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学会からのお知らせ


* 12月研究会

  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ: イスタンブル庶民の俗信的世界を窺う ── 17世紀オスマン朝の市井の名士たちを中心に
発表者: 宮下 遼氏
日 時: 12月15日(土)午後2時より
会 場: 國學院大学 1号館1階1101教室
(最寄り駅「渋谷」「表参道」)
参加費: 会員は無料,一般は500円

  オスマン朝では文筆活動が社会上層の人々に独占され,私史料や地誌に乏しいという史料的制約ゆえに,これまで地中海最大の都市であるイスタンブルの商工業者/庶民の生活やその心性についての研究には困難が伴ってきた。本発表ではとくに帝都にまつわる庶民的な俗信を取り上げ,17世紀半ばの『旅行記』,『イスタンブル史』という地誌的旅行記二点の再検討を通じてその庶民文化の一端を窺いたい。


* 常任委員会

・ 第3回常任委員会
日 時: 2月18日(土)
会 場: 東京芸術大学上野キャンパス
報告事項: 『地中海学研究』 XXXV (2012) に関して/研究会に関して/石橋財団助成金申請に関して/会費未納者に関して/2011年度財政見込みに関して 他
審議事項: 第36回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/事務局長交替に関して 他

・ 第4回常任委員会
日 時: 4月14日(土)
会 場: 東京芸術大学上野キャンパス
報告事項: 第36回大会に関して/研究会に関して 他
審議事項: ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/2011年度事業報告・決算に関して/2012年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/学会誌編集委員に関して

・ 第5回常任委員会
日 時: 6月16日(土)
会 場: 尾道市しまなみ交流館
報告事項: ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/研究会に関して/石橋財団助成金に関して/NHK 文化センター企画協力に関して
審議事項: 第36回大会役割分担に関して/第37回大会会場に関して/学生会員の見直しに関して 他








地中海学会大会 記念講演要旨

地中海と瀬戸内海

── 島の歴史と伝承と ──

樺山 紘一



  瀬戸内の尾道,地中海学会の大会で基調のお話しをするという,またとない好機をいただいたので,そのふたつの海に共通する主題をふたつ取りあげて,関連する文脈からの比較を試みてみた。
  第1には,ふたつの内海には権力や政治の流動にともなう,暗転や騒動があったこと。瀬戸内の12世紀に,王朝時代から武家時代への移行の開始をつげる保元の乱が,思わぬかたちで波及した。皇位継承の争奪に敗れた崇徳上皇が讃岐へ流配となった。失意の上皇は,怨霊となって祟ったとつたえる。当時の京都では,それをめぐって社会不安がおこり,怨霊鎮めの儀式もおこなわれた。他方,瀬戸内では讃岐の直島や坂出にその故事がしるされ,それなりの解釈によって,いまなお伝承と崇敬をつたえている。実情は不詳の部分が多いが,追放した京都の公家・武家勢力にとっては,上皇は厭うべき怨霊とみえたが,讃岐にとっては支持にあたいする穏和な統治者だったようである。のちに怨霊として復活したのは,江戸時代に,作家・上田秋成や絵師・歌川国芳が別途,創造したイメージを踏襲した結果だった。ちなみに,百人一首で名高い歌人・崇徳院でもあるが,またその一首をもって古典落語でも人口に膾炙することになった。話題豊富な人物だったのである。
  おなじ文脈に沿って,地中海に目を転じる。たとえば,コルシカ島である。ナポレオンの故郷として知られる島は,またジェノヴァやフランスの統治にもかかわらず,アナーキーな社会集団が跳梁する土地でもあった。マキの名で伝えられるが,この伝承は作家プロスペル・メリメの『マテオ・ファルコーネ』に描かれ,ロマン主義的な想像力を刺激した。ナポレオン自身は,敗残の姿でコルシカに帰島したわけではなく,その東隣のエルバ島に追放されたのち再起して,さらに失意におちいり,大西洋の孤島セント・ヘレナで最期をむかえるのだが。ここでは,敗将は怨霊として祟ることはなかった。
  さて,第2の主題は,合法的権力外の海上勢力つまり海賊である。瀬戸内の海賊は,歴史上きわめてよく知られている。なかでも芸予諸島,つまり現在では「しまなみ海道」とよばれる海域周辺は,中世にあっては海賊の支配地であった。ここで海賊とは,海上の秩序保持をになう政治勢力のことであるが,通行料を徴収したり物資の流通を監視し,さらには沿岸地域との関係調整にあ

