2023年2月号、456号
目次
学会からのお知らせ
第47回地中海学会大会について
第47回地中海学会大会は、山形県鶴岡市羽黒町のいでは文化記念館を会場とし、2023年6月24日(土)、25日(日)に開催されます。プログラムの確定まではもう少し時間がかかりそうですが、確定次第、ホームページでお知らせするとともに、次回月報に掲載いたします。24日は、出羽三山神社権宮司で、修験者としても名高い阿部良一氏にご挨拶を、出羽三山研究の第一人者で、岩波新書『出羽三山』の著者でもある岩鼻通明氏(山形大学名誉教授、地理学)に基調講演をしていただきます。「聖地と食べ物・飲み物」と題した地中海トーキングでは、地元から、おいしい精進料理で知られる神社内斎館の料理長や酒蔵経営に携わっている方々に登壇していただきます。25日は午前中に研究発表、午後はシンポジウムとなりますが、「修行とその周辺」と題して、権宮司や出羽三山歴史博物館学芸員の方々にご登壇いただき、聖地における修行や即身成仏などをはじめとする特有の事象についての比較や相対化をおこなえればと思います。26日(月)には、阿部権宮司の助言に基づいたエクスカーションを企画しているところです。羽黒神社三神合祭殿参拝や博物館見学、斎館での昼食(精進料理)、湯殿山本宮もしくは月山八合目訪問等を組み込んだものとなります。
4月研究会
4月研究会は事情により下記の通り、5月20日(土)に開催される予定です。
参加を希望される方は、学会ホームページのNEWS欄「研究会のお知らせ」に掲載されるGoogleフォームにて参加登録をお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールで Zoomアドレス等についてご連絡いたします。
テーマ:新刊紹介『帝国スペイン 交通する美術』について(仮題)
発表者:伊藤喜彦氏、松原典子氏、久米順子氏ほか
日 時:5月20日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料
要旨については、後日、学会ホームページおよび次号月報を通じて、ご案内いたします。
研究会要旨
コルネイユとレッシング―崇高の観念を手掛かりに―
田窪 大介
12月17日/オンライン会議システム(zoom)
ドイツの劇作家レッシングは、ハンブルク国民劇場の顧問を務めていた時期に『ハンブルク演劇論』を書いた。18世紀初期までドイツでは、ヨーロッパ他国のように演劇なるものがまだ体系化されていなかったため、フランスの演劇を手本にして演劇の改革の試みが行われた。その手本の一つとされていた劇作家コルネイユは、いわゆる『3つの演劇論』の中で、自分の悲劇理論が『詩学』に基づいていることを主張し、彼の考えているところの「完璧な悲劇」が「崇高なもの」であると言っている。『ハンブルク演劇論』の中でレッシングは、コルネイユの悲劇理論を批判し、『詩学』の解釈を行っている。本発表では、偽ロンギノスの『崇高について』を手掛かりにして、コルネイユとレッシングの悲劇理論の比較を試みる。
アリストテレスは、悲劇を「一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現」と定義し、人間が再現によって最初にものを学ぶことが自然な傾向であること、そして人間が再現されたものを喜ぶことも自然な傾向であることを詩作の原因としている。一方偽ロンギノスは崇高なるものを、言葉のある種の極致にして卓越であり、驚愕や驚嘆を通じて人間を忘我自失へと追いやり、喜びをもたらすものと定義している。演劇の目的が娯楽にあるとするコルネイユの主張は、「再現されたものを喜ぶ」というアリストテレスにおける詩作の第2の原因に対応している。他方、演劇の目的が道徳教育にあるとするレッシングの主張は、「再現によって最初にものを学ぶ」というアリストテレスにおける詩作の第1の原因に対応している。
