2014年12月,375号
目次
学会からのお知らせ
「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第20回「地中海学会ヘレンド賞」(第19回受賞者:藤崎衛氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第39回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2015年1月8日(木)〜2月12日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
第39回地中海学会大会
第39回地中海学会大会を2015年6月20日,21日(土,日)の二日間,北海道大学(札幌市北区北8条西5丁目)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月12日(木)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。
2月研究会
下記の通り研究会を開催します。
テーマ:18世紀フランス啓蒙期におけるJ.=Ph. ラモーの音楽理論について
発表者:伊藤 友計氏
日 時:2月21日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円
J.=Ph.ラモー(1683-1764)はフランス・バロック期における作曲家としてと同時に,西洋音楽理論史において『和声論』(1722年)をはじめとする重要な著作を残した理論家としてその名をとどめた。本発表ではこの理論面に特化し,18世紀フランス啓蒙主義の知的潮流を背景として参照しながら,可能な限りラモーの理論書のテクスト,図版,譜例等に依拠し,ラモーが展開した音楽理論の諸特徴について考察する。
会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2015年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報374号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月20日(金)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。
会費納入のお願い
今年度会費を未納の方には振込用紙を月報374号に同封してお送りしました。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へご連絡下さい。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
事務局冬期休業期間:12月29日(月)〜1月7日(水)
ヴィッルルーエ城の想い出
上田 泰史
「パリはフランスではない」という言葉を何度か聞いた。様々な地域の文化が入り乱れるこの街の希薄な地方色を揶揄したものだ。パリの滞在も四年目が過ぎようとするこの夏,ふと「パリではないフランス」を見てみたいという思いに駆られた。
思い立ったが吉日,パリの南東約百六十キロの地点にあるブロワを行先と定めた。中世からルネサンスにかけてヴァロワ朝の君主が照臨したこの街は古き仏国の中心,画匠レオナルドを饗応したフランソワ1世の居城ブロワ城や広大な狩りの城シャンボール城を訪れることは「パリではないフランス」を実見することに相違あるまい。
だが,この旅にはもう一つの目的があった。ブロワの隣街シャイユにあるヴィッルルーエ城訪問である。19世紀のピアノ音楽を研究する私にとってこの城館はポスト・ショパン時代の仏ピアノ音楽の重鎮ステファン・ヘラー(1813〜88)ゆかりの地。38年にパリに来た若きヘラーはピアノ界の権威F. カルクブレンナーと決別,ドイツ人音楽家サークルに細々と居場所を見出していた。そこに裕福な音楽愛好家ウージェニー・ド・フロベルヴィル夫人が支援の手を差し伸べる。41年,ヘラーは彼女の所領シャイユの館でひと夏を過ごす。彼はこの時「真の美的感覚に関する正しい知識」,「高貴で気取らぬエレガンス」を学んだと後に述懐している。
