地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第28回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第47回大会(山形県鶴岡市羽黒町、いでは文化記念館にて開催予定)において行う予定です。応募を希望される方は、申請用紙を事務局へご請求下さい。

地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は、その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は、原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は、常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し、その業績審査に必要な選考小委員会を設け、その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2023年1月11日(水)~2月17日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用すること。

第47回地中海学会大会について

第47回地中海学会大会は、山形県鶴岡市羽黒町のいでは文化記念館を会場とし、2023年6月24日(土)、25日(日)に開催されます。出羽三山神社権宮司の阿部良一氏にご挨拶をいただいた後、基調講演は出羽三山研究の第一人者、岩鼻通明氏(山形大学名誉教授、地理学)にお願いする予定です。また、地中海トーキングは「聖地と食べ物・飲み物」と題して、精進料理、修行携行食、神酒、ネクタール、テオクセニア、禁忌、断食、禁酒等について、地元と学会からの登壇者の皆さんで自由に語り合っていただこうと思います。シンポジウムは「修行とその周辺」と題して、聖地における修行や苦行、宗教的自殺や殉教などについての面白い比較対照がなされればと期待しています。なお、熊野大会の前例に倣って、以下に記載の通り、2月研究会では羽黒山伏でもある日本建築史家で、熊野大会同様次回大会のコーディネーターでもある松﨑照明さんに、出羽三山神社(羽黒、湯殿山、月山神社)についての導入的な紹介をしていただく予定です。なお、6月26日(月)には、羽黒神社参拝や出羽三山歴史博物館見学、斎館での昼食(精進料理)、湯殿山本宮参拝等を行うオプショナルツアーを予定しています。

大会研究発表募集

第47回大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は、2月17日(金)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑を含めて、1人30分の予定です。採否は常任委員会における審査の上で決定します。

2月研究会

下記の通り研究会を開催いたします。
参加を希望される方は、学会ホームページのNEWS欄「研究会のお知らせ(2/18)」に掲載されるGoogleフォームにて参加登録をお願いいたします。参加登録をされた方には、後日メールでZoomアドレス等についてご連絡いたします。

テーマ:羽黒への誘い--第47回大会に向けて
発表者:松﨑照明氏(東京家政学院大学)/秋山聰事務局長(東京大学)
日 時:2月18日(土)午後2時より
会 場:Zoomオンライン会議システム
参加費:無料

要旨:次回大会は山形県鶴岡市の羽黒で行われます。西の熊野に対する東(奥)の羽黒は、月山、湯殿山とともに構成される出羽三山の中心的霊山で、中世には全国的に知られていました。熊野が海に深く関係するように、羽黒開山も庄内平野をはさんだ日本海にはじまります。能や歌舞伎に頻出する羽黒山伏、芭蕉が『奥の細道』で「霊山霊地の験効、人貴且恐る」と記した、出羽三山修験の歴史と文化財等を御案内したいと思います。

アーティゾン美術館土曜講座 地中海学会連続講演会「蘇生する古代」 要旨
古代ローマとギリシア美術
芳賀 京子

古代美術はのちの西洋美術において繰り返し模倣され、時に規範とみなされた。だが似たような現象は、すでに古代のあいだにも認められる。前2世紀以降、古代ローマ人は好んでギリシア美術を蒐集し、模倣したのである。ローマは軍事的には圧倒的強さを誇り、ギリシア諸都市を破り、ヘレニズムの王国を滅ぼした。だがこと文化に関しては、彼らはギリシアに「征服された」。ここでは共和政末期から帝政期のローマにあふれたギリシア美術を1)戦利品、2)移動した芸術家による作品、3)ギリシアからの購入品、そのなかでも特に4)クラシック時代の名作のコピー、の4つに分け、ローマ人がそれらをどのように受容したのか具体的に見ていくことにしよう。