アリストテレスは、悲劇の筋が「ありそうな形で、あるいは必然的な形で」展開するのが望ましいとする。このうち「ありそうな形」は、15・16世紀のイタリアやフランスの学者や演劇理論家たちによって「真実らしさ」として扱われるようになり、フランスでは本質とされていた。しかしコルネイユは、『詩学』の中で「ありそうな形」と「必然的な形」の順序を守られていないことを指摘し、真実らしさよりも必然的な形を重視すべきであると主張している。これに対してレッシングは、登場人物の心理に基づいた「内的な真実らしさ」こそ大事であると主張する。どちらの主張も、観客における視覚化が関係している。しかしその視覚化の要素となる視覚イメージ(パンタシア)や心像形成(エイドロポイアー)については、アリストテレスではなくて偽ロンギノスが『崇高について』の中で述べている。観客の視覚化についてコルネイユやレッシングが論じることができることには、偽ロンギノスの言うパンタシアやエイドロポイアーが影響している可能性がある。
そのような視覚化は悲劇の目的、すなわちアリストテレスが言うところのあわれみとおそれの惹起、そしてそれらの激情のカタルシスを達成するためのいわば土台に過ぎない。コルネイユはあわれみとおそれを、自分に似た者たちが不当に苦しむのを見た観客の反応感情として「憐憫」と「恐怖」として解釈する。その上でコルネイユは、カタルシスなるものが実際には生じないと主張し、代わりに観客の覚える驚きの感情としての「驚嘆」を悲劇の目的として提案する。驚嘆をもたらす悲劇こそ完璧なものとするコルネイユは、具体的な例として『ポリユクト』や『ロドギューヌ』といった自分の作品を挙げ、それらの劇作品を崇高なものとしている。
これらの劇作品を崇高かもしれないが不自然であるとするレッシングは、アリストテレスの言うあわれみを愛他的感情の「同情」として、そしておそれを登場人物と類似性から 観客の中で生じる「不安」として理解し、それらの激情を「徳のある能力」に変えることこそが悲劇の道徳的な究極目的であるとする。レッシングはコルネイユを通じて悲劇における崇高の観念を否定しているように見えるが、しかし偽ロンギノスの『崇高について』は、そもそも聴衆ないし読者が偉大な作品を通じて崇高なるものに気づく能力を拡大することを目的とした、一種の技法書であった。人格の陶冶という意味において、レッシングにおける悲劇の道徳的な究極目的と偽ロンギノスの『崇高について』の間に共通点を見出すことができる。
以上のように、コルネイユとレッシング、それぞれの悲劇理論には偽ロンギノスの『崇高について』との共通点がいくつかあることがわかる。ただしどちらの作家も『崇高について』を読んだとする証拠がないため、現時点ではそのような影響をあくまで可能性としてしか見ることができない。ただし18世紀以降のヨーロッパの美学において、崇高の観念は重要なテーマの1つであるため、コルネイユとレッシングの悲劇理論は、偽ロンギノスの『崇高について』の影響の通過点の1つとして見ることができるかもしれない。
アーティゾン美術館土曜講座 地中海学会連続講演会 「蘇生する古代」第2回要旨
中世キリスト教美術──古代の神々のゆくえ──
加藤 磨珠枝
「蘇生する古代」シリーズの第2弾は、西洋中世美術をテーマとして取り上げた。古代ギリシア・ローマ時代とルネサンスの中間に位置する1千年の歴史の中で、古代美術は、どのように受け継がれ、変容したのか、中世キリスト教世界における古代の神々のゆくえを追った。
導入として、中世における古代美術について、これまでの歴史観を紹介し、その変遷をたどった。西洋美術の「古典的なるもの」は、「ルネサンス」という概念とともに形成されていくが、それは1つの規範として独特の価値を有するものとなる。一方、中世は、古代との対比を際立たせるために、長らく衰微の時代ととらえられ、中世において古代美術は死を迎え、断絶したと考えられた時代もあった(ヴァザーリ)。
その後、パノフスキーらにより、古代美術は一度終焉するものの、中世における周期的な再生を経て、大文字Rで始まるルネサンスに再び蘇るという考えが一般的となったが、今日にいたっては、それは中世のあいだもさまざまな形で連綿と受け継がれてきたと見なされている。こうした理解のもと、本講演会では、中世に蘇生する古代の様相について、以下の3つの視点から論じた。
