2022年5月号、449号
目次
学会からのお知らせ
第46回地中海学会大会
第46回地中海学会大会を大塚国際美術館にて、2022年6月11日(土)・12日(日)の2日間、以下のとおり開催いたします。なお、会場となる大塚国際美術館の展示品である陶板名画を動画配信することは著作権上、極めて困難なため、大会は現地開催のみとなり、オンラインでの開催(ハイブリッド開催)はいたしませんのでご注意ください。
6月11日(土)
13:00 開会宣言
挨拶:田中秋筰(大塚国際美術館)
13:15~14:15 記念講演
青柳正規「イタリアでの発掘50年」
14:30~17:00 館内見学
17:10~17:40 総会(会員のみ)
18:00~20:00 懇親会(別館1階 レストラン ガーデン)
6月12日(日)
10:00~12:00 研究発表
「オペラ『ロドペとダミラの運命』──17世紀中葉のヴェネツィア派オペラにおける狂気の表象と自己成型──」 内坂桃子
「地中海趣味の日本」河村英和
「オベリスク型墓石のグローバル・ヒストリー──インドの英人墓地からの試み」冨澤かな
12:00~13:00 昼食
13:00~16:00 シンポジウム
「模倣し複製する地中海」
パネリスト:京谷啓徳/飛ヶ谷潤一郎/日向太郎/園田みどり
司会:芳賀京子
16:00 閉会宣言
第46回総会
第46回総会を6月11日(土)に大塚国際美術館(別館2階 オープンスペース)にて開催いたします。なお、総会を欠席される方は月報448号に同封の総会委任状を必ずお送りください。
地中海学会賞・ヘレンド賞
2021年度地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めた結果、残念ながら今年度は両賞ともに、授賞を見送ることになりました。これにともない、地中海学会大会初日に行っている授賞式も第46回大会では行いませんので、ご承知おきください。
第4回常任委員会
日 時:2022年5月7日(土)16:35~17:27
会 場:オンライン会議システム(Zoom)
審議事項:第46回大会について/第47回大会について
会費納入のお願い
2022年度会費の納入をお願いいたします。自動引き落としの手続きをされていない方は、以下のとおりお振込ください。
会 費:正会員 10,000円
学生会員 5,000円
個人会費割引A 8,000円
個人会費割引B 8,000円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行 九段支店 普通957742
三井住友銀行 麹町支店 普通216313
会費口座引落について
地中海学会では、会員各位の金融機関口座より会費の「口座引落」を実施しております。会費の口座引落にご協力をお願いします。
今年度(2022年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送りします。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送りしますので、事務局までご連絡ください。今回申し込まれる方は、2023年度から口座引落を開始します。
なお、個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成しております。
第46回地中海学会大会のご案内
大会準備委員長 小池 寿子
桜の季節が瞬く間に過ぎ去り、新緑がまばゆい候となりました。とはいえ、新型コロナウイルス禍に覆い被さるようにウクライナ情勢が深刻化し、地中海学を志す私たちも穏やかならぬ気持ちで日々を過ごしていることと思います。