ギリシア美術は古くからローマに流入していたが、前2世紀に始まるギリシア世界からの戦利品は質・量ともに桁違いだった。敗戦国から略奪された美術品は、ローマ市内を巡る凱旋行進で大衆の観覧に供された。またとりわけ価値ある品は個人の所有とするのではなく、神殿に奉納するのが良しとされた。戦利品としてローマにもたらされたギリシア美術は、特権階級だけではなく、ローマの大衆も目にすることができるものだったのである。

美術品だけでなく芸術家も、ギリシアからローマへと移動した。前2世紀には、スキピオ・アシアティクスはヘレニズム世界から芸術家たちを集めてイタリアへ連れてきたし、フルウィウス・ノビリオルは凱旋式のために、ギリシアから芸術家を招聘した。またアエミリウス・パウッルスは、アテネ人メノドトスを画家兼息子の家庭教師として雇い入れた。こうしたギリシア人芸術家たちは、ローマの神殿の礼拝像も手掛けている。ローマのラルゴ・ディ・トッレ・アルジェンティーナで出土した復元高8mの女神巨像や、カンピドリオ西麓で見つかったヘラクレスの巨大頭部は、そうしたギリシア人彫刻家によってこの時期に制作されたものと考えられる。有名な《ラオコーン群像》は、前1世紀後半にアタノドロス、ハゲサンドロス、ポリュクレスという3人のロドス人彫刻家によって彫られたものだ。この3人は、ローマの約120㎞南東のスペルロンガで出土した計8体からなる巨大な《スキュラ群像》に作者としての署名も残している。どうやら彼らは、母国が経済危機にみまわれたために、新しい市場を求めてギリシアからイタリア半島へと活動の場を移したらしい。

前1世紀には、代理人を介してギリシアの工房から美術品を購入することも盛んになった。キケロはギリシア在住の友人アッティクスを介して、トゥスクルムの別荘を飾るためのギリシア彫刻を購入している。またチュニジアのマーディア沖で前100年頃、おそらくギリシアからイタリア半島へ向かう途中に沈んだ船の積荷には、そうした私邸を飾る予定だったと思われる大理石像やブロンズ像、調度品や建築部材などが多数含まれており、キケロが欲したギリシア美術がどのようなものだったかを教えてくれる。

一方、前60~前50年頃にペロポネソス半島のすぐ南に位置するアンティキティラ島沖で沈んだ船の積荷には、マーディアの沈船にはなかった、ギリシアのクラシック彫刻のコピーが多数含まれていた。長年海中にあったため腐食が激しいものの、リュシッポスの《休息するヘラクレス》、プラクシテレスの《アルルのヴィーナス》といった前4世紀の名作のコピーが確認されている。三次元的なポイントを取って大理石で精密な「ローマン・コピー」を彫り上げる技術は、前100年頃には完成していた。ローマ人は古いギリシアの名作で私邸を飾るため、同一作品を複数設置して壮麗な景観を創出するため、あるいは名作を用いて明確なメッセージを発するために、こうしたコピーを多用した。初代皇帝アウグストゥスが前2年に奉献したローマのアウグストゥス広場には、アテネのエレクテイオンのカリアティドのコピーが何十体も並んでいたが、そこには彼の治世をペリクレス時代のアテネになぞらえようという意図が透けて見える。

ギリシアという異文化の美術を理解するべく、ローマ人は学ぶ努力を怠らなかった。前1世紀前半に南イタリアのギリシア人彫刻家パシテレスが著した『世界の名作』は散逸してしまったが、おそらくローマ人向けに執筆された、美術に関する参考書だったのだろう。前146年のコリントス陥落後の戦利品の売立の際には、ローマ人将軍ムンミウスは前4世紀の画家アリステイデスの絵《ディオニュソス》の価値を見抜けなかった(プリニウス『博物誌』35,24)。だが前1世紀後半に、《ヘクトルとアンドロマケ》の絵に自分たち夫婦の身を重ねて涙を流すブルートゥスの妻ポルキアは、まぎれもなく教養あるローマ人だった(プルタルコス『英雄伝』「ブルートゥス」23)。ギリシア美術は、徐々にローマ人の教養に必須のものとみなされるようになっていったのである。