まず第1に、異教の神々とキリスト像との造形上の系譜について。キリストの身体的特徴については、聖書のなかに具体的な記述はなく、その肖像が生前に描かれたという形跡もないが、彼の容姿は、しばしば長髪を額で真ん中に分けて肩まで垂らし、豊かな髯をたくわえた壮年の定型で表される。この威厳に満ちた「全能者(パントクラトール)」たるキリスト像は、キリスト教が公認され「教会の勝利」の時代とともに主流となっていくものであるが、その風貌は、ギリシア神話の最高神ゼウスやローマのユピテル、さらにヘレニズム化したエジプト神セラピスにも共通する典型的な古代神像のタイプであった。
「パントクラトール」という呼称自体も、元来、ゼウスに与えられた尊称であったが、いまやキリストの代名詞として新たな意味を与えられ、古代最高神の姿は、キリストの神性を示すために効果的に流用された。ギリシア彫刻がローマ人に愛されて大量のコピーが制作される一方で、帝国内にキリスト教が広まった結果、4世紀末には異教神殿は閉鎖され、その信仰も禁止されることになった。異教の神々の美しい彫像は撤去され、時にキリスト教徒たちによって破壊されることもあったが、そのイメージは新たな信仰上の役割を与えられ、生き続けたのである。
第2の視点として、「古典の教養」として中世美術に横溢する異教主題に注目した。古代末期から中世にいたるまで、聖俗を問わず、知的階級にとって古典の教養は彼らの知的威信に重要な役割を果たした。彼らにとってホメロス、ウェルギリウスなど異教の神々と人間たちの物語は、読み書きを習うテキストとして用いられ、宮廷につかえる詩人たちはしばしば彼らの作品のなかに、神話からの引用や言及を盛り込んだ。皇帝、王、将軍たちは、軍神マルスや英雄ヘラクレス、あるいはホメロスの偉大な英雄アキレウスにたとえられ、女性たちはウェヌスと対比された。
美術の世界でも同様で、古代の神々や擬人像、優美なマイナデスやニンフ、そして英雄や半神たちは、信仰の対象というよりも、形骸化された装飾的要素、あるいは、豊穣や平和、愛といった抽象概念、寓意を体現する存在へと置き換えられ、異教神話を題材とする美術作品へと昇華されたのである。絵画、金属細工やタピスリーなど工芸品を中心に、異教図像がキリスト教徒の貴族たちの邸宅や調度品を飾った。この異教美術とキリスト教思想の融合は、ルネサンス時代に再び活性化することになるが、こうした文化の基礎を築いたのは紛れもなく中世であり、その造形表現に豊かな実りをもたらした。
第3の結びとして、中世ヨーロッパの空で、古代から変わることなく輝き続けた星座上の神々について論じた。夜の星空は、キリスト教化されることなく、古代の神話体系と表象を保ち続けた。カシオペイアにアンドロメダ、ペルセウスやオリオンの伝説はもちろん、黄道十二宮にいたるまで、これら異教神話の伝統は、中世においては天文学写本の挿絵を中心に数々の作品を生み出した。
古代バビロニアに始まり、ヘレニズム・ローマ文化のなかで体系化された天文学においては、宇宙を支配する太陽神から発せられる神秘の力が、惑星をはじめ天球を支配し、人間に影響を及ぼすと考えられていたため、星座となった異教の神々は人々の暮らしを司り、中世ヨーロッパから17世紀にいたるまで、神々の星が人間の運命を左右していると信じられ続けた。
アーティゾン美術館が所蔵する、20世紀アメリカのジョゼフ・コーネルの作品《無題(星座)》(1958-62年頃)にも、古代の天球図に遡り、中世から近代ヨーロッパへと受け継がれた星座図像が再利用されている。北極星の位置を示すこぐま座や、カシオペイアの夫であるケフェウス座を表す星座図像は、古代から中世をへて、20世紀アメリカ美術の詩的世界のうちに新たな生命を宿している。
ピタゴラスと古代地中海の熊を追え
大谷 哲