今年度の大会は、いよいよ、徳島県鳴門市の大塚国際美術館での現地開催となります。かつて2007年6月23日24日に第31会大会で開催して以来15年ぶり。瀬戸内海の青い海と空、すがすがしい空気を満喫しながら、美味しい食材に舌鼓を打ち、鳴門渦潮クルージングを楽しみ、さらにシスティーナ礼拝堂環境展示の完成を記念した同礼拝堂での臨場感溢れるシンポジウムという豪華な大会でした。両日の参加者は会員と美術館募集の一般も含めて300人を数え、地中海学会のひとつの頂点を画した大会であったと言えましょう。
再び鳴門での大会を実現させようと、意気込んで取り組んできた大会準備でしたが、昨年度はコロナ禍によって断念し、第45回大会は、12月11日1日のみのオンライン開催となりました。オンラインにも慣れた会員皆さまのご尽力で、研究発表2本と地中海トーキングを行い、刺激的で実りある大会となりました。先にお送りした月報をご覧下さい。
今年度は、鳴門の大塚美術館での現地開催に挑みます。大会二分化の後半に当たるこの第46回大会は、記念講演、研究発表、そしてシンポジウムというプログラムになります。第31回大会の記念講演(「空想と現実の美術館」)と同じく青柳正規先生にご登壇頂きます。因みにシンポジウムは前大会では「巡礼と観光──瀬戸内海と地中海」でした。温故知新。成熟した新しい時代を切り開く地中海学会大会になりますよう期しています。プログラムについては、大会案内をご覧下さい。
研究発表はヴァリエーションに富んでおり、地中海を越えて、インド洋、大西洋、さらには太平洋に及ぶ広がりを想起させます。また、シンポジウムのテーマ「模倣し複製する地中海」も陶板による複製美術館、大塚国際美術館での開催ならではのテーマであり、多分野のパネリストの興味深い発表を期待しています。
今回の現地開催では、大会のみならず、皆さまに大塚国際美術館の展示をご覧頂きたいと思います。本美術館は、大塚グループ創立75周年記念事業として1998年に設立され、古代から現代までほぼ2000年にわたる西洋美術の粋を選りすぐって1,000点以上、陶板で復元、展示している美術館です。システィーナ礼拝堂のみならずパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂、遡ってはポンペイ家屋や秘儀荘、カッパドキア洞窟壁画、ロマネスクやビザンティン聖堂の環境展示、またスペイン・ロマネスク壁画が一堂に会する展示室も必見です。フェルメール回廊、ゴッホの全ひまわり作品が展示された部屋やジヴェルニーの庭を再現した屋外展示など見所満載です。
設立以来、技術面でも大きな革新がもたらされました。原画を写真撮影し、陶板に焼き付ける作業は大塚グループの大塚オーミ陶器株式会社に一任されてきました。作業に従事する方々は修復家のプロにも比肩する鑑識眼を持っています。現地に赴いて原画を詳らかに観察、それをいかに陶板で復元するか、その「眼」の確かさは驚くべきものです。
陶板は劣化しない!とのコンセプトでスタートしたこの美術館でしたが、この数年、なんと劣化が見られるのです。照明の問題が大きいのですが、技術革新の検討も急務でした。そして今日、新たに高画質デジタル画像を焼き付ける「修復」を行っており、新旧の差異が見られるのも、この機会ならではです。古い陶板作品との発色や色感、筆触の違いに注目して下さい。刷新という点では、印象主義の筆のタッチも加筆するなどの技術革新も見逃せません。では、現代美術は?さまざまなメディアを用いた現代美術ならではの陶板複製の難しさも実見できるでしょう。テーマ展示についても現在検討中です。
当初は、陶板による複製ではないか、何の価値があるのか、というオリジナル志向の時代の風潮に反して設立された本美術館は、以降、世界中の美術館に認知される複製美術館になりました。陶板複製だからこそ可能となった環境展示や、作品との接触、創意工夫をこらしたイヴェントの数々は、まさにポスト・コロナの美術館の方向性を示唆し、さらに複製芸術の意義と価値は、デジタル化の今日こそ問い直されるべきテーマでしょう。そして技術革新と観衆のイメージ受容、そして地域起こしをつねに視野に入れて、前進し続ける大塚国際美術館の魅力が身近に体験できるまたとない機会となるでしょう。