自著を語る107
『両岸の旅人──イスマイル・ユルバンと地中海の近代』
東京大学出版会 2022 年6月 324頁 3,000円+税 工藤 晶人

個人の伝記というミクロな視点から出発するグローバルヒストリー。それが当初からの企図だった。主人公となるイスマイル・ユルバンについてはすでに平野千果子氏による考察があり、フランス植民地史に関心をもつ研究者のあいだではそれなりに知られた存在である。だがそうした専門的な文脈を離れれば、やはりマイナーな人物というべきだろう。1812年生まれ、1884年没。南米の仏領ギアナで生まれ、フランスで教育を受け、サン=シモン主義者となり、エジプトにわたってイスラームに入信し、その後は通訳、行政官としてアルジェリアの植民地統治に携わった。母方から黒人奴隷の血を引いていたとされる。この短い紹介だけでも、1人の生涯のうえにいくつもの間大陸的な問題が折り重なっていることが感じられるだろうか。

本書は、イスマイル・ユルバンの事績と思想についていくつかの新解釈を提示してはいるとはいえ、伝記としてみれば大筋において国内外の先行研究を刷新するものではない。もしも若干の新しさがあるとすれば、伝記的な記述から世界史の一断面を描くという目標を四六判の小著に収めようとした無謀さにあるというべきだろう。無謀さゆえに、執筆には長い年数を要した。そのなかで転機となった2つの言葉を記しておきたい。まず思い出されるのは、前著の刊行からそれほどたたない頃にある人と交わした会話である。「落ち穂拾いはしないでください」。19世紀アルジェリアを主題とした前著の骨子を紹介しつつ、ユルバンの生涯を淡々と書き綴っていけば1冊の本になるだろうという軽い気持ちでいた私に、この一言は重くのしかかった。つぎにあげるべきは、別の研究会でユルバンについて報告したときに、主催者の方がふともらした一言である。「これはこれで麗しい社会史なのかもしれませんが……」。厳しい激励だった。ユルバンの生涯を紹介するだけでテーマの大きさを感じさせるだろうという見込みは甘かった。それを読者の感じ方に委ねるのではなく、著者の言葉で問題の広がりと奥行きを明確に記述しなければならない。グローバルヒストリーを掲げる叢書の一冊として書かれるからには当然のことだが、個別の事例を追いかけることに専心してきた著者にとっては大きな壁と感じられた。

苦心をするなかでしだいに膨らんでいったのが、ユルバンが出会った人々や、同時代の状況を別の立場から経験した人々の群像劇という側面だった。本誌の記事で以前に紹介したことがあるレオン・ロシュは、そうした登場人物の1人である(「レオン・ロシュの回想録について」『地中海学会月報』2019年3月)。もう1つの苦労は、ユルバンが旅したそれぞれの土地の歴史を書き、さまざまな地域のつながりから世界史の新たな布置を浮かび上がらせるという試みだった。そのためには、ユルバンがその土地を訪れた当時の状況だけではなく、長い時間のなかで背景を繙かねばならない。一例をあげれば、南米の仏領ギアナの歴史を、ユルバンが生まれた19世紀初頭の状況を説明するだけでは足りない。17世紀のフランス人による入植地建設にさかのぼっても不十分である。これがグローバルヒストリーであるためには、短い数節ではあっても南米先住民の歴史から説きおこさなければならない。さらに例をあげるとすれば、ヨーロッパ人航海者の海外進出を世界史の転換点とする常識的な見方にも別のまなざしをむけることが可能である。本書のなかで紹介したように、大洋の彼方への想像力はアフリカの人々のあいだにも存在していたのだから。

こうして、主人公の生涯に複数の時間軸とまなざしを交差させるという構成が固まっていった。読者に遠回りを強いるようだが、そこに著者としての狙いがある。一時代のなかの多様性というイメージは、ふりかえってみれば、少年の頃に魅了されたバージェス頁岩に由来している。教科書的な進化のプロセスにあてはまらない化石動物群、現生する生き物とのつながりが議論される、異形の生物たちである。本書がめざしたものは、忘れられてきた歴史のオルタナティヴを発掘するという意味で、そうした生物群の発見に似ていたのかもしれない。

