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学会からのお知らせ


* 学会賞・ヘレンド賞

  本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めた結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月14日(土)に第38回大会の席上において行います。

地中海学会賞: 伊藤重剛研究室(熊本大学ギリシア古代建築調査団)
  熊本大学工学部建築学科の伊藤重剛氏の研究室は,前任教授,堀内清治氏による古代ギリシア建築に関する膨大な研究蓄積を継承,発展させ,西洋古代建築の設計法と施工法の研究等,数多くの成果を生んできた。特に,デルフォイの古代ギリシア神殿の実測調査(1993〜1997)の後,1997年からは古代都市遺跡メッセネでの国際共同調査で重要な役割を担い,輝かしい業績を積み上げてきた。考古学的成果をも取り入れることによって,西洋古代建築史学において国際的な高い評価を得ている一連の研究は,我が国における近年の地中海世界に関する学術研究の最も優れた成果の一つである。

地中海学会ヘレンド賞: 藤崎衛氏
  藤崎氏の『中世教皇庁の成立と展開』(八坂書房,2013年)は,未校訂オリジナル史料を含む膨大なラテン語史料を検討し,高位聖職者の役人から俗人奉公人に至るまで,13世紀ローマ教皇庁の多様な人材の編制を明らかにしている。本書の学術的独創性は,西洋中世の普遍的権威とされてきた教皇権の歴史を「教皇の歴史」としてではなく「教皇庁の歴史」として捉え直そうとした点,中世の教皇庁を一つの「社会」として捉え,その構造・機能を追究した点などにある。本書は,中世の教皇庁全体を俯瞰することに成功した力作であり,高く評価される。

* 『地中海学研究』

  『地中海学研究』 XXXVII (2014) の内容は下記の通り決まりました。本誌は第38回大会において配布する予定です。

「ローマ帝国北方辺境地帯におけるネメシス崇拝」 阿部 衛 / 「建築家ジュゼッペ・ポッジの都市改造計画からみた19世紀フィレンツェにおける市門周辺広場の機能と形態」 會田 涼子 / 「ヴェルディ

《オテッロ》(1887)の演出における象徴的トポス ── 『オテッロのための舞台配置書』(1887)の解釈をめぐって」 長屋 晃一 / 「20世紀前半のパリ音楽院ピアノ科における学内試験演奏曲目の変遷 ── フォーレ,ドビュッシー,ラヴェルの作品の試験レパートリーへの導入をめぐって」 神保 夏子 / 「研究ノート 獅子脚を持つ古代エジプト家具研究における近年の進展状況 ── 中近東文化センター所蔵 M00449 の腰掛けをケーススタディとして」 西本 直子 / 「研究ノート カラヴァッジョ作《泉の洗礼者聖ヨハネ》をめぐる一考察」 木村 太郎 / 「書評 片山伸也著 『中世後期シエナにおける都市美の表象』」 陣内 秀信

* 第38回総会

  先にお知らせしましたように第38回総会を6月14日(土),國學院大學において開催します。

議事

一,開会宣言         二,議長選出
三,2013年度事業報告  四,2013年度会計決算
五,2013年度監査報告  六,2014年度事業計画
七,2014年度会計予算  八,閉会宣言

* 7月研究会

  下記の通り研究会を開催します。
テーマ: 碑文に見るコンスタンティヌス治世のローマ帝国
発表者: 大清水 裕氏
日 時: 7月19日(土)午後2時より
会 場: 東京大学本郷キャンパス法文2号館2階教員談話室
参加費: 会員は無料,一般は500円

  コンスタンティヌスは初のキリスト教徒ローマ皇帝である。それ故,研究史上,彼のキリスト教徒としての側面に注目が集まってきた。しかし,彼はキリスト教徒になるよりも前からローマ皇帝だったのであり,ローマ皇帝としての彼の施策は等閑に付されるべきではないだろう。本報告では,碑文史料を通してローマ皇帝としてのコンスタンティヌスに注目し,その治世のローマ社会の特色について再考していきたい。