本大会では、1日目、通常トーキングの時間を美術館見学にあてています。大塚国際美術館は、しかし、とても数時間では鑑賞することが出来ない規模を誇る、いわばテーマパークなのです。時間を有効に使って、大会のみならず大塚国際美術館の魅力、そして鳴門の青空と海を堪能していただければ幸いです。
ギリシアと沖縄で豚を想う
岸本 廣大
ギリシアにボイオティア(ヴィオティア)という地域がある。その中心都市テーバイ(テーベ)は、オイディプス王などの神話の舞台となり、実際にミュケナイ時代の宮殿跡が残っている。古典期にはテーバイを中心に連邦が形成され、その勢力はレウクトラの戦いで最盛期を迎えた。豊かな歴史と文化をもつボイオティアだが、この地域に住む人々は「豚」と蔑まれることもあった。前5世紀の詩人ピンダロスは、競技祭で優勝したテーバイ人を称える祝勝歌で、「ボイオティアの豚」という古くからの中傷に言及している(『オリュンピア第6歌』)。時代は下って、後2世紀の文人プルタルコスもこうした表現を伝える。ボイオティア人は大食ゆえに「鈍くて無神経で愚か」なため「豚」と呼ばれていたという(『モラリア』「肉食について」995E)。豚という存在が中傷に用いられるのは、現代にも共通しており興味深い。古代のギリシア人にとって豚とはどのような存在だったのか。
豚への嫌悪(蔑視)があったことは確かだが、その一方でブタは身近な動物でもあった。ホメロスの叙事詩や線文字Bの粘土板からは、ブタが古くから飼われ、食されていたことがわかる。各地で行われた供犧では、牛や羊と並んで、ブタが捧げられる例も確認できる。供犧の場には共同体の構成員が参加し、彼らに犠牲獣の肉が饗された。各地の遺跡からはブタを象ったテラコッタが見つかることもある。身近だからこそ、豚には万人に伝わるイメージがあり、それが中傷に結びついたと思われる。
では、そんな豚のイメージとは具体的にどのようなものだったのか。私には個人的な経験に由来するイメージとして、「悪臭」がある。沖縄で保育園に通っていた頃、毎日の車での送迎の途中、いつも鼻をつくような強烈なにおいがする場所があった。例えるなら、古い公衆トイレの「悪臭」である。道路からは何も見えなかったが、周囲の大人からブタのにおいだと教わった。町中ではあったが、当時まだブタを飼っている人がいたという。
この「悪臭」を、まさにボイオティアで感じたことがあった。カイロネイアの博物館からレバデイア(リヴァディア)に戻る時のことである。時間に余裕があったので徒歩で帰ろうとしたが、郊外の車道(国道3号線)は歩道がなく、車も猛スピード(体感で100㎞/h超)で走っている。そんな道路を長時間歩くのは危険だと思い、某巨大企業のマップで調べると、未舗装の道路を使って丘を越える10㎞ほどの道のりを提示された。車も全く通っていなかったので、この道を歩いて帰ることにした。炎天下を歩き続け、ようやく丘の上に出た時、ふいにあの「悪臭」を感じたのである。周りにブタは見えなかったが、古代と同じくボイオティアにはブタがいて、古代のギリシア人もこうした「悪臭」を嗅ぎ、豚のイメージを作り上げたのだろう、その時は単純にそう思っていた。
