地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

10月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:セルリオの建築書『第四書』にみるペルッツィの遺産
発表者:飛ヶ谷 潤一郎 氏(東北大学大学院)
日時:10月12日(土)午後2時から
会場:学習院大学北2号館10階 大会議室
(JR山手線「目白」駅下車 徒歩30秒、東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅下車徒歩7分)
参加費:会員は無料、一般は500円

セバスティアーノ・セルリオの建築書『第四書』(ヴェネツィア、1537年)は、五つの建築オーダーを図版とともに体系的に説明した最初の建築理論書である。けれども、当時この書にいささか否定的な評価がされたのは、彼がバルダッサーレ・ペルッツィの建築素描を借用しているため、独創性に乏しいとみなされたからであった。しかし裏を返せば、この書は建築書を著さなかったペルッツィの建築理論を理解する上できわめて重要な価値を持つといえる。そこで本発表では、この書にうかがえるペルッツィの遺産について検討してみたい。

会費納入のお願い

今年度会費(2019年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313

正会員の会費改定について

6月8日神戸大学にて開催された第43回地中海学総会において、2020年度(2020年4月1日)より正会員の会費を下記のように改定することが決定されました。

(現 在)正会員は、一ヶ年につき13,000円の会費を納入しなければならない
(改定後)正会員は、一ヶ年につき10,000円の会費を納入しなければならない。

家族割引会費の改訂

正会員の会費改定に伴い、家族割引会費についても下記のように改定されました。なお、家族割引会費は、同居する会員中の一名が正規の会費を納入し、他の同居家族が会費の割引を受けることができる制度です。誤解のないようにお願いします。

(現 在)常任委員会の承認を得た上で、正会員会費13,000円から5,000円、学生会員会費6,000円から2,000円の割引を受けることができる。
(改定後)常任委員会の承認を得た上で、正会員会費10,000円から5,000円、学生会員会費6,000円から2,000円の割引を受けることができる。

会費口座引落について

地中海学会では、会員各自の金融機関の口座より会費の「口座引落」を実施しております。会費の口座引落にご協力をお願いします。今年度(2019年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致します。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送り致しますので、事務局までご連絡下さい。今回、申し込まれる方は、2020年度から口座引落を開始します。

なお、個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成しております。

地中海学会大会 記念講演要旨
神戸で想う、ピランデッロのカオス・シチリア
武谷 なおみ

阪神・淡路大震災の際、避難先の大阪で夢中で書いてファクスした私の手紙が思いがけず「神戸、東灘から」という見出しで、地中海学会「月報」に掲載された。あれから24年。講演では、わが街神戸の案内役として、石川達三の小説『蒼氓』と西東三鬼の自伝的作品『神戸・続神戸』を紹介した。

「1930年3月8日。神戸港は雨である。……海は灰色に霞み、町も朝から夕暮れ時のように暗い」ではじまる『蒼氓』は、神戸の中心元町トアロードを山裾まで上り、西に5分ほど歩いた「国立移民収容所」が舞台だ。ブラジル移住を決意した農民とその家族が全国から集められ、身体検査や外国語の訓練をうけて8日間、堅牢なそのビルで過ごす。1度に約1,000人が海を渡るのだが、人口問題解消の国策によって神戸港から出発する人々を、石川は移民ではなく、棄民と見なした。

西東三鬼はその12年後、おなじトアロードの坂道の中程にあるホテルに宿をとった。「言論弾圧」で特高に検挙され、起訴猶予になったものの監視下におかれていた三鬼は「東京のなにもかもから脱走した」。「それは奇妙なホテルであった」と彼はいう。同宿の客は白系ロシア女1人、トルコタタール人夫婦1組、エジプト男1人、台湾男1人、朝鮮女1人。日本人はバーのママなど女10人と、男はどこかの病院長、そして三鬼の2人だった。素性が知れず、行き場がなく、「ハキダメの住人」のような彼らが、英語を解する三鬼を「センセイ」と呼んで話しにきた。ピランデッロの「作者を探す登場人物」さながらに。

「ハイカラ神戸」にも様々な顔がある。海と港、異民族の交じり合い。単一の国家の枠を超えて生き延びる知恵を人はどのように身につけるのか? ここから先は、3000年の歴史をもつシチリアに話題を移し、ノーベル賞作家ルイージ・ピランデッロ(1867年~1936年)の故郷アグリジェントを取り上げた。