第38回地中海学会大会のご案内

── 地中海と神道の出会い ──

小池 寿子



  第38回地中海学会大会は,6月14日・15日(土・日)に,渋谷の國學院大學で開催することになりました。これまで東京では,第2回の上智大学(1978年)に始まり,13回開催されてきましたが,神道の大学では初めてとなります。日本で神道を学べる大学は2か所,伊勢の皇學館と國學院だけですので,地中海世界と神道との初めての出会いが,渋谷で実現するわけです。
  國學院大學は,明治15(1882)年,有栖川宮幟仁親王を初代総裁として創設された皇典講究所を母体としています。明治23年,同講究所内に国史・国文・国法を攻究する國學院を設置,大正9(1920)年の大学令によって,慶應義塾・早稲田・明治・中央・日本・法政・同志社と共に大学に昇格しました。戦後,皇典講究所の解散を経て,財団法人から学校法人國學院大學と改め,母体となる文学部・法学部の他に経済学部を設置します。平成14年に創立120周年を迎えるにあたって,文学部所属であった神道学科を神道文化学部として立ち上げることにより,戦後の神道への風圧を吹っ切るように,「神道を世界へ」をモットーにグローバル化を推進しています。現在では人間開発学部がたまプラーザキャンパスに展開し,初等教育や健康体育など,時代のニーズに応じた体制を整えています。
  現在の飯田橋にあった皇典講究所を渋谷に移したのは大正12年。御料地であったこの地は,常陸宮邸をはじめ,寛治6(1092)年,創建とされる金王八幡宮(渋谷区指定文化財),氷川神社などに囲まれ,都心とは思えない緑豊かで閑静な地区です。御料地の時代には,ここで育った牛の乳は皇室御用達であったとか。のどかな雰囲気が今も漂っています。
  國學院大學渋谷キャンパスは,神道文化学部を開設して以降,キャンパスの開発に取り組み,ガラス,石を多用した建築を導入し,古色蒼然としたかつての校舎から一転して「近代的」になりました。その是非はともかく,様変わりした國學院大學構内にあって唯一,変わらぬ佇まいを見せてくれるのが,正門を入って右側の神殿です。この神殿は,天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)をはじめ,天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)をお祀りしています。伊勢神宮の第61回御遷宮にともなう神宮殿舎撤去古材を譲り受け,平成7(1995)年に幣殿と拝殿が増築されました。神殿前に流れるのは神奈備川(かんなびがわ),周囲には万葉の植物が植えられています。考古・神道資料の充

実した博物館と共に訪れていただきたいと思います。
  長々と大学の紹介をしましたが,神道は,何より周囲の環境にやさしく馴染むことを心がけ,世界への神道文化の発信と共に,地域共生をより細やかに進めることを目指しています。地中海世界と神道世界とのダイナミックな共存が,この渋谷の地ではかられることを願って,つぎのような大会プログラムになりました。
  大会初日は,古代ローマ史をご専門とする本村凌二氏(東京大学名誉教授・早稲田大学特任教授)に「神々をあがめる人々」と題して地中海世界の多神教について記念講演をいただきます。
  つづく地中海トーキングでは「カミ・酒・ヒト」と題し,司会兼任パネリストとして飯塚正人氏(東京外国語大学 イスラーム学),パネリストとして藤崎衛氏(東京大学 西洋中世史),古山正人氏(國學院大學 古代ギリシア史),茂木貞純氏(國學院大學 神道祭祀学)らに,それぞれのご専門の立場からお話しいただきます。カミとヒトを結ぶ酒,酒の禁忌や効能など摩訶不思議なカミとヒトの物語が展開されるでしょう。
  授賞式および総会後の懇親会は,「常磐松」ホールと共に古い地名を頂く「若木」タワー18階,260度展望の空中庭園のようなレストランでご用意しております。
  二日目の午前中は,気鋭の研究者による5本の研究発表が行われます。神道・宗教学,歴史,美術史分野から刺激的な報告を頂戴できると思います。
  引き続き午後は,シンポジウム「聖なるものと聖なる場」が開催されます。トーキングと同じく,神道専門の方にご登壇いただきます。司会兼任パネリストに伊藤重剛氏(熊本大学 ギリシア建築),パネリストに加瀬直弥氏(國學院大學 古代・中世神道史),真道洋子氏(早稲田大学 イスラーム考古学・ガラス史),水野千依氏(京都造形芸術大学 イタリア美術史)ら。聖なる場,聖なるものがどのように選ばれ,力を発するのかなど具体的なテーマを経ながら普遍的な宗教世界が浮き彫りになるかと思います。いずれのセクションでも,会場との活発な議論,意見交換ができればと願っています。
  なお,地中海学会では今,次世代に向けてさまざまな取り組みが行われています。そのひとつとして,学会ホームページの刷新を行うことになりました。大会当日に新たなホームページのデザインを3種類ほど会場前に掲示し,会員皆様の投票によって新デザインを決定する予定で作業を進めております。