たった。このために,強力に武装した水軍を構成した。なかでも,伊予国に起源し,諸島をあいついで勢力下におさめた村上水軍がもっとも有力であった。おもに三つの系譜に分属し,島部の在地勢力として瀬戸内に君臨した。水軍は武装した船を有するだけでなく,島に堅固な水軍城をも構築した。13・4世紀から16世紀の戦国期まで,その全盛期をしるす。また,その主要部,大三島に鎮座する大山祇神社は,伊予国の一宮としても海賊衆の崇拝をあつめた。現在では大量の国宝・重要文化財の甲冑・刀剣を有する名社である。こうして,芸予諸島は水軍の拠点として,日本では類をこえた根強い海上勢力を構成したのである。秀吉の海賊禁止令にいたるまで,その全盛はつづいた。
  おなじ事情は,むろん地中海にも多数,存在する。地中海は,ローマ帝国の時代をふくめ,歴史をつうじて海賊の海だったといっても過言ではないが,ここではバルバリア海賊をとりあげておこう。15世紀末に,イベリア半島から駆遂された西地中海のムスリム勢力が,これへの復讐のために強力な水軍を形成した。領土の回復は困難としても,キリスト教勢力の船舶を襲撃して財宝を奪取し,また人員を捕獲して身代金の収奪をめざした。西地中海の情勢を周知したムーア人たちが,バルバリア海賊として各地に出没し,おりしもルネサンスを迎えるキリスト教勢力の前に立ちはだかったのである。バルバロッサ・ハイレッディンの名がことによく知られるが,その系譜には個性的な武将がつづいた。16世紀後半になって,その勢力は進出してきたオスマン帝国の配下にはいり,プレヴェザやレパントの海戦にあって,重要な役割をはたすことになる。海賊は,ここに正規の海軍として地中海の海上支配に奉仕することになった。
  以上にみてきたのは,いずれも瀬戸内海と地中海の歴史を彩る事件と勢力である。これらは,歴史学上の主題として興味ぶかいだけでなく,また両方の海の歴史をになう当事者たちにとっては,伝承をとおしてみずからの存在を確かめるアイデンティティの拠り所でもある。島の現実は歴史と伝承によってさらに豊かに彩色され,現在までもその重みをうけついでいる。内海としての独特の文脈が,その存在を興味ぶかくしているとみて過言ではない。







地中海学会大会 研究発表要旨

アッティカにおける神話表現の成立

── 墓標陶器の図像変遷に着目して ──

福本 薫



  アッティカ美術は,他の地域に先駆けて積極的な神話表現を開始したことで知られる。本発表は,陶器とその図像を考古学的知見をもとに再検討し,アッティカ美術における神話表現の成立過程を新しい観点から捉え直すことを目標とした。
  現在,最古の古代ギリシア文学であるホメロス叙事詩が誕生したと考えられるのは紀元前8世紀末頃であり,この頃古代ギリシア文明は大きな転換期を迎えたと推測されている。各地の伝承や説話の叙事詩への統合,編纂を促した,過去を体系化しようとする動向は,いまだ議論は尽きないが「前8世紀のルネサンス」と呼称され,この動向のもと,各地の造形芸術には神話主題が表されるようになった。神話表現は,古代ギリシア美術を考える上で欠かすことのできない要素の一つである。美術史における先行研究は,各作例の主題解釈や,文学との相関性,東方文化の影響を中心的に論じてきた。
  しかしながら,これらの先行研究は,考察の対象が神話表現を示す図像のみに集中しており,それが付随していた媒体そのものについては充分な検討がなされてこなかった。図像が媒体から切り離され,媒体が担っていた機能や役割は等閑視される傾向にあったのである。前7世紀アッティカ地方の神話表現を有する作例の中には,元来の用途が墓標陶器であると推測できる例があり,本発表ではこのような,神話図像を有する作例の用途に着目した。特に前8世紀後半から前7世紀の墓標陶器の図像変遷を辿ることで,アッティカ地方における神話表現の成立過程に光を当てた。
  近年,文字史料が充分に残らないこの時期のアッティカ地方について,考古学的考察を通して当時の社会モデルを想定しようとする試みが見られる。特に葬礼の遺構は,同地方を支配した上層階級による壮麗な葬送儀礼と,その後の墓の記念物のあり方を明らかとしてきた。ギリシア史を通じて陶器の一大生産地であったアッティカでは,この時期に葬礼においても陶器が重要な役割を果たし,被葬者の権威を高める役割を担っていたことがウィットリらによって指摘されている。
  本発表では,ホービー=ニールセンが考古学的見地から挙げた一群の墓標陶器について,表面,裏面の図像の主題,装飾の配置,陶器の高さ,発掘状況などを具体的に調査し,一覧を作成した。これらの考古学的考察