「私はカオスの子です。寓意的にではなく、現実にそうなのです」と作家自ら語るように、眼前にアフリカの海が広がり、サラセン・オリーヴの巨木が連なる母方の田舎の家で彼は生まれた。カヴスと呼ばれたその地区は古代ギリシア語の語彙「カオス」に由来し、現在はピランデッロ記念館が建っている。

アグリジェントといえば必見は世界遺産の「神殿の谷」だが、北西方向の高い丘に無秩序な積み木細工のように家々や教会が重なる町があり、くねくね曲がるアラブ風の路地で結ばれている。「ピランデッロの短篇を翻訳するなら、丘の上の町を歩きに来いよ」と半ば命じる文学仲間の誘いで行ったのは、作家がそこで、14歳になるまで暮らしたからだ。

意表をつかれたのは、当時シチリア最大であったと伝えられる精神病院の敷地に今は県の保健衛生公社が建ち、玄関を入った奥の壁に、謎の言葉が刻まれていることだ。「みんながここにいるわけではない。そして、みんながそうではない」。「狂気」と「正気」、「見かけ」と「真実」の反転を軸におくピランデッロの芸術は、この地にルーツをもつ。

アグリジェント県出身の後続の作家レオナルド・シャーシャは語っている。「ピランデッロのページをめくると、自分のまわりで起こっている日々の有様がそのまま映し出されていました。……ですから、私にとって彼はあくまで現実を、ある独特の方法で読み取る、リアリズムの作家です」

ピランデッロの短篇「免許証」には、頬がこけてやつれた白人の顔に、黒人風の縮れた髪の毛が生えた判事が登場する。「シチリアの無限の苦悩をわきまえていそうな」判事のもとに、目つきが悪く、住民から「疫病神」と謗られ、蔑まれている男がやって来る。男は判事に訴える。名誉棄損で争うよりも、いっそ「疫病神」であることを証明する公の免許証がほしい。そのため裁判を起こすのだと。

別の短篇「ホテルで誰かが死んだので……」では、シチリアの田舎から息子と娘に伴われて、数日後、移民でアメリカに渡るおばあさんがパレルモのホテルに到着する。「船旅はつらくありませんか?」と5分おきに周囲にたずねる老婆は、明らかに認知症だ。だが読者は、相手をうんざりさせるこのおばあさんこそ、海の向こうの大国の脅威を本能的に嗅ぎ分ける叡智の人だと、徐々に気づかされる。

ピランデッロは50歳を過ぎて発表した芝居で世界を席捲した。現実主義か、前衛か。彼をめぐる「批評のカオス」は未整理だが、今後の課題とすることで、お許し願いたい。

地中海学会大会 地中海トーキング要旨
港町:交流と創造力
宮下 規久朗

神戸大学で開催する今回の地中海学会全国大会での地中海トーキングのテーマは、「港町:交流と創造力」とした。神戸は平安時代に平清盛によって日宋貿易の拠点として築かれた大輪田泊以来の長い歴史を持ち、明治の開港後は、日清戦争と第一次大戦を経て東洋最大の貿易港として繁栄した。しかし、1995年の阪神・淡路大震災の後は貿易量が上海などに抜かれ、人口も減少しつつある。神戸大学文学部は海港都市研究センターを付設しており、海港都市をめぐる文化交流や創造活動を研究する国際的なネットワークを構築してきた。

こうした神戸で開催するにあたり、人・モノ・情報が流入して新たな文化を生み出す港町をテーマとしたのである。発表者は、20世紀半ばの神戸、17世紀から20世紀のイスタンブル、19世紀末のパレルモ、紀元前4世紀のアテネを舞台に、それぞれの専門分野の最新の研究成果を織り込みつつ、非常に充実した発表をしてくださった。

まず、神戸大学の樋口大祐氏(国文学)は、「重層化するコロニアル都市・神戸における移民文学の系譜についてと題した発表で、神戸の現在にいたる歴史的経緯の中で、複数の言語文化が折り重なるように形成されてきた神戸の移民文学の系譜とその特色について、1940年代の神戸を舞台にした文学作品を中心に、多くのテクストを引用しつつ検討した。近代に繁栄した他の港町と同じく、神戸もコロニアル都市という性格を持ち、異なる要素が重層的に対立・混交・共存を繰り返し、戦争がそれを顕在化させてきた。こうした神戸の文化地図の全体像を象徴的に描いたのが大岡昇平の『酸素』であった。