エジプトの修道院におけるもてなし

辻 明日香



  エジプトで修道院を訪れるときは(とりわけそれが招待である場合),なるべく空腹で行った方がよい。中東で一般の家庭を訪問する場合もそうであるように,食べきれないほどの量の食事で歓待された上,最後には「全然食べていない。もっと召し上がれ」「もう満腹です。これ以上は無理です」の押し問答で疲弊することになる。
  修道院へ空腹で行くべきもう一つの理由として,修道院における食事はとびきり美味しいということが挙げられる。フール(豆の煮込み)は修道院で食するに限ると断言するエジプト人もいるほどであるが,地方の修道院の場合,多くは周囲に農地を所有し,新鮮な食材に事欠かないことが食事の美味しい理由の一つであろう。
  古代より,修道院の機能の一つは旅人に食事を提供することにあった。中世の聖人伝史料を読んでいると,当時の修道士たちに,上記のような慣習が強く意識されていたことが窺われる。以下においては,14世紀末に上エジプトの聖アントニウス修道院にて著されたと考えられている,『ムルクス・アルアントゥーニー伝』(未校訂)をもとに,この慣習について考えたい。『ムルクス伝』は14世紀に聖アントニウス修道院にてその生涯の大半を過ごし,生前から聖人として崇敬された修道士に関する伝記であるが,その内容からは,14世紀における,エジプトの修道院のあり方が浮かび上がる。
  聖アントニウス修道院は,上エジプトの紅海に近い砂漠地帯に位置する。古来,エジプトの修道士たちは自給自足であることを理想とし肉体労働に励み,縄やカゴを編んで食糧と交換していた。しかし,砂漠の中における集住生活では,修道士たちがどれほど労働に励んだところで,彼らは常に飢餓寸前の状態であったという見解も存在する。『ムルクス伝』を読んでいると,修道士たちは常に空腹であったかのように,食べ物に関する描写が繰り返し現れる。登場するのはパンや卵,玉ねぎや蜂蜜である。蜂蜜は贈答品として扱われる貴重な品であった。
  食糧の一部,とりわけ小麦はキャラバンで修道院に運ばれてきていたようである。伝記にはキャラバンが予定どおりに来ないことを修道士たちが悲しんでいるのを見たムルクスが,修道士たちの気をそらそうとするエピソードが複数見られる。このような環境にあると,物価高