2019年5月の地中海学会月報(420号)に、「古代地中海人はホッキョクグマを見たか」と題して、古代地中海に残るシロクマ、あるいは「白い熊」(アルビノかもしれない)の存在を伝える証言をいくつかご紹介した。その際、地中海地域最古の「白い熊」の記述は、紀元前3世紀のプトレマイオス朝エジプトにおけるパレードで披露された「白い熊」の存在を伝える、ロドスのカリクセイノスによる著作(アテナイオス『食卓の賢人たち』5.201.Cが言及)に遡る可能性があると書いた。実は、それ以上に古い「白い熊」に関する記述が存在していた可能性が、1つある。
紀元前4世紀に生きた、かの有名な哲学者アリストテレスが、紀元前6世紀から紀元前5世紀初頭にかけて生きた哲学者ピタゴラスについて書き記した箇所の断片(R191)で、アポロニオス『奇談集』6で言及される形で残るテクストがそれである。國方英二訳(『アリストテレス全集』20巻、岩波書店2018年、240頁)から引用しよう。
「メタポンティオで荷を積んだ船が入港しようとしてきたとき、居合わせた人びとがその積荷のために無事に港に帰り着くことを祈っていると、ピュタゴラスが現れて、こう言ったという。「この船は、死体を積んであなたがたの前に現れるであろう」と。さらには、アリストテレスの言うところでは、カウロニアで白い熊が現れるのを予言した。」(メタポンティオ、カウロニアはそれぞれ南イタリアの地名)
実のところ、この断片テクストは、「白い熊…予言した」のところで原文が欠損している。それでは「白い熊」云々はどこから出てきたのかというと、紀元後3~4世紀の哲学者、イアンブリコスが書いた『ピタゴラス的生き方』142が根拠になる。そこにはピタゴラスがメタポンティオで船の積荷の無事を祈る人びとに死体が届くと予言したという、アポロニオスが伝えるのと同じエピソードの少しあとに、「またある人が彼[の見解]を聴きたいと望んだときに、彼は、何か前兆が現れるだろうから、それまでは話さない、と言った。そして事実、カウロニアに白い熊が出現した。」(水地宗明訳、京都大学学術出版会、2011年、152-3頁)と記されているのである。ここからアポロニオス『奇談集』で言及されるアリストテレス断片の欠損を補う推測が正しければ、古代地中海人が「白い熊」について書き記した最古の例は、少なくとも生没年不詳のアポロニオスまでは遡れるし、彼が参照したのが真正のアリストテレス作品ならば、紀元前4世紀のアリストテレスにまで遡ると言える、というわけである。
イアンブリコスの師にあたり、自身も『ピタゴラス伝』を書いているポルピュリオスはしかし、死体を積んだ船が着くことを予言したピタゴラスのエピソードは言い古された話だと紹介しつつも(同28)、「白い熊」のエピソードには触れない。ローデ(E. Rohde, Kleine Schriften, Zweiter Band, 1901)はそれゆえ、ピタゴラスにまつわる奇談集は、アリストテレス由来のものとは別に、もう1つ存在したのだろうと推測する。
ピタゴラス伝記作家の2人、つまりポルピュリオスとイアンブリコスの師弟が、そろって自身が書いた伝記に採用した、ピタゴラスと熊のエピソードもある。イタリアのダウニアの地で熊が暴れて住民たちを苦しめたので、ピタゴラスはこの熊を捉え、撫でながら大麦の菓子と果物を与えて、今後は生き物を襲わぬと誓わせて離した。山に帰った熊は以後、理性なき動物すら襲うことはなくなったという(イアンブリコス『ピタゴラス的生き方』60、ポルピュリオス『ピタゴラス伝』23)。
さて、イアンブリコスもポルピュリオスも、この熊とピタゴラスのエピソードを、古い著作家から引いたのだと記す。ローデは理性なき動物をもピタゴラスが説得したというエピソードは、アリストテレスの名で書かれた偽書『ピタゴラス派について』由来だと考えたが、水地宗明は、ポルピュリオスがこの前後の記述を紀元後1~2世紀の新ピタゴラス派哲学者ニコマコスに帰していることから、熊にまつわるこのエピソードの出所もまた、ニコマコスに由来すると考える(65頁。ポルピュリオス『ピタゴラス伝/マルケラへの手紙/ガウロス宛書簡』京都大学学術出版会、2021年の訳者、山田道夫は出所の特定には禁欲的。21頁)。ピタゴラスと熊にまつわるエピソードを追ううちに、気づけば古代地中海の哲学者たちの、先哲たちの著作を自身の著作に活用したり引用したりする系譜をたどる迷路で遊ぶことができて、筆者としてはとても楽しい。