歴史記述のあり方について、ナタリ・デイヴィスの作品群が念頭にあったことについては別稿で述べた(『UP』2022年10月)。リュセット・ヴァランシ、吉田静一、市井三郎、日野龍夫らの著作から得た示唆も大きい。最後に、本書の原稿を出版社に提出した後に刊行されたため残念ながらその成果をふまえた補筆を施すことができなかったが、中山裕史氏の『幕末維新期のフランス外交:レオン・ロッシュ再考』(日本経済評論社、2021年10月)から多くの新知見をあたえられたことを記しておく。

ロンブローゾ博物館見学記
土肥 秀行

トリノのロンブローゾ博物館は、都築響一氏の『珍世界紀行ヨーロッパ編』(2004)で、整理前の状態が取り上げられていたが、ヴンダーカンマー(驚異の部屋)に近い解剖学系のコレクションとしてであった。2009年にようやく博物館として正式オープンした後でも、アウトサイダー・アートの切り口ではなく、あくまでも科学史的なコンセプトに支えられている。日本のアカデミズムでは、岡田温司氏が『ミメーシスを越えて──美術史の無意識を問う』(2000)の第一章「“天才と狂気は紙一重”ロンブローゾと日本」で、ロンブローゾを、アール・ブリュットの原形ととらえていた。

チェーザレ・ロンブローゾ(1835-1909)といえば、19世紀を貫くダーウィニズムのひとつの極み、「犯罪学の父」として知られる。1876年初版の『犯罪人論』を通じ、とりわけ犯罪者の顔相学(「悪い奴は顔でわかる」)を究めた人物として知られる。その優生学的志向から、やがてナチスはユダヤ人迫害の根拠を導き出す。ロンブローゾ自身は、ユダヤ人の両親をもち、育ちはともかく血筋の上ではユダヤであったのは皮肉と言うしかない。

オーストリア支配下の北イタリアのヴェローナに生まれたロンブローゾのキャリアは、トリノで監獄医、それから医学部教員となることで軌道に乗る。軍医として働きはじめた際に、軍人に刺青が多いことに気付き、図柄模写を集めては「軍人らしい勇ましい彫り」を研究していた。刺青は、彼にとって、なんらかの意味を読み取るべき徴(しるし)segniだったのだ。それから犯罪者の刺青へと対象を広げていった。

博物館には多くの刺青のスケッチ(全身、あるいは部分)が展示されている。

犯罪者の刺青が素朴でプリミティブであることから、彼らの「悪」の先天性を着想している。「悪い奴は生まれつきで、身体的に欠陥がある」と見立て、犯罪者が没すると頭蓋骨をもらいうけ、丹念に調べていった。すると後頭部にくぼみがあるのを「発見」、先天性の徴(しるし)とした。もちろん今日では、こうしたくぼみは異常でもなんでもないとされる。展示では犯罪者のそれが、原始人や猿の頭蓋骨と並べられていて、進化論的発想で比較されていたのがわかる。そしてロンブローゾは、「犯罪者とは現代社会の原始人」との認識にいたる。

ロンブローゾ博物館には、大量の頭蓋骨や肖像にデスマスク、泥棒たちの商売道具(仮面、ライト、鍵、十字架形仕込みナイフ)などが並ぶ。これらは犯罪者研究のために、ロンブローゾ自ら集めた、あるいは他からまとめて譲り受けたものである。彼の蒐集熱は有名で、関係者があらゆるものを寄贈した。

セクションが進むにつれ、アウトサイダー・アート度が増していく(すでに刺青デッサンにその兆候があったが)。もちろんアートを意識した展示ではない。量的に最も多いのが、牢内で使用される水瓶に、囚人がイラストやフレーズを彫りこんだものだ。描かれているのは、牢に佇む自画像やら、憧れの山賊スタイル(イタリア統一後の混乱期に発生した山賊)に身を包んだ自画像やら。ロンブローゾの書斎が再現されているが、その書棚に水瓶が飾られてあるということは、ロンブローゾは、蒐集家としての意識をもち、コレクションにアートとしての価値も見出していたのだろう。