次に、大阪大学の宮下遼氏(トルコ文学)は、「世界帝都の夢を見る街:「ルームの地」の文学をめぐって」という発表を行った。イスタンブルはおよそ1600年にわたり王権の住まう大都市の地位を維持した点で稀有であったが、近年、トルコ文学史研究で提唱される「ルームの地」という新概念を軸に、この海運都市で営まれた文学的潮流を紹介した。オスマン詩人に称賛された世界帝都イスタンブルは、20世紀にはノーベル賞作家オルハン・パムクによって、現実とは異なる「憂愁の都市」という文学表現に結びつきやすいイメージが与えられたという。

京都造形芸術大学の河上眞理氏(イタリア美術史)は、「ヴィンチェンツォ・ラグーザと清原玉──イタリア、日本、そしてパレルモへ」という発表を行った。工部美術学校の彫刻教師として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザは、妻の清原玉を伴って帰国し、故郷パレルモでの美術工芸学校創設をめざして、大量の日本美術を教材として持ち帰った。彼らの活動は19世紀末のパレルモにジャポニズムをもたらし、玉も壁画制作や教育者として影響を与えたことを、新資料によってあきらかにした。

最後に、本大会の実施責任者でもある神戸大学の佐藤昇氏(古代ギリシア史)は、「交流、摩擦、そして解決へ:古典期アテナイの法廷演説から」という発表を行った。古典期アテナイでは、市民が陪審員となる裁判制度が発達し、それら市民を説得するための弁論術、修辞学が発達した。しかし、外国人が頻繁に行き交うアテナイでは、外国人もまた原告・被告になり、演説をする可能性があった。アテナイの制度や修辞術に不慣れな外国人が市民陪審員たちを説得するために、説得術が練り上げられていった。外国人との交流が生み出す摩擦や問題と、それによって発展したこうした修辞的技巧について歴史的観点から検討した。

全体討論では、港町における歓待と排除という観点から補足説明やコメントをいただき、また会場から有益なご指摘やご意見もいただいた。港町は、異国の文化や最先端の情報が流入し、開放的で華やかな文化が栄えるという表層のイメージばかりが注目されがちだが、その反面、亡命者や無法者、移民や難民も流入して犯罪や差別を生み出し、社会の下層に堆積するという負の側面も忘れることはできない。港町に流入した雑多な文化や情報は、後背地の大都市や全国に伝播する過程で濾過されるが、港町ではそれらは同化することなく滞留し、様々な対立や矛盾を生んで複雑な陰影を与えてきたのである。

ハイカラな町としてイメージされてきた神戸も、観光地である異人館街や中華街だけでなく、震災後もっとも大きな被害を生んだ在日朝鮮人の巨大な集落があり、現在もベトナム人労働者やミャンマー難民が増えており、また日本最大の暴力団の本拠地になっている。こうした光と影こそが港町の本質だと筆者は思うのだが、残念ながらその点については十分に議論を深めることができなかった。しかし、地中海学会にふさわしく、神戸と地中海の歴史的な港町とをつなぐヒントもいくつか示唆され、刺激的なトーキングとなったと思う。登壇された発表者と参加者の皆様にこの場を借りて感謝申し上げたい。

地中海学会賞を受賞して
大髙 保二郎

さる6月8日、神戸大学で開催された第43回地中海学会全国大会総会において、本村凌二会長より栄誉と歴史ある地中海学会賞を戴くことができました。

しかし、まったく想定外のサプライズであって、事務局から受賞の連絡をメールで頂戴した時、「エッ!だれかとヒト間違いではないですか?」と再確認したほどでした。それから2か月、時間が経つにつれて受賞の意義を実感してきています。スペインとか美術史の枠組を越えた脱領域的で学際的な学会の賞であり、そのことが素直に嬉しく感じられ、またそれほどに重い賞であるだけに、今もって身が引き締まる思いであります。