は,陶器の資料的側面を照射しているものの,図像や装飾の特徴については詳しく論及していないためである。結果としては,前8世紀には高さ 1m ほどの大型のクラテル,アンフォラが墓標陶器に用いられる一方,前7世紀には陶器の高さにばらつきが看取される。また主画面は,前8世紀には「哭礼」や「出棺」図であったものが,前7世紀には東方伝来の図像や,英雄の活躍を示す神話表現に置き換えられていくことが判明した。先行研究においてウィットリは,この期間のアッティカの墓域は,被葬者の社会的地位を示す場へと変化し,そのような環境において,この頃ギリシアに伝来した東方的なモティーフが,重要な役割を担っていたと解している。
  しかし,ウィットリは,本発表で浮かび上がった葬礼における神話表現の意味を検討していない。本発表では最後に,墓標陶器上に見られる英雄図像を,当時の社会に見られた祖先崇拝を背景に考察を試みた。祖先への崇拝が最も端的に顕われた現象として,前8世紀後半から前7世紀にアッティカ地方を含めた各地で看取される墓崇拝が注目される。この現象は,この時期からさらに数百年遡る青銅器時代の墳墓に,当時の陶器や青銅製品が奉納されることを特徴とし,アントナッチオらによって,生者と死者が交流を持ち,近づくための崇拝行為であったと解されている。
  本発表は,墓標陶器の図像変遷を考察することによって,アッティカ美術固有の神話表現の成立過程を浮かび上がらせることを試みた。すなわちこの時期に,アッティカにおいて記念碑性を有する作例が制作された背景には,同地の葬礼伝統という基盤を考慮する必要があると考える。上層階級の葬礼を端緒に,神話表現の発展が促進されたのではないだろうか。また,葬礼に関わる神話表現に英雄像が多いことは,当時の社会的な動向である祖先崇拝の影響から説明ができるのであろう。