生まれつきであるなら更生の可能性がないから、隔離施設(一般社会からの隔離と、「犯罪の学校」とならないよう犯罪者間の隔離)としての刑務所が必要となる。その研究のため、模範的なフィラデルフィアの刑務所の巨大ジオラマを取り寄せていた。

犯罪者と地続きの精神病患者についてもよく調べていて、彼らの「作品」が徴(しるし)としてたくさん揃っている。なかでも圧倒的なのが、エウジェニオ・レンツィによる嵌め木細工と、ヴェルシーノの清掃着である。ヴェルシーノは、トリノ郊外コッレーニョの精神病院の清掃に従事しており、その制服を自分で仕立てるのに、ボロ布をほどいて糸を結った。そうして、パゾリーニ監督『王女メディア』に出てきそうな民族衣装に昇華させた。

ロンブローゾにおいては、犯罪者≒精神病患者、刑務所≒精神病院であり、分類と隔離にもとづく彼の「優生学」から、ホロコーストの発想は遠くない。しかしこの博物館では、全体主義国家における人種法への「貢献」がまったく触れられていない。もちろんこういった博物館はあるべきだし、その上で様々な意見が交わされるべきだが。PRの一貫で、学校教育にも積極的に関わっているようだ。僕が訪れたときも地元の中学生一行がガイド付きで見学をしていた。イタリア学校教育の度量の大きさはポジティブにとらえていい。

「科学者」ロンブローゾは、白骨の骨格を、己の名を冠した博物館に展示するよう遺言した。死後、彼までもコレクションに加わったのである。展示スペース入口に、白骨の彼は直立している。中の見学を終え、白骨のロンブローゾの前に戻ってきて、あらためて考える。いったい何者だったのだろうか、この人は。博物館でいちばんのアウトサイダーは、ロンブローゾその人である。

エーゲ海地域の市場巡り
鶴田 佳子

昨年、友人が市民農園で野菜を育て始めた。コロナ前までは週末も仕事に出ることが多かった友人のライフスタイルに変化が現れ、時間を見つけては畑に通っている。我が家はベランダのプランターでハーブを育てる程度だが、収穫したハーブは少量ながらも食卓に彩りを添えてくれている。ベランダ菜園といえば、少し前の話になるが、月報336号の表紙「地中海世界と植物」シリーズを担当した際、サフランについて書かせて頂いた。表紙を飾る写真を撮ろうと、サフランの球根を鉢植えで育ててみたものの花は咲かず、残念ながら薄紫色の花の姿を掲載できなかった。その後、庭植えで試そうと思ったまま11年が経っていた。今夏こそはチャレンジしよう。

かつてサフランの街として黒海地域のサフランボルを紹介したが、今回は春にアーティチョークやハーブの祭りで賑わいを見せるエーゲ海地域の街を紹介したい。トルコは日本の国土の約2倍の面積があり、各地域の気候風土が異なるため、それぞれ特有の食文化がある。エーゲ海地域はオリーブやワインの産地としても知られ、野菜や魚介類を活かした料理の種類も多い。市場(トルコ語でpazar)を覗くと、色とりどりの商品が並び、季節感溢れる食材やローカルな文化に出会える。定期市はトルコ各地で開催されているが、地方都市では周辺の村とのつながりが強く、自家製の野菜や果物、チーズやペクメズ(果汁を煮詰めたシロップ)などの加工品を販売する村人の姿も見られる。身近な地区で週に1、2度開催される定期市のほか、生産者が直接販売する市場や生産者を女性に限ったもの、オーガニック商品のみを扱うもの、レース編みやフェルト細工などの手工芸品が並ぶクラフト市、夏場の夜市など、こだわりをもつ市場が賑わいの風景を生み出している。