美術史学を志して上京したのはもう半世紀余り前のことになります。1964(昭和39)年2月、四国の高松から大学受験のために瀬戸内海連絡船で本州へ。宇野港で寝台列車「瀬戸」に乗り換えて、三段ベッドの一番上でガタビシ揺られながら早朝、目が覚めるとそこはもう大船でした。車窓から見上げれば、白い、大きな観音様が優しく迎えてくれているようでした。その時の感激がいつまでも忘れられず、今では結局、その近くに住むことになり、東海道線からいつもありがたく観音様を見上げて東京まで、プティ旅行を楽しんでいます。

大学に入学して4年、その後大学院では澤柳大五郎先生に「美術史の何たるか」を教わり、その後は神吉敬三先生が師となり、スペイン美術の神髄、その魅力をとことん、教えてくださいました。以来、恩師の後ろ姿を追いかけるように、自身の研究を深めてきました。しかし、その先生が1996年4月に急逝された後は、羅針盤と精神的支柱を同時に失って、呆然自失の状態でした。ようやく新たな使命と責任に覚醒し、ここまでやっては来ましたが、しかし、まだまだ、「師の姿ははるか遠ざかっていくばかり」、というのが今日の偽らざる心境です。

これまでの仕事を振り返ってみましょう。翻訳では、ピエール・ガッシエの『ゴヤ全素描』(岩波書店、1980)、パラウ・イ・ファブレの『不滅のピカソ(ピカソ・ヴィヴァン)』(平凡社、1983)、いずれ劣らぬ大部な研究書で(いずれも共訳)、30歳代後半という時期、その後の研究に向けての基本的なスタンスが築けたのだと自己評価しています。また『ゴヤの手紙──画家の告白とドラマ』(岩波書店、2007)、これは松原典子氏との共訳ですが、絵画から来る印象とははるかに想像を超えた、矛盾するかのようなゴヤ像の新鮮な発見の連続でした。

一方、展覧会では、『ピカソ 愛と苦悩《ゲルニカ》への道』(東武美術館、朝日新聞社、1995-96)、そして3年連続のピカソ展(上野の森美術館他、産経新聞社、2002-04)は、ピカソの奥底深くまで分け入れる機会でした。そして2011年、東日本大震災の年の「プラド美術館 ゴヤ」(国立西洋美術館、読売新聞社)展も忘れられません。

定年退職後は、「ベラスケス──宮廷のなかの革命者」(岩波書店)。新書とはいえ、豊かな情報と新たな視点があると自負しています。昨年は『堀田善衞を読む』(集英社)、『スペイン美術史入門』(NHKブックス、いずれも共著)、続いてこの4月には、パチェーコ著『絵画芸術』をスぺラテ研究会の有志メンバーと共訳し、10年余りの準備期間を経てようやく刊行することができ、同研究会創設以来の宿願を何とか果たすことができました。

さて受賞理由には、自身の研究や出版の個人的な業績だけではなく、「スペイン・ラテンアメリカ美術史研究会を主導して、スペイン美術研究者の育成に尽力してきた」とあり、若手の後進研究者を育ててこそスペイン・ラテンアメリカ美術研究の裾野が広がるのだ、という常々の信念が評価されたところにも、ささやかながら歓びを見出しています。

この場をお借りして若い研究者に申し上げたいのですが、地道に日々、研鑽、精進していれば、その努力と情熱は必ずや報われます。あなたがたの研究、仕事はどなたかが見、評価してくれているはずです。たとえ逆境に置かれてはいても、研究の深遠やその対象の面白さを糧にして頑張ってほしいと心底願っています。

この地中海学会賞を機に、私も心身ともに一層引き締めて、これから先、時間がどれくらい残されているか神のみぞ知る!ですが、スペインおよびラテンアメリカ美術の研鑽と啓蒙に、微力ながらも尽くしていきたいと意を新たにしています。こんな時、思い浮かぶのは、ゴヤが最晩年、老いさらばえながらも杖を両手にすがりつつ生きんとする精神的自画像、「Aun aprendo(それでも俺は学ぶぞ)」のあの有名なメッセージです。

最後になりましたが、会長の本村氏、事務局長の島田氏をはじめ選考委員の諸先生、常任委員の先生方、また遠路はるばる神戸まで、授賞贈呈式に駆けつけてくれた友人や教え子たちにも篤く、心よりお礼を申し上げます。