だが最近、豚の「悪臭」は近代的な感覚であるという研究を目にした。その研究(比嘉理麻『沖縄の人とブタ』京都大学学術出版会、2015年)は、食べ物としての豚肉好きと動物としてのブタ(特ににおい)への嫌悪が沖縄において併存している状況を指摘し、その状況の主たる要因として、産業化の進展に伴って人(大多数を占める消費者)とブタ(およびその解体と加工の現場)の距離が開き、両者の境界が明確に区別されたことを挙げる。かつてブタは各家で飼われていたが、養豚の産業化によってブタに触れる機会が少なくなり、ブタに関わる属性に負のイメージ(例えばにおいを「悪臭」と感じる)が形成され、一方で琉球料理の流行や観光産業を通じて豚肉料理が伝統として内面化されたというのである。沖縄で生まれ育ち、そのイメージを無意識のうちに刷り込まれていた私にとって、ハッとさせられるような切り口の研究であった。果たして、ボイオティアで嗅いだあの「悪臭」は本当に豚のものだったのか。後日調べてみると、ボイオティアでブタは飼育されているようだったが、少なくとも衛星画像で見る限り、あの場所の近くに養豚場らしき建物は見当たらなかった。今のところ、あの「悪臭」の正体はわからないままである。
だが、古代のギリシア人とブタとの距離が、現代の私たちよりも近かったことは間違いない。供犧でブタの解体を目にした人は多かったはずだし、ブタは壺絵にも描かれた。ギリシア人にとって身近な豚のイメージは、私のもつ「悪臭」とは違ったかもしれない。しかし、疑問は残る。結局、中傷のもとになった古代ギリシアの豚のイメージとはどのようなものだったのか。私たちとは別の「悪臭」を感じていた可能性はないか。においでなくとも、視覚的・聴覚的な負のイメージがあったのではないか。逆に言えば、そもそも近代化以前の沖縄に、豚への蔑視は全くなかったのだろうか。また、それなりの量の豚肉が生産されている現在のギリシアにおいて、豚はどう思われているのだろうか。古代と現代、地中海と東シナ海。時空間的に遠く離れている両者だが、思わぬ形で比較できそうな点がみつかった。ギリシアに行く機会は当分先かもしれないが、そのときにはぜひ現地の人にいろいろと聞いてみたい。もちろん豚肉のギロやスブラキをテーブルの上に用意して。
中世後期地中海の貨幣をめぐって
徳橋 曜
前近代の貨幣を考える時、権力や権威の象徴としての役割は確かに重要であって、その機能は研究者の目を引く。だが交換手段としての機能が当然ながらまずある。中世の地中海世界で広く流通したのは銀貨であった。西欧キリスト教世界ではカロリング朝期から金貨が復活する13世紀半ばまで、デナリウス銀貨(名称は地域によって異なる)のみの貨幣システムが基盤であり、イスラーム世界ではディルハム銀貨が様々な権力によって発行され、広く流通し続けた(但し、イスラーム世界では早くからディナール金貨も発行され、またウマイヤ朝~アッバース朝期には銅貨も使われた)。一方、ビザンツ帝国には古代以来の金貨・銀貨・銅貨で成り立つ貨幣システムがあったが、その領域のバルカン半島・エーゲ海地域では、1204年のラテン帝国成立以降、フランス王国のトゥールノワ銀貨がフランス系諸侯によって導入された。また種々の銀貨や銀自体も地中海を囲む各地を流動し、その流れも時代によって変化したと考えられる。
日常生活で主に流通したのは(計算上は金貨単位が使われても)銀貨である。金貨の価値は高過ぎ、また銅貨は一部地域・時代を除いて存在しない。ヴェネツィアのグロッソ銀貨(1278年の基準で銀98.5%)のような高品質のものから、銅を多く含む合金製(時代を経ると緑青を帯びる)まで、どれほど銀の含有率が下がろうとも「銀貨」である。小額とするためには小型の銀貨が作られたり、イングランドなどでしばしば見られたように、半分や1/4に切って使用されたりもした。中世の貨幣は薄い金属板に打刻したものだから、切るのも容易であった。