ブロワの旅宿から館まで片道約三十キロ。ロワール沿いを自転車でひた走る。沿路は一面麦に玉蜀黍。巨大な散水機が造り出す消えない虹の下で,花々が鮮やかに田畑を縁取っている。やがてシャイユに入る。午後二時の炎暑の丘を越えると漸く向こうに城壁が見えた。呼び鈴に応じて出迎えてくれたのは館の主ブルイエ氏。
まず案内された旧家畜小屋には飼料用の溝が部屋のぐるりに。壁に掛かった家畜小屋の説明図はここがモデルになったのだとか。裏へまわると広大な林と芝生。図鑑に載ったという三叉の巨木は主人の第二の誇りである。続いて案内されたのは神秘の地下洞穴。ひんやりと薄暗い内部に噴水跡と円柱に支えられた小型のアーチが佇む。かつて市長も視察に訪れたが遺跡の来歴は判らないのだという。
次に訪れた小礼拝堂ではある悲劇が語られた。『地獄のオルフェ』で知られる作曲家オッフェンバック(1819〜80)はド・フロベルヴィル家の客人だった。1850年9月2日,女主人の息子ウジェーヌと甥モーリス,姪アメリア,そしてオッフェンバックは夕食から帰宅した。アメリアは小憩を求め寝室に上り暖炉に火を灯した。彼女が炉辺に身を寄せたその時,火はドレスを伝い焔が全身を包んだ。客と家人が駆けつけた時には既に遅く,2日後に他界した。この礼拝堂は死の間際に新教から旧教に改宗した彼女の魂に捧げられたのだという。46年,彼女に淡い恋心を寄せていたヘラーは傑作『セレナード』作品56を献呈していた。
さて愈々本館に。次々に扉を開けて進むがどの部屋も鎧戸が下りて薄暗い。夏場の室温上昇を防ぐためだという。地上階の一室に古いグランド・ピアノを見つけた。鍵盤の蓋を開けるや,そのピアノは19世紀パリの名高い製造会社エラールの作であることが判明した。弾けば鍵盤の象牙が剝離するほど傷んでいるが,修繕すれば生き返る。懐中電灯を片手に楽器を検分,製造番号「37479」は1864/65年製であることを示す。ヘラーやオッフェンバックはこの楽器を弾いたかもしれない。
その後,家族と茶菓のひと時を過ごした。現在の所有者はド・フロベルヴィル家の子孫ではないそうだが,互いに新たな館の歴史を発見できた奇縁を喜び,再会を約束した。
その帰路,向日葵の大輪が芥子粒ほどの大きさで無数に並ぶ畑を眺めつつ「パリではないフランス」に来たことを確信したのは,陽も傾き涼風が頰を撫で始める頃であった。
研究会要旨
碑文に見るコンスタンティヌス治世のローマ帝国
大清水 裕 7月19日/東京大学
コンスタンティヌスが初のキリスト教徒ローマ皇帝だったことは事実である。それゆえ先行研究での関心は,彼がいつキリスト教徒になったのか,そしてどの程度キリスト教的に振る舞ったのか,という点に集中してきた。同時代の文献史料の多くが,エウセビオスやラクタンティウスといったキリスト教徒の手によるものであることや,キリスト教がその後の歴史に果たした役割の大きさなどを考えれば,それも当然のことと言えるかもしれない。実際,コンスタンティヌスの即位1700周年だった2006年以降,続々と新たな研究や伝記の類が刊行されているものの,その傾向は依然として続いている。
他方,南川高志氏が「私は……コンスタンティヌスの統治に帝国衰退の『影』を見出す」(『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書,2013年,52頁)と述べていることが象徴的に示しているように,帝政後期のローマ社会を考えるうえで,コンスタンティヌスの時代が宗教以外の面でも大きな変化の時代だったことは確かである。本報告では,同時代の碑文史料に着目し,コンスタンティヌスのローマ皇帝としての側面について検討した。碑文史料は,キリスト教徒著述家が残した文献史料とは異なり,コンスタンティヌスと同じ時代を生きた多くの人々の様子を伝える史料として貴重な情報を提供してくれるからである。