さて、エーゲ海地域の街へと話を進めよう。まずはこの地域の中心地イズミルから紹介したい。イスタンブル、アンカラに次ぐ大都市圏イズミルは人口増加が続き、2021年の人口は442万5千人。人口が多いだけあり、定期市の開催数も多い。2010年と2018年にイズミル大都市圏の中心部11区の定期市数と開催地について比較調査したところ、8年間で定期市は100件から115件に、開催場所は92カ所から100カ所へと増えていた。2018年の周辺部も含めたイズミル大都市圏全体では定期市214件、同年のイスタンブルの定期市は393件。人口が3.6倍近いことを考えると(2021年のイスタンブル大都市圏の人口は約1,584万人)、この地域での開催数の多さが見える。中心部の曜日別内訳は、日曜30件が最も多く、次いで水曜25件、土曜23件と続き、週末に開催される割合が高い。余談だがトルコ語で日曜を表す単語はPazar。定期市に相応しい曜日である。

次にイズミル西側の半島に点在する街を巡っていこう。エーゲ海地域沿岸部はリゾート地として人気が高く、夏場は国内外から空路だけでなく海路からの訪問者も多い。小さな港周りのそぞろ歩きが楽しめるフォチャとウルラ、ウィンドサーフィンの街として知られるアラチャト、いずれも海も街も、そして市場もゆっくりとローカルな魅力を楽しんでほしい。

フォチャは広場を中心に港を取り囲む歩行者空間が整備され、シーフードレストランが軒を連ねる。夏の夜、港から海に面した城壁沿いの散歩道を歩くと、リゾート客相手に店開きしているクラフト市にたどり着く。また、日曜に開かれるアースマーケットではスローフードの規定に沿った農産物や加工食品が売られ、街自体もスローシティに認定されている。スローシティ協会によると、2022年6月時点で33の国・地域の287都市が加盟。トルコでは2009年のセフェリヒサールの加盟を皮切りに21都市が加わっている。数は本家イタリアに敵わないが、中小規模の魅力的な街ばかりである。

ウルラはセフェリヒサールの隣町で、港近くに古代のオリーブ搾油所の跡があり、郊外には葡萄の果樹園と醸造所が点在する。毎土曜には女性の生産者市場が街の一角で開催され、手工芸品の他、焼き菓子や総菜など伝統的な料理、食材が並ぶ。この地域特有の料理として、ズッキーニの花のドルマ(詰め物料理)とボヨズと呼ばれるパイ生地の総菜パンを味わってほしい。そして、市場だけでなくワイナリー巡りもお勧めしたい。
アラチャトは中心部の保存地区に白壁の住宅が建ち並び、カラフルにペイントされた窓枠や窓辺の花が白壁に映える街である。路地に張り出したカフェでレモネードを飲みながらのんびり過ごしたくなる。土曜の昼間には規模の大きな露天市が立ち、リゾートウェアやアクセサリー、野菜や果物など多彩な商品が並ぶ。どの店も商品の陳列にこだわりがあり、見て回るだけでも楽しい。

最後にイズミルの東、オデミシュの土曜市を紹介する。伝統的なレース編みによるスカーフの縁飾りをはじめとする手工芸品エリアが見どころ。また、夏に天然雪のかき氷屋が登場するのも山に近い街らしい風物詩である。紙面が限られる中、駆け足で紹介してきたが、この地域を訪れる際はゆったりとした環境に身を委ね、カフェに寄り道しながら市場を巡ってほしい。

オルガ・ピカソ――キャリア、妻、母のイメージ
塚田 美香子

20世紀の最も著名な画家パブロ・ピカソの最初の妻となったオルガ・ピカソは、ロシアのニジン出身(現ウクライナ北部)である。オルガは、1891年6月17日に父ステパン・コクロフ、母リディア・コクロヴァの間に生まれ、兄ヴォロディア、妹ニーナ、2人の弟コラとゲネチカがいる。家族は、ペトログラード(ソ連時代のレニングラードで、現ロシア連邦のサンクト・ペテルブルク)に引っ越し、オルガはエフゲニア・ソコロワが運営するバレエ学校に通う。1911年、セルゲイ・ディアギレフ主宰のバレエ・リュスに入団したオルガは、1917年2月にバレエ・リュスの「パラード」の舞台装置、衣装、緞帳のデザインを依頼されてローマを訪れていた10歳年上のピカソと知り合った。2人は1918年7月12日に民事婚を7区の区役所で行い、オルガの希望で宗教婚をダリュ通りのロシア教会で挙げた。立会人はマックス・ジャコブ、ギョーム・アポリネール、ジャン・コクトーである。