や飢饉は修道院を危機に陥れた。食糧が尽きると,修道士たちは農耕地帯において物乞いをせざるを得なかったようである。
  このような過酷な環境においても,修道士たちは訪問者を手厚くもてなすことに心を砕き,そのことに誇りを抱いていたようである。『ムルクス伝』には,ムルクスがベドウィンの長の到来を予見し,湯を沸かし食事を用意させたため,道中寒さと空腹に苦しんだベドウィンたちは食事に感謝し(本来の目的であった逃亡人の探索をせずに)帰っていったという奇蹟譚が語られている。そして伝記には「多くの人々がこの修道院を訪れたが,訪問をあらかじめ予告した人々については,我々は喜んで準備をしていた」と記されているが,同時期に著されたヨーロッパ人による旅行記においても,聖アントニウス修道院におけるもてなしについて言及されている。
  人里離れた砂漠地帯に位置するにもかかわらず,14世紀後半当時,カイロ,さらにはエチオピアやヨーロッパから大勢の参詣者が修道院を訪れていた。修道院の壁には14世紀から15世紀にかけこの地を訪れたヨーロッパの貴族や騎士たちが残した落書きが確認される。
  現代に話を戻すと,2013年2月,アスユート近郊のムハッラク修道院にて,コプト学に関するシンポジウムが開催されていた。一日遅れで修道院に到着した私は,日本を出発して24時間以上,空腹と疲労に悩まされていた。その日のプログラムは既に開始していたのにもかかわらず,修道院に到着した我々は,応接間にて温かい紅茶でもてなされ,「まずは食事を」と言わんばかりに食堂に通された。そこにはフールやチーズといった,簡素ながら滋養に満ちた食べ物がテーブルからあふれんばかりに並べられ,我々を待ち受けていた。
  その年の7月,中部エジプトでは教会や修道院が襲撃され,ムハッラク修道院の外壁も放火されたと聞く。シンポジウムの開催にあわせ,35年ぶりに中部エジプトを訪問した(コプト正教会の)総主教を一目見ようと,キリスト教徒,ムスリムを問わず数えきれないほどの群衆がムハッラク修道院に押し寄せたあの春の日,その混乱の中においても,疲れ果てた我々をもてなしてくれた修道士たちに思いを馳せている。









「ル・クラブ・バシュラフ」コンサート

── チュニジア・ラシディーヤ伝統音楽研究所にて ──

松田 嘉子



  ほぼ1年前の2013年4月5日,私の属するアラブ古典音楽アンサンブル「ル・クラブ・バシュラフ」(ウード,ナイ,ダルブッカ,ボーカル)は,チュニス旧市街にあるラシディーヤ伝統音楽研究所で,チュニジア音楽のコンサートを行った。もともとはチュニジアで学んだ縁から,それまでもチュニス・メディナ音楽祭に4年連続出演,ハマメット音楽祭,ナブール地中海芸術協会主催コンサート出演など,チュニジアでは数多くの演奏経験を重ね,テレビやラジオにも出演してきたが,チュニジア音楽の殿堂ラシディーヤで演奏することは一つの集大成であり,最高の栄誉でもあった。素晴らしい観客のスタンディング・オーベーションの中で美しい花束や表彰の盾を受け取った。記念撮影の間も賛辞は尽きず,まさに感無量だった。
  ラシディーヤ伝統音楽研究所は,チュニジア伝統音楽の継承と発展,また新しいチュニジア音楽の創造を目的として,1934年に設立された。ラシディーヤという名称は,音楽を愛するあまりに王位を捨てたフサイン朝の王,ムハンマド・ラシッド・ベイに由来する。
  チュニジアでは,モロッコやアルジェリアとも共通するアラブ・アンダルス音楽の流れを汲む伝統音楽を,マルーフと呼んでいる。チュニジアがフランスの支配下に入ってまもない1896年,チュニスにはフランスのコンセルヴァトワールができたというが,伝統音楽を修養する場としては,各地の小さな教団(ザーウィヤ)が中心であった。ラシディーヤはそれに代わる初めての音楽教育研究機関として,多くの演奏家や歌手を育成した。1970年代以降は公私立の様々な音楽院が出来たが,依然として重要な存在であり続けた。ムハンマド・トリーキー,サラーフ・マハディ,アブデルハミッド・ベラルジーヤ,ムハンマド・サアダなど,傑出した音楽家がディレクターの地位に就き,ラシディーヤ楽団は国を代表する楽団となった。70年間,まさにチュニジア音楽を牽引してきたと言ってよい。
  2011年1月,チュニジアはいわゆる「ジャスミン革命」によって,アラブ諸国に波及する「アラブの春」の発端となり,それは芸術や文化の領域にも影響を及ぼした。たとえば高名な歌手たちが,ベンアリ大統領とその一族につながりが深かったとみなされ,弁明を余儀なくされる場面も見受けられた。ラシディーヤでも,まだ数年前にディレクターの地位についたばかりだったズィア