本報告で取り上げたいくつかの碑文史料から得られた結論をあらかじめ提示しておけば,以下の2点ということになる。1点目は,コンスタンティヌスに関係する碑文史料は,その時代の宗教事情よりもむしろ,同時代の政治情勢を反映していること。そして2点目は,コンスタンティヌスのキリスト教信仰の深化といったクロノロジカルな変化だけでなく,碑文史料の出土した地域の特色に応じた差異も考慮すべきこと,である。
事例を挙げながら説明したい。
まず,コンスタンティヌスの即位直後の状況を見ていく。コンスタンティヌスは,306年,父帝コンスタンティウス・クロルスが死去した直後に,ブリタニアのエブラクム(現在のヨーク)で即位した。父帝は,305年にディオクレティアヌスとその同僚マクシミアヌスが退位した後,第2次四帝統治の首位の正帝となっていた。そのコンスタンティウスが急逝したことで,コンスタンティヌスは父帝麾下の軍隊によって「正帝」と宣言されたのである。しかし,この「正帝」の地位は,東方を担当していた次位の正帝ガレリウスには認められず,結局,コンスタンティヌスは当面「副帝」の地位に甘んじることになった。コンスタンティヌスの支配下には,当時,即位したブリタニアに加え,ガリアやヒスパニア(現在のフランスやスペインなどに相当)などの諸州が存在していた。この時期,これらの地方で作成されたマイル標石には,コンスタンティヌスを「神君コンスタンティウスの息子」とするものが極めて多い。神格化された父帝に頼って自らの地位強化に努めた様子が見て取れる。
312年,コンスタンティヌスは自らの支配地を出て,イタリアに侵入した。当時,イタリアと北アフリカは,先帝マクシミアヌスの息子,マクセンティウスの支配下にあった。コンスタンティヌスは,マクシミアヌス軍をローマ北郊のミルウィウス橋の戦いで打ち破り,ローマ入城を果たした。この戦いに先立ってコンスタンティヌスは天空にキリストの印を見,改宗に至ったとも言われている。
さて,そのミルウィウス橋での勝利の後,コンスタンティヌスはマクセンティウスの遺体を探し出し,その首を北アフリカに送ったと言われている。マクセンティウス支配下の北アフリカでは反乱が起こり,その鎮圧に際しての被害は大きかった。コンスタンティヌスは,そのマクセンティウスを倒した新しい支配者として,北アフリカ支配を確立する必要があったのである。マクセンティウスによって破壊されたキルタの町も再建され,コンスタンティナという名が与えられた。それに謝意を表して,北アフリカではコンスタンティヌスの一族のための神官団まで組織されたと伝えられている。
しかし,同時代の北アフリカの碑文を見ていくと,再建されたキルタの町でコンスタンティヌスを称えた碑文は増加するものの,他の諸都市では大きな変化は見出し難い。キルタの町でさえ,それらを捧げたのは属州総督や皇帝領管理官といった皇帝側の立場の人々で,北アフリカの住民ではなかった。笛吹けど踊らず,というのが恐らく実態だったのではあるまいか。
コンスタンティヌスは,「初のキリスト教徒皇帝」として伝説化されやすい立場にある。しかし,キリスト教的言説を離れ,言わば「普通の」ローマ皇帝として再検討していく必要があるのではないだろうか。
研究会要旨
ミニ・シンポジウム「東部地中海の40年前と今」
講演:川田順造/コメンテーター:陣内秀信(総合司会)/師尾晶子/鶴田佳子 9月20日/國學院大學
2014年9月20日(土)國學院大學学術メディアセンター常磐松ホールに於いて,地中海学会ミニ・シンポジウムが開催された。今回の企画の趣旨は,当学会創立以来の会員である川田順造氏(神奈川大学特別招聘教授)が40年前(1974/05/13-7/7),東部地中海各地を訪ねた際に作成された詳細な旅の記録を基にしながら,これらの地の現在を知る当学会員のコメントと,当時と今日の写真の対比を通して,地中海世界の変貌とその意味を考えようというものである。
筆者は本企画のスタート時,川田氏が持参された旅の記録の実物を見る機会に恵まれた。十数冊あるという手のひら大の手帳には,氏が各地で見た風景や建物,事象のスケッチに加えて,交通費や食事の内容や値段等が細かい文字でびっしりと書き込まれていた。それは正に,当時の氏の思考の一部がコピーされた第2の脳であり,よれた表紙に汗染みがついた手帳の束から,ある種のオーラがひしひしと感じられたのを覚えている。