2017年3月21日~9月3日迄、パリのピカソ国立美術館で「オルガ・ピカソ」展が開催された。展覧会は、ピカソが古代へ憧憬を馳せて描いた堂々たる人物たちが海辺や室内を背景にして佇んでいる、所謂ピカソのクラシック時代の作品群で構成され、会場には静寂で均衡が保たれた世界がどこまでも広がっていた。最初の部屋に2点のオルガの肖像画が展示され、続いて古代ギリシア彫刻のように圧倒的量感のある油彩画の母子像とその主題が一連の素描作品、オルガがラ・ボエシー通りの高級アパルトマンでコクトーやエリック・サティらと談笑し、縫物をし、パリ郊外のフォンテーヌブローにピカソが借りたアトリエ兼住居内でピアノを弾いたりする姿の様々な素描や版画が並ぶ。1921年2月4日に誕生した愛息子パウロが絵を描き、アルルカンに仮装し、ロバに乗った肖像画もあった。ピカソとオルガのパスポート、写真、手紙や絵葉書、オルガの肖像画に描かれた刺繍飾りの椅子、オルガのイニシャルであるO.P.が付いた旅行用トランクも展示された。孫のベルナールによれば、このトランクはピカソと1935年に別居後、オルガが持っていた唯一の私物であり、1955年2月11日にオルガがカンヌの病院で亡くなったときに、パウロが持ち帰っていた。

本展では、アルミーヌ・イ・ベルナール・ルイス・ピカソ芸術財団(FABA)が保管する1919年~1933年迄に亘る600通もの書簡を通して、新たなオルガ像が浮上している。オルガと家族は、ロシア革命中は音信不通だったが、その後にオルガが受け取った手紙には、妹ニーナが家族の近況を知らせ、母リディアがオルガを気遣う様子が記されている。ニーナは内戦で父や兄弟が消息不明になったり、ティフリス(現ジョージア)からの強制退去命令を伝えている。リディアは「あなたが健康で幸せでいることをいつも神様に祈っています。あなたの夫の性格を少しでいいから書いて下さい。……普段から彼は私たちに関心がありますか?……」と述べて、ピカソがどういう人か、自分たちに関心があるのか気にかけている。さらに夫ステパンが後続隊員に配属され、単身でロストフへ行ってしまったことを悔やんだり、ニーナが黙って生活費の工面をオルガに頼んだため狼狽したことが綴られている。この時期にピカソが描いたオルガの肖像画には、頬杖を付くメランコリックな身振りや表情が多い。オルガにとって、祖国の情勢が家族に与えた苦境が憂慮に堪えないのだろう。さらにバレエ・リュスに入団当初は、ニジンスキーに才能を認められたものの、脚の手術によって、バレエ・ダンサーとしてのキャリアを諦めた思いもあったに違いない。1925年1月にリディアが心臓発作を起こし、その後容態が急速に悪化したため、ヴォロディアはオルガに早く来るように促す。オルガは単身で行くと返事を書くが、ピカソの許可が得られずに時が過ぎ(当時は女性が単独で旅行できなかった)、リディアは1927年8月23日に永眠した。母の訃報を知ったオルガの悲嘆を推し量ることはできない。

最後の展示室には、パリ北西のボワジュルーの庭で1931年頃に撮影された私的な映像が流れていた。オルガはシャネルスーツを身に纏い、陽光のもとでカメラに向かって何度も微笑んでいる。伝記等でしばしば紹介される正気を失ったようなオルガ像とは全く異なり、溌溂として幸福感に溢れている。24歳でバレエ・リュスのダンサーとなったオルガは、キャリア志向の強い女性だったが、結婚後は自分が理想とする家庭を築き上げていた。