地中海学会大会 研究発表要旨

オウィディウスのメルクリウス

── 『変身物語』 第2巻 676-832 ──

西井 奨



  メルクリウスは古代ローマにおいてギリシア神話のヘルメスと同一視され,知略・機知に富む神として知られる。ギリシア・ローマ神話の宝庫たるオウィディウス 『変身物語』 では,メルクリウスは @ アルゴス殺し(第1巻 668-721)・ A バットス石化(第2巻 676-707)・ B アグラウロス石化(第2巻 708-832)の物語で主体的に活躍する。本発表では,この第2巻の二つの物語に着目し,メルクリウスの描かれ方について,これまで指摘されてこなかったオウィディウス独自の側面を明らかにする。
  メルクリウスはアポロンの牛を連れ去るが,その場面を老人バットスに目撃される。メルクリウスは彼に口止めを頼み,一頭の雌牛を与える。彼は tutus eas; lapis iste prius tua furta loquetur 「安心してお行きなさい。(あなたの盗みを私が話すならそれよりも)先にその石が話すでしょう」(696)と言って石を指し示し,口外しないことを約束する。しかしすぐ後に,姿を変えて牛の行方を尋ね倍の報酬を提示するメルクリウス本人に彼は口外してしまったので,メルクリウスは彼を石に変えた。ここで彼が石に変えられたのは約束破りの罰としてではあるが,そのことにより「石が(人間だった時に)口外した」という状況が成立している(706-707)。ここでメルクリウスは,696のバットスの言葉における「自分が口外するならば石が口外する」という字面上の内容を受けて,その帰結を現実化させたといえる。
  続いてメルクリウスは,アテナイの乙女ヘルセに恋し,彼女の家を訪れる。そこで彼女の姉アグラウロスがメルクリウスに応対し,黄金を要求してメルクリウスを立ち去らせる。女神ミネルウァはアグラウロスの強欲さに腹を立て,「嫉妬」の神を送り彼女の胸に強烈な嫉妬心を植え付けさせる。次いでメルクリウスがヘルセのもとを訪れようとした時,アグラウロスは扉の前に坐り hinc ego me non sum nisi te motura repulso 「私はあなたを追い返さない限り,ここから動くつもりはありません」 (817)と言って邪魔をする。これに対しメルクリウスは stemus pacto isto 「お前の言う,その盟約を,私たちは守ることにしよう」と言って,扉を開け,彼女を石に変えた。ここでもメルクリウスは,アグラウロスの言葉における「自分がメルクリウスを追い返さないならば自分はその場から動くことはない」という字面上の内

容を受けて,その帰結を現実化させたといえる。
  696・817 のバットスとアグラウロスの言葉それぞれ,「自分は決してメルクリウスの秘密を口外することはない」・「自分は絶対にメルクリウスを追い返す」ということを意図した修辞的表現である。ここでは,「石が話すこと」・「自分が二度と動かないこと」は「起こり得ない」のが当然だと考えられるからこそ上述の意図を伝えることができる。しかしバットスはメルクリウスの秘密を口外し,アグラウロスはメルクリウスを追い返せない以上,彼らの言葉の字面の上では,その「起こり得ない」とされることが必然的に帰結される。その「起こり得ない」とされることを,彼らの言葉の必然的帰結である以上,メルクリウスはあえて神の力を行使して「起こす」のである。
  このようなメルクリウスの神の力の行使の仕方には,「推論」 (conclusio)への強い意識を窺うことができる。これはオウィディウスが受けていた弁論術教育に拠ると思われる。古代弁論術では,推論の型としての「トポス」が重要な機能を果たしていた。ここでは,キケロ 『トピカ』 第60節: cum in disputationem inciderit causa efficiens aliquid necessario, sine dubitatione licebit quod efficitur ab ea causa concludere 「議論においてあることを必然的に引き起こす原因が生じた時,躊躇なくその原因によって引き起こされることを推論してもよい」という記述に見られる,「原因」のトポス(cf. アリストテレス 『弁論術』 第2巻第23章 1400a30-32)がメルクリウスの行動の基底にあるといえる。というのも,696・817 のバットスとアグラウロスの言葉はそれぞれその字面において「P ならば Q である」という命題(cf. キケロ 『トピカ』 第54節)をなしており,バットスの口外とアグラウロスがメルクリウスを追い返せないことは,P に相当し,「Q を必然的に引き起こす原因」となるからである。そうしてメルクリウスは,「石が口外する」・「アグラウロスがその場から動くことはない」という必然的帰結たる Q を,各々を石に変えることによって現実のものとした。このようにオウィディウス 『変身物語』 第2巻 676-832 において,メルクリウスは弁論術を基底にして神の力を行使している。このような形でオウィディウスはメルクリウスの知略・機知に富むという性格を描いているのである。