ド・ガルサがそのポストを降りた。それから3年以上も時が経過した今日から見れば,そうした状況は一時的な混乱であって,結局優れた芸術家たちは革命後も敬愛されているのには変わりないのだが,とかくその時期にはいろいろな分野で権力交代が図られたのであった。
  ラシディーヤは新たなディレクターにムラッド・サクリを選出した。彼は長い間フランスで研究した経歴を持つ音楽家・学者であり,革命後のチュニジアの主要な音楽機関やフェスティバルのディレクターを複数兼任することとなった。革命後のラシディーヤは,それまでの中央集権的な活動を見直し,ビゼルト,スファックスなど,地方に存続してきたマルーフ楽団との連携を強化するようになった。日本人のアラブ古典音楽アンサンブル,ル・クラブ・バシュラフがラシディーヤで演奏の機会に恵まれたのも,むろんそうした動向と無関係ではないだろう。チュニジア人以外の外国人がその舞台に立ったのは,もちろん初めてのことであった。その後,青少年の育成にも力を入れている。より「開かれた」ラシディーヤを目指しているのだろう。
  私たちのコンサートのプログラムに関して,ラシディーヤからの要請は,すべてチュニジア音楽であることというものであった。したがって,マルーフを中心に,ケマイエス・テルナンやムハンマド・トリーキー作曲の歌曲,器楽曲などを選曲したが,私の作曲した「サマイ・ハスィン」という器楽曲も,日本人によりチュニジアの旋法にもとづいて作られた曲ということで,プログラムに加えられ,好評を博したのは大変嬉しいことであった。
  記念すべきこのコンサートの録音から,「ル・クラブ・バシュラフ・コンサート・アット・ダール・ラシディーヤ」(Pastorale Records)という CD を制作した。今のところ,私たちの公式ウェブサイト(www.arab-music.com)でしか販売していないのだが,コンサートの模様を撮影した関連ビデオや楽曲解説などもアップしているので,ご興味のある方はぜひご視聴いただきたい。
  ラシディーヤ70周年記念事業でぜひまた協力しましょうと言っておられたムラッド・サクリは,今年になって文化大臣の地位に就かれた。国民からの信頼が厚いのは喜ばしい限りだが,ますます多忙になられたことは間違いなく,その約束はまだ先になりそうだ。








イスタンブル・紫煙の行方

宍戸 克実



  2009年,トルコの愛煙家にとって悩ましい法律が施行された。屋内禁煙法である。「閉じた建築空間」が禁煙の対象となり,酒場やカフヴェ(伝統的カフェ)のような,嗜好品を介した社交空間からの紫煙の一掃が目的とされた。「コーヒー・アルコール・紫煙」は歴史上の苦楽を共に過ごし,イスタンブル情緒を演出する小道具としての役割を担ってきた。立ちはだかる「健康」を前に,紫煙の存立は風前の灯火と思われた。
  イスラーム化以前から飲酒文化が根付いていたイスタンブルでは,オスマン帝国の都となっても異教徒地区を中心に酒場が存在し,共和国樹立以降には地区の歓楽街化が加速した。一方,イスタンブルで最初のカフヴェが開かれるのは16世紀に遡る。その時々の為政者から度々出されたカフヴェ禁止令を乗り越え,多様な文化・社会的役割を担う重要な「都市施設」となった。
  法施行後,紫煙はどこに身を置いたのであろうか。歓楽街・飲食店舗における喫煙可能空間とその確保努力という視点から観察してみよう。まず,西洋近代化の象徴的地区ベイオールにあるチチェキ・パサージュの事例である。内部は風情ある酒場が軒を連ね,街路上部がアーケードで覆われた店頭席は特に人気だった。しかし,パサージュ全体が屋内と位置づけられ,全席禁煙となることを回避する必要に迫られた。そこで,アーケードの骨組みを残して覆いを撤去し,パサージュを屋外化させるという,涙ぐましい決断を下したのである。残した骨組みにシートを被せて雨雪を凌いでいるが,将来的には自動開閉式アーケードとする構想があるという。
  次に,チチェキ・パサージュ裏手にあるネヴィザーデ地区や,旧市街クムカプ地区の歓楽街で多く見られる事例である。街路・広場側に面した店舗壁面が取り除かれ,一階部分では屋外席と店内席が一体化している。上階についても同様で,バルコニーと店内の一体化が図られている。建築の半戸外化により喫煙グレーゾーンが確保され,店内側にかなりの灰皿が侵入している。夏期は壁面が常時開放された状態だが,ガラス建具等が設置できる仕様になっており,冬期は閉じて営業される。寒さに挫けない愛煙家は屋外席を陣取るが,バルコニーごと閉じられた上階が冬期の喫煙グレーゾーンとなる。さらにネヴィザーデ地区では,屋上に鉄骨フレームを設置し,上部の開閉式テントや脱着式側面シートを用いた仮設的手法による喫煙可能空間の存在が目に付く。