エリザベス女王の国葬と古代ローマ皇帝の国葬
木戸口 聡子
2022年9月8日、エリザベス女王がスコットランドのバルモラル城で亡くなった。享年96歳、死因は老衰と発表された。女王の棺は13日までエディンバラに置かれ、その夜にバッキンガム宮殿に運び込まれた。翌14日、女王の棺はウェストミンスター宮殿に運ばれ、ウェストミンスター・ホールに公開安置された。15日~19日までの4日間に弔問に訪れた一般市民は、25万人にも及んだという。18日の午後8時にはイギリス全土で1分間の黙とうが行われた。
19日の国葬当日は国民の休日とされた。ウェストミンスター・ホールからウェストミンスター寺院まで、女王の棺は海軍の砲車に載せられ、海軍兵に引かれて運ばれた。葬列はバグパイプやドラムの演奏に先導された。王立海軍や王立海兵隊、陸軍の儀仗兵などがその道中を警護した。葬儀には日本の天皇皇后両陛下を含む500人以上の各国の国家元首や高官が招かれ、約2,000人のゲストが参列したという。
葬儀の後、女王の棺は再び徒歩の葬列に伴われ、ウェストミンスター寺院からハイド・パーク・コーナーにあるウェリントン・アーチへと移動した。葬列は王立カナダ騎馬警察に先導され、7隊に分けられた葬列にはそれぞれ楽隊がつき、イギリスや英連邦の各軍や警察、国民保健サービスの職員もそこに加わった。荘厳な音楽と重厚なビックベンの鐘が鳴り響く中、様々な正装を身にまとった人々の列は、毎分75歩のペースで粛々と歩みを進めた。葬列には約4,000人が参加し、その長さは2.4キロにも及んだという。その様子を多くの一般市民が観覧した。葬列とともに観覧席を歩いて移動している市民の数も少なくなかった。
ウェリントン・アーチに到着した棺はシックな霊柩車に移され、ロンドン近郊のウィンザーへ向かった。棺がウィンザーに到着した後には、ロング・ウォークで最後の葬列が行われた。その後、聖ジョージ礼拝堂で埋葬式が執り行われ、70年もの間君主であり続けたエリザベス女王は、夫フィリップ殿下の横に埋葬されることとなった。
これらエリザベス女王の国葬にまつわる儀式や行事には、多くの人たちが実際に参加しただけでなく、その様々なシーンがテレビやインターネット、新聞などの各種メディアを通して世界中に配信された。19日の葬儀にもテレビカメラが入り、日本でもその様子が生放送されている。筆者の知人にも、テレビやスマホにかじりついてこれらの放送を見たという人が何人もいる。特に、イギリス王室の長い歴史が凝縮された、荘厳ながらも絢爛豪華で、まるで映画のワンシーンのような葬列の様子には、多くの人が度肝を抜かれた。また、You Tubeにはエリザベス女王の葬儀にまつわる様々な動画がアップされており、19日の葬儀の様子をライブ配信したものを録画した動画には、630万回以上視聴されているものまである。
古代ローマでも皇帝が亡くなると、大々的な国葬が行われた。3世紀初頭にセプティミウス・セウェルスの国葬を目の当たりにしたヘロディアヌスによると、皇帝の国葬は葬儀と神格化の儀式から構成されていたという(Herodian, 4.2)。皇帝が亡くなるとまず、ローマ全市に喪が布告される。皇帝の遺体は、非常に華美ではあるが、葬送と火葬という通常の方法で葬られる。次いで、故人に似せた蝋人形が作られ、大きな象牙の寝台の上に安置される。蝋人形は病身の皇帝として扱われる。医師が毎日蝋人形を診察し、7日目にその死を宣告する。蝋人形は象牙の寝台に載せられたまま、葬列を伴ってカンプス・マルティウスへ運ばれる。そこには4層からなる巨大な火葬台が準備されている。蝋人形が火葬台に安置されると、その周りで騎馬や戦車の行列が行われる。その後、火葬台に火がつけられる。火葬台が炎に包まれると最上層から鷲が放たれる。皇帝の霊は、鷲によって天に運ばれ、神々の間に迎え入れられたと見なされたのである。