貨幣は品質が良ければ価値が高く、信用度も上がるが、それと流通量は必ずしも直結しない。その一例がヴェネツィアのトルネセッロ銀貨である。前述のトゥールノワ銀貨は3デナリウスと等価だったが、地中海東部で勢力を拡大したヴェネツィアは1332年、12デナリウスの価値を持つソルディーノ銀貨を導入した。この銀貨は急速に普及する。直径15ミリ前後で約0.55gの重量に約0.53gの銀を含有する(純度96.5%)基準品質の良さゆえだろう。ところが1353年、ヴェネツィアは新たにトルネセッロ銀貨の製造を決めた。史料上トゥールノワ銀貨と同じく「トゥロネンシス」とラテン語表記され、3デナリウスの価値に設定されている。直径17ミリほどで標準重量0.75gだが、純度は11.1%(実際に出土した埋蔵貨幣からは約12.0%の平均値が算定された)で、含有される銀は僅か0.08gである。だが銀の含有量に対して額面は過剰に高い。トルネセッロ銀貨の価値はソルディーノ銀貨の1/4だが、後者の銀含有量が約0.53gなのに対し、これと額面で等価の4トルネセッロ分の銀の総量は約0.32gに過ぎない。勿論、貨幣の純度は時期によって変動しうるが、そもそも当初から貨幣の額面と銀含有量が釣り合っていない。しかし、純度が低ければ信用度も下がるはずなのに、実際にはトルネセッロ銀貨の流通量は、ヴェネツィアの植民地を中心にエーゲ海地域で他を圧倒したとされる。
その背景にはヴェネツィア政府の施策があろう。トルネセッロ銀貨はエーゲ海地域での使用を前提として(イタリアでは殆ど使われなかった)本国で製造され、大量に東方へ輸送された。そして植民地では決済手段としての使用が推奨ないし強制された(取引現場ではトルネセッロ銀貨の質の悪さが嫌われた形跡もある)。銀純度の低いこの小額貨幣をヴェネツィアが重視し、半ば強制的に植民地で流通を促した理由は明確ではない。だからこそ興味深く、中世地中海世界での銀貨の機能・流通を考える一助になるのではないかと着目している。
付言すると、このトルネセッロ銀貨に関連して、貨幣学が学問と古物売買の間にあることを実感させるエピソードがある。20世紀に(おそらく)ギリシャ中部のエウボイア島のカルキス(ハルキダ)で発見された4,806枚の埋蔵貨幣があった。出土状況等は一切不明だが(カルキスが出土地らしいということ自体、後の調査で判明した)、ある古銭業者がこれを購入し、1980年にアメリカ古銭学協会に貸し出したところから存在が明らかとなり、カルキス埋蔵貨幣として知られるようになった。これにトルネセッロ銀貨も多数含まれていたのである。同協会によってこの埋蔵貨幣のカタログが作成されたおかげで、我々はその詳細な情報を知ることができる。ところが、である。貸与期間が終わると、この埋蔵貨幣のうち合計1,042枚は同協会やスミソニアン協会に寄贈されたが、なんと残りの3,000枚以上は販売され散逸してしまった。実は筆者はトルネセッロ銀貨やソルディーノ銀貨を何枚か購入して所有しているのだが、それらの貨幣のあまり良くない状態と打刻から判る発行年代に照らすと、その元々の出所は、カルキス埋蔵貨幣ではないかと疑っている。少々胡散臭く、魅力的な貨幣の話である。
ダンテ没後700年に『神曲』を読む
星野 倫
ダンテ没後700年にあたる2021年の秋学期、日本語訳で『神曲』を読む授業を担当した。対象は、文学部2~4回生の34名。授業中に読むことができたのは全100歌中の36歌だったから、残りは学生各自の自学自習に委ねた。授業終了時点で、100歌全部を読了した学生は20%、100歌には及ばぬものの50歌以上読んだ者が52%だった。途中4回の小レポート(各800字)のうち3回は、各篇より9行以内の詩行を選び Dartmouth Dante Project などを用いて伊語・英語の先行注釈を参照した上で、自説を展開するもの。最終回は”Ciao Dante!!”で始まるダンテ宛の手紙の形で、『神曲』読了の感想を述べることを求めた。ここでは、後者の中から執筆者の許諾を得て2点を紹介し、現代日本の若者が『神曲』をどのように受けとめたかの一端に触れたいと思う。
