,城をふくむこの土地の所有者は次々に変わった。今日では,民間のワイン会社が城を管理している。
王妃の塔の入口では,ギリシアの民族衣装をまとった若き日のオトンと,この場所を愛したアマリアの肖像画が,今も静かに城を見守っている。