21世紀になった今、ロシアによるウクライナ侵攻によって巻き込まれた人々の苦渋や、避難を余儀なく強いられた姿が連日報道されている。それは祖国の混乱によって、過酷な経験に見舞われたオルガの家族の境遇に重なって見える。オルガは母の臨終に立ち会えず帰国も儘ならなかったが、そうした苦難を乗り越えて良き妻、母として毅然と振る舞っていたのだろう。

表紙説明

地中海の《癒し》14:カイセリのゲヴヘル・ネスィーベ施療院と附属医学校/澤井 一彰

かつてのカエサレアであるアナトリア中部の都市カイセリには、ゲヴヘル・ネスィーベ施療院と附属医学校の巨大な建築物が史跡として残されている。伝承によると、この壮大な複合施設の建立には、1人の女性にまつわる悲しい恋物語が深く関係しているという。

この街は12世紀後半以来、ルーム・セルジューク朝によって支配されてきたが、その最盛期の君主の1人であったギヤースッディーン・カイホスロウ1世には、ゲヴヘル・ネスィーベ・スルタンという名の妹がいた。彼女は、ある軍司令官との恋に落ちたものの、結婚の許しを得られぬまま恋人が戦死してしまうという悲哀を味わった。そして、悲嘆の末に結核に罹患し、その死の床において、自らの死の原因となった「不治の病」を治癒する施設の建設を、君主であった兄に遺言したとされている。

こうして彼女の死後、2年の歳月を費やして、ヒジュラ暦602(西暦1205/06)年に施療院と医学校とが対になった壮麗な建物がカイセリに完成した。そして、彼女自身の遺骸もまた、医学校内に附置された墓廟に埋葬されたといわれる。

ゲヴヘル・ネスィーベ施療院と附属医学校は、今見ても相当の規模を誇る建築物である。にもかかわらず、14世紀前半のイブン・バットゥータや、17世紀中頃のエヴリヤ・チェレビといったカイセリを訪れた名だたる旅行者たちの記録には、不思議なことにまったく登場しない。これは、当人が重病に倒れでもしない限り、短期滞在の異邦人がふらりと気軽に訪ねて行くような場所ではなかったからなのかもしれない。しかし一方で、アナトリアでも最古の部類に属する医学校では、高名な医師たちが研究を積み重ね、その成果を施療院での臨床に適用することで、ゲヴヘル・ネスィーベ・スルタンが願った通り、幾多の患者たちを治癒へと導いたことは間違いないだろう。

やがてルーム・セルジューク朝は滅び、カイセリがオスマン朝の主要都市のひとつとなった後も、ゲヴヘル・ネスィーベ施療院と附属医学校は、地域の重要な医療拠点であり続けたと考えられる。例えば、1584年付のワクフ台帳によると、同施療院と附属医学校にはワクフによって年間4万3,643アクチェ銀貨に上る収入があり、医学校の教授たちには日給20アクチェが与えられていた他、そこで学んでいた多くの学生たちにも日給8アクチェが支給されていたという。また1669年には、ワクフ管財人であったイスマイル・エフェンディという人物によって、大規模な修復がなされたことも確認できる。

ゲヴヘル・ネスィーベ・スルタンが今際の際に遺した言葉にあった「不治の病」とは、はたして結核のことだったのだろうか。それとも、決して叶わぬ亡き恋人との幸せな生活を願った「恋煩い」のことだったのだろうか。

現在、ゲヴヘル・ネスィーベ施療院と附属医学校は、セルジューク文明博物館となっている。かつての医学史博物館が装いを新たにした同博物館には、ルーム・セルジューク朝を中心とするセルジューク朝の豊かな歴史や文化とともに、旧博物館から引き継がれたイスラーム医学にかかわる様々な史資料が数多く展示されている。
(表紙写真は、いずれも2022年の夏に筆者撮影)