ただ、このような豪華で勇壮で荘厳な皇帝の国葬であったとしても、ヘロディアヌスのようにその様子を実際に見ることができた人はごく僅かだっただろう。皇帝たちも、先帝の神格化を世に広く知らしめようと工夫はしていた。例えば、皇帝の神格化を記念する貨幣を発行した。そこには、鷲や火葬台、神となった皇帝を崇拝するための祭壇など、神格化を象徴するようなわかりやすい図像が描かれた。ただ、このような貨幣がどこまで広く流通し、誰の手にわたるかは大いに運に左右されただろう。
当時、世界有数の権力を有していたローマ皇帝の国葬でも、このような状況であった。世界中のこれほど多くの人々が、エリザベス女王の国葬をリアルタイム、もしくはオンデマンドで目の当たりにしている現在の状況に隔世の感を禁じ得ない。
古代エジプトの「合板」
西本 直子
昨年の2022年はエジプト学において特別な年で、9月27日はシャンポリオンがヒエログリフを読解してから200年目にあたり、11月4日はカーターがツタンカーメン王墓を発見してから100年目に相当した。古代エジプトで最も有名なツタンカーメン王については、ここで改めて説明するまでもない。展覧会や講演会も世界の各所で開催されている。ただ有名なあまり、その遺物の情報が正確さを欠いたまま拡散している難点があって、それは私が手掛けている家具の分野においても同様である。例えば日本合板工業組合連合会が刊行した「合板百年史」(2008年)では、世界最古の合板は古代エジプトで作られたとして、その例をあらわす口絵にツタンカーメンの櫃(Carter No.21)が掲載されているのだけれども、これは何かの間違いであろう。
念のため、合板とはいったい何かという定義を確かめてみる。JASによれば合板(プライウッド)は「薄板(ベニヤ)を木の繊維方向が一枚ずつ直交する向きに重ねて接着したもの」で、これとは別に「板の表面に美観を目的として天然木の薄板を貼りつける」ことを練付(ねりつけ、オーバーレイの一種。英語ではVeneering)と呼び、区別する。マサチューセッツ大学のホードリー教授の著したUnderstanding Wood(2000)を繙けば、ベニヤとは厚さ6ミリ以下の板で、比較的硬い広葉樹では通常の厚さが1ミリ以下、柔らかい針葉樹では2.5~5ミリ程で、これらの主な用途は次の3つとしている。1つは美しい木味を楽しむために基材を覆う練付で、象嵌や寄木もこれに含まれる。2つめは材料の強度の向上や変形抑制のためにベニヤの繊維方向を直交させながら重ねて接着して作成する合板である。3つめにはアイスクリームの匙や容器などの素材を挙げている。技術論に偏らず日常に溶け込んだ木工の全体を捉えようとするホードリーの視点が窺われ、そこに人と木工との永い関わりに重きを置く配慮が感じられる。JASとホードリーの定義によるならば、「合板百年史」に掲載されたツタンカーメンの櫃は合板とは無関係の彩画仕上げである。
では、古代エジプトに合板はなかったのかと言えば、「合板」らしきものがツタンカーメンの時代より1,000年以上遡る第3王朝ジョセル王の階段ピラミッドの下から発見されている。子供の亡骸を納めた木棺の側板と底板の断片に、重ねたベニヤが使われていた。ただし不思議なことに薄板は接着がなされず、複数の小さな木ダボで留められていた。発掘調査隊は、それぞれ約4ミリ厚の薄板6枚が各々の繊維方向に対し、互いに直交する向きに重ねて束ねられているのを見出して驚いたであろう。発見した当初からこれを6層の「合板」と呼び、特に異論が唱えられることもなく現在に至っている。
しかし、そもそも第3王朝の6層の薄板を束ねた板を、現代人の定義のまま合板と呼ぶことは果たして妥当だろうか。筆者には疑義の念がある。合板は強度や変形に対する性能の向上を目的に作られるが、そのために重要な板同士の接着がここではなされていない。繊維方向を直交させたのは確かに薄板の重なりに対して強度を求めた証左かもしれない。だが古代人の意図は木質材の性能の向上だけであろうか。むしろ注目すべきはルーカスが繰り返した樹種同定ではなかろうか。マッコーネンやランドストロームも書くように6枚の薄板の樹種が異なり、4枚が外国材のイトスギ、スギ、アレッポパイン、ジュニパーなどの針葉樹であって、残る2枚は内地材のキリストノイバラなどと判断される。
