大月康弘著『ヨーロッパ 時空の交差点』創文社
時空の交差点に引き込まれて 草生久嗣
歴史家の教養に裏打ちされた流麗な文体に加え、自余の歴史紀行エッセイとは一線を画す特徴が本書にはある。読者は、執筆のその時その時にたまたま著者がたたずんでいた「時空」に、いきなり放り込まれるような体験をすることになるだろう。なぜ著者がそこにいるのか、どのような文脈がそこにあり、何を共に見ることになるのか、各回エッセイ本文を読み進めるうちにようやく明らかになるという趣向である。その行き先は、パリやギリシャの島嶼、イスタンブル、アナトリア南西部から東京都国立市に及ぶ。
本書で著者が試みているのは、旅先にて何らかのきっかけで気付く歴史感覚――著者は「時空の交差点」にいると表現する――の覚書、そしてその読者との共有である。きっかけとなるのは幾星霜経て今なお残る中世のイメージであったり、史書に立ち現れた中世人の姿であったり、著者がなつかしむ師の姿であったりする。またナクソス島の村人の声、ハルキ(ヘイベリ島)の修道士との語らい、刊行史料の一断片、ポーランド人大科学者のギリシャ語での自署サイン、様々なものが著者と読者を立ち止まらせる。
こうした感覚には、意識して旅をして大なり小なり思い当たるものがあるように思う。筆者の場合、たとえばある中欧の古都で、親しむ学問の大先達のかつてのオフィスに通され、ベランダから眼下の賑わいを見下ろした瞬間に「彼」と同じ風景を見ているのだと気付いた時がそうである。また旧王宮に敷設された古文書閲覧室の閲覧者リストに、名だたる研究者のサインが遺されている。それを見て、彼らが自分と同じ写本に向き合ったことがあるのだと知るときもそうである。これは、過去を単に懐かしむのとも、先人の足跡をたどって満足するのとも違う、何かを受け継ぎ、そして後につなげてゆくことになるという身が引き締まる感覚だったように思う。本書では著者の先師・先達たちの姿が著者を導いているのが印象的である。筆者も、かつてモンセギュール落城を描ききった専門の大先輩の逝去を知り、茫然としているところである。しかしやがては南仏あるいはマケドニアの風景の中で、その先達の影に出くわすのではないかと思っている。
本書にはすでに丁寧な内容紹介がなされており、(山内進『如水会々報』Aug-Sep 2016, 23; 坂口ふみ『創文』2016夏No.22, 7-9)、準備中のものもまだあると聞く。瀟洒な小著でありつつも、読書子の歴史感覚を刺激する良書といえよう。
[2015年12月発行 2,000円+税]