地中海学会ヘレンド賞受賞によせて
樋渡 彩

この度は、第24回地中海学会ヘレンド賞という栄誉ある賞をいただき、心よりお礼申し上げます。ヘレンドの日本総代理店・星商事株式会社様、推薦や審査してくださいました先生方に感謝致します。

受賞作の『ヴェネツィアとラグーナ──水の都とテリトーリオの近代化』は、従来研究が希薄だったヴェネツィア共和国崩壊以後に焦点を当て、近代化のなかで水の都市がどのように姿を変え、いかに魅力を高めたのか、という新しい視点から論じています。

まず、一般的に負のイメージで捉えられがちな共和国崩壊以後のヴェネツィアを水の側から見直し、その都市構造を大きく変化させながらも、水都としてのイメージを維持し、さらにそれを高めてきた過程を明らかにした点に本研究の最大の特徴があります。蒸気船の登場で舟運機能を飛躍的に増強し、南西部での近代港湾空間の建設で物流機能から解放された大運河沿いでは、ホテル(旧貴族の邸宅)の前面にテラス席が設けられるなど、今日につながる水都ヴェネツィアのイメージはむしろ近代に形成されたという新たな見方を提示しています。

研究方法として、ヴェネツィア市歴史文書館の一次史料を用いています。とくに19~20世紀前半の都市計画関係や建築確認申請などの史料を整理・分析しつつ、当時の写真を用いて、変化の過程を丁寧に検証しました。

次に、ヴェネツィアの周辺に広がるラグーナ(潟)という後背地に光を当て、その存在がこの都市の繁栄を生み出したことを描いた点に、もうひとつの新規性があります。これまでヴェネツィア本島ばかりが注目されていたのに対し、本研究はその周辺も対象とする今までにない試みです。とりわけ、近代のリゾート地として知られるリドについては、発展史もその大きな枠組みで新たな視点から論じています。

このように本研究は、共和国時代を対象とする従来の研究とはまた別の、新たな都市像を提示するものです。

さらに、1980 年代にイタリアから始まり、近年、我が国でも影響力をもちつつある、都市をその周辺に広がる地域である「テリトーリオ」の視点から捉え直した研究になります。

本書は、博士学位論文をもとに構成し直したものです。博士学位論文では本編をなす4章に序章と結章を加えた構成をとっていましたが、そのうちの第1~3章をもとに加筆・修正を行って組み立てられています。なお第4章は、『ヴェネツィアのテリトーリオ──水の都を支える流域の文化』(共編著、鹿島出版会、2016年)として刊行されています。この場を借りてご指導いただいた陣内秀信先生、野口昌夫先生、ヴェネツィア建築大学のC・バリストレリ・トリンカナート先生、湯上良氏ほかお世話になった方々に心より感謝致します。また編集をご担当いただいた川尻大介氏にもお礼を申し上げます。

そもそも本研究のきっかけは、旅行で訪れた時の印象というありがちなものでした。どの都市も地図を見れば目的地がすぐにわかることから、地図の読める女であることを自負しておりました。しかし、ヴェネツィアでは方向性を失い、地図を見ても完全に迷子になったのです。この時の悔しさから「この町を理解したい」と思うようになり、ヴェネツィアの研究につながりました。修士課程でヴェネツィアに留学した際、目を閉じても歩けるほど路地をくまなく歩き、都市空間を身体で吸収しました。建物用途の記録、24時間調査など都市空間および機能を隅々まで理解しようとしました。船を歩いて一艘ずつ数えたことは、今では考えられないエネルギーだったと思います。日々発見の連続でわくわくしていました。

本研究に直接関わるエピソードを挙げると、きりがありません。閉架の図書が「高い場所にあり、取れないため、貸し出せない」という対応には図書館の意味を考えさせられましたが、この事態に動揺せず、気の利いた言葉をひとつでも添えられるようになりたいところです。そのなかでも衝撃的だったのは「あなたに見せる資料はない」といういわゆる門前払いの経験です。途方に暮れていたところ、当時ヴェネツィアに留学されていた湯上氏のおかげで閲覧できるようになりました。別の機関では、何度も訪れ、熱心さを伝えることで1年がかりで資料を入手しました。これらは公的機関での話であり、本来なら手続きを踏めば史資料が簡単に入手できます。しかし、そうできないのがイタリアなのです。今回の受賞を当時の自分に伝えることができたなら、もっと楽しく取り組めたのではと思います。

