写真で綴る地中海の旅 journey

2019.01.31

パエストゥム(イタリア)

 パエストゥムは、ティレニア海に面したイタリア半島南部の古代ギリシア・ローマ時代の都市遺跡である。ナポリから南東に向かい、サレルノ半島の付け根を過ぎ、サレルノ湾を右手に望んでさらに南下すると、海岸に面したなだらかな斜面にひろがる遺跡にたどり着く。ナポリからの距離は90kmあまりであり、鉄道を用いてローカル列車に揺られて行くか、サレルノで路線バスに乗り換えるかであるが、いずれも本数は少なくあまり便利ではない。遺跡周辺のホテルに宿泊することも可能だが、早朝にナポリの宿を発てば、昼食を挟んで一日遺跡を見学してあまり夜遅くならないうちに宿に帰り着くことができる。途中、車窓からはカンパーニア地方の町々や田園風景を眺めることができ、その乳からモッツァレラチーズが製造される水牛たちの姿も見掛ける。

  • 水牛たち

 パエストゥムは、元々は紀元前600年頃に建設されたギリシア人の植民市であり、建設当時にはポセイドニアと呼ばれていた。その後、この都市は紀元前5世紀末にイタリキー(古イタリア人)系ルカニア人の支配下に入り、さらに紀元前3世紀初めにローマが支配者となり、ローマの都市(ラテン植民市)パエストゥムが誕生した。このようなパエストゥム(ポセイドニア)とその支配者の変転は、南イタリアの古代都市の歴史の縮図であったと言えるだろう。その遺跡では、ギリシア時代からイタリキーの支配時代を経てローマ時代にいたる各時代の遺構が混在するのを見ることができる。それらの中で、先ず目をひくのは紀元前6・5世紀のギリシア時代に建てられた3つの神殿の威容であろう。それらは北から「ケレス神殿」「ポセイドン神殿」「バシリカ」と呼ばれるているが、実際には「ケレス神殿」はアテナ女神、「ポセイドン神殿」と「バシリカ」はヘラ女神をまつるものであったとの説が有力であるようだ。とは言え、これらの神殿址から受ける印象、特に「ケレス神殿」の白く優雅な印象や「ポセイドン神殿」の赤味がかかって重厚な姿は、いかにもそれぞれの呼び名に相応しいものように思われる。

  • ケレス神殿
  • ポセイドン神殿
  • バシリカ

 パエストゥムの3神殿は北端の「ケレス神殿」も含めて、雄渾なドーリス式の列柱を備えている。「ケレス神殿」と「ポセイドン神殿」の中間には中央広場(フォールム)があり、その周辺に体育場などの公的施設やラテン語の碑文を刻んだ個人の記念碑が幾つものこっている。なかでも、「評議会場」(ブウレウテリオン)と呼ばれる集会場や円形闘技場の跡は、いかにも古代ギリシア・ローマの都市らしい遺構であろう。またフォールムの西側には、石畳の路、「聖なる道」(ウィア・サクラ)が残っている。これらの遺構を含むパエストゥムの遺跡は、異邦人である我々が抱く古代ギリシア・ローマの遺跡のイメージそのもののように見える。筆者がこの遺跡を訪れたのは早春の3月後半であったが、青い空を背景に白い花の咲き乱れる草原の上に聳えたつ「ケレス神殿」の姿を忘れることはできない。

  • ケレス神殿の列柱
  • 評議会場(ブウレウテリオン)
  • 円形闘技場の門
  • 円形闘技場の内部
  • 聖なる道(ウィア・サクラ)
  • 「ケレス神殿」遠景

 遺跡の公開されている地区と道を挟んで、考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale)がある。そこでは、パエストゥムの北12kmに位置する女神ヘラの聖域(ヘライオン)やパエストゥムの市壁の外の墓域(ネクロポリス)から発見された遺物などからなる充実した展示が行われている。筆者はヘライオンの遺跡を訪れたことはいないが、恐らくギリシア本土のポリスなどでも知られる「辺境聖域」の類でと思われる。ポセイドニア(パエストゥム)の中心市に所在する「ケレス神殿」や「ポセイドン神殿」と辺境のヘライオンが相俟ってポリスの空間的秩序を安定させることが意図されていたと考えられよう。ネクロポリスでは、壁面や天井をフレスコ画で装飾した墓所がいくつも発掘され、それらのフレスコ画が博物館で展示されている。最も有名なのは、ある墓室の天井に描かれていた「飛び込む男」のフレスコ画であろう。

  • 墓室の展開図
  • 「飛び込む男」のフレスコ画

(島田 誠)