春期連続講演会 「地中海世界の歴史,中世〜近代: 異なる文明の輝きと交流」 講演要旨

ルネサンスと地中海世界

── 古代復興の多面性 〜 美術の視座から ──

水野 千依



  ルネサンスとは,一般に,イタリアに端を発する14世紀から16世紀にかけての古典文芸復興運動をさす。神や教会が中心であった中世に対して,自然や人間の世界に目を向け,人文主義を背景に古代文化を再生しようとしたこの動きは,美術においても,都市の上流富裕階級を中心とする芸術庇護を後ろ盾に,数々の刷新を繰り広げた。自然を模倣し,その法則性を探求するとともに,ローマに残る古代の遺品や遺構,さらに先人の作品を研究し,それらを超越する「優美」の探求へと向かったこの時期,作り手は職人から芸術家へと地位を向上させ,数々の芸術理論や,はじめての美術史が著されたことは,よく知られるところであろう。
  しかし本講演で注目したのは,古代復興の別の側面である。一つは,オスマン帝国に残る,ビザンツ帝国から継承した初期キリスト教時代に遡る遺物に古代の権威を見る視線。もう一つは,古代といっても古典彫刻ではなく,ローマ時代に,像主の顔や身体部位を型取りして制作された,いわば痕跡に由来する,芸術的技巧からはほど遠い像を介した古代復興。この二側面をとらえるために,「キリストの肖像」という伝統的ジャンルと,「世俗の肖像」という新たに復興されたジャンルに目を向けた。この時期,キリストの肖像は従来の正面観に加えプロフィール形式が登場する一方で,世俗の肖像はプロフィールから正面観へと向かう。その相反する動きの交差する地点に着目した。
  キリストの肖像は,古くから正面観で描かれてきた。マンディリオンやウェロニカの聖顔布など,真正な似姿として権威を認められた像が,キリストの顔の水滴や汗や血を拭った布に由来するという「アケイロポイエトス(人の手によらない)」としての生成譚を主張し,聖遺物的価値を要請した経緯に見るように,布の上の痕跡=正面観がキリストの肖像として定式化され,イコンやパントクラトール形式の図像へと展開されてきた。
  しかし,ルネサンスのただなかで,側面観で描かれたキリスト像が流行しはじめた。古代ローマ皇帝の肖像形式の一つであるプロフィールのメダルという型をキリストに応用した作例が,15世紀半ばにフェッラーラ宮廷の周辺で,おそらくアルベルティら人文主義者の思想に鼓舞されて,マッテオ・デ・パスティやピサネッロにより制作されたのである。その背景には,古代ローマの博物

誌家大プリニウスの語る,絵画の起源が「影」に由来するという肖像神話の影響も想像される。影として像主固有の相貌を伝えるのは何よりプロフィールであり,影はまた,かつてそこにその人が実在したことを保証する。プロフィールは,古代皇帝の威厳の伝統と,歴史的真正性の要請を満たす肖像形式と考えられたのだ。
  しかしそれらとは別に,1500年前後に,より無骨な個別性を刻むキリストのプロフィール肖像の系譜がうまれ,アルプスの北でも南でも普及を見た。その系譜において,肖像は,キリストの生前に製造されビザンツ皇帝が保管してきたというエメラルド肖像の伝承や,古代ローマの架空の執政官プブリウス・レントゥルスの「偽」文書に記されたキリストの「真の」外観と結びつけられていった。ルネサンスに生まれた「新たな」キリストの肖像に,キリスト教「古代」の威光や真正性を付与することで権威ある「古物」をいわば「捏造」していく経緯が,まさに文献学や古物蒐集趣味といったルネサンス人文主義の道具立てとともに推進されたのだ。そして,この遅まきのアケイロポイエトスは,ラファエッロやミケランジェロなどルネサンスを代表する芸術家のキリスト像にも結びつけられ,芸術的技巧をも,肖像の真正性を補強する要素として取り入れ展開していった。
  一方,世俗の肖像は,15世紀後半より4分の3正面観を経て正面観をとりはじめる。そもそも古代の肖像形式に基づいて個を顕彰するジャンルとして隆盛した肖像には,像主の相貌を生き生きと再現する模倣の技が求められ,遠い死者の記憶さえも蘇らせ記念化する力が讃えられた。しかし,当時の肖像には,デスマスクやライフマスクなど,像主の身体の痕跡をもとに制作されたものが存在する。講演では,古代ローマに息づいていた祖先の像(故人の記憶を形成),葬儀用肖像(葬儀の際,故人の代替として生きている子孫が被って葬列に参与したマスク。生身と似像,生者と死者が一堂に会するスペクタクルな葬儀は,その後,皇帝神格化の儀式に採用された),そして地中海沿岸一帯に見られた奉納像という,やはり像主の痕跡に由来する三種の像との関連を探り,「分身」として像主の死後も生き延び,政変のたびに栄誉と不名誉のはざまで死と再生を繰り返した像のあり方を通じて,古代復興のもう一つの側面を浮き彫りにした。







落選者展? 落選展?