これらの貴重なメモは「晩い春の旅」と題して,雑誌『風の旅人』にその冒頭が連載されていた。「心の風景の旅」の副題がつけられたエッセイは軽妙洒脱に,時には社会問題への鋭い考察を交えながら,各地の風物とそこに生きる人々の姿を,汎感覚的に書き留めている。
今回のミニ・シンポジウムは2部構成となっており,前半は旅の始まりである南仏からイタリア各地を,後半はギリシアからトルコへ至る旅程を物語る。はじめに総合司会の陣内秀信氏(法政大学教授)より,基調講演者である川田氏の経歴紹介があり,文化人類学的な視点から語られる東地中海の旅への期待が述べられた。続いてコメンテーターの師尾晶子氏(千葉商科大学教授),鶴田佳子氏(昭和女子大学准教授)のお二人が紹介された。各氏の専門分野に従って,師尾氏はギリシア各地,鶴田氏はトルコ各地を担当され,川田氏の話を引き継いで,最近の当地の情勢を解説する。陣内氏は司会と共にイタリア編を受け持つという,全体の流れが説明された。また会場では資料として,旅の記録の概略が配布された。
第1部,川田氏の講演は,コロンブスを生んだジェノヴァの街と当時の船舶,航海術の紹介から始まった。続いてサルデーニャの農村風景,パレルモの広場,アッシジのサン・フランチェスコ修道院,フィレンツェのドゥオーモ(大聖堂),ローマの街並み,そしてヴェネツィアの写真がスクリーンに投影され,バラエティに富んだ見聞録と思い出を語って頂いた。古写真と呼ぶには新しすぎる画像は,風景そのものはさほど変わらないものの,街ゆく人のファッションや道端に停まる車,排気ガスで煤けて黒ずんだ街並みは,新鮮であると同時に,ある種の郷愁を誘うものであった。
その後は陣内氏より豊富なスライドを用いて,マルセイユから始まってヴェネツィアの都市と建築,アッシジ周辺の景観保護政策,フィレンツェの今日の様子が語られた。多角的な視点から語られる現在のイタリアの姿は,川田氏の話を背後から補強し,新に意味づけるものであった。
小休止を挟んで,ギリシア・トルコ編が始まる。アテネ各地の写真や東方教会のずんぐりとした聖堂,カッパドキアやコンヤ等の写真を写しながら話が弾んだ。コンヤ編では特に建築装飾や文様に関する興味が語られ,複雑かつ精緻な透かし彫りの例を幾つか見せて頂いた。またアフリカ研究者である川田氏が現地で収集された,かつて交易代替品としてアフリカに持ち込まれたという,16〜17世紀以来のヴェネツィア製をはじめとするトンボ玉(特殊な製法のガラス玉)が紹介された。鮮やかな色彩と独特の形をもつトンボ玉の数々は,地中海文化の深みをも表しているように思えた。
コメンテーターによる各地の今を紹介するレポートでは,師尾氏より,川田氏の写真中に見られたアテネの各モニュメントが現在は修復中であること,また何処で撮影されたか不明だった風景が,ミコノス島の聖堂であることが指摘された。地中海文化圏の連続性を象徴するかのように,師尾氏の話はイズミールやイスタンブールにも及んだ。鶴田氏は主にイスタンブールの様子について報告され,東部地中海を代表する歴史的都市の姿が克明に示された。
最後に行われた質疑応答では,イスラム圏の文化・風習やイタリア国内の文化遺産についてのものなど,多くの質問がフロアから寄せられ,川田氏始め各演者との活発な情報交換が行われた。
「晩い春の旅」は近々出版が予定されており,今回のミニ・シンポジウムも,その開催が序文で紹介されると聞いている。本企画の運営・実行を手伝った者の一人として,40年前の東部地中海の旅の全容を,川田氏一流のしなやかな文章で読むことが出来る日を楽しみにしている。(黒田泰介)
クインティリウス兄弟のウィッラとローマ帝国
桑山 由文