■Ciao Dante!! あなたの作品を読み終えました。私はキリスト者ではありませんから、あなたの詩の中に神の威光を見いだすことは出来ませんでした。しかし、私はこの詩の中に葛藤を見いだしました。私自身の場合もそうですが、人間である限りはあなたが迷い込んだ森で同じように迷わなくてはならないと感じます。そして、光に照らされた丘も自分の手には届かないものとしてあり続けるかのようです。私が感銘を受けたのは『神曲』において地獄を進んでゆく下降運動と天国を目がける上昇運動がひとつの螺旋として連続していることです。地獄篇第1歌で諦めるほかなかった丘の登頂は地獄と煉獄を通る長い旅によって再び試みられます。地獄を下ることにより天国へと接近するこの試みは、苦しみや葛藤を経て喜びを目指すことを寓意していると私は考えます。そうした形で『神曲』においては希望が示されています。しかし、その希望は容易く手に入るものではなく、苦しみを突き詰めた先に手に入るものです。人間を愚行へといざない、天国から遠ざける「現世」というものがあなたを苦しめるもの、あなたの迷い込んだ森であったのではないでしょうか。現世から逃れることは出来ません。出来ることは現世への憂いを背負って生きること、そこから新しい何かを見いだすことです。あなたが示しているのは葛藤からの逃避ではなく、葛藤を乗り越えて得られる幸福だと私は受け取りました。(松川理恩)
文学作品の作者や登場人物と読者を結ぶもっとも強い紐帯は、生にまつわる葛藤・苦しみをめぐるcompassione(共感、共苦)であろう。『神曲』受容の端緒も、そこにある。加えて、「苦しみや葛藤を経て喜びを目指す」希望をダンテは提示していると、松川さんは受けとめた。
■Ciao Dante!! わたしがあなたの喜劇を初めて手にした高校生のときから数年を経て、再びあなたの喜劇を読み返すと、言葉の随所にあなたの深い思考が垣間見られ胸を打たれます。引用させてください。地獄篇第4歌、辺獄の魂についての一節です。「お前はこの連中がいかなる魂か訊きたくないのか?(略)かれらは罪を犯したのではない、徳のある人かもしれぬ。だがそれでは不足なのだ。洗礼を受けていないからだ。(略)実は私もそのひとりだ。こうした落度のためにほかに罪はないのだが、私たちは破滅した。ただこのために憂目にあい、〔天にあがる〕見込みはないがその願いは持って生きている」。高校生の頃のわたしはこの一節を悲劇的に解釈しました。罪なき人が罰せられる不条理。だから地獄なのだと。いま再びこの一節を読むときの印象はかつてのものとは少し異なります。聖トマスは辺獄を旧約聖書の義人たちや未洗礼のものたちに割り当てました。それにたいして、あなたは信仰の如何に関わらず、それを異教徒たちにも開いています。あなたはこの詩を喜劇と呼んでいます。つまり、あなたは彼らにも幸福な結末を約束している。こうした解釈がわたしの頭をよぎりました。だから、辺獄の魂たちは見込みはなくとも希望を持ち続けている。そして彼らは生きている。「生きている」とあなたは書いています。救われるかどうかはわからなくても生き続けること。希望を持ち続けること。それが生きることなのだと理解し、そして深い感動を覚えました。(竹下 涼)
リンボの魂は最後の審判においても決して天国へ行けないのか。「見込みはないがその願いは持って生きている」の行でダンテはウェルギリウスに”vivemo”(=viviamo) と言わせている。「救われるかどうかはわからなくても生き続けること」。『神曲』最深部にあるダンテの思想(天国を万人に開く思想)を竹下さんは掘りあてたようだ。
学生には「有名な古典=立派な作品、とするのではなく自分自身の『神曲』像をもつこと」を求めた。それに挑んだ学生たちの文章を読むのは私にとっても嬉しいことだが、何よりもダンテにとって幸福なことだと思う。
ポスト・コロナのフィールドワークと現地調査
鈴木 均