吉川 節子



  「落選展」「落選者展」はいずれも Salon des refusés と呼ばれる展覧会を指す言葉である。以前は「落選展」も「落選者展」も美術史の文献に同じくらいの頻度で使用されていた。しかし近頃は「落選者展」のほうが使われることが多い。
  「落選展」は1863年にマネが 《草上の昼食》 を展示したことで知られる展覧会である。この年のサロン Salon (官展)は審査が異常に厳しく,時の皇帝ナポレオン三世は芸術家たちの憤りに応じて落選した作品を集めた「落選展」を開いた。4月24日付官報 『モニトゥール・ユニヴェルセル』 に開催が公表され,5月15日サロン会場内の一隅で,サロンよりも二週間遅れて始まった。「落選展」はこの後も開催されたが,何といってもマネが《草上の昼食》,ホィスラーが 《白衣の女》 を展示した1863年の初回が有名である。「落選展」「落選者展」と言えば,ふつう,この展覧会を指す。  さて「落選展」「落選者展」という言葉である。「者」一文字の違いだが,まさにこの字により「落選者展」のほうが「サロンに落選した者(芸術家)たちの展覧会」という意味を強調することになる。サロンに「入選した人」に対する「落選した人」というイメージが惹起されるのは否めない。
  しかし,この展覧会カタログの表紙に印刷されている Catalogue des ouvrages de peinture, sculpture, gravure, lithographie et architecture refusés par le jury de 1863 et exposés, par décision de S. M. l'Empereur, au Salon annexe を文字通りに訳せばあくまでも落選した「作品」の展覧会,すなわち「落選“作”展」なのである(吉川節子 『印象派の誕生』 中公新書,2010年)。もちろんサロンの落選作品の作者は,そのかぎりでは「落選者」であるにはちがいない。けれども,日本語の「落選者展」という言葉は,サロン「入選者」に対する「落選者」の意味が強く,「落選者展」の出品者はすべての作品がサロンで落選した人であるかのような誤解を生みやすい。
  実際には,サロン「入選者」のうち,かなりの数のアーティストが「落選展」にも出品していた。1863年サロンは「絵画(素描,パステル,水彩画なども含む)」,「彫刻」,「版画」といった部門ごとに三点まで作品を応募することができた(規約: 第1章第2条)から,同じ

アーティストについて,ある作品は入選,残りの作品は落選,ということが生じえたのである。
  たとえばアルフォンス・ルグロ。彼はファンタン=ラトゥール作 《ドラクロワ礼賛》 に描かれ,ドラクロワの遺影の前でマネとともに脇士を固めるホィスラーの,さらに左隣に立つ人物である。1863年サロンの絵画部門にルグロは三点応募し,うち二点を入選させ,残りの一点 《E. M. の肖像》 を「落選展」に出品した。興味深いことに,《E. M. の肖像》 は同じ「落選展」でスキャンダルを引き起こした 《草上の昼食》 の作者エドゥアール・マネを描いた肖像画である。
  「落選展」への出品手続きはいとも簡単で,5月7日までにサロン事務局から落選した作品を引き取らなければ自動的に落選作が「落選展」に展示されることに決められていた(4月24日付官報 『モニトゥール・ユニヴェルセル』)。ルグロのほかに,《ドラクロワ礼賛》 の作者アンリ・ファンタン=ラトゥール,アマン・ゴーティエ,ジャン=ポール・ローランス,アンリ・アルピニーなど,サロン落選を不服とした作家たちは,この簡便な手続きにも助けられて,多数「落選展」への出品を決意した。カタログを調査してみると,1863年サロンの入選者の40人以上が「落選展」にも出品していた。《白衣の女》 を「落選展」に出品したことで名高いホィスラーも,サロンの版画部門にエッチングを三点入選させている。このようにサロンの入選者たちが「落選展」にも出品していたのである。
  ギュスターヴ・クールベの場合も象徴的だ。泥酔した聖職者たちを描いて教会を鋭く批判した 《法話の帰り道》 は,1863年,サロンばかりでなく「落選展」にさえ拒否された過激な作品として,伝説のように語り継がれてきた。この作品についてクールベはサロンと「落選展」,二度拒否されたことになる。しかし1849年サロンで二等メダルを獲得したクールベは,1863年サロンでは実は「無審査」の資格(規約: 第2章第5条)で絵画二点,彫刻一点を出品していたのであった。《法話の帰り道》の「落選展」拒否というエピソードは,あくまでも一つの「作品」に関わるものである。1863年の Salon des refusés は一人一人のアーティストに関わる「落選“者”展」ではなく,個々の「作品」に関する展覧会であった。