ローマを出て,アッピア街道沿いに歩いていくと,しばらくの間,街道の両脇には古代ローマ人のさまざまな種類の墓がずらりと並んでいる。中でも有名なものはカエキリア・メテッラの円形墓であるが,それを越えてさらに進んでいくと,墓群に混じって左手に,もっと大規模な遺跡が見えてくる。それが,「クインティリウス兄弟のウィッラ」の遺構である。近年はアッピア街道観光バスのルートもでき,訪問しやすくなっているが,市内からはかなり距離がある。
この遺構のうち,アッピア街道に面した部分はほんの一部で,地所自体はかなりの奥行きがあり,ローマ帝政期には周辺で有数の大きさを誇っていたと考えられている。19世紀にここで見つかった水道管の銘から,2世紀にこの地所を所有していたのが,クインティリウス兄弟であったことが判明した。
彼らはアントニヌス・ピウス帝期の151年の正規コンスルであり,ピウスの後に皇帝となったマルクス・アウレリウス帝の信任も厚かった。マルクス帝がアウィディウス・カッシウスの反乱鎮圧後に行った東方巡幸に随行し,その後もドナウ川流域での対外戦争で指揮を取るなど,政権中枢にいたといってよい。マルクス帝最晩年の180年には2度目の正規コンスル職に登用されたと推定する研究者もいる(実は彼らの公職経歴とその順序については不明確な点が多く,さまざまな異論がある)。
しかし,運命は変転する。兄弟は,180年に父の後を継いだコンモドゥス帝にその政治力と財力を恐れられ,一族もろとも粛清されてしまったのである。「クインティリウス兄弟のウィッラ」をはじめとする財産は没収され,皇帝のものとなった。
クインティリウス兄弟が歩んだ元老院議員経歴には,珍しい点がある。彼らは,兄弟仲が大変良かったことで知られており,さまざまな公職にも二人で一緒に就いていたようなのである。『ローマ皇帝群像』「コンモドゥス・アントニヌスの生涯」やカッシウス・ディオ『ローマ史』にも,別々の名が挙げられるのではなく,「クインティリウスたち」と,たいていひとまとめで描かれている。後世,4世紀のアンミアヌス・マルケッリヌスまでもが兄弟の一心同体ぶりに言及するほどであった。
しかし,この兄弟とその家系には,もっと大きな特徴があった。高いギリシア的教養である。彼らの出身都市は小アジア北西のアレクサンドリア・トロアス市,つまりギリシア文化圏に属していたのであった。もっとも,ローマ帝政期のこの都市は,アウグストゥス帝期にローマ植民市として再建されたものであり,クインティリウス兄弟も,そのローマ風の名前から推測するに,ローマかイタリアからの植民者の子孫であったと考えてよい。だが,ギリシア文化圏という「大海」の中の「孤島」であるこうしたローマ植民市とその住民は,徐々にギリシア文化に染め上げられていった。クインティリウス兄弟の家系も,その例に漏れない。兄弟のおそらく祖父であるクインクティリウス・マクシムスは,ネルウァ帝期の元老院議員だが,エピクロス派哲学に通じていた。クインティリウス兄弟も『農耕について』という作品を著すなどギリシア文化に精通しており,彼らもその自負心は強かった。それゆえに,当代随一のギリシア弁論家として名高かったヘロデス・アッティクスとの間で,どちらが上かといういがみ合いまで引き起こしてしまいもした。
この兄弟の片方の息子コンディアヌスも同様に,ギリシア的教養に秀でていた。彼はコンモドゥス帝による粛清時には属州シリアの所領にいたが,落馬が元で死亡したと見せかけて逃亡し,消息不明となった。後にコンモドゥス帝が殺害されてペルティナクスが皇帝となると,政情の変化を嗅ぎ取り,コンディアヌスの名を騙ってその没収財産と地位をせしめようという大胆不敵な男が現れた。この人物は色々な審問を潜り抜けたが,ギリシア的教養がなかったがゆえに,ペルティナクスからギリシアに関する質問を受けると,何を尋ねられているのかすら理解できず,正体を見破られてしまった。コンディアヌスは,ローマ元老院議員であると同時に,ギリシア文化をアイデンティティに持つ「ギリシア人」でもあった。偽者は,元老院議員としてのコンディアヌスのふりはできたが,そのギリシア的教養まではまねられなかったのである。それゆえに,失敗した。