  ベイオール地区の目抜き通り裏手で散見されるのが,街区ヴォイド(空隙・中庭)を転用した飲食店舗である。街区ヴォイドに建築する余地は残されていないが,仮設的空間による広い客席が確保されている。屋上や街区ヴォイドは商業的に不利と思われるが,眺望や開放感といった立地特性を最大限生かしながら,紫煙を迎え入れている。
  ガラタ橋の袂,カラキョイ地区の海岸に面する歓楽街には,景観を考慮したとされる仮設的空間が建ち並ぶ。各店舗が前面歩道の占有許可を得て,仕様が統一された鉄骨フレームを設置し,店頭席を確保している。旧市街を望む魅力的な店頭空間ではあるが,冬期日没後はテントとシートで覆われ,紫煙で満たされる。
  これまでみてきた事例には,共通する不可解な点がある。半戸外や仮設的空間とはいえ,冬期や雨天時に閉じていれば「屋内」であり,従って禁煙となりそうなものである。屋内禁煙法では,禁止対象が「閉じた建築空間」と定義されているものの「屋外」の定義はない。すなわち「屋外を一時的に閉じているだけ」という解釈のもと,仮設的空間と半戸外グレーゾーンを巧みに組み合わせた店舗形態が定着しつつある。
  一方,カフヴェはどうか。スレイマニエ・モスクから金角湾に向けて下った斜面の先にあるキュチュクパザルは,カフヴェが密集した地区である。概観の限りここでは特徴的な形態変容はみられない。資金力がある酒場とは対照的に,カフヴェの多くは零細経営である。現実を受け入れながら存続している様からは,カフヴェが単に嗜好品を味わう空間である以上の,社会的な存在意義を感じることができる。
  紹介してきた事例が,屋内禁煙法と形態変容が完全な因果関係にあるわけでは決してない。また,現象の主役が愛煙家というわけでもない。利用実態をみてみると,喫煙が屋外,非喫煙が屋内で分煙化していないことがわかる。両者とも季節を問わず,より屋外側を好んで利用する。店側が確保に努めた喫煙可能空間は,喫煙・非喫煙の枠組みを超え,全ての利用者にとって魅力的な空間となっている。さらに,開放的となった建築形態に加え,利用者が屋外側に集中することで,外部に溢れ出てきた活気が街路景観を演出している。これは,屋内禁煙法が歓楽街にもたらした副次的効果といえるのではないか。