表紙説明 地中海世界と動物 2


豚/貫井 一美


  「イベリコ豚」という名称が日本で知られるようになってから数年が経つ。イベリコ豚は,サラマンカの西部,ポルトガルとの国境沿いの中西部から南部のアンダルシア地方で多く飼育されている。その起源はヨーロッパ猪の地中海沿岸系変種,イベリア猪と言われている。耳は短く立っていて,尖った顔が特徴で,灰色または黒褐色である。写真はサラマンカのイベリコ豚の放牧の様子である。最上級の生ハムを作るために,数カ月の間放牧してどんぐりを食べさせて育てる(これをモンタネーラという)。こうしてふくよかな味わいの生ハムが生まれる。同じイベリアの大地が育んだタンニンの強い,日向の香のする赤ワインとのコンビネーションは最強である。イベリコ豚に代表されるように,スペインでは豚は肉の中でも最もポピュラーなものである。ブルゴスやアルプハーラ(グラナダ)のモルシーリャ(血入り腸詰め),サラマンカやレオンのチョリソなどの豚肉加工品,そしてセゴビアの名物料理であるコチニーリョ・アサード(仔豚の丸焼き)などは良く知られている。このように豚肉はスペイン人にとって今も昔も欠かすことのできない食材となっている。
  レオンのサン・イシドーロ聖堂附属王室墓廟のフレスコ壁画(12世紀頃)はスペイン・ロマネスクの代表作である。天井から壁面を埋め尽くす絵画の中には,農作業をテーマとした12カ月を表した月暦図も描かれている。11月は農夫が豚を屠る様子が描かれている。スペインでは春先に仔豚を買って厳しい冬が来る前に屠って解体し,一年間の保存食を作る。豚を屠るその場面が12世紀の月暦図に描かれているのである。この「マタンサ(豚の解体)」という習慣は,少なくなったが,地

方の村などには今も残っている。中世でも,そして現在もスペイン人にとって豚は保存食をつくるための大切な動物なのである。しかし,「豚」は食物として重要なだけではない。イスラム教徒のイベリア半島侵入以来,豚肉は宗教上の重要な意味を持つことになる。
  1492年,カトリック両王がグラナダを陥とし,レコンキスタ完了後もイベリア半島にはイスラム教徒が残っていた。イスラム教徒だけではなく,ユダヤ教徒も改宗者となって住み続けていたのである。このような改宗者の中には,生まれ育ったスペインの地に住み続けるために表向きだけ改宗した者たちもいた。いわゆる偽装改宗者である。彼らは,家族の中では本来の宗教を守り,その習慣を続けていた。特に食習慣は大きな意味を持っていた。イスラム教徒は豚肉を食べない。キリスト教徒は食べる。豚肉は真のキリスト教徒であることを証明し,また本当の改宗者か否かを示すための重要なハードルであった。
  スペイン語ではイスラム教からの改宗者をモリスコ,イスラム教,ユダヤ教からの改宗者をコンベルソ,そして偽装改宗者はマラーノと言う。豚肉を食することがキリスト教徒の証であるが,偽装改宗者をマラーノ(豚)と呼ぶのは興味深い。
  レオンの王室墓廟だけではなく,豚肉は17世紀のボデゴン(厨房風俗画)にも特に冬を表すための食材として描かれている。しかし,単純に動物としての豚が描かれたスペイン絵画を私は知らない。彼らにとって豚は重要な食材で,これほど身近な存在なのに。絵画のモティーフとしてのリアルな豚は好まれなかった。