翻って現代。アッピア街道を訪れる観光客は,「クインティリウス兄弟のウィッラ」を眺め,ローマ時代の息吹を感じるであろう。たしかにローマ元老院議員の所領ではある。だが,実際にそこに住んでいたのが,遠く小アジアからやってきた,ギリシア文化を誇りとする人々であったことにも思いを馳せてみてほしい。広大な領域にまたがったローマ帝国の幻像が浮かび上がってもこよう。
カリフ・ムクタディルとその生涯
柴山 滋
アッバース朝第18代カリフ・ムクタディル(位908〜32)は24年間にわたって在位したものの,その治世中に2回のクーデタによって廃位と復位を繰り返し,最後は親衛隊長であったムウニスとの戦いの中で戦死した。彼の時代は後世のエジプトの歴史家であるスユーティー(1505年没)によって「アッバース家の衰運はこの時代から始まった」と記されているようにカリフの政治権力は衰え,軍隊は弱体化し,官僚機構も十分に機能しなくなった時期であった。他方,当時のバグダードにおける文化やカリフの宮廷は前近代の中で類をみない程の繁栄をみせていた。その様な時期のカリフ・ムクタディルの生涯を概観したい。
ムクタディルの本名はジャアハル,父はアッバース朝第16代カリフ・ムウタディド(位892〜902),母はシャギガと呼ばれた女奴隷であった。908年8月に兄弟のカリフ・ムクタフィー(位902〜08)が死去した時,彼はカリフに就任したが,その時まだ13歳の少年であった。しかし多くの重臣たちは,第13代カリフ・ムウタッズ(位866〜69)の息子であるイブン・アルムウタッズを支持した。そのためムクタディルの即位を支持した宰相のアルアッバース・ブン・アルフサイン・ブン・アフマドが殺害されると,彼は廃位され,イブン・アルムウタッズがカリフに立てられた。しかし将軍のムウニスがムクタディルの救援に駆けつけたため,イブン・アルムウタッズは殺害され,ムクタディルは復位した。
彼の治世中には北アフリカでファーティマ朝が,ジャジーラ(イラク北部)でハムダーン朝が自立し,またカルマト派が再度活動を活発化させた。この時期のカルマト派は919年から928年にかけてバスラやクーファなどのイラク,ラフバなどのシリアの都市を略奪し,メッカとバグダード間で巡礼のキャラバン隊を襲撃してバグダードの住民を恐怖に陥れた。また930年にはメッカを略奪し,カーバ神殿の「黒石」を根拠地であるバフライン(アラビア半島東部)のムーミニーヤに持ち去ったりした。他方,ビザンツ帝国との境域では,様々な機会に双方の襲撃が行われていた。しかし917年にビザンツ帝国が,和平と捕虜交換の申し出のためにバグダードに使者を派遣してきた。それによって919年に和平が成立したもののしばらくして敵意が再現し,926〜27年にかけてはマラティアが略奪され,続いて928〜29年にはアラブ側に属したアルメニアの数か所の都市が占拠され,929〜30年にかけてメソポタミア北部が占領された。
このような時期の929年にカリフの浪費と虚弱さに苛立ちを覚えた指揮官たちによって,首都の軍隊の反乱が起こった。この時ムクタディルは一時退位を余儀なくされたが,兵士たちが宮殿を略奪している間にムウニスにより安全な場所に連れ出された。その後,ムクタディルの兄弟のムハンマドが,カーヒルの称号でカリフとするために呼び出された。しかし反乱の首謀者である警察長官のナーズークが俸給支払いを要求する軍隊を満足させることが不可能になると,カーヒルはすぐに廃位され,ムクタディルが再度復位した。このような状況の中でバグダードでは混乱が広がり,932年に悲劇が起こった。将軍ムウニスのモスル滞在中に,ムウニスの政敵たちは彼がカリフの廃位を意図しているとムクタディルに吹き込んだ。そのためムウニスが軍隊を率いてバグダードに接近した時,ムウニスと対峙するためにムクタディルは軍の先頭に立って出陣した。両軍はバグダード郊外で戦ったが,ムウニス配下のベルベル人兵士が投げた槍がムクタディルに当たり,彼は地面に倒れた。その時その兵士がカリフに近づき,剣で首を刎ね,カリフの首を槍の先に刺したという。これが,カリフ・ムクタディルの最後であった。カリフの胴体は衣類を剝がれ,枯草をかけたままの状態で放置されたが,数日後にそこを通りかかった者によってその場に埋葬されたという。