1986年の入所以来奉職してきたアジア経済研究所(現在は日本貿易振興機構アジア経済研究所)を2019年3月末をもって定年退職し、現在は非常勤嘱託員の身分である。退職後に給与が激減したのは良いとして(良くもないが、ここでの本題ではない)、個人的な最大の変化は業務の評価基準が大きく変わった事と、出張の機会(とりわけ海外出張)がほぼ実質的に無くなったことであった。
こうして2019年度の1年間を平穏に過ごし、これからさらに4年間判を押したような生活を続けることをほぼ既定の事実として受け入れていた矢先に起きたのが、新型コロナウイルスの発生による世界的なパンデミックである。2020年4月7日に安倍政権が記者会見を開いて緊急事態を発出し、アジ研も9日から在宅勤務体制に入った。
それから2年の時間が経過し、この間にコロナ禍に対する政府の対応や社会的な受け止め方もワクチンや新薬の開発によって大きく変わったが、職場では現在も在宅勤務を中心とする職場の体制に大きな変化はない。
この間職場では例外的な場合を除いて海外渡航はもちろん一切行われていないが、このような事は1958年の開所以来初めての事態である。従来から現地主義を掲げ、開発途上国(というのも最早や死語に近いが)での現地調査やフィールドワーク(両者は一見似てはいるが異なる概念である)を研究の一つの柱にしてきたアジア経済研究所としては、恐らくこれまでの遅れを取り戻すべく早ければ今年の後半位から現地調査や海外赴任が矢継ぎ早に行われるのではないかと思われる。
さてここからが本稿の主題であるが、こうしたポスト・コロナの現地調査やフィールドワークは果たしてコロナ以前と同じ性質のものになるのであろうか。以下では議論を少し明確にするため現地調査とフィールドワークを分けて考える事にすると、従来の現地調査というのは実際には国際会議や国際学会への出席、海外の研究機関の訪問、図書館での文献・資料調査などが中心であったように思う。
ところがこれらの活動は海外出張が極度に制限されていた現在までの2年間でオンラインでの実施によって多くが代替され、時間を掛けて直接現地に赴くのとは異なり足りない部分も多くあるとはいえメリットの部分も少なくない(移動に多くの時間や費用を費やす必要がなく、世界各地の関係する研究者が一堂に集まれる等)ことがこの間実感されてきている。その意味ではいわゆる「現地調査」を今後どのような目的で組み立てていくかは様々な試行錯誤の余地があるのではないだろうか。
他方でポスト・コロナのフィールドワークのあり方についてもこの時期に再考しておく必要があるだろう。私自身が現代イランの地方都市における1979年の革命以降の社会変動をテーマとするフィールド調査で2000年頃を中心に地方を頻繁に訪問しており、この時の経験が現在のイランおよび中東の現状分析のベースになっているだけに、この問題については特別な思い入れがある。
ここでは取り敢えず中東社会を対象とした社会科学的なフィールド調査に限定して考えたいのだが、現地の農村なら農村に一定期間住み込んで記録をつけデータを集めるという最も基本的な部分のスタイルは変わらないにしても、それをわざわざ日本から出かけていって直截に行うことの意味がこれまでよりも厳しく問われる事になるのではないか。
別の言い方をすれば、グローバル化の進んだ現在の世界においては人間の物理的な「移動」という事の意味づけ自体が大きく変わりつつあり、その部分を考慮に入れない限りフィールドワークという活動の科学的な方法としてのメリットも全く生かされない事になりかねなくなっているのである。
非常に簡単な例として、現地にわざわざ苦労して足を運び、ある地方都市の現状についてインタビューを行ってフィールドワークの成果とするといったケースを考えてみよう。こうしたインタビューはしかし現在では無料のインターネット回線でも十分可能であり、しかも音声だけでなく画像を含めた通信が容易に行い得る。