最後になりましたが、今回の受賞を励みとして、研究の楽しさを伝えつつ、より一層精進していく所存です。今後ともご指導、ご鞭撻のほど心よりお願い申し上げます。

地中海学会大会 研究発表要旨
1970-80年代コルシカ島における民族音楽
「コルシカン・ポリフォニー」の成立と発展──コルシカ民族主義運動との関係 長谷川 秀樹

フランス領のコルシカ島は「声の島(Isula di voci)」、「歌う島(Isula cantata)」と言われるほどに多声合唱形式の歌謡が盛んで、今日それはFNACなどフランスの音楽量販店では「コルシカン・ポリフォニー(Polyphonies corses, E pulifunie)」というコーナーを設けられるほどである。もともとコルシカ島は伝統的に多声合唱形式の歌謡文化が根付いており、この点については、過去(2007年)、当学会にて報告を行っている(『地中海学会月報』第301号参照)。今回の報告は、1950~60年代に急速に廃れたこの文化がなぜ1970年代に「コルシカン・ポリフォニー」という民族音楽として再生されたのか、ということに焦点を当てるものである。

ただし、コルシカ多声合唱歌謡をめぐる先行研究と本報告との差異であるが、先行研究の多くが「コルシカン・ポリフォニー」と伝統的歌謡を延長線上にとらえる、すなわち両者を一つのものとしてみなす傾向があるのに対し、本報告は、両者の差異を浮き彫りにし、伝統的歌謡と「コルシカン・ポリフォニー」を関連性・連続性ではなく、相違性・断続性に位置付けるものであることを前言しておく。なぜならば、コルシカの伝統的多声歌謡文化の本質はその「即興性」「(芸術活動というより)日常的感情表現」にあり、現代音楽である「コルシカン・ポリフォニー」には「即興性」はあまり見られず、また歌い手も聴衆も芸術活動としてこれに興じ、この点で両者には「断絶」が見られるからである。

もう一つ、両者の差異は、「コルシカン・ポリフォニー」には「コルシカ民族主義」の精神、思想が強く反映されている点である。コルシカ民族主義とは1960年以降現在にも続くコルシカ島の政治社会的潮流で、端的に説明するならば、コルシカ島民(I Corsi, I Isulani, I Paisaniなどと表現される)を歴史的な運命共同体としてのu Populu(人民、民族、国民などの意)とし、それの「自由(a libertà)」を守る、というものである。

従来研究は、1970年代以降におけるポリフォニーの成立を、同時代における民族主義運動と併せて論じるものもなくはないが、これらを別個の2つの併存する現象として記述するのみで、その関連性について触れた事例はない。一方で、地域的な歌謡、音楽がどう民族主義と絡むのか、地中海世界のみならず世界的に見てもそういう事例は枚挙にいとまがないが、方法論的に確立されたものはない。他地域の事例で見た場合、その詩の内容・メッセージ性と演じ手、すなわちコルシカの場合は「歌い手(vuceratrice)」の社会的言動、ということになるが、本報告では、前者、歌詞に民族主義的言説がどのように込められているのかに着目した。

民族主義的言説は大きくは以下の三種に分類できる。1)歴史的言説──18世紀のパスカル・パオリの独立運動や16世紀のサンピエルの反ジェノヴァ闘争などの史実や、あるいは現代史となるが、1975年8月のアレリア闘争に関わる語句(パオリ、サンピエル等の人物名、アレリア、ポンテ・ノーウ等の「戦地」)、2)表象的言説──「コルシカ(Corsicaおよび親称としてのCursichella、雅称としてのCyrnea, Kurnos,Cirnu等)」、「コルシカ人(I Corsi)」あるいは「島(Isula, Isolettu等)」という語句を歌詞にすることは19世紀後半までは見られなかった(伝統的歌曲Barbara furtunaにはAddiu Corsica, mamma tanta amataという語句があるが、これは船による離島の辛さを歌ったものである)。また野生種がコルシカとサルデーニャ島の山岳部にしか生息しない羊ムフロン(Muvra, Muvrinu)も、島ではシンボルとして用いられて(新聞社や旅行社のロゴ等)いたが、自由と孤高を表象するものとしてポリフォニーの歌詞に用いられている。3)上述の「民族」、「国民」、「民衆」の語句や「自由」、「闘争」、「革命」などの語句、4)敵対的言説──フランス(もしくはそれ以前のジェノヴァ)を「敵」、「植民地主義者」、「帝国主義者」、「監獄」、「暴力」、「殺し屋」などという語句と結び付ける言説。フランスを名指ししないケースもある。