自著を語る73

『黒海沿岸の古代ギリシア植民市』

東海大学出版会 2013年8月 xii+387頁 4,200円+税

篠崎 三男



  古代ギリシア人は黒海を「ポントス・エウクセイノス」,即ち「客あしらいの良い海」と呼んでいた。地中海とは異なる生態的・人口動態的条件を持つ黒海が真にこの呼び名に値する契機となったのは,紀元前650〜前500年頃にかけて行われた植民市建設運動であった。主要な母市ミレトスの植民市だけでも,40余りが現在までに確認されている。ギリシア世界の最北端の黒海地域では,植民者・農耕民と土着の遊牧民の間に,ギリシア人の植民地域の中で最も鋭い対立と同化の諸相が現出した。したがって,この地域は異文化の接触と文化変容という地域史研究の重要課題にとって格好のフィールドの一つを提供してくれると思われる。本書は,植民市を核に土着種族を包摂して形成されたギリシア的小世界を対象とする微視的な地域史と,ギリシア世界の周縁としての黒海という巨視的な地域史の二つの視座に立って取り組んできた,黒海沿岸古代史のささやかな研究の成果である。
  本書の内容について簡潔に紹介しておきたい。第1部「黒海沿岸ギリシア世界の発展と変容」では,南岸のメガラ植民市ヘラクレイアと彼らによって支配された土着種族マリアンデュノイの関係をヘイロータイ型の奴隷制との関連で論じた一章を除いて,基本的には,黒海北岸の二つのギリシア的小世界の発展コースをスキュタイ人やマイオタイ人などの土着種族との複雑な相互関係を通して考察している。現在のドニエプル川河口のオルビアは,前5世紀に一時スキュタイ王の支配(あるいは保護)に服することはあっても,一貫してポリスの本質を維持した。これに対して,クリミア半島東部のケルチ海峡両岸に建設された多数の植民市は,スキュタイ人の軍事的脅威に直面して攻守同盟を結成し,やがてそこからボスポロス王国というポリスを超えた領域国家が興る。まだ十分ではないが,「バルバロイ的プロテクトラート」と「プロト・ヘレニズム国家」という新しい概念を提起したことが,ここでの特徴と言えるかもしれない。
  巨視的な地域史を目指す第2部「中心と周縁──向こう岸から見たポントス」は,二つのテーマを扱っている。一つは前5〜前4世紀の黒海沿岸植民市の内的発展に重大な影響を与えたアテナイのポントス政策と,穀物交易を通して有力な周縁国家に成長したボスポロス王国の拡大との相互関係という難問である。もう一つは,ホメロス叙事詩からヘロドトスの「スキュティア誌」,悲

劇と喜劇,似非科学的論考に至る文学作品と,前6世紀後半のアッティカ陶器に盛んに描かれ美術史家がスキュタイ人の実写とみなしてきた「スキュタイ射手」の図像の解釈を通して,ギリシア人のスキュタイ観の発展を辿る,ギリシア人の他者認識のケース・スタディである。
  本書には,1987年から2010年までに発表した11編の論考が収められている。振り返ってみると,1980年頃神田のナウカ書店でオルビアとボスポロスの碑文集を偶然入手したのが,我が国では未開拓の黒海沿岸古代史研究に足を踏み入れる機縁であった。当初,文献の数は限られていたが,筆者が最も大きな学問的刺激を受けたユーリー・ヴィノグラードフを始めとする当時のソ連邦の研究者たちの論考は,どれも魅力的なものであった。しかし,1991年のソ連邦の崩壊に伴う混乱と,頼りにしていたナウカ書店の倒産のため,ロシア語の研究書の入手は一時期ほぼ不可能になった。かろうじて定期的に刊行され続けた,『古代史通報』(Vestnik Drevnej Istorii )が唯一の情報源と言ってよい状態がしばらく続いた。
  旧東欧諸国の政治的・経済的混乱が収拾し始めた2000年前後からは,逆に,ロシアやウクライナなどの考古学的研究を中心に大量の書籍や定期刊行物が出版され,今日では,一種の情報過多の状況にある。さらにロシア語圏の研究者による西欧語での研究成果の公表,旧東欧と西欧の共同シンポジウムの開催など,黒海沿岸古代史の研究状況は大きく様変わりしており,筆者の初期の論考は既に時代遅れの感が否めない。ただ,我が国では決して活発とは言えない,西洋古代の周縁地域史研究を進展させる小さな一歩に本書がなってくれることを望みたい。
  課題はまだある。地域史研究を志向しながら,筆者は黒海地域を訪れた経験がほんのわずかしかない。本務校の研究プロジェクトで1980年代末にブルガリア沿岸のメサンブリア(現ネセバル),オデッソス(ヴァルナ),ルーマニアのトミス(コンスタンツァ),イストロス(ヒストリア)を調査して以来,この地域を訪れたことがない。本書の出版を機に現地調査の計画を立て始めたが,周知のように,現在ウクライナは危機的状況に陥っている。ロシアへの併合の焦点であるクリミアこそ,古代ボスポロス王国の中心部であった。ディデュマの神託に従って名づけられた「幸福な都市」オルビアの遺跡を実見する夢も,さらに遠ざかってしまったようである。