亡骸を貴重な輸入材と親しい内地材で重ね包み、その上を金箔で覆っていた形跡も認められる。この繊細な遺物はアラバスター製石棺の中から見つかっており、木棺は白色の美しい石で保護されていた可能性が高い。愛しい子供の遺体を囲う6枚の木の層の細工は外から見えるわけでもなく、極上の品がこの世に齎されたとみなすべきである。6という数字は「沢山」を意味するとも言われ、入手が困難な国内外の「樹種尽くし」を実現した棺は、まさに世界を象徴しているとも考えられるのである。
古代エジプトの物質文化に関して唯一無二であったルーカスとハリスの文献は、2000年にショーとニコルソンにより内容が一新され、Ancient Egyptian Materials and Technologyとして刊行された。木工技術の章はキレンが執筆し、第3王朝の6層の合板の例を紹介しているものの、ロエールの断面図を描き直した掲載の図ではオリジナルに描かれていたピンが見当たらない。樹種についても「さまざまな木材」としか触れておらず、誤解を招く表現で、今後に問題を残すものとなっている。
100年を経た今、大エジプト博物館の整備とともにツタンカーメンをはじめとする遺物の分析の本格化が始まる。何をなすべきか、そこが問われているに違いない。
表紙説明
地中海の《癒し》15:癒しの地、ウィンチェスター/井上 果歩
イングランド南部ハンプシャー州の州都ウィンチェスター──この地は、かつてローマ帝国属州ブリタニアの要塞都市として発展し、中世にはイングランドの首都でもあった。街の至るところには古城の跡が残り、中心には11世紀に建立が開始されたウィンチェスター大聖堂が聳え立つ。古都ウィンチェスターには世界中から観光客が訪れ、今も活気に満ち溢れている。
ウィンチェスターは単なる観光地ではなく、地元イギリス人の憧れの場所でもある。2021年には、イギリスで最も住宅価格の高い都市となった。確かに、ウィンチェスター市内には多くの店やレストラン、公共施設があり、とても住みやすい街だと言える。ロンドンへは電車で1時間ほど、ハンプシャー州最大都市サウサンプトンへも車で30分ほどと他の重要都市へのアクセスも良い。街並みも美しく、晴れたお昼時には、学生や親子連れが大聖堂の周りの芝生でくつろいでいる。大聖堂すぐそばを流れるイッチェン川は清らかで、暖かい日にはカヌーやパドルボート、水泳を楽しむ人々で溢れる。また中心地から徒歩でわずか15分ほどの場所にある聖キャサリンの丘はハイキングの場所として人気である。ウィンチェスターは決して大きな都市ではないが、その分自然が豊かで、どこか穏やかな時間が流れている。
ところで、ウィンチェスターはイギリス、いやヨーロッパの音楽の歴史を支えてきた都市でもある。11世紀に成立した『ウィンチェスター・トロープス集』は、ウィンチェスター大聖堂の前身のオールド・ミンスターで歌われた聖歌を集めた写本で、記譜を伴った現存最古の多声の聖歌(2声のトロープス)集と考えられている。この写本の聖歌の記譜や楽曲の構造から、ウィンチェスターがヨーロッパ大陸の音楽実践や理論と深い関係を持っており、さらにはこの場所が当時の音楽の最先端の地であったとも推測されている。
ウィンチェスターは今も重要な音楽文化の地であり続けている。ウィンチェスター大聖堂聖歌隊と、14世紀に設立された全寮制パブリックスクールのウィンチェスター・カレッジ・チャペル少年聖歌隊は、何世紀もの歴史を持つ世界トップクラスの合唱隊である。彼らの演奏会は大変な人気を誇り、世界中でCDが発売されている。特にクリスマスの時期は、その心洗われる歌声を聴くために、キリスト教信者の人もそうでない人も、安らぎを求めて多くの人がミサに訪れる。また、ときおりウィンチェスター大聖堂やウィンチェスター・カレッジから聞こえる彼らの合唱の練習に耳を澄ませる人もいる。
街に流れるのは聖歌だけではない。ウィンチェスターは、街の至る所に古いパブがある都市としても有名であるが、夜になると、様々なパブからバンドの生演奏が聞こえてくる。ウィンチェスターで音楽が鳴り止むことはない。美しい古都は美しい音楽に満ちており、地元の人、世界中の人を癒している。