1970年代後半にレコードリリースされた5グループ、11アルバム(1シングル)には計140曲が含まれている(1979年のコンピレーション・アルバム除く)。このうち、伝統的歌謡やそれをアレンジした曲を除く、グループのオリジナル曲は半分強の86曲。このうち、上述の民族主義的言説が含まれるものは38曲であった。この38曲は一律に民族主義的というのではなく、上述の言説の1)~4)の全ての要素を含むものもあれば、一つだけの要素しか含まないものもあり、民族主義的主張には濃淡がある。グループやアルバムによってもその度合いが異なる。一方、民族主義的内容ではないオリジナル曲は何をメッセージとしているのか。今後はこうした領域の分析も必要となろう。

表紙説明

地中海の〈競技〉4:バックギャモン/高田 良太

もう10年ほど前になるだろうか。ギリシアのテサロニキに留学していた頃、大学での勉強に煮詰まるとカフェに繰り出すのが常であった。時には、カマラ(ガレリウスの凱旋門)の周囲に所狭しと店を構えるカフェのひとつに足を伸ばすこともある。学生街らしく、Wi-Fiも入るモダンさと「古きよき」心地よさとが同居する空間であった。席についてまず目を遣るのは、店の中に積まれたボードゲームである。チェスかバックギャモンを選ぶと、盤を読みつつ話に華を咲かせるのであった。

読者もご存じのとおり、バックギャモンは旧オスマン帝国領を中心に広がる、いわゆるカフェハネ文化の類いであって、ギリシア特有のものではない。では、誰の文化なのか、というバルカンでよくある論争には足をつっこまず、オスマン帝国以前のことを考えてみたい。

『オックスフォード・ビザンツ事典』は、古代ローマからの連続を主張する。ヨアンネス・マララスの『年代記』によれば、皇帝テオドシウス1世は、コンスタンティノープルのアルテミス神殿を「ボードゲームの館」ταβλοπαρόχιονに変えたという。市民が享受した「競技」は、なにも戦車競技場だけで繰り広げられていたわけではなかったということだ。しかし、キリスト教化が進むにつれ、「運命と戯れる」ことが忌み嫌われたためか、バックギャモンに関する記録は断片的となる。

裏の世界の出来事が史料に垣間見える瞬間もある。例えば、パライオロゴス朝で活躍した軍人にして文人でもあったヨアンネス・フムノスは「哲学者への書簡」の中で、コンスタンティノープルの祝祭の場で、市民が饗宴と踊りに興じるかわたらで、「斑点のついた骨」を使った「人を幸せにも不幸にもする」賭博が催されていたと伝える。また、カスティーリャ出身の15世紀の旅行家ペドロ・タフールはコンスタンティノープル図書館に、遊戯盤が置かれているのを見たと証言する。

西欧に目を移せば、もう少しバックギャモンの様子を知ることができる。例えば、表紙の写真はマネッセ写本と呼ばれる1340年代のチューリッヒで成立したと考えられるミンネジンガーの歌集の一葉である(ハイデルベルク大学図書館所蔵、f.262v.)。挿絵で描写される君侯たちの姿は、馬上槍試合や宮廷風恋愛と並び、盤上の競技もまた騎士の嗜みであったことを示している。石の置き方など、現代との違いも認められるが、盤面はバックギャモンそのものである。熱の入った二人の様子からも、人間がいかに長きにわたって、この競技の虜になってきたのかが、知れようというものだ。

現代のギリシアに話を戻そう。悲しいかな筆者は結局、バックギャモンを競技する機会に恵まれなかった。同行者がルールを分からず、必ずチェスを選んだからだ。また、スタイリッシュな雰囲気で売る今風のカフェではそもそもバックギャモンは置かれていない。「古きよき」ものが本当に歴史の彼方に遠ざかっていくのだろうかとぼんやりと考えたことをよく覚えている。