もちろんこの場合前提として当該地域の言葉の習得、現地の基本的な事情についての認識、現地のコミュニティの人々との信頼関係やパーソナルなネットワークの存在が不可欠である。またこうしたものを醸成するという意味でのフィールドワークの価値は今後とも揺るがないともいえるのだが、ここで問題にしているのはその次の段階の話である。
とはいえ私自身は今後それほど現地に足を運ぶ機会があるとは思われない。長期間のフィールドワークというのも若手の研究者に委ねる以外にはない。その上で自分がこれまでやってきた仕事を今後残された研究活動の時間のなかでどのように生かしていくか。パンデミックとウクライナ戦争によって激変した世界情勢を横目でにらみつつ新たな研究戦略を練るというのも数年前には全く想定していなかった事態である。
表紙説明
地中海の《癒し》9:エディルネのベヤズィト2世病院/川本 智史
オスマン朝君主のベヤズィト2世は1481年の即位の後、帝都イスタンブルではなく旧都のエディルネに長期間滞在し、自らの名を冠した複合施設(キュッリイェ)を寄進した。複合施設には宿泊施設を付属したモスク、給食施設、学校、浴場、そしてここに紹介する病院が含まれていた。病院は1877年からの露土戦争でエディルネがロシア軍に占領されるまでは病院としての機能しており、廃墟となった後修復されて、1997年からは医学博物館として公開されている。
17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビーによればここでは精神疾患を患うものたちが音楽療法を受けた。特に春になると「恋に身を焦がす」ものたちが多く現れて、病院に入院したという。病院の入り口をくぐるとまず第1の中庭があり、右側に列柱廊とその背後の小部屋、左側にも小部屋が並ぶ。次の門を抜けると第2の中庭がありやはり左右に小部屋がある。この次にあるのは六角形のメインの建物で、表紙にある噴水盤をもつやはり六角形の開放的な中央ホールに、エイヴァンと呼ばれるアーチで覆われたエントランスと部屋が接合されている。
4つの部屋には腰掛け台が備えつけられており、患者たちはここに座ってホールで奏でられる音楽に耳を傾けたという。エヴリヤ・チェレビーによれば週に3回、歌手やバイオリン、さまざまな打楽器奏者ら10人から構成される楽団がここでコンサートをおこなった。月報444号の表紙解説にもあったように、古くから音楽の調和は心身の調和とも密接なつながりをもつものとされ、心の病の治療に音楽が用いられたこともその一環である。古代ギリシアでもさまざまな調べは人の感情に働きかけるものと考えられ、アラブ世界でもマカーム(旋法・音階)ごとにそれぞれの効能があるとされた。たとえば哲学者ファーラービーが説くところによれば、代表的なラーストのマカームは人間に歓びを与えるものであり、とくに「槍の影が本体の2倍になる」朝の時間帯に効果を発揮する。オスマン朝ではイブン・スィーナーの影響が強く、18世紀に彼の著作も翻訳した宮廷侍医のゲヴレキザーデ・ハサン・エフェンディは子供の病に対する音楽の効能を説き、たとえばジレフケンドのマカームは麻痺や背中の痛みに効果があり、元気を与えるとした。
エヴリヤ・チェレビーはさまざまなマカームの中でもブーセリキとゼンギューレが患者に力を与えると伝える。ゲヴレキザーデの理論では前者は股関節痛・頭痛・眼病によく、後者は心臓・脳疾患・髄膜炎・胃炎・肝炎にまで効く。もはや精神疾患とはほとんど関係がない気もするが、たいしたものである。ただし、さしもの大旅行家も音楽療法の理論にはあまり精通していなかったようで、しまいには「すべてのマカームと楽器は魂に糧を与えるのだ」といささかなげやりである。
現在博物館となった病院を訪れると、楽士たちの人形が置かれ、噴水の水音と共に古典音楽の録音演奏が流されている。しばし目を閉じて、はてそれがどのマカームであるかと思いを巡らすのも一興だろう。