ムクタディルはがっちりした体格で,背は低く,青白い顔に小さな目をしていたが,その瞳は大きく,容貌端正で,赤いひげをはやしていたという。その一方で彼は享楽的な性格で,サイイダとして知られている母親のシャギガに頭が上がらず,酒好きで女奴隷や宦官などの使用人を多数抱えていた。そのために彼は,前任者が残した豊富な財産を治世最初の数年で使い果たしたと言われる。このようにムクタディルのカリフとしての評判は全般的に芳しいものではないが,近年,このようなカリフ像には一部で疑問が呈されている。このはムクタディルが即位時に13歳の少年であったこと,彼の治世中の政治・社会状況が投影されたものとされる。たとえムクタディルが即位時に幼少で無知であったとしても在位24年間に全く成長しなかったとは考えられず,特に最後の戦いに際してはカリフの権力と威信を回復するために,むしろ自らの意志で戦いに出向いたという見解も提示されている。カリフ・ムクタディルの実像は,今後の検討課題であろう。
表紙説明 地中海世界の〈道具〉2
測量器具/加藤 玄
建築の専門家による南仏都市の家屋や街区の実測調査に協力することがあるが,今日の測量器具の性能には驚かされる。例えば,距離や高さをレーザーで測定し,スマートフォンで撮影した測定現場の画像データに測定値を重ね合わせて記録するといったことが,いとも容易くできるのである。ひるがえって,中世ヨーロッパの人々は,どのような道具を用いて長さや高さを計測したのだろうか。
当時の測量器具についてうかがい知ることのできる史料は限られているが,ベルトラン = ボワセ(1355年頃〜1415年頃)の『測量術概論』はその中で最も有名なものの一つである。アルル市民であるボワセは,漁業,ブドウ栽培,菜園・耕地経営を生業とし,教育の程度は不明ながら,測量士としても活動した。その名が後世に知られるのは,プロヴァンス語で書いた『測量術概論』によってである。
この著作は1401〜15年頃の作と推定され,中世フランス地域における測量に関する最初の本格的な論考である。オリジナルは縦215×横148ミリメートルの316葉の紙冊子からなり,現在はカルパントラ市アンガンベルティヌ図書館に所蔵されている。同書は,①アルルの尺度の改訂に伴う調査報告書,②イエスとボワセの対話と詩,③『計測術概論(ラ・シエンサ・デル・デストル)』全46章,④尺度換算早見表,⑤『境界画定術概論(ラ・シエンサ・ダテルムナル)』全91章で構成される。何よりも同書をユニークなものとしているのは,ボワセ自身の手になる120点に上る挿絵であろう。本表紙の図版は,同書の挿絵から測量器具を描いた4点を選んだものである。
表紙左上図では,測量中の2人の測量士が,黒白縞模様の目盛りの付けられた測り竿(デストル)と,測定点に埋め込む測量標としての石造の標柱(テルム)を手にし,地面には標柱を固定するための木製の標杭(アガション)が埋め込まれている。右上図に描かれているように,河川の幅のような長い距離を計測するためには,ロープが用いられた。6人の測量士が水路の両岸の8カ所の測量点をロープで結び,測り竿によって計測を行うのである。これら伝統的な測量器具以外に,コンパス,直角定規(エクエル),垂直を測る紐付き分銅,分度器(エスカルタボン)など,より正確に作業するための道具も用いられた。
最後に,下図の「イエスとボワセの対話と詩」の挿絵においては,椅子に座すイエスが,跪くボワセに測量器具を授与し,祝福を与える様子が描かれている。中世においては,尺度の測定の信頼性を保証するのは究極的には神である,との観念が根強かったのである。
ボワセの算術や幾何学の知識は初歩的なものであるものの,測量に関する実践知を「測量学」にまで高めたと評価する向きもある。当時の測量活動について多くのことを教えてくれる同書ではあるが,この書自体が道具,つまり教科書として利用された形跡はない。中世の測量の技術がどのように発達し,どのように後世に伝播したのか。洗練されているとは言いがたいが,素朴でユーモラスなボワセの挿絵とはうらはらに,測量技術の歴史はいまだに不明な点が多い。