表紙説明 地中海世界と動物 18


アンダルシアの馬/増井 実子


  二十代の頃,一年間スペインに留学した。留学期間中,アンダルシア地方を中心に,各地のフィエスタ(祭り)を見に出かけた。どのフィエスタも見物していて楽しかったが,4月にセビーリャで開かれている「春祭り」はスペイン三大祭りのひとつということもあり,印象的だった。フラメンコの衣装を身に着けてセビリャーナスを楽しむ人々の姿,大盤振る舞いされる強いシェリー酒,一流のマタドールが登場する闘牛場。祭りの期間独特の高揚感とともに今でもはっきりと思い出すことができる。しかし,この祭りにはもうひとつ私に強い印象を残したものがあった。それは美しいアンダルシアの馬たちであった。
  日本語では「セビーリャの春祭り」と訳されることが多いこの祭りだが,セビーリャの人たちはフェリア・デ・アブリル(Feria de Abril = 4月のフェリア)と呼んでいる。フェリアとはスペイン語で定期市を指す。もともとセビーリャでは春に大規模な家畜の市や品評会が開かれていたが,そこに踊りや歌や闘牛といった祭りの要素が徐々に加わり,現在のような祭りの形式に発展していった。原点が家畜の定期市であるのだから,会場に馬が多くて当たり前なのだが,当時の私にはその知識がなかったので,セビーリャの春祭りの会場を闊歩する多くの美しい馬たちの姿に大変驚いた(ついでに言うと,道端に転がっている馬糞の量にも)。
  セビーリャのあるアンダルシア地方は,良馬の産地として有名である。アンダルシア馬(Caballo Andaluz)は,中肉中背の馬格でそれほど大きくはない。しかし,見事なたてがみや尾が目を引く。毛色は多様だが,雪のような肌に長いたてがみを靡かせて走る白馬は,アンダ

ルシア馬の代表的なイメージになっている。
  アンダルシア馬の歴史は古く,ローマ帝国支配時代の文献にもこの地の馬の素晴らしさは記録が残っている。その後,イスラム教徒がスペイン南部を支配した際に持ち込んだバルブ馬(北アフリカ原産の軽種馬)とこの地の馬の交配が進み,アンダルシア馬の基礎が作られた。中世から近世にかけて,アンダルシア馬はヨーロッパの軽種馬の品種改良に活用されたため,オーストリアで誕生し軍馬として活躍したリピッツァナーを筆頭に,ヨーロッパではアンダルシア馬の血統に連なる馬種は非常に多い。また,大航海時代にアメリカ大陸に持ち込まれた馬の多くもアンダルシア馬であった。
  日本に帰国後,ヨーロッパの馬術に詳しい友人にアンダルシア馬の話をしたところ,ただちに「ヘレスには行かなかったの?」という答えが返ってきた。セビーリャの西にあるヘレス・デ・ラ・フロンテーラは,一般的にはシェリー酒の産地として有名であるが,馬愛好家の間ではスペイン王立アンダルシア馬術学校のある街,そして年に一度開かれる「フェリア・デル・カバーリョ(Feria del Caballo = 馬祭り)」の街として知られている。ヨーロッパでも最大規模を誇るこの馬祭りでは,各種の馬術競技,アクロバティックな馬のダンス,馬車のコンクールなどが行われるという。
  残念ながらこの馬祭りは,毎年5月に行われるため,現役の大学教員であるうちは見物に出かけるのは難しい。しかし,この馬祭りのポスターは,馬をモチーフに毎年趣向をこらしてあり非常に面白い。それを眺めつついつか美しい馬たちに再会する日を夢見ている。